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神戸まろうど通信

出版社・まろうど社主/詩と俳句を書く/FMわぃわぃのDJ/大阪編集教室講師など多様な顔を持つ大橋愛由等の覚え書き

"情け橋"掛けて

2006年05月07日 10時22分38秒 | こうべ花気だより
昨夜から降り出した雨。

大雨(たいう)にならず、大きな自然災害にも発展しそうにない雨です。雨という天象は、男と女にとって、"雨宿り"の名目で二人が寄り添うキッカケとなる一方で、二人の間にたちはだかる厄介者にもなるのです。

奄美のしまうたに、「らんかん橋節」という歌があります。この曲はまさに、雨で割かれた男女の仲を歌い込んだ名曲です。カサンの大御所である上村藤枝さんのCDから歌詞を転載してみましょう。

 大水(うくむぃじ)の出(い)じでヤレー
 らんかん橋ば、洗(あ)れながらィ 流(なが)し
 (ソラヨーイヨイ)
 らんかん橋ば、洗(あ)れながらィ 流(なが)し
 (らんかん橋ば、洗(あ)れながら 流(なが)し)
 忍(し)ぬでもる加那やィやーれー
 泣しどィマタ戻どりゅィ戻どりゅィ
 (ソラヨーイヨイ)
 泣しどィマタ戻どりゅィ戻どりゅィ

雨が降り続いて、大雨となり、加那(=愛する人、男にも女にも使う)の家に通うためのランカン橋が流されてしまった。忍んで逢いに来たのだが、橋がなければどうしようもない。泣いて戻ることにしょう--といった意味です。

奄美大島のしまうた(遊び歌)は、男女の恋愛の掛け合いを歌った抒情歌が多く、この「ランカン橋」も、橋という二人をつなぐ絆が喪失してしまったことに対する嘆きを、思いをこめて歌い込むことが唄者の聞かせどころなのです。

加那の家に行って、今晩も、夜語りをしながら、楽しく過ごそうと思っていたのに、橋が洗い流されてしまったので、泣く泣く帰るしかない加那の心情。この歌は、続きがあり、さらに男女の抒情に拍車がかかるのです。

 こもりてばこィもーりヤーレー
 渡ららぬィこもり こもり
 (ソラヨーイヨイ)
 渡ららぬィこもり こもり
 (渡ららぬィこもり こもり)
 情けィ橋(ばし)掛けてヤーレー
 渡し給(たぼ)れ 給れ
 (ソラヨーイヨイ) 
 渡し給れ 給れ

「こもり」とは、水が溜まって沼のようになった場所を言うそうです。大意はこうでしょう--こもりといえば、こもりです。渡ることが出来ないこもりです。でも、この水溜まりにあなたが"情け橋"を掛けて、わたしの許に渡って来てください--。ここでは待っている方の加那の心情が歌われています。「情け橋」という表現がいいですね。なけてきます。こうしたありもしない架空の橋を掛けてまでも、雨にもかかわらず、それを乗り越えて、逢いに来て欲しいという感情が加那(恋してしまった人)の切なる思いなのでしょう。

巫女へ/カミダーリはあったか

2006年05月06日 10時18分03秒 | こうべ花気だより
       ┏            ┓                
              脱        
              皮        
              の         
              後       
              新       
              巫       
              と       
              な       
              る       
              な       
              り       
              赭       
         愛    牡            
         由    丹         
         等                           
      ┗             ┛ 

たとえば、こういうことを考えています。

なにかの機縁で、今までのからだ全体のすべての皮膚が、まるで脱皮するがごとく変異してしまい、〈脱皮〉後は、まるで別人のように新しい皮膚/身体の表皮を持つことになってしまった。蛇類、蝉族、蝶・蛾系ならありえる話ですが、ひとにも起こってしまった。そのメタボリックな〈自己内越境〉は、その人にとって、新しい巫女=新巫(しんぷ)の誕生を意味するのかもしれません。この〈変異/自己内越境〉を本人がどれだけ自覚しているかが、興味のあるところですが、どうも、その人、以前あった皮膚を経由して獲得していたコトバどもに齟齬と異和を感じている気配も。また、新たな皮膚=新巫になった身体に濃密に侵入してくる抒情的パロールと韻律にとまどいつつ、この数日を過ごしている気配も感受するのです。

