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神戸まろうど通信

出版社・まろうど社主/詩と俳句を書く/FMわぃわぃのDJ/大阪編集教室講師など多様な顔を持つ大橋愛由等の覚え書き

幽なる朝

2006年07月11日 23時20分49秒 | こうべ花気だより
霧なのでしょうか、靄(もや)なのでしょうか、さだと分かりかねますが、冷気が走るがごとく吹き抜ける。視界がまったくきかない。朝もまたそこは別天地でした。

しかし、それもそこを離れて、街に近づき降下していくと、何かわらぬ有視界のケの世界が待っている。

この落差、いったいなんでしょう。

神戸の人間がしらなかった神戸。

昨晩、その人は言います。「暗の海と、光満ちる陸とが反転して見えます」。

その鋭なる感性に祝福あれ!

知らなかった神戸

2006年07月10日 23時09分49秒 | こうべ花気だより
たった20分ほどの時間だったのですが、異次元の世界への小紀行に旅立つことができたのです。

思い立って六甲へ。
神戸の夜景がこんなにも心を打つとは知りませんでした。
ガラス越しに、じっと見る。
ワインとチーズを用意する。
語らいと沈黙。
あの日(1995.1.17)を思い出しつつ(少し涙ぐみながら)
神戸で生まれた二人が、神戸をみていました、じっと。

50話を終えて

2006年06月28日 09時26分03秒 | こうべ花気だより
とある人に向けた一人だけの読者の連続掌編小説も、今週土曜日のパネルディスカッションの準備のために、中断せざるを得なくなり、かつその読者の人が「そろそろ第一部としてまとめられたら」とのアドバイスももらっていたため、ちょうど50話になったところで、話(語り)を小休止することになりました。

今回の物語を書いていると、250文字の一回分でなんとか完結する書法を意識して書き進めている自分に気づき、次回にあらたに何かが展開することを期待させて終わるということをも意識していました。おそらく新聞小説もこういう書法で書かれているのでしょうね。

ちょうどその日に

2006年06月27日 23時07分11秒 | こうべ花気だより
わたしとある人が先月から始めたブログにとって大切な日が昨日でした。

FMわぃわぃの放送を終えて、三宮で待機します。夜になった時、ブログの共同運営者と合流。
とある仕掛けをしていきます。
機械の運用にまだ慣れていないので、苦労しながらもなんとか、所期の目的を達成して、二人とも安堵の風情。それをパソコンに入れて、本日の夜、アップロードしたのです。

なにせ、ブログを三つ、mixiもいれると五つの日記サイトを運営していると、その管理だけで大変ですが、その五つとも性格が違うのは、興味深いところです。

物語を紡ぐ

2006年06月23日 09時13分45秒 | こうべ花気だより
その人に逢えない時間がじれったく、携帯からはメール(手紙文)ではなく、物語(掌編小説)を書き始めました。わたしの携帯はドコモのMOVAで250文字程度しか一回に送信できないので、その範囲内で、一日に5話から10話を送ります。

その人ひとりだけが読者であるという小説です。
いつまで続くのか、何回書くのかは、自分でもまったく分からないのです。

不思議ですね

2006年06月14日 22時14分37秒 | こうべ花気だより
いつでも逢える--といったところでしょうか。

先日アップロードに成功した音声ブログを、何度か聞いています。
わたしを含めて二人で吹き込んだのですが、インターネットというわたしの手を離れたメディアから、自分の声が聞こえてくるという不思議。そしてもうひとりの人の声がいつでも聞けるという至福。顔かたちは、写真を帯同していれば、いつでも確認できますが、声はいつでもすぐ確認できるというわけではない。それがブログだと、音声の確認だけでなく、二人で録音に際した雰囲気までも思い出され、伝わってくるのです。

成功しました

2006年06月12日 19時36分16秒 | こうべ花気だより
ブログに音声情報のアップロードに成功しました。

これは、ある人と先月から始めたブログで、音声をアップロードできるサイトです。

月に一回、この音声情報をアップロードしようとしています。あとは箴言的な情報を少しずつ毎日、どちらかが書き込むようにしています。

最初、容量が大きくて受信を拒否されたので、MP3に落とすとき、ファイルサイズを低く設定したことで、なんとか成功しました。
でも、このブログには、どうやったらアップロードしたらいいのかという説明が見つけにくかった。 
その音声情報は、合計で8分程度。今後もこの程度の長さでインターネットで展開しようと思っています。

