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神戸まろうど通信

出版社・まろうど社主/詩と俳句を書く/FMわぃわぃのDJ/大阪編集教室講師など多様な顔を持つ大橋愛由等の覚え書き

ほんき(本記)NOTE--04

2009年07月21日 23時50分12秒 | 文学
7/21☆本日、ジュンク堂書店に赴き、購入したのは、文庫本の二冊。

そのうちの一冊が、ちくま文庫から出ている『ギリシア悲劇4巻』ものの第3巻『エウリピデス(上巻)』。今夏はこの4巻すべてを読破しようという野望に燃えているのです。

ギリシア悲劇は私が高校時代に耽読してきた文学世界であり、最初は、岩波文庫で少しずつ読み進め、大学時代には人文書院の『ギリシア悲劇全集』を購入して、なんどとなく読んできたのですが、<一冊読みの愚者>をあらためて選択しようとしている今、ちくま文庫から4巻もので出ていることが気になっていたこともあり、決意したのです。 

編集者として、やるべきDTP実務が山積みしているので、読書ばかりに集中するわけにもいかないことは分かっているのです。いつか全編を読み直そうと画策していたものの、さすがに730頁もある『エウリピデス(上巻)』を見てため息をつき、4巻読破は今夏だけでは無理かとはじめから腰が引けがひけているのです。

ちなみに、この『エウリピデス(上巻)』を4巻のうち最初に選んだのは、「メディア」が掲載されているからです。パゾリーニ監督が映画化し、主演はあのマリア・カラス。蜷川幸雄演出でメディアを平幹二郎が演じた舞台「王女メディア」を見た感動をもういちど、確認したいがための選択です。

ほんき(本記)NOTE--01

2009年07月18日 09時00分03秒 | 文学
7/18☆学生たちの夏休みの期間中にあわせて、今日から、読書ノートや書籍にまつわることなどを、毎日書きつづっていこうと想っています。

書を読むこと。この意味の深さを確認したのは、二週続けて「スペイン文学と神戸」(神戸文学館)、「薩摩侵略/侵攻を考える奄美のパネルディスカッション」(東京外大、09カルチュラルタイフーン)の企画・司会をこなして分かったことです。編集者というのは、徹底して(書籍、資料を)読む人でなければならないということです。

本を読むことの大切さは、この数年心深く気づいてたことなのですが、どうしても多忙と、それよりもましてインターネットに接する時間が長くなることで、ネット経由で入手される情報・知識の簡便さと豊かさに目が奪われ、読書の機会が減ってしまうという環境に慣れてしまうのです。

そこで当面は、「ネットの知的達人ではなく、一冊読みの愚者」に徹っしようと想っているのです。ネットの検索能力があがると、短時間のうちにその該当するテーマについて、おおかたの知識を得ることができます(あるいは、出来るような幻想を抱きます)。かたや一冊まるごとの読書は、読んでいて、これは読み飛ばしていいかもしれないという箇所がかならずあるものです。そうした箇所を読むときの時間のロスに痛感していると、読書にさく時間よりネットサーフィンしている方が、短言的な知識・情報が増え、快楽であることもあって、ここ数年は書籍を購入しても、なにか論文を書くときのための資料として短時間で集中して拾い読みするためのメディアの位置でしかなかったのです。

そうした反省のもとに、ようやく今春になって、読書=<一冊読みの愚者>を選択し直そうとしているのです。今夏の「ほんき(本記)NOTE」は、その試みの軌跡を夏という期間に限って書き記していこうとする試みです。

詩集『焚刑』出版記念会と『Melange』合評会

2009年06月16日 13時26分59秒 | 文学
先月開催する予定が、新型インフルエンザの蔓延で延期していた寺岡良信氏の第二詩集『焚刑』の出版記念会を21日(日)に催します。

◆1.--寺岡良信氏の第二詩集『焚刑』(まろうど社)出版記念会

☆詩誌『Melange』編集人である寺岡良信氏の第二詩集『焚刑』の出版記念会
をにぎにぎしく開催します。(突然の参加も歓迎)