祇園の初夏

2006年05月03日 10時06分25秒 | こうべ花気だより
       ┏            ┓                
              彷        
              徨        
              の         
              祇       
              園       
              の       
              果       
              て       
              の       
              鱧       
              は       
              じ       
         愛    め            
         由            
         等                           
      ┗             ┛ 

月曜日、映画鑑賞を終えて向かったのは、祇園です。学生時代に行った店がまだあることをインターネットで確認して、訪れたのです。そこで食べた「ハモテン」=鱧の天ぷらの味が忘れられず、約30年ぶりに行こうとしたのです。

祇園・花見小路といえば、神戸でいえば、三宮駅から北の生田新道を北に上がった中山手通一帯のようなちょっと高級感のある一品料理屋があつまる場所です。その中にあって、わたしが向かったのは、YSという店。学生でも行けるのですから、価格も高くなく、何度か通った覚えがあります。きっと花見小路という異世界の雰囲気を味わいたいという願望があったと思います。

わたしと三十年ぶりの再訪を付き合ってくれた人と、まず黒ビールで乾杯。続いてわたしが生ビールを呑み、盃と会話を交わします。二人とも、朝から多く食べていず、次々と料理を注文。アルコールは、日本酒に変わっています。そういえば、学生時代の日本酒のまずかったこと(醸造用アルコールがたっぷり入った日本酒ならぬ合成酒だった)。この記憶が日本酒をいまの年齢になってもひきずっているのです。ところが、この日本酒がおいしく、しかも、その人、銚子を持つ手がさまになっていて、その姿に惚れ、以後はずっと日本酒の二合徳利で通したのです。

美酒というのは、この日の日本酒のことを言うのでしょうか。不在のサイードを描いた思想系ドキュメンタリー映画を堪能した知的満足と、いまここで細く繊細な手でつがれる日本酒のコクを堪能している抒情性。祇園のEarly Summer はあえかに展開していきます。

母校の詩碑

2006年05月02日 09時54分12秒 | こうべ花気だより
昨日、サイードの映画を観る前に、母校のキャンパスに立ち寄りました。ちょうどゴールデンウィーク中で、授業そのものがないのでしょうか、いつも以上に閑散としています。

私が在学中は、すべてこの御所の北隣りにあるキャンパス群で授業が行われていたので、決して広くないキャンパスは、授業に真面目に出ている一回生、二回生で、溢れていました。

この大学は、重厚な明治時代のレンガで作られた北欧風の建物群が特徴です。残念ながら、この大学のランドマーク的存在であるアーモスト館は修復中ですっぽりと工事用の囲いに覆われ、見ることができません。キャンパスを通過してタクシーに乗ろうとした時、ここにこの大学に留学していた尹東柱の詩碑があることを思い出し引き返したのです。ハングルの詩を書いたという理由で逮捕され、獄中死した青年です。詩碑はおそらくわたしが卒業してから出来たので、在学中は知らなかったのですね。

詩碑の周囲は、ちょっとした広場になっていて、ここで詩の朗読など顕彰のイベントが出来るようになっています。本当は、今年の2月の命日に、この詩碑の前で、尹東柱の作品を朗読し、かつ彼の作品に曲を付けている在日韓国人のフォーク歌手(枚方在住)に歌ってもらおうと思っていたのたですが、バタバタとして、実現しませんでした。この会には、「尹東柱賞」という文学賞を設けている金里博氏にも参加してもらう予定です。

さて、その詩碑の前で、詩を書く女性に、日本語訳の作品を読んでもらいました。ゆっくりと噛みしめるような朗読。詩の持つ力を感じていました。

若くして、なくなった尹東柱。留学していたその同じキャンパスでわたしも学んだかと思うと感無量です。若者として、このキャンパスで無邪気に笑ったことも、友人たちと真剣に議論したこともあったでしょう。また、「学食」でむさぼり食べていたこともあったに違いありません。

