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田舎おじさん 札幌を見る!観る!視る!

私の札幌生活も17年目を迎えました。これまでのスタイルを維持しつつ原点回帰も試み、さらなるバージョンアップを目ざします。

映画 堂々たる人生 No.379

2024-08-30 09:04:00 | 映画観賞・感想
 良くも悪くも“裕次郎” である。1961年制作というから、62年前の映画である。裕次郎27歳の映画であるが、裕次郎にとってはデビュー後47作目の主演映画である。今の人が観れば突っ込みどころ満載であるが、当時、裕次郎ファンだった人たちにとっては、懐かしさいっぱいの映画だったろう。ところで今の人は“裕次郎”と聞いて誰のことか分かるのかなぁ??

       

 8月25日(日)午前に「ちえりあフェスティバル」で「最高の人生のはじめ方」を観た後、午後には北海道立文学館において上映された「堂々たる人生」を観るという映画鑑賞のダブルヘッダーを体験した。
 なぜ道立文学館で裕次郎映画なのか?と不思議に思ったが、道立文学館では定期的に文芸作品を中心とするDVD上映会「映像作品鑑賞のつどい」を開催しているという。今回の「堂々たる人生」は、原作が源氏鶏太作品の「白い雲と少女」という作品の映画化ということで取り上げられたようだ。

     

 ストーリーは玩具会社に勤める中部周平(石原裕次郎)は、会社員としても優秀なうえ、女性にもめっぽうもてるという役柄である。中部が勤める玩具会社が経営危機に陥ったところを中部と同僚の紺屋小助(長門裕之)、石岡いさみ(芦川いずみ)とともに危機を切り抜け、会社を立ち直させるというストーリーである。
 とにかく石原裕次郎のカッコ良さが前面に出た映画で、その昔は裕次郎ファンだった思われる女性がたくさん詰めかけていたが、彼女らにとっては若き日の思い出に浸ることのできた時間だったのではないだろうか?さらに相手役の芦川いずみのハツラツとした可愛らしさがレビュー欄でも大好評であるが、私も同様の感想を持った。

  
  ※ 写真左から、石原裕次郎、芦川いずみ、清川虹子、桂小金治の出演者です。

 また脇を固めた桂小金治、清川虹子、藤村有弘、殿山泰司、中原早苗、東野英次郎、宇野重吉といった面々が若々しく演じていた姿を見ることができたことが嬉しかった。今では全ての方が鬼籍に入られているだけに、懐かしさいっぱいに観ることができた映画だった。

映画  最高の人生のはじめ方  №378

2024-08-25 19:05:55 | 映画観賞・感想
 何といっても主演のモーガン・フリーマンの醸し出すほのぼのとした雰囲気が映画全体に流れている映画だった。映画は2012年制作ということだからフリーマンが75歳の時のものだが、とても良い味を出していた映画だった。

       
 本日(8月25日)午前、札幌市生涯学習センター(愛称:ちえりあ)「ちえりあフェスティバル2024」が開催されたが、そのフェスティバルの一環として映画「最高の人生のはじめ方」が上映されたので観覧した。
 おおよそのストーリーは次のとおりである。
 主人公のモンテ・ワイルドホーン(モーガン・フリーマン)は、元々メジャーリーガーを目ざしていたが交通事故によって車椅子生活を余儀なくされたが、最愛の妻から「一つのドアが閉まれば、別のドアが開く」という言葉に励まされ、西部劇の作家として小説家の道を切り開いた。しかし、6年前にその最愛の妻を亡くしてしまったことで酒に溺れ、小説家としての道を自ら断ってしまう。そんな生活を心配した甥のヘンリーが湖畔に建つ家の夏休みの留守番をすることを勧めてヘンリーに車で送られてくる。そんな湖畔の一軒家の隣に住む母娘4人家族と出逢い、モンテと母娘4人家族との交流を描くストーリーである。
 ストーリーは何か事件があるわけではない。何か劇的な変化があるわけではない。ある意味で淡々とモンテと家族の交流を描くだけである。その交流の中からモンテが、そして家族4人が徐々に心境が変わっていく様を描いたものである。その交流の日々の様子からモーガンの良さがスクリーンに滲み出てくるのだった。
    