☆日時/6月21日(日)午後6時から(開場は午後5時30分から)
 会場/神戸・三宮のスペイン料理カルメン--阪急三宮駅西口から徒歩一分 
   (078-331-2228)
 会費/食事・ワインつきで5000円(ワインはたんまりあります)   

◆2.--第43回『Melange』合評会のお知らせ

☆今回は、出版記念会をするために、読書会はお休みとさせていただきます。
ただし、合評会は記念会の前に開催します。21日(日)午後2時からスタートします。
詩稿の締め切りは、18日(木)です。このメールに送信してください。ただし開始時間がいつもより違うので、ご注意ください。当日配布する「月刊めらんじゅ」には、合評会用に寄せられた詩作品が掲載されます。 

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◇◇◇6月21日(日)第43回『Melange』合評会
時間/午後2時00分~5時30分
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詩稿締切は、18日(木)です。厳守をお願いいたします。
送稿していただいた詩稿は、20日(土)にみなさんにメール送信いたします。
事前にお読みになってください。

6.27スペイン文学シンポジウム

2009年06月09日 09時58分54秒 | 文学
6月27日(土)に、神戸文学館で、スペイン文学についてのシンポジウムをします。
私が、企画・司会をするものです。

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<スペイン文学と神戸>シンポジウム

☆神戸日西協会 創立30周年記念事業☆

◆(開催趣旨)神戸とスペインは海を介してつながっているのです。去年(2008年)は、カタラン自治州バルセロナ市と神戸市が姉妹都市提携を結んで15周年を迎えました。神戸市立海洋博物館の屋外には、コロンブスがアメリカ大陸に向かったサンタマリア号の復元船が設置されていて、スペインの歴史を間近に感じることができます。そして、今年は神戸とスペインの友好をはかる目的で結成された<神戸日西協会>が設立されてちょうど30年となります。

また、意外と知られていませんが、神戸市内には、多くの<スペイン文学者>が住んでいるのです。こうした恵まれた環境を活かして、神戸文学館という文学を愛する場で、神戸日西協会員のみなさんとともに、スペイン文学と言語の魅力を、もっと知ってもらおう、もっと感じてもらおうとの目的で開催することにしました。

◆日時 2009年6月27日〈土〉午後2時~4時
◆場所 神戸市立 神戸文学館(神戸市灘区・王子動物園西隣/〒657-0838神戸市灘区王子町3丁目1番2号 電話&FAX078-882-2028 阪急電車神戸線「王子公園」駅下車、徒歩7分)

◆シンポジウム参加予定者
<パネラー>
・吉富志津代 (NPO法人・多言語センターFACIL代表)
・安藤哲行  (摂南大学教授)
・鼓 直  (元神戸市立外大勤務、法政大学名誉教授)
・富 哲世  (詩人)
<司会>
・大橋愛由等 (神戸日西協会副会長)

☆会場では、スペインの国民的詩人であるガルシア・ロルカの詩(日本語)を、パネラーであり詩人の富哲世氏に朗読してもらいます。また、ロルカの詩はフラメンコでも歌い継がれているので、カンテとギターラに、何曲か歌ってもらう予定にしています。


感謝です

2009年06月01日 13時49分44秒 | 文学
5月31日の「林田紀音夫読書会」に、このブログ「神戸まろうど通信」を見てきていただいた方がいらっしやいます。
しかも手にしていてのは、私も編集に参画した「俳誌・豈」の「関西前衛俳句特集」でした。

やはりブログは開かれた情報ソースなので、こうした出会いがあるのですね。
新しい出会いがこうしてネット経由で産まれることの楽しさを実感した一瞬でした(この意味で、MIXIは、検索にもひっかからないような仕組みなので、こうした出会いは産まれにくいのでしょうか。いや、コミュニティーに入っていれば、ブログより周知の確率は高いかもしれませんが)