そうした光景を思い浮かべながら、同行の詩人の人と、尹東柱を共感しあったのです(管理事務所に言えば、パンフレットをもらえます。時代は変わったものです)。

サイード Out of Place の訳

2006年05月01日 23時02分47秒 | こうべ花気だより
京都造形芸術大学で行われたエドワード・サイードのドキュメンタリー映画(佐藤真監督)の「Out of Place」を観に行きました。

サイード夫人を交えたシンポジウムから聞き始め、遺族や制作者の声をたっぷり聞いたあとに、映画を鑑賞したのです。

題名の「Out of Place」は、サイードが好んだ表現です。わたしは映画を見る前に、パネラーの話をききながら、このタイトルの邦訳を考えてみたくなったのです。

わたしが考えたのは「場所への異和」。いくぶん、島尾敏雄を想起しています。島尾は、横浜うまれの神戸育ち。奄美に20年間住み、他にも鹿児島、神奈川などに住んでいましたが、すべての場所に異和を感じ、短期滞在の地にえらんだ首里にこそ安堵を感受しながらも、どの場所に対しても居心地の悪さ、不在感を感じていた作家でした。

サイードもまた、パレスチナからシリア、エジプトへ、さらにアメリカに移り住み、レバノンにも避暑の家を持つなどしていたのです。彼の根底には流浪(ディアスポラ)感覚があり、あらゆる場所に対する齟齬感を持ち続けていたようです。そうしたことから、わたしは「場所への異和」という邦訳を思いついたのです。

わたしばかりでなく、隣りに座っている人にも邦訳を考えてもらいました。その人は、英文学科卒業の英明なひとです。彼女が考えたのが「〈場〉の内・外へ」と「外部への帰還」。これもまた面白い。映画を見終わった後に、われわれが考えた三つの邦題がいずれも包含されていたことに、驚いたのです。

この映画は、思想系ドキュメンタリー映画と呼ぶべきでしょう。サイードの死後に制作されたので、生身のサイードは出てきませんが、不在のサイードを描くことで、サイードとサイード的なるものを描くという見事な手法を使っています。そういえば、かつてわたしも大阪編集教室で、ルポタージュとはなにかという講義の中で、「これは、××ではありません」「これも、××ではありません」という不在を積み重ねることで、ルポタージュとは何かを生徒諸氏に考えてもらおうとする授業を行ったことがあります。

