本日『Melange』読書会・合評会が行われました。
ゲストは、京都在住の詩人・河津聖恵さん。
いつもと違って構成を変えました。
第1部に〈詩の合評会〉をして、第二部として、河津さんの詩作品に対する意見交換をしたのです。
富哲世氏が提示した河津さんの作品世界は、〈"わたし"から"わたしたち"〉へ変移していくことを挙げます。そしてそうした分析をうけて、わたしは河津さんの詩世界は「〈世界〉にとどまる抒情詩人」ではないかと言います。この〈世界〉とは、ドイツ文学を専攻した河津さんの知的履歴に基づいて理解しようとするなら、ハイデッカーの〈世界-内-存在〉の概念の中の〈世界〉が想起されます。
また、河津さんにとって〈見る〉という行為が、世界を創造していこうとした荒地派的な〈見る〉でもなく、ミシェル・フーコーが、エピステーメーという共時的世界の根底を流れる時代知を特権的に獲得する〈見る〉という行為でもないことが確認できたのです。
〈"わたし"から"わたしたち"へ〉については、わたしはこう語ります。「俳句作家にとっては、ベクトルが逆になると思います。つまり最初から"わたしたち"という共同主観が俳句の書き手であり、その共同体からいかに"わたし"を奪還していくか、であるといえます。だから詩の世界で〈"わたし"から"わたしたち"へ〉へ変移していくのは、この日本的抒情の表現世界ではどうしても、共同主観に作者を措定していく〈非・自己〉への作品傾向に流れる危険性があるのではないでしょうすか」と語ったのです。
ゲストは、京都在住の詩人・河津聖恵さん。
いつもと違って構成を変えました。
第1部に〈詩の合評会〉をして、第二部として、河津さんの詩作品に対する意見交換をしたのです。
富哲世氏が提示した河津さんの作品世界は、〈"わたし"から"わたしたち"〉へ変移していくことを挙げます。そしてそうした分析をうけて、わたしは河津さんの詩世界は「〈世界〉にとどまる抒情詩人」ではないかと言います。この〈世界〉とは、ドイツ文学を専攻した河津さんの知的履歴に基づいて理解しようとするなら、ハイデッカーの〈世界-内-存在〉の概念の中の〈世界〉が想起されます。
また、河津さんにとって〈見る〉という行為が、世界を創造していこうとした荒地派的な〈見る〉でもなく、ミシェル・フーコーが、エピステーメーという共時的世界の根底を流れる時代知を特権的に獲得する〈見る〉という行為でもないことが確認できたのです。
〈"わたし"から"わたしたち"へ〉については、わたしはこう語ります。「俳句作家にとっては、ベクトルが逆になると思います。つまり最初から"わたしたち"という共同主観が俳句の書き手であり、その共同体からいかに"わたし"を奪還していくか、であるといえます。だから詩の世界で〈"わたし"から"わたしたち"へ〉へ変移していくのは、この日本的抒情の表現世界ではどうしても、共同主観に作者を措定していく〈非・自己〉への作品傾向に流れる危険性があるのではないでしょうすか」と語ったのです。