 映画の邦題「最高の人生のはじめ方」がレビュー欄ではかなり批判されている。私もやはり違和感は拭えなかった。おそらく邦題を付けた方は2007年に同じくモーガンが出演した「最高の人生の見つけ方」にヒントを得たものと考えられるが、やや安易だったのではという印象を禁じ得ない。原題は「The Magic of Belle Isle」なのである。この題名を直訳すれば「美しい島のマジック」的なことになるのではないだろうか?(かなり怪しい英訳ではあるが…)
そのことは別にして、リード文で触れたように私的にはホッコリと楽しめた映画だった。

映画  新渡戸の夢  №377

2024-07-12 14:16:38 | 映画観賞・感想
 新渡戸稲造…、札幌農学校出身で国際連盟の事務局次長を務めるなど国際的に活躍された教育者・思想家であるが、キャリアの途中で母校札幌農学校の教師を務めた際、恵まれない境遇の子等のために「遠友夜学校」を設立し、初代校長を務めたエピソードを中心に描いたドキュメンタリーである。

      

 7月10日(水)午後、シアターキノにおいて映画「新渡戸の夢」を観た。
 この映画は国際的に活躍した新渡戸稲造の業績の数々を描いたものではない。彼の思想の源泉にあった「どんな人でも勉強する権利がある」という思いの実践の場として「遠友夜学校」を設立し、恵まれない人たちに無償の学び舎を提供し、彼の夢を受け継いだ人たちによって昭和19年に閉鎖されるまで50年間も継続し、延べ5千人もの人たちが「遠友夜学校」で学んだという業績に光を当て、そのエピソードを描いたものである。
 映画に「遠友夜学校」で学んだ人は残念ながら一人も登場しない。全ての人たちがすでに亡くなられていることから、実際に学んだ人たちの子どもに当たる方が二人登場し、親の姿を見たり、伝えられたりしたことを語る。
 また、「遠友夜学校」の精神を受け継ぎ、「平成遠友夜学校」と称して市民に学びの場を提供している藤田北大名誉教授の実践も紹介している。
 しかし、映画の大半は、やはり新渡戸の思いを受け継ぎ民間サイドで学びの場を提供し続けている「札幌遠友塾 自主夜間中学」の設立に関わり、長い間代表を務めた工藤慶一氏にスポットを当て、新渡戸の夢を引き継ぎ、実践を続ける姿を追う。

        
    ※ 遠友塾 自主夜間中学で教える工藤慶一氏の一コマです。(左の人)

 私が微笑ましいと感じたのは、「映画を出しても良い」と了解を得たと思われる一人お婆ちゃんの学ぶ姿だった。小学校の算数の問題を友人たちと試行錯誤しながらも、飾ることなく明るい表情で学ぶ姿が印象的だった。
 また、映画では「遠友夜学校」を設立したものの、長く学校を離れていた新渡戸が20数年ぶりに「遠友夜学校」を再訪した際に「学問より実行」という書を認めたというエピソードが紹介された。新渡戸は「学問の目的は人格の完成にある」ということを生徒たちに伝えたかったのだと映画は解説した。



 ※ 新渡戸稲造が「遠友夜学校」を再訪した際に認めた書です。右から読みます。 

 映画の最後は前出の工藤慶一氏は「北海道に夜間中学を作る会」の代表を務められていて、工藤氏が国会においてその請願をする場面で終わる。
その工藤氏たちの願いは、2022(令和4)年、北海道で初めての公立夜間中学校「星友館中学校」として開校され、工藤氏たちの願いは実現して現在に至っている。
 昨日、私はその「星友館中学校」を見学する機会を得た。その模様については明日レポすることにしたい。                   