わたしと隣にいた女性にとって、おおいに刺激となる内容でした。

"みそか"の思い出

2006年04月30日 23時56分25秒 | こうべ花気だより
四月の末日である今日は、"みそか"(=各月の末日をこう呼ぶ)。

そうそうかつて、何年前だったか、幼かったわたし(弟)と姉の間でとある月の"みそか"の日にこんな会話を交わしたのを思い出しました。

姉◆「いやあ、Mさん、来(き)はったわ」
弟◇「え、来(き)はったん、いつもより早いんとちゃう」
姉◆「そうや、いっつも、つごもり(月の最後の10日間)過ぎて月開けて五日目ぐらいやのに」
弟◇「Mさん、ほんでも太陽暦やのうて太陰暦でものごと決めはる人やろ」
姉◆「あんた、よ~知ってるな、そうや。だいたい正確に来(き)はんのに」
弟◇「今日も大きな荷物、背たろうて来てはるわ」
姉◆「今月はどんな反物、持ってきはったんやろ」
弟◇「んでも、予定より早い今日来(く)んのは、グツ(=具合)悪いんやろ」
姉◆「いやあ、それがそうでもないらしいんよ。今月からMさんが来(き)はるのは、ええことで、言ってみたら、オンチョーやねんて。先月までは来(き)はっても、坊(ぼん)さんの月命日まいりみたいに「ああ、もうそんな日ぃかいな」ぐらいやったやろ」
弟◇「どういう意味か分からん。ほんでなに、オンチョー? あっ、わかった、ぼくつねづね思(おも)てんねんけども、Mさんて、鳥やと思うねん。鳥の顔に似てるやろ、ほらなんとかいう、そこいらをうるさ言いもって飛びまわっている鳥。"音鳥"て書くんやろ。なんかどっかの図鑑で見たで」
姉◆「あんたアホやなあ、オンチョーは"恩寵"と書くねん」
弟◇「ぼく、そんな難しい字習ろてへんもん。で、どういう意味なん?」
姉◆「大人になったら分かるて、言(ゆ)うてはったわ」
弟◇「ほんなら、おねえちゃん、分からへんやろ」
姉◆「いや、テンゴ言(い)いな、わかるしぃ」
弟◇「わかった、あのMさん、いっつも大きな風呂敷包み持ってきはるやろ。あれ、反物やのうて、羽根が入っているんとちがう。疲れたら、羽根つけて京都の呉服問屋に飛んで帰りはんのやわ。おとなは、そんなこと、こどもに言うたら、鳥から反物買ってるのばれるから、言(ゆ)わへんのやろ。ねえちゃん、そんなとこやろ」
姉◆「…うん…、…まあ…、そんなとこやろね」
弟◇「ほんなら、Mさんのいる座敷に行ってあの人は実は鳥やいうこと、確かめへん。面白(おもろ)いやん」
姉◆「あんた、ひとりで行(い)っとき」
弟◇「オンチョーの意味も知りたいんやろ。それに、今月はお茶菓子も上等なん出てるで。見にいこ、見にいこ」
姉◆「うん、もおー」
弟◇「はよはよ。弟として、おねえちゃんのレベルに合わせるのも大変なんやから」
姉◆「こら! 聞こえてるえ」
弟◇「痛(いっ)た~、本気でこつかんといてえな」


春を秘匿したのは

2006年04月28日 10時20分19秒 | こうべ花気だより
昨夜、JRに乗っていると、電車が止まります。先行の電車内に急病者が出たので停車しているとのこと。その時わたしが座っていた席が補助席だったので、安定に欠き、うつらと眠ることが出来ず、メールを打つことにしたのです。そして横を並行して走る貨物列車までもが徐行してついには停まってしまったので、車内の緊張感が走ります。ここ数年、JRに関する大惨事、事故が多いだけに、よからぬ想像もうまれます。

こういう時に、心許す人とメール交換できたらいいのですが、意中の人へ送信するものの、返事はなし。隣りに座る女性は、彼氏との通話らしく、正社員として転職したばかりの会社での給料明細をことこまかに話しています。聞くとはなしに具体的な金額を聞いて、経営者として参考にさせてもらいました。彼氏も派遣社員らしく「ワードとエクセルさえ出来たらどこでも通用するわよ」と世間一般常識を披瀝しています。

電車はまだ動きません。その間に考えたことは、この寒さはきっと誰かが秘匿しているのに違いないということです。つまりずっと「花冷え」という状態が続いていますね。きっと誰かが、すべての花たちに、春の暖気を回収・秘匿するよう命じているのだろうと想いはじめたのです。ひょっとして、花たちに「花冷え」を命じているのは、メール返信がこないその意中の人かもしれないと、つらつら考えていると「お待たせいたしました。いまから発車します」とのJR車掌のアナウンス。

いくつもの日本(北の大地篇07)

2006年04月09日 09時42分38秒 | こうべ花気だより
明日の天気が気がかりです。今日までは、天候はもつようですが、どうも花見を予定している明日は、何年ぶりかの雨にたたられそうです。「残念会」とするのか、一週間ずらすのか、迷っています。まろうど社の花見会は、八重桜の下でするので、ずれてもいいのですが。

一月の奄美は、緋寒桜の満開でした。ところが、ソメイヨシノの開花は以外と遅く五月になるというのです。これは読売新聞を読んでいて知ったのですが、ソメイヨシノが開花するのには、冬の間のある程度の寒さ必要で、奄美は暖かいために、開花が遅れるとか。