ばあすでい

2006年06月10日 22時05分48秒 | こうべ花気だより
時の記念日に産まれたわたしです。
産まれた直後の産湯に入っている記憶はありません。
神戸市内の病院でした。
母がわたしを抱いて、退院するため、阪急御影駅に向かう途中、禅僧に出会い「この子は伸びる時は伸びる子です」と言われたとか。わたしはわたしにまつわる物語を産まれた時から帯同して生きています。

さて、ことしの誕生日、ある人が心づくしの誕生祝いをしてくれました。
一生忘れることのない年になるでしょう。

「英国兵」と「日本兵」

2006年05月18日 23時02分14秒 | こうべ花気だより
ひとことに、英国といっても、多様です。

アイルランドは、1949年に南地域が英国から独立するまで、厳しい独立闘争を繰り返してきました。いまでも、北アイルランドは和解が進んだというものの、紛争の火種が残っています。

I will arise and go now,for always night and day
I hear lake water lapping with low sounds by the shore;
〈"The Lake Isle of Innisfree" William Butler Yeats〉
 
アイルランド出身のイェイツにとってロンドン(イングランド)は故郷から遠く離れた異郷の地。詩人といわずアイルランド出身として出自の地に対する望郷の念は強いものがあります。それは、故郷の地を抑圧する側に身を置く立場の人間が抱く齟齬感かもしれません。

先の大戦で、当時は英国領だったアイルランドから20万人の若者が「英国兵」として参戦。2万人が戦死したそうです。戦後帰還した兵士たちには、独立して後、売国奴の罵声があびせられたと聞きます。「日本兵」として参戦した朝鮮半島、台湾両出身者の戦後の評価と重なります。

この紹介に関して、英文学科卒業の人は、イェイツの読み方をこう示唆してくれます。

〈英語話者イェイツ初期の、アイルランドという地へのロマン主義的な憧憬は幾分高踏的作為的、しかし戦略的というには借り物でかよわく、逃避的です。都会の文化的環境に住む彼の歌では、かの国当時の田園の飢餓も都市スラムの貧困も無縁のことです。
1914年イースター蜂起の詩、ある種のスランプ期、フランスへの流浪を経て、彼は後期に再び風土を、遂に現代人たる彼自身のことばで、志向しえたのです〉

少しずつ、わたしのイェイツ像が結ばれていきます。

常民の海へ散った者たちへ

2006年05月17日 23時10分45秒 | こうべ花気だより
幸せとはいったいなんでしょう。
このところの日課となっている英詩を繙いてみましょう。
 
Happy the man,
……
Whose herds with milk,whose fields with bread,
Whose flocks supply him with antire;
〈"Ode on Solitude" Alexander Pope〉

18世紀に活躍した古典主義的傾向を持つ詩人の12歳の時に作った作品とか。少年らしい純度の高い理想が詠まれています。「幸せな者とは……祖先から引き継いだ土地に暮らし、自前のミルクを飲み、畑で採れた小麦粉でパンを焼き、羊の毛を刈って服を作る、そんな人である」と作者は願望するのです。

こうした循環型自足生活の実践は簡単なことではありません。西行の草庵も寺内にあり、世話する人と組織があってこそのもの。奄美・無我利道場は解散し、宮崎の"しあわせの村"は高齢化が進むばかり。かつてヤポネシア各地にあった"ナロードニキ(日本版「常民の中に」)"的なコミューンは、21世紀となった時代の変化を取り入れて、変容・維持されているのでしょうか。それとも、かたくなに原理を固持して土に根ざしているのでしょうか。

こうした理想主義的田園生活や、常民の海へ入り込むコミューンを達成してきた先輩や、都市を離れて表現活動をしているモノカキたちの行く末を見ていると、わたしには、〈都市の中の草庵〉住まいにこそ快があり、可能性に満ちているように思えてくるのです。

