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神戸まろうど通信

出版社・まろうど社主/詩と俳句を書く/FMわぃわぃのDJ/大阪編集教室講師など多様な顔を持つ大橋愛由等の覚え書き

『Melange』読書会に河津聖恵さん

2006年03月26日 23時26分11秒 | 文学
本日『Melange』読書会・合評会が行われました。
ゲストは、京都在住の詩人・河津聖恵さん。

いつもと違って構成を変えました。
第1部に〈詩の合評会〉をして、第二部として、河津さんの詩作品に対する意見交換をしたのです。

富哲世氏が提示した河津さんの作品世界は、〈"わたし"から"わたしたち"〉へ変移していくことを挙げます。そしてそうした分析をうけて、わたしは河津さんの詩世界は「〈世界〉にとどまる抒情詩人」ではないかと言います。この〈世界〉とは、ドイツ文学を専攻した河津さんの知的履歴に基づいて理解しようとするなら、ハイデッカーの〈世界-内-存在〉の概念の中の〈世界〉が想起されます。

また、河津さんにとって〈見る〉という行為が、世界を創造していこうとした荒地派的な〈見る〉でもなく、ミシェル・フーコーが、エピステーメーという共時的世界の根底を流れる時代知を特権的に獲得する〈見る〉という行為でもないことが確認できたのです。


〈"わたし"から"わたしたち"へ〉については、わたしはこう語ります。「俳句作家にとっては、ベクトルが逆になると思います。つまり最初から"わたしたち"という共同主観が俳句の書き手であり、その共同体からいかに"わたし"を奪還していくか、であるといえます。だから詩の世界で〈"わたし"から"わたしたち"へ〉へ変移していくのは、この日本的抒情の表現世界ではどうしても、共同主観に作者を措定していく〈非・自己〉への作品傾向に流れる危険性があるのではないでしょうすか」と語ったのです。

第10回『Melange』読書会のお知らせ

2006年03月14日 09時36分57秒 | 文学
第10回『Melange』読書会&詩の合評会のお知らをしましょう。

今回は、富哲世氏の挨拶文から口火をきらせていただきます。

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めらんじゅ同人ならびに詩友のみなさんへ   --富哲世
 
昨年2005年3月より始めた「めらんじゅ読書会」は仮称は仮称のまま一年間、毎月の
実作の合評とともに、主として近代から戦後にわたる道標的な詩論、芸術論のいくつ
かを取り上げてきました。本年からは昨年の意図の継続に加えて、書くこと、の 今、
をより明確にしていくために、積極的にゲストを招いて話しをうかがうことにしまし
た。

その初回のゲストとして、第53回(2002年)H氏賞受賞者であり、先に思潮社現代詩
文庫からシリーズを出されたばかりの詩人・河津聖恵さんをお招きします。

「<みる>というのは、行為ではなく、現象」であり「もっとも本質的な気象」である
と書き付ける詩人の、その詩の、視ることの内的な動線のうちに、個の内部に生起す
る律動の豊かさ、謂わばわたしたちの内なる「空き地」の広さに気づかされ、気づき
を認識へともたらすばねの強さ、聡明さをも感受させられるのですが、その新しい詩
の脈絡に間近にふれてみたいと思っています。楽しみにみなさん奮ってご参加くださ
い。

テキストは思潮社現代詩文庫No.183「河津聖恵詩集」とします。時間の足りない方は
自分の関心の分野あたりを集中的に読んでみてください(2004年思潮社刊「青の太陽」
もおさえておかれればよりよいかも、文庫に抄出あり。なお現代詩手帖3月号に最新
詩が3編のっています。追ってPCにアップするか、当日資料として配布いたします
。)

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◆日時=3月26日(日)午後0時30分から第一部。午後2時30分から第2部。
◆会場=神戸・三宮のスペイン料理カルメンで行います。
(カルメンの場所は以下のサイトを参照してください。阪急三宮駅西口の北へ徒歩2分
の場所にあります。 http://www.warp.or.jp/~maroad/carmen/ )。

◆第1部=今回は、詩の合評会が第一部となります。そして時間も、昼の12時30分から
といつもより30分早めに初めます。ご注意ください。第一部の開催は12時30分~14
時30分の2時間を予定しています。