映画  ディア・ファミリー  №376

2024-07-03 20:07:34 | 映画観賞・感想
 余命10年と宣告された娘の命を救うため、医学には全く無知だった町工場を営む父親が人工心臓を、そしてバルーンカテーテルの開発に人生を捧げたという実話を映画化ものだが、父親とその家族の物語はまさに “敬愛” に値する尊い姿だった…。

     

 7月2日(月)午前、札幌シネマフロンティアで「ディア・ファミリー」を観た。英語表記すると「Dear Family」となるが、「Dear」とは、「親愛な」とか「敬愛な」と訳されるようだが、この映画を観終わってみると私は「敬愛できるような素晴らしい家族」と解したいと思った。
 映画は、ノンフィクション作家の清武英利の『アトムの心臓「ディア・ファミリー」23年間の記録』が原作である。

     
   ※ 清武武利著「アトムの心臓『ディア・ファミリー』23年間の記録」の表紙です。

 町工場を営む筒井宣政(大泉洋)は、次女の佳美(福本莉子)が心臓病のため余命10年と宣告された。筒井は家族と共に「人工心臓をつくり、娘の命を救うという不可能」に挑むことを決意する。筒井夫婦は人工心臓開発のために知見を集めるべく、日本のトップクラスの研究者が集う研究会や大学病院を訪ね歩き、東海メディカルプロダクツを設立し、徐々に希望の光が見えてきたのだが、今現在も世界の医学が実現できていない人工心臓開発の壁はあまりにも厚かった。結局、人工心臓の開発は諦めざるを得なく、娘を救うことはできなかった。しかし筒井は人工心臓の開発を進める中で、バルーンカテーテルを医学界が望んでいることを知り、世の中の子どもの命を救うためにその開発に乗り出した。   
    
※ 映画の主たる出演陣です。

 その筒井の奮闘を、妻の陽子(菅野美穂子)はもちろん、3人の娘たちも筒井を懸命に支えた。そしてついに世界初のバルーンカテーテルを筒井は完成させたが、その間に次女の佳美は父を応援しながらこの世を去ったという。筒井が開発したバルーンカテーテルは、その後13万人の命を救ったという。
 ところで清武氏の著書の「23年間の記録」という意味だが、実は清武氏がこの筒井氏の偉業を知ったのは後輩記者が新聞記事にした2001年のことだったという。それから23年後にようやくノンフィクションとして上梓したことを意味しているそうだ。その間、清武氏は本務(新聞記者・編集人)の傍ら取材に取材を重ねたことで23年もの月日を要したという意味のようである。
 さて、映画の方であるが、主演の大泉洋の芸達者ぶりは映画全体をグッと引き締めていて、感動作として仕上がった立役者である。ただ、私の涙腺を緩めたのは、映画では父の筒井を陰に陽に応援し続けた奈美(川栄季奈)、佳美、寿美(新井美羽)の三姉妹だった。三人はけっして芸達者というわけではなかったが、滲み出るような優しさが画面を通して伝わってきた。

       
        ※ モデルとなった実在の筒井宣政氏です。

 映画の最後に筒井にインタビューするために登場したテレビリポーター役の山本結子(有村架純)は、実は「自分自身がバルーンカテーテルで命を救われたのだ」と告白する場面は観客を泣かせ続けた制作者がさらに一押しさせる効果的な構成だったように思われた。お勧めの映画である。

映画  九十歳。何がめでたい  №375

2024-06-21 18:05:33 | 映画観賞・感想
 久しぶりの映画観賞だった。作家・佐藤愛子さんの同名のエッセイの映画化である。佐藤さんの毒舌とユーモアが、主演の草笛光子さんと好演が相まって、終始笑いを交えながら楽しませてもらった映画だった。

    