わたしのこの英詩引用と短いメッセージを読んだ女性誌人からは、次のようなコメントが寄せられています。
〈循環型自足生活というならば、ひとを取り巻く環境は自然だけでなく、人間もその一角として、互いに熟成し成長を続けると共に、若い新たな活気が吹き込まれる余地を持ち、知恵や力を交歓するべきなのかもしれません〉

感謝。

単複同型作家とは

2006年05月16日 10時07分10秒 | こうべ花気だより
Four ducks on a pond
A grass bank beyond,
A blue sky of spring,
White clouds on the wing;
〈"A Memory" William Allinham〉

今日も、わたしと縁が薄かった英文学のひとつをひもといてみましょう。

ウィリアム・アリンハムは、19世紀アイルランド生まれの詩人で、ロンドンで活躍するも、典拠とする解説書(岩波文庫『イギリス名詩選』)には「テニソンやラフェル前派の詩人と親しくしていたが、結局群小詩人の一人として終った」と書かれています。

群小詩人! なんと哀しい響きなんでしょう。こういう言い回しが可能なら、"群小羊(sheep)"や"群小豆(seed)"もありうる。どちらも英語では単複同型。だとすると、"群小詩人"というのは、単複同型の詩人(!)ということになるでしょうか。 

ちやみにこの詩は前半の紹介ですが、後半部分も合わせると、日本の和歌を意識したであろうと思われ、全部で31の単語で構成されています。

そしてこの前半部分をメール受信したとある詩人の女性から、「ハイクやタンカがどこまで俳句や短歌であるのか? 文学や様式の越境に関連して、気になる命題ですね」と的確に指摘しつつ、ちなみにこれを訳してみると「鴨四羽 草の岸辺を後にして 春あお空に翼寄す雲」となるのでは、との提案。さらに、短歌を英語の31単語によるタンカにした場合に提起されるのは、「何が短歌的でないのか。何がそれでもなお短歌的であって、31語の原詩とは違うのか」とも書き添えてくれました。わたしも、この提起を受けて、俳句とハイク/HAIKUの差異を検証してみたくなったのです。

群小詩人たるウィリアム・アリンハムも、時代を超え、はるか遠くの極東のタンカの母国でこうして話題になることで浮かばれるかな?

捨てるべき書はありや?

2006年05月11日 11時10分07秒 | こうべ花気だより
前回に続いて、英文学科を卒業した人に携帯から送っている英文学の詩華メッセージです。

Up! up! my Friend, and quit your books;

〈"The Tables Turned" William Wordsworth〉

浪漫派を代表するワーズワースの生き方そのままを抽出したような詩句ですね。

これに続くのは、「書を捨て自然に入ろう」とするテーゼが展開されているのです。でも、この展開、どこかで耳にしたことがあると思ったら、寺山修司が「書を捨て街に出よう」と言っているのを思い出したのです。

寺山の発言は、きっとワーズワースを意識していたのでしょう。私の10歳台はこの寺山のテーゼに猛反発した記憶があるのです。当時のわたしにとって、書は捨てるものでなく、まだこれから多く獲得すべきものでした。つまりわたしは寺山が意図するところが理解できていなかったのです。

これに対して、このメッセージを送ってきた人から返ってきたメールは、わたしよりはるかに核心をついた内容でした。引用することにしましょう。

----「浪漫派には「自然」が、そして20世紀後半の寺山には「街」が、硬直化した美醜の規定やシニフィアン/シニフィエに絡めとられない、最先端の未踏地であったのでしょう」。

出版業を営みながらも、「書を置き電脳世界の住人」に引きこもりがちになってしまっている日常生活の中では、いまや捨てるべき書もあやうくなってしまっているのが現状かもしれません。これに対して、その人のメールはこう続きます。

----「しかし書も、時には、作者の人為さえ超えて、そのような野生の実験場になりうるかもしれません。」

わたしは再び、書の世界に帰るべきなのでしょう。これからは「電脳を捨て書に帰ろう」とでもいいましょうか。

五月のざわめき

2006年05月10日 23時03分26秒 | こうべ花気だより
今週から携帯電話メールで、英文学科卒業のその人に向けて、英文学の詩華を送っています。携帯なので、箴言的に抽出するしかなく、詩の一部でしかないのですが、第一信に選んだのは、以下の作品です。

