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神戸まろうど通信

出版社・まろうど社主/詩と俳句を書く/FMわぃわぃのDJ/大阪編集教室講師など多様な顔を持つ大橋愛由等の覚え書き

準備

2005年09月17日 22時57分00秒 | 文学
9月17日(土)

明日の『Melange』読書会と詩の合評会の準備をします。

今朝、参加予定者へ、詩稿をまとめて送るつもりがなかなかうまくいきません。

ワードのテキストファイルをメールに添付するのですが、そのファイルを開けることが出来ない人もいて、ホームページに張り付けて、そのサイトを見てもらうことにしました。

ところが今度は、携帯からそのサイトを見ようとして果たせない人も出てくる始末。

ネット社会は、仕様が統一されているようで、実際は、多様。目に見えぬOSやアプリケーションの障壁がたちはだかっているのです。


詩の合評会

2005年09月15日 15時10分30秒 | 文学
9月15日(木)

昨日、紹介した『Melange』読書会は、第2部として、詩の合評会をしています。

あらかじめ事務局を担当する私のもとに、詩稿をメールで送ってもらい、それをまとめて参加予定者にフィードバックして、事前に読んでもらうことにします。
当日はそれを小詩集に仕立て、これをもとに、合評をすすめていくのです。

そうして一回ずつ小詩集が出来上がっていきます。『Melange』のもうひとつの文学行為です。 

詩の同人誌は、一年にそうたびたび発行することがないので、毎月このように、同人が顔を合わせることによって、同人という文学共同体のむすぼれを確認する効果もあるのです。

また投稿者にとっても、毎月自分の作品が評にさらされることで、自分の文学営為(作品内容、言葉・詩句の選択について)の座評点を知ることになるでしょう。



『Melange』読書会

2005年09月14日 18時28分20秒 | 文学
9月14日(水)

私は俳句作家ですが、詩誌『Melange(メランジュ)』の同人でもあります。現在、同誌の編集人を担当しています。

編集者の仕事柄、詩人との付き合いが厚かったのです。サラリーマン編集者として働いていた海風社の社主は、詩人の作井満氏でした。彼の縁によって、多くの詩人たちと交誼を持つようになったのです。特に、大学の先輩にあたる清水昶、佐々木幹郎、正津勉、季村敏夫氏らと接すると、生業(なりわい)としての詩人というものはかくあるものだということを識りましたし、川満信一、高良勉、藤井令一氏といった琉球弧の詩人たちの、詩業に収まらぬ文学/思想の領域までいたる言説の展開のありようと、そのパースペクティブの広さには、深く影響されています。

詩誌『Melange(メランジュ)』については、改めて書く機会を設けますが、この同人を中心に、今年3月から、読書会をしています。(8月は「ロルカ詩祭」があったので休会)。これは同人の富哲世氏の詩論の読みの深さに感応して、なんとか同人と誌友のみなさんと共にその読みの内容を共有してもらおうと始めたのです。 

今月は18日(日)に開催。発表者は、高谷和幸さん。テーマは「ミニアル・アート」についてです。初めての芸術論で期待しています。

この『Melange(メランジュ)』の同人たちは、神戸のモダニズム詩の傾向を継ぐ人たちと、他からは目されているのですが、本人たちは、自分たちに向けられたこの形容については、関心がないようです。


詩性ゆたかな川柳

2005年09月10日 09時36分28秒 | 文学
9月10日(土)

今日は定型詩について語ります。
まずは、以下の作品ふたつをを読んでみてください。

              
       ┏                   ┓                             
              矢       あ
              印       い
              の       ま
              と       い
              お       で
              り       い
              進       い
              ん       と
              で       豆
              兵       腐
              に       は
              な       思
         石    る       っ
         田            て
         柊            い
         馬            る
      ┗                   ┛ 


これは、私が尊敬する京都在住の川柳人・石田柊馬氏の作品です。今年、「セレクション川柳」(邑書林/四六並製)というシリーズが刊行されるようになり、いままで、「石田柊馬」「樋口由紀子」「小池正博」集が刊行されています。この三方はいずれも、「北の句会」(会の発起人は堀本吟氏)に参加されている人たちです。

この人たちの川柳作品に接すると、いかに私の川柳観が狭かったことを思い知らされます。それは"サラリーマン川柳"や、"時事川柳"としての作品群としか認識していないことが分かったという意味です。「北の句会」で接する川柳作家たちの作品は、俳句の主要属性である季語を使用しないとか、"うがち"や"省略"といった独自の技法はあるものの、その詩性(ポエジー)は、川柳というジャンルを越えたものであると、私は高く評価するのです。