◆第2部=ゲストの河津聖恵さんのお話を聞きながら、また、何人かの参加者による
河津作品の朗読をまじえて、ひとときを過ごしたいと思っています。

◆締め切り=第1部の詩稿締め切りは、23日(木)締め切りです。送稿された作品は25
日(土)朝に、みなさんあてにメール発信します。

今月は、この読書会・合評会が発足してちょうど一年目の記念すべき会合です。みな
さん、ふるって参加してください。そして、みなさん、思潮社現代詩文庫No.183「河
津聖恵詩集」と「現代詩手帖03月号」をご覧になっていてくださいね。
                            --大橋愛由等

セレクション柳人 発行記念会

2006年03月11日 14時54分06秒 | 文学
川柳というジャンルでこれほど、まとまった本格的な叢書はみたことがありません。

「セレクション柳人」という現代川柳作家の作品叢書についての合評会に参加しました(二部は川柳の句会があったが、わたしは所用があり欠席)。この会については、また別の日に詳しく書くことにしましょう。

司会をしているのが小池正博氏(写真左)です。
川柳という文学ジャンルの新しい傾向がここ関西・大阪から生まれでてくるのは、面白い傾向です。そして関西には、質の高い川柳作家が多く住んでいることも驚きの対象です。俳句と同じ五七五の字数を持つ詩型です。その"お隣りさん"の集団に、優秀な人たちがわたしの周辺に多いのも嬉しい限りです。

そうそう、まろうど社で、小池正博氏の「川柳/連句評論集」をいずれ刊行する予定です。これも楽しみです。

それにしても、川柳という文学は、俳句のように〈有季〉VS〈無季容認〉、〈定型〉VS〈定型にこだわらず〉といった明確な対立構図はないのですね。でもやはり、他ジャンルから見えてこない壁はあるのでしょうか。

城崎温泉へ向かう詩人二人

2006年03月04日 16時51分18秒 | 文学
「いまから城崎温泉に向かいます」と冬の旅装で身を包んでいるのは、詩誌『Melange』同人の日出山陽子さん(写真左)と、福田知子さん(右、同誌発行人)。

せっかく但馬(兵庫県北部)に行くのですから、二人に薦めたのは、一遍の故地である「美含(みくみ)」という場所(現在のどこにあたるかは勉強不足で知らないのですが)。栗田勇著『一遍上人--旅の思索者』(新潮社)によると、一遍は、「美含」という場所に到着して、海岸から一町(約109メートル)ほどの所に道場をつくり、行道をはじめようとすると、沖の方で、雷鳴とともに浪が荒々しく押し寄せ、潮が満ちて、念仏踊りをしている人々の腰のあたりまで潮にひたります。

一遍はこれを「竜王が結縁に来たのだから」と言って、そのまま濡れて行道をしたとのこと。但馬の前に訪れた丹後・久美の浜でも、念仏をしていると、波の間から竜が出てくるのを見たばかりです。こうして一遍たちの一行にとって、但馬・丹後の道すがらは、竜王と出会う場所として祝福されているのです。

竜王とは、仏教でいえば、女性が成仏する前の化身であり(女性はそのままでは成仏できないとされ、一度、竜王になってから成仏できると考えられていた)、かつ女性と女性原理の表象化された姿であるのです。そうした時代背景があるなか、一遍は「浄不浄をえらばず」と唱え、時宗集団に、女性や、社会の底辺に生きた者にも結縁(=教義への帰依、集団への参加)の機会を与えるなど、革新的な教義を持っていたことと、おおいに連関してくるのです。

さて、詩人のお二人、但馬をどのように感受するのでしょうか。 

詩を書く

2006年02月24日 21時14分44秒 | 文学
『Melange』読書会は、毎回その二部として、詩の合評会をしています。

この会は、わたしが進行役兼事務局を務めているので、合評会用に作品を出すことが当然のこととなっています。

ですから、去年からよく詩を書いてします。朗読用作品を併せると、これまでの人生の中で一番多く書いているでしょう。

わたしはもともと「断念の詩型」たる俳句の作家なのですが、現代詩というのは、内在律はあるものの、俳句のような〈詩型の規範性〉に縛られることはない自由さが魅力です。いまは、その自在の世界を楽しんでいるといっては、詩人諸氏に怒られるでしょうか。



石原吉郎を読む

2006年02月23日 23時40分15秒 | 文学
2月26日(日)に行われる第9回『Melange』読書会の発表者はわたし。テーマは「石原吉郎 沈黙は失語を濾過する」としました。