 表記映画が本日全国公開と知って、特に予定のなかった私は午前からシネマフロンティアに出かけて鑑賞した。客筋はやはり私と同年代と思われる高齢と思われる方が多く、特に女性の姿が目立ったようだ。
 原作は作家・佐藤愛子さんが93歳の時に作家生活の集大成として「晩鐘」を書き上げ、作家生活の引退を宣言したのだが、その後鬱々とした生活をしていた中、小学館の編集者の強引な口説き落としによって、週刊誌にエッセイを連載することになった。その題名が「九十歳。何がめでたい」である。

      
     ※ 佐藤愛子さんのエッセイ「九十歳。何がめでたい」の表紙です。

 そのエッセイは、ある紹介文によると「“暴れ猪”佐藤節が全開。自分の身体に次々起こる“故障”を嘆き、時代の“進歩”を怒り、悩める年若い人たちを叱りながらも、あたたかく鼓舞しています。自ら災難に突進する性癖ゆえの艱難辛苦を乗り越え92年間生きてきた佐藤さんだからこそ書ける緩急織り交ぜた文章は、人生を逞しく生きるための箴言も詰まっていて、大笑いした後に深い余韻が残ります」とある。
 映画はその佐藤愛子役を、今年90歳を迎えた草笛光子さんがエネルギッシュにチャーミングに演じ、それをサポートする編集者役の唐沢寿明がコミカルに支える演技がはまっていたと私には思えた。
 佐藤愛子さんの言を“暴れ猪”とは、言いえて妙とも言えるが、現代の世相に噛みつく様は人から見れば“暴れ猪”のように見えるのかもしれない。その“暴れ猪“ぶりを草笛さんは見事に演じ切っていたからこそ、会場内からは絶えず笑い声が行き交っていたのだろう。

         
  ※ 何歳の時の佐藤愛子さんかは不明ですが、笑顔が魅力の佐藤さんの近影です。

 そしてやはり作家は作家として、映画俳優は映画俳優として、自ら与えられた使命を一生を通して全うするのが幸せなのでは?と観客に問いかける内容になっていたと私は解釈した。
 佐藤愛子さんは今年100歳を迎えられたというが98歳のときにも「九十八歳。戦いやまず日は暮れず」という著書を上梓した。
 佐藤さんのように長生きはできないとしても、彼女の生き様は私も命ある限り見習っていきたいものだなぁ、と映画を観終えて思わされた。               

レリーフ「大地」制作記録映像「三人の手」上映会

2024-04-12 14:13:25 | 映画観賞・感想
 「三人の手」とは、1960年代に北海道に縁のある著名な彫刻家だった本郷新、山内壮夫、佐藤忠良の三人の手を表している。彼ら三人は、北海道銀行本店に掲げられている幅41m、高さ3.3mの国内でも他に例をみない巨大なレリーフ「大地」を共同で制作したのだった。

     