いわば、俳句が〈季語を使う/使わない作品もつくる〉〈十七音字に収める/こだわらない〉〈切れ字使用を所与のものとして活用する/活用にこだわらない〉といった二つの対立する立場のドクマ論争に明け暮れている時、川柳は飄々と詩性ゆたかな作品群を創造しているように思えます。

第一句は、川柳作品の特徴としての"言い切り"の表現ですが、ここで意味の自明性だけを捉えたのでは、表層的な解釈しかできないでしょう。川柳という文芸またはこの作者が提示する自明性の作品世界は、読者側に読みの多義性を試しているような"いたずらっ子"的な要素があるのです。まあ、この句の自明的な意味そのものを追ってみても豆腐自身があいまいといいと思っているという発想自体面白いのですが、この「豆腐」の箇所を擬人化して考えることも可能です。これを俳句的に展開すると「あいまいな豆腐食べけり秋の空」といったことになるのでしょうか。俳句は季語への呪縛(そして快楽)、季語という日本の文化コードへ従属することの安堵感からどうしても抜けきれない詩型なのです。

第二句は、社会批評の精神が込められた作品として読みました。例えばこれは私の父(大橋彦左衛門)の世代のことと読めば実感が湧きます。父は1926年生まれ。早生まれだったので、学年は大正14年度生です。この世代も学徒動員の対象となって、学業(満州建国大学)を早々に打ち切られ、海軍の特殊潜行艇「蛟竜」の乗船員として、広島の大竹で敗戦を迎えたのです。彼の世代は、軍国主義が社会を覆い尽くす昭和時代初期に青春を送ったために、若死することは覚悟していました。兵卒として戦地に赴くことは承知の上。「矢印のとおり」という表現が有無を言わせぬ時代の圧力を表現しているものと読めます。

第八回 ロルカ詩祭

2005年09月03日 00時30分27秒 | 文学
9月3日(土)

ちょうど一週間前の8月27日(土)に、「第八回 ロルカ詩祭」という文学イベントを、神戸のスペイン料理のレストランでしました。

この詩祭は1998年に第一回を行っています。スペインの国民的詩人であるフェデリコ・ガルシア・ロルカ(1898~1936)の生誕百年にあたる年です。ロルカの詩業をたたえつつ、自作詩の朗読をするという企画です。

詩祭は二部構成になっていて、〈第一部/ロルカ詩の朗読〉〈第二部/自作詩の朗読〉です。私はずっと第一部でロルカの邦訳作品を朗読し続けていたのですが、七回目となった去年、とうとう読みたい作品がなくなってしまい、それではと、ロルカ詩をもとにした詩作品を書くようになったのです。「ロルカ「ヴェルレーヌ」による変奏曲(バリアシオン)」というものです(今年はフラメンコと同時開催なので一部構成)。

そして今年も、ロルカの詩をもとに「おまえはなにを切ったのか----ロルカ「枯れたオレンジの木の歌」の変奏曲 」という作品を書きおろしました。詩劇のような構成で、ギリシア悲劇の要素を加えたりしたのです。つまり、コロス(合唱隊)を登場させました。内容としては、以下に作品を添えますが、「オイディプス王」の構成に似せています。つまり、ある男が、樵夫によって切り落とされた"ビルシャナの首"を求めて、彷徨い、その途中で出会った女性の正体も分からずに、ひたすら南へ破局の旅路を辿るという筋書きです。

私以外には、伴奏楽器として、三線(奄美)の山内由紀子さん、コロス役として、詩人の福田知子さん、安西佐有理さんに登場ねがいました。私を含めて全員黒づくめの服装をして、コロス役には、仮面をかぶってもらったのです。ちょっと「不気味すてき」な舞台になったのです(最初、仮面をつけたコロス二人が、鉦を鳴らして入場し、不気味な斉唱を初める。やがて、私がコロスの言辞と対峙するかのような詩句を弄する。バックには、奄美の島唄の三線が鳴り響く)。

では、私が朗読した作品を書き記しておきましょう。長い作品です。朗読するのに、約10分かかりました。また、後半に出てくる「行きゅんにゃ加那」は、山内さんの島唄演奏です。

************************************************
おまえはなにを切ったのか 
   ----ロルカ「枯れたオレンジの木の歌」の変奏曲   
                  大橋愛由等

コロス     樵夫よ。
     切り落とせ わたしの影を。
     実の一つもない自分の姿を見る苦しみから
     わたしを解放してくれ  1  

おまえはなにを切ったのか
ビルシャナの首を切ったのか
ごおろん ごおろん という音がしたのか
おまえの斧は錆び付いていたはずた
南へ 南へ 南へ と転がっていったのか
しどけなき森へ消えていったのか
鳥たちは 追っていたのか
楠たちは 記憶に留めることができたのか
仮面の神々は おしゃべりを続けていたのか
風どもまでが まさか 見失ってしまったのか