これはわたしが海風社次代に、編集担当した機縁で、詩人の清水昶氏を経由して知った石原吉郎の詩作品を、戦後60年たったいま読み直してみようとするものです。

石原の壮絶なラーゲリ体験と詩作品読んでいると、「戦後」という時代を型作った原基のひとつである戦争体験がいかに強烈であったかを知るのです。

戦争から60年たったメルクマールの年だからこそ、蘇る/再生産される"記憶"があるのかもしれません。阪神大震災の時もそうでしたが、"記憶"というのは、平時には忘却されていても、メルクマール的な時・情況において、ひとびとの心に、間欠泉的に"来訪"し、あるいは"襲来"するのかもしれません。



今年初めての『Melange』読書会

2006年01月22日 22時39分08秒 | 文学
詩誌『Melange』の今年初めての読書会&詩の合評会を行いました。

発表者は富哲世氏。天沢退二郎についてです。

二部の合評会では、珍しく高谷和幸氏が作品参加なしでした。もうすぐ思潮社から詩集が刊行されるので、どうしても達成感に満たされて、新たな作品が書けないのかもしれません。

来月の発表者はわたしです。石原吉郎について語ります。
かつて、海風社時代、清水昶氏の石原吉郎論を編集担当したことがあることから、この詩人との接触が始まったのです。


年末のラジオと詩人の家での宴

2005年12月30日 23時08分41秒 | 文学
私が企画して番組をすすめたFMわぃわぃ年末特別番組「2005年ながた人物交差点」の放送は、正午から2時間番組でした。全く違ったジャンルの人たちが集まった番組でしたが、〈音のことば〉はジャンルを超えて共通していることを感じた内容でした。

例えば、フラメンコの中のギターラの役割は、単にギターを担当しているばかりではなく、バイレ(踊り手)の調子や、演技内容までチェックするという舞台監督の役割も果たしているのです。これは、沖永良部島のジューテも同じで、ひとつサンシルを弾くだけでなく、琉舞の舞台を統括する役割も兼ねているのです。この西の果てと東の果ての意外な共通点を見いだすことができたのも、ひとつの収穫でした。

また、もうひとつは、〈民族に継承された物語〉について考えたことです。琵琶・川村旭芳さんとと能管の野中久美子さんの〈伽羅ユニット〉が演奏した源義経の夫人である静御前が鎌倉で、源頼朝の前で舞った時に朗じた歌詞の一部に、頼朝が激怒し、それを北条政子がなだめるという源平物語の見せ場のひとつが再現されたのですが、詳しくその場のやりとりを知っていなくても、演ずる者と聞く者とが一体となって、歴史と悲劇の記憶を呼び覚まし、共感の磁場を現出させているのです。これは奄美・沖縄の島唄も一緒で、うたの中には物語性に富むものが多く、例えば、「カンティメ節」では、その悲恋物語の背後に、近世の家人(やんちゅ)という債務奴隷を生み出したきびしい社会情勢があることを想起すること、つまり〈民族の記憶〉を呼び覚ます役割を果たしているのです。 

番組終了後、詩人の寺岡良信さんと、うたうたいの山内由紀子さんと連れだって、神戸市垂水区滝の茶屋へ。詩人・富哲世氏とオブジェ作家・御着かおりさんの新居祝いに参加しました。この日参集したのは、わたしが属する詩誌『Melange』同人たち。ほかに、姫路から大西隆志氏、高砂の曾根教会・元正章牧師も集合。岡山に住むナチュラリストのデン氏も、参加して自然の興味深い話をしてくれます。

この日のために作ってくれた料理や、もちよった酒などで宴はもりあがり、わたしは塩屋の駅前にある魚屋でしつらえてもらったマグロの刺身を持参したのです。

この日、わたしに対してリクエストがあり、今年のロルカ詩祭で朗読した詩「おまえは何を切ったのか--ロルカ「枯れたオレンジの木の歌」の変奏曲(バリアシオン)」をを再演したのです。8月の時は、二人の女性詩人にコロス役になってもらい仮面を被ってもらったのです。そして伴奏は、山内由紀子さんの奄美絃の三線でした。ただし、今回は、コロス役の一人がどうしても忙しくてこれないので、私が仮面をかぶって登場。電気を落として朗読したのです。