 昨夜(4月11日)、市民交流プラザのSCARTSスタジオにおいて本郷新記念札幌彫刻美術館が主催する表記記録映像の上映会があり、参加した。
 実はその巨大なレリーフは、北海道銀行本店が移転と建物取り壊しとなるため、間もなく私たちの目の前から姿を消す運命にあるのだ。銀行などには縁のない庶民の私は通常の預貯金などで訪れたことはなかったが、本店ロビーで開催される「道銀ロビーコンサート」などで時折り訪れた時にはその巨大なレリーフを眺めさせてもらっていた。
 上映会は上映時間が短い(22分間)こともあり、3回の上映が設定されていたが、私は初回の午後6時の部に参加した。定員は60人ということだったが、満員の大盛況で後から椅子を補充していたことから80人近くがいたのではと思われ関心の高さを伺わせた。
 さて三人の彫刻家とは、当時国内的にも著名だった本郷新山内壮夫佐藤忠良の三人である。三人の作品は大通公園にもそれぞれ展示されている。
 その三人が「大地」というテーマのもと、北海道の産業や歴史風俗をどのように表現するのかというディスカッション、そしてデッサンと共同で作業を進める様(場所は東京の本郷新のアトリエだったようだ)が克明に描かれていた。
 そして実際の制作模様が描かれていたのだが、そこで私は意外な光景を目にした。彫刻ではまず最初に粘土でもって成形するのだが、その段階で彫刻家たちは粘土を丸めて壁にぶつけるようにして貼り付け、それを指でもって平らに均していた。それから各々の手で粘土を成形していた。私は巨大なレリーフを制作するというのに、なんと非効率的な方法を取っているのかと思った。最初の段階など、何か機械によって平均に均された粘土を用意してもよさそうにと思ったのだが…。あるいは彫刻家にとっては、そうした些細な作業の過程が大切というのかもしれないと思わされた。
 続いて成形された粘土の造形を石膏によって型取りがされ、最後にその石膏にポリエステル樹脂を流し込んで完成という過程を辿った。
 巨大レリーフは、1m四方のポリエステル樹脂板93枚に分割されて制作され、それを銀行本店の壁に設置されるまでを映し出してくれた貴重な映像だった。
 レリーフは見たところブロンズ製のように見えたが、実際はポリエステル製だということだった。その訳は、ポリエステルが銅の重さの13分の1という軽さで、銀行本店の壁に設置するには危険もなく好都合ということがあったのかも知れない。
 さて、問題は北海道にとっては貴重な文化遺産でもあるレリーフ「大地」だが、巨大ゆえに転居先が見つからず、しばらくは倉庫に眠らざるを得ないということだ。どこかで再び私たちの目の前にその巨大な姿を現してほしいと願うのだが…。

映画  オッペンハイマー  №374

2024-04-04 19:18:53 | 映画観賞・感想
 正直に言って難しい映画だった…。それは映画自体が3時間に及ぶ長編なのだが、そのほとんどが会話劇から成っており、しかも時系列が交錯するために理解が難しかったこと。さらには「原爆の父」と称される主人公のオッペンハイマーのことを被爆国の一人である私がどう捉えたら良いのか。私にとっては難しい映画だった。

       

 4月2日(火)昼、シネマフロンティア札幌で映画「オッペンハイマー」を観た。「オッペンハイマー」は前年度のアカデミー賞の作品賞、監督賞、主演男優賞など7部門を受賞し、話題となっている映画である。
 私はこれまでもできるだけアカデミー賞の作品賞受賞作は鑑賞するようにしてきた。その例に従い今回も鑑賞を決めたのだった。それはアカデミー賞が持つ世界映画界への影響力が桁違いに大きく、エンターテイメントとしてのその後の映画づくりにも大きな影響を及ぼしてきたからだ。
 映画は前半、天才的な科学者と謳われたオッペンハイマーは、第二次世界大戦が勃発した1942年、アメリカは原子爆弾を開発すべくマンハッタン計画が開始され、翌年オッペンハイマーは原子爆弾の開発研究をするロスアラモス国立研究所の初代所長に任命され、原爆製造研究チームを主導し、世界最初の原爆開発に成功した。その原子爆弾がやがて広島・長崎に投下されることになったことは良く知られているところである。
 彼はアメリカにおいて「戦争を終結させた男」、「原爆の父」と崇められた。
 しかし、オッペンハイマーは自分が主導し開発した原爆によって多くの人の命を奪ったことに対して自責の念に駆られ始めたのである。第二次世界大戦終結後も、原爆より強力な水素爆弾などの核兵器開発が要請されたが、彼は応じることはなく、むしろ反対の立場に立ったことにより、彼のアメリカ(米国)での立場は反転することになる。
 このことを機にオッペンハイマーは当局から査問を受ける身となり、最終的には公職追放同然の処分を受けることになったのだった。
 映画はこうしたオッペンハイマーのいわば半生を描くような内容だったのだが、前述したように会話劇というか、そのやりとりを映し出すという画面上は極めて地味なものだった。唯一、原爆開発の実験シーンだけは目も眩むような爆発シーンが描かれた部分は画面を圧倒するほどの迫力だったが…。