コロス    樵夫は恐ろしや、荒けき姿に鎌を持ち、斧を提げ、後にし
         はきまい上るとかやな、前には山守寄せしむとて杖を提げ
                                 2
ごおろん ごおろん
ビルシャナは どこへいった
遍満していたのではなかったのか
因陀羅網は 穴ぼこだらけの フィッシュネット
無礙なる法界は ごんごろごんごろ岩だらけ
″あるべきようわ″は枯れたオレンジの木
一即十は、テキ屋の口上
融通世界は、嘘つき男の拠りどころ

ごおろん ごおろん
極微へ 極大へ
南へ 南へ
補堕落浄土なんて ありっこない
カンノンなんて犯っちまえ
追い立てられるがごとく
逐電するがごとく
闇を歩く
ひとむれ の 中
人群れ?
この人たちは いったい何者?
ああ 
少しずつ わたし わたしが 消えていく 
やみに むれに えいとすに  
どこへ 向かうの
あの 荒れた森へ向かうしか
光がほしい
 せめて提灯ぐゎ

コロス     荒れはてた森の下、洞窟と
     岩間とを牡牛のように
     猛々しくさまよい歩く、
     哀れな男はただ一人憂いの旅路に。 3

わからない
森の果てになにがあるのか
妖精たちが絶望し絶食し絶滅し
乳のでない羊たちの群れの
あの荒野を彷徨い続けよというのか 

ごおろん ごおろん
めしいた預言者を連れてくるがいい
一夜にして万の火を熾し
外つ国のホトケたちを
山に里に都に 垂迹させ
座したアミダを起立させたではないか

あの預言者なら
この憂いの旅の果てを知っているだろう
わたしが なぜ風の根を突きとめることができないのか
     なぜ鳥たちの戯れ言に悩みつづけているのか
     なぜ楠たちから記憶されることを拒まれているのか

コロス     わたしは自分の姿を見ずに生きたい。
      そしてわたしは夢みるだろう
      蟻とあざみの花々が
      わたしの木の葉とわたしの鳥たちになることを。 4

私と床を共にしたあなたは誰なのか
あなたの乳房は
あざみの花の気高さ
あなたの長い黒髪は
男をまどわせるシーニュ
あなたの あえかな指は
美なるものへの刺客
あなたがうたう歌は
補堕落浄土の調べ

ごおろん ごおろん
ビルシャナの首はどこへ行った

これは夢か ロルカの夢の中なのか
預言者よ
その強いかぶりの振り方は何なのか
言うがいい、
私は錆びた斧を持つ樵夫ではない
私は流離のギリシアの王でもない
悲劇の予兆か
添い寝するこの女の
寝息をなぜ思い出さなくてはいけない
言わぬが花?
ええいコロスども 無駄口をたたくでない
わたしは 首を探し続けてなくてはいけないのか
あざみの花が鳥たちになるまで
果たせぬ旅を続けよというのか

ミューゼ  行きゅんにゃ加那 我きゃ事忘りてぃ 行きゅんにゃ加那 
     う立ちや う立ちゃや 行きぐるしゃ すら行きぐるしゃ 
     (すら行きぐるしゃ)

     泣きゅん鳥ぐゎ 立神うきなんてぃ 泣きゅん鳥ぐゎ 
     うりや我きゃ加那 生き魂 すら生き魂 (すら生き魂) 5 

だれも 送ろうとする者はいないのか 
だれも 私を記憶しようとする者はいないのか
あなたは 
 あざみの花言葉を 手向けるだけなのか 
 同衾した枕を もう焼いてしまったのか
 三番鶏が啼く頃には 私の名を封じこめているだろう
さらに 南へ向かえというのか
山々の果ては海 海々の果ては
歓待と拒絶の 南溟の島々
補堕落ではなく

ごおろん ごおろん
ビルシャナはどこへ行った
  これは夢か ロルカの夢の中か

コロスと共に  樵夫よ。
       切り落とせ わたしの影を。
       実の一つもない 自分の姿を見る苦しみから
       わたしを解放してくれ

  おまえは何を切ったのか
  あざみの花よ
  無礙なる法界よ
  ロルカよ

***********************************************************
    〈注〉
1=ガルシア・ロルカ「枯れたオレンジの木」から 『ロルカ詩集』小海永二訳、
   角川書店
2=『梁塵秘抄』no.399 佐々木信綱校訂 岩波文庫
3=「オイディプス王」のコロス・パートから。ソポクレス著、高津春繁訳『ギリシア悲劇全集 第二巻』p238
4=ガルシア・ロルカ「枯れたオレンジの木」から(同)
5=奄美島唄「行きゅんにゃ加那」の歌詞から。「・愛する人=加那は行ってしまうのですね。私のことを忘れて、行ってしまうのでいね。いや、私も旅立つのは苦しいのです。行きぐるしいのです。 ・泣いているあの鳥 立神〈海に浮かぶ岩礁〉が浮いていて 泣いているあの鳥 あれは私の愛する人=加那の生き魂、生まれ変わりなのです」といった意味。