考えてみると今年は、1.17の朗読から始まって、8月のロルカ詩祭、そして12月のさの再演と、詩の朗読であけくれた一年でした。

詩朗読から詩劇へ

2005年12月28日 00時44分11秒 | 文学
今年は詩の朗読の魅力につかれた一年でした。

毎年8月18日前後に、スペインの国民的詩人・ガルシアロルカの文学的偉業を讃えて、「ロルカ詩祭」という文学イベントを神戸で催しています。

これはロルカ生誕100周年にあたる1998年から始めたもので、わたしも毎年朗読に参加しています。二部で構成していて、一部はロルカの詩作品の朗読、二部はロルカ的世界に身を委ねた自作詩の朗読に分かれているのです。わたしは詩人ではないのでもっぱら一部のロルカ作品の朗読に徹していたのですが、5回も6回も朗読し続けると、読みたい作品もなくなり、かつ二部の詩人たちの自作詩を朗読する姿への憧憬もあって、去年からロルカの作品そのものを読むことはやめにして、ロルカの詩を引用しつつ、その変奏曲という形式の詩作品を作って朗読するようになったのです。

そしてその勢いに乗って、今年一月には、阪神大震災から10年後のイベントに、三線を伴奏楽器にした朗読詩「あの街に還る」を作って披露したのです。

今年のロルカ詩祭での作品は、コロス役の女性二人、三線と私という、詩の朗読ではなく"詩劇"と呼ぶ方がいいかもしれない内容です。

ここしばらくは、詩劇性を全面に出した作品を展開していこうと思っているのです。

冬に出現する"岩海苔さま"

2005年12月11日 11時01分14秒 | 文学
仮に"岩海苔さま"と名付けておきましょう。
わたしが利用する駅は、六甲颪(おろし)が吹き抜けるため、寒いのです。
このためプラットフォームで待つのを躊躇する人がいます。その人たちは、プラットフォームにあがるまでの階段(屋根つき)で、寒さを避けているのです。

その人たちがまるで、磯でよく見かける岩海苔のように見えるのです(壁にぴったりとへばりついているんですもの)。

この"岩海苔さま"、意外と若い人が多いんだすよね。

えっ、わたし?
わたしは無理してプラットフォームで待っています。寒風にさらされても待っているのです。まだ"岩海苔さま"にはなりたくない。

菅谷規矩雄を読む

2005年11月15日 08時35分59秒 | 文学
11月15日(火)

第七回詩誌『Melange』読書会&詩の合評会を20日(日)に、神戸市内で行います。

第一部の読書会は、俳人の野口裕さんが発表者。内容は「菅谷規矩雄「〈指示性の根源〉について」(『詩的リズム』二)について」についてです。

これは、「現代詩手帖特集版--戦後60年〈詩と批評〉総展望」思潮社に収録されているもので、読書会ではしばらくこの特集をテキストにする予定です。

また、第二部の詩の合評会は、メールで提出してもらった作品をあらかじめ読み回してもらい、それを当日に合評するというものです。毎月、詩を書くという行為は、緊張を強いることですが、詩を書き始めた人、詩を書き続けたいという人には、格好の修練の場となるのです。かくいう私も、今年のように、毎月一篇の詩を書き続けたのは初めての経験です。句会は半年ほど参加しなかった分、詩は書き続けました。

俳句は、定型という縛りがあって、その縛りの中で苦悶するわけですが、縛りの中で作句するという快楽もあるのです。ところが、俳句は「断念の詩型」であるために、つねに俳人には、冗長、冗漫に詩語をあやつりたいとの願望が地下マグマのようにたまっていくのです。

また、私も少しずつ克服しつつあると思っていますが、俳句を書き続ける人が、詩を書くときの困難に「改行の恐れ」があります。どこでどういう風に改行したらいいのか分からず躊躇してしまう。これは俳句が短く一行詩であるからで、詩人たちにとっては、内発的必然性である改行も、深く悩む対象となるのです。私も、このアポリアを克服しているとはいえないために、散文詩の形態が多くなるのです。

ついでに言うと、私の俳句は、句会でもごく限られた「読者」に支持されるタイプです。いわゆる句会の流れを読み、参加者の傾向を察して出句した作品が高得点を取るといった器用さはないのです。また、そうした作品を時に作りますが、自分でも満足できないし、点も入りません。1999年から「北の句会」に参加してきましたが、私の句に点を入れる人がだいたい決まってきているのです。このまま、少数の読者に支えられて作句を続けていくと思います。 

第6回『Melange』読書会・合評会

2005年10月16日 21時54分16秒 | 文学
10月16日(日)