      
      ※ 原爆実験の様子を映し出した画面です。

 さて、オッペンハイマーその人のことであるが、命令とはいえ原爆開発の責任者であったことは紛れもない事実である。しかし、彼には “科学者の良心” があり、そのことが彼の後半生を悩ませる結果となった。
 しかし、しかしである。被爆国である日本人の一人としては、オッペンハイマーは戦闘員でもない多くの市民を死に追いやった原爆を作った張本人として記憶にとどめねばならない人物でもある。

   
   ※ オッペンハイマーがアインシュタインと遭遇した場面です。

 さらには、この映画が2023年のアカデミー賞の作品賞を受賞した意味を考えるとき、アメリカが原爆を題材にした映画を広く国民(市民)に披歴したところに意味があったのではないか、と考える。アメリカでは長い間原爆を使用した世界最初の国であり、唯一の国であることを市民に積極的に伝えてこなかったと言われている。そのことを作品賞という形でこのテーマを取り上げた作品に作品賞を与えた意味は大きいのではないだろうか。もっとも、実際の原爆投下、そして広島や長崎の悲惨な状況が画面に登場することはなかったが…。
 映画はアメリカでは伝記映画としては歴代一位の動員数を誇るほどヒットしているという。はたして日本ではどうだろうか?私が観たのは平日火曜日だったが、中高年を中心に私が予想したよりはたくさんの方々が観賞していたのが印象的だったが…。


美術映画 横山大観の「海山十題」を観る

2024-03-31 10:53:29 | 映画観賞・感想
 横山大観といえば日本画の巨匠として名高いが、氏の画には西洋画のエッセンスも含まれているためか、絵画にはからきし弱い私が観ても魅力的である。そんな横山氏が氏の画業50年を記念して描いたのが「海山十題」だという。ところが、その「海山十題」が後世になって物議を醸したそうだ?
     

 絵画や美術品にはとんと関心のない私である。しかし、作品を解説する講演会とか、美術品等の背景を描く映画などにはけっこう足を運んでいる。今回も ‟横山大観の映画” と聞いて観てみようと思い立った。
 映画は3月28日(木)午後、札幌市民ギャラ―リーで映写会が開催されたので参加した。
 映画は「海山十題」の他の作品もいくつか取り上げたが、主題は横山氏が画業50年(1940年)を記念して描かれた「海山十題」についてだった。
 その「海山十題」は時代の波に翻弄され、その一部は所在不明となって “流転の名画” とも呼ばれ、後世になってから横山大観の評価を左右するほどの話題になったという。

   
   ※ 大観は富士山を題材とした画を数多く描いたという。

 されは「海山十題」が制作年に関わってくる。「海山十題」の制作年は前記したように1940年である。1940年というと太平洋戦争前夜である。国全体は軍国主義一色に染まっていたと伝えられている。そうした中、横山が積極的に軍国主義に関与したのか?あるいは有名画家故に体制に利用されたのか?
 海を主題に描いた十作品と、富士山を主題に描いた十作品の計20点が「海山十題」とされているが、その中に数点に真紅の太陽が描かれていることが物議を呼んでいるようだ。さらにはその「海山十題」の20点は即売にかけられ、その売上金が陸海軍両省に献納され4機の戦闘機が購入されたそうだ。
 つまり戦前の横山大観は当時の軍国日本に積極的に関与したという評価なのである。

 
 ※ こちらは「海十題」の一枚です。真紅の太陽が印象的な一枚です。

 映画はその横山大観の評価について、元NHKアナウンサーの山根基世さんの質問に答える形で、映画監督の吉田喜重氏と横山大観記念館々長の横山隆氏(横山大観の孫)の二人が語っている。(横山氏についてはあるいは私の記憶違いの恐れもある)
 二人の横山大観の「海山十題」に関する評価は若干違っているように私には映った。吉田氏は横山大観の画家としての力量を認めながらも軍国日本を後押しする結果となったことに対する横山大観の姿勢に疑義を呈するニュアンスだったのに対して、横山隆氏は戦争と「海山十題」の関連について直接は言及せず、純粋に絵画としての価値を認めてほしいというニュアンスに映った。