Lo,how the river dreameth there!
      〈"In May" James Thomason〉

「五月に」と題されたこの詩の作者は、19世紀に生きたスコットランドのジェームス トマーソン。貧困と酒まみれで窮死した詩人です。「見よ、あの川も夢見ている」といった訳であっているのでしょうか。

緯度の高い英国は春の訪れが遅いだけに、この季節の到来を満身で悦ぶ詩(うた)が誕生するのでしょう。わたしにとって、英国人がこのように自然を擬人化して表現する手法が意外で面白く、目にとまったのです。春の悦びが、川のせせらぎや、光や香りやそこに棲まう動物たちとともに、輝いていてみえたのでしょう。

わたしにとって、英文学は、学校で教えられた義務としての文学でありつづけ、楽しい、面白いと思ったことがない時代が長かったのです。また、英文学を専攻する人たちは、たまたま高校まで英語がよく出来た人たちのエリート的選択に思え、英語は受験技術でようやく得意科目に仕立て上げたわたしの興味の範囲外でした。大学入学後は、英文学から解放されてさはざばし、当時の流行だった中南米の文学や、イタリア文学を邦訳で熱心に読んでいたために、ついぞ、英文学の魅力に接する機会はありませんでした。

大学を卒業してようやく義務としての英文学と接する必要がなくなって以降、シェークスピアを何作か読んでいた程度ですから、英文学については、ほとんど無知の状態です。でも、これからはわたしにとってひとりの師匠が出来たことになり、少しずつ基本から教えてもらうことにしましょう。

神戸に迷う神戸の人

2006年05月09日 23時28分24秒 | こうべ花気だより
神戸という街、不思議ですね。生まれ、そして現在も住んでいる街なのに、深く知っているとは言えない。食べて飲む店も三宮周辺が多く、北野周辺は殆どしらない。

何年か前、島尾敏雄の愛した神戸のラビリンス世界を追体験したくて、北野をそぞろ歩きしたことがあります。島尾は、白人(神戸では白系ロシア系)の少女たちが路地から突然飛び出してくるような北野の雰囲気をこよなく愛していました。

早くして死んだ母と新しい借家を求めるために同行した敏雄少年は、そうした少女たちが多く住む場所にある家が候補にあがったことに胸ときめかしたのです。ところが、母は「あんな子たちがしょっちゅう家に来られたらたまらない」といった理由で他所になったということを、深く残念がったというエッセィを読んだことがあります。

今晩、わたしが歩いた北野に向かう道すがらは、雨が降る予兆に囲まれながらの霧模様。とある場所を探して二人で、坂を昇りそして下っていくのですが、二人が思っていた場所ははずれ。神戸生まれ神戸育ちの二人が神戸の街に迷うという事態となったのです。

電話をいれて、場所を確認するも、分からずに坂をぐんと昇ってしまい、また引き返す。ようやく到着したその場所は、存外に近くの位置にあり、また外観の意匠も存外だったのです。そして、路地から白系ロシア系の少女たちが時代を超えて急に飛び出してこないかを確認してソコに入っていったのです。

しとどに濡らし

2006年05月08日 09時37分08秒 | こうべ花気だより
レインコートの裾をしとどに濡らし、"こもり"に〈情け橋〉を掛けて渡ってくる人。

「ランカン橋」の島唄の続きのような場面の展開。

逢えば、語り交わすコトバも少なくなり、見つめあっている。

昨日のゴールデンウィーク最終日は、雨。わたしは神戸・長田の琉球ワールド2階の舞台「でいごの家」で、米川宗夫さんの徳之島のしまうた演奏を聴いていたのです。

そこに、その人にとっては珍しい短いメール文が届きます。そこに居ることは事前に伝えていたのですが、無理をして来てくれたのです。

五月の雨ふる神戸の街。〈情け橋〉が現れ、多くの抒情が生まれます。いくつかの新しい詩(うた)が向き合った二人の間から生まれてくるでしょう。