    〈登場するモノ・コトどもの解題〉
◆ビルシャナ=毘廬遮那仏。ヴァイナローチャナ(Vairocana)。光明遍照。「無限の光が遍くてらしだしているもの。その主体が仏であり、光明そのもの」。もっとも身近な例で説明すると、奈良・東大寺の大仏さん。ただ、すべての毘廬遮那仏が大仏ではない。唐招提寺の毘廬遮那仏は、ほどよい多きさ。本作品の場合は、かの大仏を想起されたし。
◆南へ 南へ=浄土信仰の聖位は西だが、華厳経の聖位は南だろう。南方海上に浮かぶ島には観音菩薩が棲む補陀落浄土があると書かれている。中国の長江沖に小島があり、補陀落信仰にもとずいた補陀山という寺院がある。日本においても、熊野や室戸岬から補陀落渡海を目的とする他界信仰があった。
◆遍満=いまでいうユビキタスであろう。華厳経の西洋世界からの読み直しは、〈場の量子学〉から始まって、〈構造主義的〉読みへと転位し、いまやコンピューター汎用時代の遍満へと拡がる。
◆楠=霊妙な木、神秘的な木、という意味の「奇しき木」からこの名になったといわれる。寺院などに多くみられる。 樹齢を重ねた大木も多く〈不死〉の気配もする。この樹木は多くの記憶を蓄積していることであろう。
◆因陀羅網(いんだらもう)=インドラ(Indra)の網。帝釈天宮にある宝網のこと。網のA点を持ち上げると無限にあらゆる点がからみあってくるというもの。世界は関係性で成り立っているという西洋哲学からの「発見」もあった。また現代のネットワーク社会そのものが、この因陀羅網そのものである。
◆無礙なる法界=華厳思想では真理の領域のことを「法界」と呼ぶ。無礙はさわり/障壁がないこと。〈事法界〉〈理法界〉〈理事無礙法界〉〈事事無礙法界〉の四法界がある。
◆あるべきようわ=華厳と密教を習合させた明恵上人(華厳宗高山寺派)の言葉。この七文字はかぎりなく「なむあみだぶつ」の七文字を意識して造語したものと思われる。「ものごとが本来あるべき姿に、あるべきように定位していることが世界を安定させる根本原理」といった華厳の哲理を集約したもの。法然と菩提心のありかたについて対立した経緯から、「なむあみだぶつ」に対抗する意図があったのだろうが、大衆的支持は得られなかった。
◆一即十=〈一即多 多即一〉微塵の中に大きな世界が全部入り込んでしまうのだという考え。部分に全体が宿り、一つの存在にあらゆるものが映し出されるという。これが日本の山野と出会うと、「一切衆生、悉有仏性」など、どんな小さなものにでも仏性が宿るというアニミズム的な展開をとげる。
◆極微へ 極大へ=日本人は極小まで縮めて極小の中に極大をみようとした。この意味で華厳経は、日本(人)に、極小/極微を見据える理論的背景を与えたと言えよう。
◆妖精たち=ギリシアの田園をゆくと、禿げ山ばかりである。これは文明の発展によって、森を伐採しつくし、そのことがめぐりめぐって、ギリシアの都市文明そのものも滅ぼしてしまった。森の精気を頼りに生きていた妖精たちは死に絶えたのである。西脇順三郎の詩郷としてのギリシアはもうどこにも存在しない。
◆山に里に都に 垂迹させ=いわゆる本地垂迹説。権現といわれている神道の神々はその元の姿(本地)をブッタ(仏たち)に求め、神の姿となって、このヤマトの地に現前しているという考え。
◆座したアミダを起立させた=平安中期までの、阿弥陀仏の仏像をみていると、座位が多いが、平安末期になると、末法の時代への不安と、浄土信仰の浸透によって、より早く救済に来て欲しいとの願いが阿弥陀仏を立たせることになる。
◆同衾した枕=御枕節という奄美島唄がある。「・う枕よ枕 物言ぬ枕/加那が仲 我仲言なよ枕 ・う枕ぬ出てい物言ん為なりば 加那が仲 我仲 言だなうきゃむぃ」。愛する人と夜を共にしたその枕が、(勝手に歩き出して)二人の関係を誰かに密告しなければいいのに、といった意味。沖縄を含め、本土にも分布する歌謡。

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