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私の札幌生活も17年目を迎えました。これまでのスタイルを維持しつつ原点回帰も試み、さらなるバージョンアップを目ざします。

蝦夷地・北海道の「開拓」の背景

2018-04-15 18:55:40 | 講演・講義・フォーラム等
 幕府が、そして明治政府が、蝦夷地の、そして北海道の開拓を急いだ背景にはロシアの南下政策がその背景にあった、ということについて研究を続ける講師が新たな切り口から(少なくとも私にとっては)語ってくれた。

             
             ※ 講演会場の外には島義勇の立像(人形)が飾られていました。

 4月14日(土)、京王プラザホテルにおいて「開拓判官島義勇顕彰会」の主催による講演会が開催され聴講する機会を得た。
 私たちが企画・運営する「さっぽろの古を訪ねて」においてキーパーソンの一人である島義勇について、新たなる知識を得ることができるのではないか、との思いからプロジェクト〇の他の二人をお誘いし参加した。
 しかし、期待とは異なり講演のテーマは「蝦夷地・北海道の『開拓』をめぐって ~幕末から明治初頭を中心に~」ということで、島義勇が北海道に赴いた前後の激動する蝦夷地・北海道の背景を解説するという、北大文学部教授の谷本晃久氏が講演するものだった。

             
             ※ 講演する谷本晃久北大教授です。

 それでも、谷本氏のお話は蝦夷地が北海道へと変わっていく背景について、研究者らしい視点から解説してくれ、とても興味深い内容だった。
 まず「蝦夷地」という名称だが、「蝦夷」という意味は「エビのような長い髭をした東の野蛮人が住む地」という意味から命名され、江戸幕府としても大して重要視していなかった地域だった。(※エビのような長い髭とは、アイヌの男性の容貌を指している。)
 それが幕末になってロシアがサハリン、蝦夷地への進出を伺うようになって、危機感を抱いた幕府が、松前藩に委ねていた蝦夷地経営を直轄地にするなどして対応策を講じたりする中で、明治新政府が誕生し、引き続き蝦夷地(北海道)の開発に積極的に乗り出した、というのが大枠において北海道開発が進んだ背景だと、私は理解した。

 その間、日本とロシアの間では1855(安政5)年、「日ロ和親条約」が交わされている。そこにおいて国境は、サハリンについては「日ロ雑居」として国境については明示せず、千島列島については択捉島と得撫島の間に国境線を引くこととした。(このことが、大戦後に日本が主張する北方四島論の根拠の一つとなっている、と講師は話された)

 条約は交わされたものの、ロシアの領土的野心はますます顕著となる中、1875(明治8)年、明治政府はロシアと交渉し、サハリン(樺太)全島をロシアに譲渡し、代わりに千島列島の得撫島以北の18島を日本領とする、いわゆる「樺太・千島交換条約」に調印したのである。

 条約を結んだとはいえ、北海道への野心を隠さないロシアへの対策として明治政府は北海道の開拓を急いだ、というのが幕末、そして明治初期の北海道開発を急いだ背景にあった、と谷本氏は明快に論じてくれた。

             
             ※ 講演会場全体の様子です。

 なお、北海道の命名について識者から叩かれることを覚悟で、まったくの門外漢がちょっとした推理を試みてみたい。
 「北海道」という名称は、蝦夷地探検家として名高い松浦武四郎が開拓判官となって、「北加伊道」と提案したものをベースとして決定されたというのが通説となっているようだ。
 また、谷本氏は「蝦夷」は音読みで「カイ」と呼ぶことができ、そうした「蝦夷地」という名にリスペクトし、北海道と名付けられたと考えることもできるとした。
 しかし、日本には律令制の時代から「五畿七道」と呼ばれる広域地方行政区画があったという。その五畿とは「大和」、「山城」、「摂津」、「河内」、「和泉」という京都、奈良といった律令時代からの日本の中心地域を指し、七道とはその他の日本を大きく区画する「東海道」、「東山道」、「北陸道」、「山陽道」、「山陰道」、「南海道」、「西海道」と蝦夷地を除く全国を7つの地域に区画していたという。
 そうすると、蝦夷地を日本の行政区画に編入する際に、日本の北に位置する地域として「北海道」と称するのはある種必然だったのではないか、と考えるのはうがちすぎるだろうか?
 とは言ってみても、研究者たちがそうしたことに論及していないのだとしたら、素人の妄言に過ぎないことなのだが…。ちょっとばかり言ってみたかった、というだけのことである。


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