今日は第6回『Melange』読書会・詩の合評会を催しました。

第一部の発表者は、詩人の富岡和秀氏です。以下は、富岡氏の発表を聴いて思ったことです。

ボルヘスについて、私は熱心な読者ではありませんが、1970年代に大学時代を過ごした私にとっては、ボルヘス的な思考様式をたっぷりと吸収して育った世代にあたります。それは、ボルヘスが図書館の書籍群から得た知の博物学的な展開によって、知の前では、世界は均等の価値を生み出すのだという思考様式を学んだ、ということになります。

1960年代から1970年代にかけては、レビィストロースが文化人類学の手法で西洋社会から未開といわれた辺境の家族構成を調べることで、人類共通の規範を紡ぎだしたように、いかなる場所の情報/知であっても、普遍性を獲得しうるのだということをボルヘスに教えてもらったのです。そこで取り上げられた東洋のわれわれが見知った情報に接することで、東洋を取り上げるボルヘスに対して親和性を感得するとともに、自分の中の東洋を発見したものです。

それは例えば西洋的な知に対する反措定としてとりあげた"螺旋"という形状にも現されているでしょう。西洋における時間の流れは、トマス・アキナス的な不可逆性によって貫かれているのですが、それを螺旋という西洋社会にとって、プレ・キリスト教=異教的、他者的な図表を持ち出すことで、反・知のありようを提議しているのです。



そして詩の合評会で、私が提出した散文詩です。

◆明るい迷宮
                 大橋愛由等

沖で過積船が沈んでいく。坂の街の迷宮は不思議だ。迷えば坂を上り坂を下ればいい。わたしはその大門が開くのを待っていた。二四人の神官が順に大あくびをする。「老羊についていきなさい」。降ってきた雨はひゅんひゅんという音。真女子(まなこ)と出逢うには碧色が足りない。六つの羽根を持ち身体中に眼(まなこ)があるムシが次に来るまで待てとの黙示に従っている。本当は何度かその門の中に入ったことがある。迷宮は快楽だが塩味の強い苦水(にがみず)しかない。規則正しく並んだ回廊で休んでいたら、そのムシがハタハタと死んでいく。忘れ物を思い出して門の外を出たら、ぐいんという音をたてて大門は閉じてしまった。いつか、果てまで行って還ってきたという僧にあったら「ぐいんが大切なことがわかった」と言っていた。わたしは迷宮の住人になれるだろうか。ヴィノ・ティントが呑めないかもしれない不安を、ぼんやりと近くの枯山水の庭をみながら、「一即多」を考えている。過積船は沈みきってしまった。ロシア語が聞こえたような気がする。「あんたの顔はイワン雷帝に似ている」と言ったオーボエ吹きは迷宮を知っているのだろうか。二四人の神官たちが同時にしゃべり出した。ムシの身体の眼(まなこ)の数の記憶の曖昧さの欠落の語りの文法の誤りをののしりあっている。老羊はゆっくり坂を昇り始めた。ぶつぶつとサンスクリット語の〈馬(アシュバ)〉の語形変化を反復しながらついていく。このまま坂を歩き続けるのだろうか。カーサ・ブランカに荷物を置いたままにしている。一九九四年産リオハのヴィノ・ティントを何本持っていけるだろう。ポリョ・アル・チリンドロンは食べることが出来るだろうか。老羊は停まっているのか動いているのかわからない。



   *真女子〈上田秋成著『雨月物語』の「蛇性の淫」の"ヒロイン"。激しく雨が
   降ってこの世とあの世との結界が溶解した日の夜に出会える〉
   *六つの羽根を持ち身体中に眼がある…/二四人の神官〈『ヨハネの黙示録』
   より。ハルマゲドンに至るディテールに登場する〉

テーマは〈ボルヘスと迷宮〉

2005年10月10日 22時22分07秒 | 文学
10月10日(月)

詩誌『Melange』の第6回読書会と詩の合評会が16日(日)に行われます。

第一部の発表者は、詩人の富岡和秀氏。テーマは「ボルヘスと迷宮」です。

発表資料は以下のサイト(あるいは下の「ボルヘスと迷宮」をクリックしてください)に貼り付けていますので、ごらんになってください。

http://melange.hp.infoseek.co.jp/Melange.tomioka.htm
ボルヘスと迷宮

第二部の詩の合評会に参加したい人は13日までに提出していただいたら、事前に出席予定者にメールでお知らせします。投稿していただいた詩稿は、当日出席欠席にかかわらず一冊の小詩集に仕立てます。

