ある雑誌のコラム欄に次のような一文が載っていました。
「最近は情報が溢れ、そこから知識を得て、誰もが薀蓄を語るようになった。だから自分は敢えてミーハーでいたい」と・・・。
私はこの一文深く納得した。というより、私を救ってくれるような一文のように映りました。
というのは、これまでの半年間の私の行動は、何の深みもなく、何の専門性も感じられないものでした。
このことは偏に私の資質に関わることなのですが、私には一つのことに固執するだけの根気もなく、モノゴトを深く追究するだけの教養も持ち合わせておりません。
私にあるのは、人一倍の好奇心と旺盛なる野次馬根性といったところでしょうか。
そんな私ですから、上の文に深く納得したのです。
しかし、「ミーハー」という言葉には年代的に受け容れがたいものもあります。
ここはやや買いかぶりの面は否めませんが、それを承知で「マルチ」という言葉を使わせてもらいます。
「私はマルチな人間を目ざしたい」と・・・。
前日の投稿で「札幌は多彩なメニューを提示してくれる」と記しましたが、私のこれまでは、そのメニューのごく一部の入り口に立ったにすぎないと思っています。
私はこれからも興味関心の趣くまま、さまざまな分野や方面に触手を伸ばし、マルチな人間を目ざしたいと思っています。
しかし、それだけでは・・・との思いも実はあるのです。
(以下 次回に続く)
※写真は遠くにテレビ塔を望む大通公園です。
「最近は情報が溢れ、そこから知識を得て、誰もが薀蓄を語るようになった。だから自分は敢えてミーハーでいたい」と・・・。
私はこの一文深く納得した。というより、私を救ってくれるような一文のように映りました。
というのは、これまでの半年間の私の行動は、何の深みもなく、何の専門性も感じられないものでした。
このことは偏に私の資質に関わることなのですが、私には一つのことに固執するだけの根気もなく、モノゴトを深く追究するだけの教養も持ち合わせておりません。
私にあるのは、人一倍の好奇心と旺盛なる野次馬根性といったところでしょうか。
そんな私ですから、上の文に深く納得したのです。
しかし、「ミーハー」という言葉には年代的に受け容れがたいものもあります。
ここはやや買いかぶりの面は否めませんが、それを承知で「マルチ」という言葉を使わせてもらいます。
「私はマルチな人間を目ざしたい」と・・・。
前日の投稿で「札幌は多彩なメニューを提示してくれる」と記しましたが、私のこれまでは、そのメニューのごく一部の入り口に立ったにすぎないと思っています。
私はこれからも興味関心の趣くまま、さまざまな分野や方面に触手を伸ばし、マルチな人間を目ざしたいと思っています。
しかし、それだけでは・・・との思いも実はあるのです。
(以下 次回に続く)
※写真は遠くにテレビ塔を望む大通公園です。