さきほど訪れた札幌でも、ソメイヨシノの開花はゴールデンウィーク後半の5月6日前後であるらしいのです。とすれば、奇しくも、南と北で、開花は、ほぼ同時であるということです。桜の標準木開花に表象される日本の春到来の標準指標が、ともに本土中央の4月とは大きくずれるということになります。

本土中央で、ソメイヨシノが開花すれば、日本全土に春が到来したとステロタイプな発想をしがちですが、この国の南北の距離を考えると、"いくつもの日本"という表現が正確なようです。

先住民の謡〈うた〉(北の大地篇06)

2006年04月08日 13時08分14秒 | こうべ花気だより
人口180万人の札幌に二日間滞在して、感受していたことは、「開拓」される前の北の大地のありようであり、聞こえてきたのは、先住民アイヌ・モシリの神謡なのでした。

--銀の滴降る降るまはりに
 金の滴降る降るまはりに
(知里幸恵著『アイヌ神謡集』大正12年刊)

梟の神が唱いながら舞った大地は、すでに姿を変え、和人たちの"フロンティア精神"が発揮される対象に。神鳥である梟族のひとつ・コノハズクも、希少種になり、大地にとよむウタも、もはや響かないのです。

神鳥たちは、失われた森を求めて永遠(とわ)の彷徨に出たのでしょうか。


書を見る(北の大地篇05)

2006年04月07日 13時24分01秒 | こうべ花気だより
今回の旅呈で、本屋めぐりは時間的に組めないので、北海道大学書籍生協へ。

最初、例によって人文関係の棚をながめます。哲学・評論パートは、どこに住んでいても必要なプリミティブな書籍が充実しています。

北海道には、西川徹郎氏という面白い俳人がいるのですが、地元の文学者の本は少なく、北海道の郷土関係コーナーが揃っているので、釘づけになります。

北海道の自然やアイヌに関する文献が充実しています。

そして、残念ながら、まろうど社の本はありませんでしたが、私が執筆した論考が掲載された『複数の沖縄』は並んでいたのです。

海峡を渡る蝶(北の大地篇04)

2006年04月06日 18時07分06秒 | こうべ花気だより
四月だというのに、新たに降り積もった雪がある。昼の気温は3度。こうした環境に生きる蝶がいるのは、南からやってきた者にとっては驚きです。

ヒトでさえ、この地の寒さを耐え忍ぶのは並大抵ではないのです。

韃靼海峡を渡った蝶を知りたくて、または嫉妬して、『サハリンの蝶』という原色図鑑をミュージアムショップで買い求めました。

訪れた札幌の林は、倒木は倒木のままにしています。

湿地の魔女(北の大地篇02)

2006年04月06日 11時55分55秒 | こうべ花気だより
桜咲き誇る神戸から、着いた地に伝わる民話に、鳥に関するものがあります。

祖母につれられた孫が、湿地の魔女(ニタツウナルベ)にさらわれ、一度は逃げおおせたものの、「母(ハボ)ちゃん、お乳(トット)、お婆ちゃん、お乳(トット)」と叫ぶうちに、鳥にされてしまったのです。

そこで孫は夜だけ「ハポトット、フチトット」と夢の中で告げるようになったとか……




うつつとしても

2006年04月05日 11時02分34秒 | こうべ花気だより
「もうルージュをひいたから、キスはダメよ」
「いやお別れのキスは髪にするから」

現(うつつ)のことでしょうか。だとすれば、いつだったのでしょう。それとも神鳥たちが、わたしに見させた夢なのでしょうか。

あの行方不明になっていた神鳥を捜すときに、ふと口誦した短歌があったのを、報(しら)せていませんでしたね。

・わが撃ちし鳥は拾わで帰るなりもはや飛ばざるものは妬まぬ 寺山修司

鳥は空かける身であるゆえに、嫉妬の対象となるも、飛ばなくなれば……そして、私がクイナ族なら、詩はたむけられのるのでしょうか。