     
     ※ 横山大観の晩年の一枚だと思われます。

 このことについて横山大観自身がどのような発言をしたのか知る由もないのだが、彼の功績は1937年に文化勲章を授与され、戦後の1952年には文化功労者に叙せられたことからも、彼の画家としての存在は日本画壇においては欠かすことのできない大きな存在であるということを示しているのかもしれない。

※ 使用した写真は全てウェブ上から拝借したものです。

映画  波乗りオフィスへようこそ  №373

2024-03-01 20:48:44 | 映画観賞・感想
 現役世代のUターン、Iターンを後押しする、いわゆる地方創生をテーマとした映画だった。趣旨は理解できるのだが、どうも出演者の演技力がイマイチのため映画に没入できないきらいがあったのが残念だった…。

   
      

 昨日(2月29日) 午前、市民活動サポートセンターが主催する「エルプラ・シネマ」がエルプラザであり、参加した。今回取り上げられた映画は「波乗りオフィスへようこそ」といって、一見分かりづらい題名の映画なのだが…。
 映画自体はフィクションだが、原案は存在する。それは徳島県美波町に本社をおくサイファー・テック株式会社および株式会社あわえの社長である吉田基晴が著した「本社は田舎に限る」がベースとなっているということだ。
 ストーリーは、東京でセキュリティソフト会社を経営する徳永(関口知宏)は、会社のエンジニアを確保できないことに悩み続けていた。東京で人材を確保することに限界を感じた徳永は、副社長の沢田(田中幸太朗)と共に彼の故郷である徳島県美波町にサテライトオフィスを構え、人材を確保したいと考えた。美波町は太平洋に面していてサーフィンの適地でもあった。
 人材募集を始めると、働きながらサーフィンも楽しみたい。また勤務の合い間に四国八十八か所を巡りたい。あるいは、釣りを楽しみながら勤務したい。などといった人たちが次々と応募してきた。映画の題名は、そこから名付けられたようだ。

   
   ※ 美波町の再生について徳永と岩佐が語り合うシーンです。

 徳永はセキュリティソフト会社を軌道に乗せるだけではなく、疲弊し、限界集落と呼ばれる故郷美波町の再生にも力を入れ始める。そこには強力に助っ人も現れた。徳永の同級生であり役場に勤める久米(柏原収史)、地元の起業家の岩佐(宇崎竜童)たちである。徳永は彼らと共に、美波町の豊かな自然を生かした策を次々と考え、実行に移していった。
 映画の最後のシーンはフィクションならではの伏線が用意されていた。ここで観客はホロリさせられてしまうのではないだろうか?実際私がそうだった。
 ところが映画全体としては、リード文でも触れたように主演の関口知宏をはじめとして出演者の多くの演技がどうもいま一つのような気がして仕方がなかった。その中で、宇崎竜童の存在が際立っていたように思えた。

   
   ※ 映画の最後、美波町の再生に奔走した人たちがある人を迎えるシーンです。
      町の中学校のブラスバンドも一役かっています。

 さて主題についての考察であるが、私がオホーツクの田舎から札幌へ転居したころは、いわゆる田舎への移住ブームが声高に語られていた。しかし、私と相前後して札幌へ転居した友人と「田舎への移住がブームのように語られているけど、実際は私たちのようなケースが多いのではないか」と語り合ったものだ。実際に札幌の人口動態を伝える新聞記事を見てもそのことは裏付けられているようだ。
 地方にとって、またそこに住む人たちにとって、住民が減っていくことは大問題である。限界集落などと言って、集落そのものが成り立たなくなると、そこで生きていくことさえ困難となる。
 そうした地方ではさまざまな試行錯誤が続いていると思われるのだが、映画のような成功例はあるとしても、それが全国的な動きにはなっていないところが問題である。
 こうした現状の中で自治体内における「コンパクトシティ化」を目指す動きが進んでいる。あるいは、将来的にはもっと大きな単位での「コンパクトシティ化」が進んでいくのだろうか?