第一部、第二部ともだれでも参加できます。出席希望者は申し出てください。

こんな日の雨宿りは

2005年10月05日 18時45分12秒 | 文学
10月5日(水)

昼から断続的に降りだした雨。夜になってもやむ気配はありません。

雨だけでなく、全体に靄(もや)がかかっているような(まさに"もやっ"とした感じ)。

こんな夜は、雨と靄でモノの境界があいまいになるだけでなく、この世とあの世との境界さえも、溶解してしまいそうです。

つまり、境界が溶解すると、決界が甘くなり、異界の住人が越境してくる。上田秋成作「蛇性の淫」に登場するイケメン男が、雨宿りのために立ち寄った家で白蛇の化身女〈真女子(まなご)〉に出会ったのも、今晩のような決界が溶解した日だったのでしょう。

読書会&合評会

2005年09月18日 22時44分04秒 | 文学
9月18日(日)

5回目となる『Melange』読書会・詩の合評会が開かれました。

読書会のテーマは「ミニマル・アート」について。発表者は、詩人の高谷和幸氏。『Melange』同人です。

まず、最初に高谷さんがミニマル・アートに触発されて書いた詩作品を紹介することにしましょう。

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◆ストライプ・ノート  高谷和幸

*赤い大きな三角形と/自転車はどちらが大きいですか

青い小さな三角形と/自転車はどちらが大きいですか

黄色い中ぐらいの三角形と/自転車はどちらが大きいですか


*赤い点線の自転車と/赤い自転車はどちらが大きいですか

赤い点線の自転車と/赤い自転車はどちらが早いですか

赤い点線の自転車と/赤い自転車はどちらが重いですか

赤い点線の自転車と/赤い自転車は同じです

赤い自転車が壊れたら/自転車のかけらになるが
赤い点線の自転車が壊れたら/赤い点になります
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ミニマム・アートというのは、「最小限度の作家の個性、作品に関する最小限度の情報によって特徴づけられるこれらの作品は、最小限度の芸術、ミニマルアートと総称された」と高谷さん持参の資料に書かれています。つまり、"私性"を極限まで削除することによって創造していこうとする態度と作品群だと言い得るでしょう。この芸術傾向が登場したのは、1950年代後半のアメリカ。パクス・アメリカーナ(アメリカの繁栄)が現実のものとなって、社会や日常生活に過剰な商品や記号が満ちあふれるようになった時に登場した、いわば時代の"鬼っ子"的な反証事象でしょうか。

繁栄と前進という社会の隅から隅まで、"意味"に満ちあふれた時代のなかで、あえて登場した反-意味の芸術活動なのですね。高谷氏は、ミニマム・アートを語る際に重要な基本的テキストになっているマイケル・フリードの論考「芸術と客体性」をもとに紹介していきます。

これに対して読書会に参加した富哲世氏は、この論考が現代思想の中でどのように位置づけられているかに注目したいと発言。現象学で提唱された〈間主観性〉の概念を紹介して、このミニマム・アートを理解する手だてを指摘したのです。

これは、私にとっても、面白い指摘でした。つまり、この読書会に出席した「ミニマル・アーティスト」あるいは「脱ミニマル・アートの担い手」と評論家たちに評されている大野浩志氏の作品を見ていると、作品そのものの自律的な意味を問うことも充分可能ですが、単色に塗りつぶされた作品を見ていると、その作品が関係する世界(周囲、環境、作品が置かれた部屋・建物、それを観ている人々の息づかい、そして観客の存在さえも含めて)そのもの"作品"と見なすことが出来るとするなら、作品という個を越えた〈間主観性〉の状態の顕現として考えることも可能なのです。

そうした作品情況を創出させたのは、むしろ、極限までに"私性"や"意味性"を排除しようとしたミニマル・アートの傾向ゆえでしょう。単色に塗るという行為の連続はどこか、自分をモノ化しているようにも思えます。反-意味を目指して、作家がモノになりきる。その作品が他者にさらされた時に、単体としてではなく、関係性の中で〈意味〉を獲得していく、と言ったらいいのでしょうか。冒頭の高谷さんの詩作品は、ミニマル・アートの概念に触発されて書いたもので、最小限度の単語と意味に絞り込み、それを反復性という装置に委ねることで、「反-意味の意味」を創出している面白い作品です。