映画  ブータン 山の教室  №372

2024-02-15 19:35:59 | 映画観賞・感想
 難しい映画だったと表現するのが適切なのかなぁ…。標高4,800mのブータンの寒村で貧しく暮らす村人たち56人。文明の世界から取り残され、文明の利器など何も知らず純朴に生きる9人の子どもたちと、彼らを教える若い教師の卵との物語である。
      
       ※ ポスターを飾る学級委員長役のペン・ザムの表情がとても印象的だった。

 2月12日(月)午後、「リサイクルプラザ宮の沢」が主催するエコ映画会「ブータン 山の教室」がちえりあホールで上映されたので観賞した。
 映画はブータンの首都・ティンプーの教育系大学に学ぶウゲンは教師の仕事に魅力を感じられず、ミュージシャンを夢見て授業もさぼりがちな生活を送っていた。しかし、卒業するためには教育実習を数か月間課せられている。ウゲンはブータンでも最も僻地にある標高4,800mもの高地にあるルナナ村の学校へ行くように言い渡された。
 ティンプーからルナナ村までは半日間バスに揺られてガザという町へ行き、そこからは徒歩で7日間歩いてようやく人口56人というルナナ村に着いたのだった。

  
  ※ 映画の主役のウゲン(右側)と彼の村での生活をなにくれとなく面倒を見る村の若者です。

 そこからルナナ村の9人の子どもたちとウゲンの学校生活が始まった。ウゲン村には電気はもちろん、子どもたちが学習するための紙も不足していた。学校とはいっても黒板もチョークもない。まさにないない尽くしである。
 ウゲンにとっては何もない生活の始まりだった。しかし、子どもたちは純朴だった。ウゲンの言葉に瞳を輝かせて聴き入ろうとする。特に学級委員長役のペン・ザムの表情がいい!!(彼女は演技を学んだ子ではなく、ルナナ村に実在した子どもだったそうだ)

  
  ※ ルナナ村の学校で学ぶ9人の子どもたちです。

 渋々赴任したウゲンだったが、純朴な子どもたち、村人たちの素朴な期待、そして素晴らしい自然…、等々に心を動かされウゲンは冬が来るまで続けてみようと決心した。
 ウゲンは村人たちに受け入れられ、彼なりに任期を誠実に務めるが、結局彼は教師とはならず、彼の夢だったミュージシャンとなるためオーストラリアに渡ったのだった。
 つまりウゲンは、何もないけれど幸せに暮らす寒村の人たちと生活を共にし、そこにある種の生きがいを感じつつも、やはり便利で華美な世界へ還ってしまった。
 ブータンという国は、世界各国がGDPやGNPの多寡を追い求める中、国王がGNH(Gross National Happiness  国民総幸福量)こそ大切だと提唱している国として有名であるが、大学教育を受けたウゲンなどは若者たちはそのことを信じていないということなのか?はたまた、ルナナ村の子どもたちも教育を受け、成長した暁に現在のような境遇を素直に受け入れることができるだろうか?
 映画の制作者であり監督も務めたブータン人のパオ・チョニン・ドルジ氏は、映画の中で何も主張しようとはせず、ある意味淡々と標高4,800mの高地のルナナ村の美しい自然と、そこに暮らす村人や子どもたちを淡々と写すことに徹している。

  
  ※ 標高4,800mのルナナ村から見える風景です。

 微かに感ずることができたのは、オーストラリアに移住しミュージシャンとなったウゲンの表情がけっして幸せそうには写っていなかったところに、パオ・チョニン・ドルジ氏の微かな主張を見たようにも思ったのだが…。
 私たち人間にとって、何が幸せなのかを考えさせてくれた映画だった…。