震災と神戸と文学と--パネルディスカッション

2009年01月08日 08時34分54秒 | 文学
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1月10日(土)に神戸文学館(神戸市灘区・王子動物園西隣)で行われるパネルディスカッションのお知らせです。パネラーに、『Melange』読書会メンバーの富哲世氏、堀本吟氏と、FMわぃわぃ代表の日比野純一氏をお迎えいたします。
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≫≫≫≫震災と神戸と文学と パネルディスカッション≪≪≪≪

◆あれから14年 なにが生まれなにが生まれなかったのか

☆〈企画趣旨〉1995年1月17日に発生した阪神・淡路大震災は、神戸の歴史や文学に大きな断層を生み出した出来事です。この震災が、神戸の文学のありようにどのように変化させていったのかを検証することが、神戸で生き、生活している者の大きな仕事であり続けると思っています。1・17の時期に合わせて、神戸市内で多くの事業が行われていますが、私からもささやかな文学イベントを開催したいと企画しました。
今回のテーマは、震災の神戸の文学はどのように表現されたのか、また震災後の神戸はどのように表現されたのか、あるいはされなかったのかを、1・17の直前にあたる時に改めて討議してみたいと思っています。 

また、今回、詩は富哲世氏に発表してもらいます。『震災詩集』(アートエイドコウベ)1~3巻を中心に、湾岸戦争詩論もからめて話していただく予定です。俳句は、堀本吟さん。有季定型、無季容認の区別なく俳句という詩型で震災がどのように表現されたのかを作品論を中心に語ってもらう予定です。さらに、〈オーラル文芸〉の立場から発言していただくパネラーとして日比野純一氏を招聘いたしました。これは、文学とは書かれたコトバだけではなく、オーラル言語を記録/記憶していくことも含まれると思っているからです。こういう意味で、震災からの14年間FMわぃわぃに蓄積された多言語による声と記憶のアーカイブスも、立派な文芸活動であるし、それを日々リアルタイムに見守っている日比野さんの視座は、文学(コトバの記憶)を生み出す現場に立っている臨床者なのです。


◆パネラーと取り上げるジャンル
  〈 詩 〉 富 哲世  (詩人)    
  〈俳句〉 堀本 吟  (俳人)   
  〈オーラル文芸〉日比野純一 (FMわぃわぃ代表)
   ---------(司会)大橋愛由等(図書出版まろうど社代表)

◆パネラーの発表予定内容
☆〈 詩 〉 富 哲世------〈震災詩の感性〉震災体験を同じひとつのテーマとして
共有するかのように、ドキュメンタリーな震災・震後詩がたくさん書かれました。ま
たアートエイドというようなジャンル横断的・連帯的な活動も展開されました。それ
らの多相な行いによって、詩は、あり有べき望みの場所をうまく見出すことができた
でしょうか。震災詩にとって、詩の豊かさとはどのようにあったのか、震後14年経っ
た詩の現在の視点から、震災詩の感性を検証してみたい。

☆〈俳句〉 堀本 吟-----被災したある友人が、「六千人の死者を前に俳句はなに
もできません」と言って、辞めてしまった。私の同人誌の人とそのはなしをしたとき
に、「気持ちはわかるけれど、それをいっちゃあおしまいよ。と応えるほかないなあ。
ぼくらは」と、遠い電話の中でつぶやいた、まもまく彼は、重い病気で亡くなった。
経験の重みを語りうるのはほんとうは誰なのだろうか? 幾つかの句の中からたちあ
がる声をむしろ私の方が聴いてみたい。

☆〈オーラル文芸〉日比野純一 -----阪神・淡路大震災から14年。11言語で放送する
コミュニティラジオ局FMわぃわぃが伝え続けているのは、被災地・神戸に暮らす多様
な社会的な背景を持つ住民達によって作り上げられる多文化社会である。植民地支配
によって朝鮮半島から渡ってきたコリアン、難民として海を越えてきたベトナム人、
中南米からの労働移民、障害を持った人々など、震災前まではともすると不可視され
てきた人々が共生のまちづくりを育むために、日ごとのラジオ番組を通して語り、唄
い、表現し続けてきた14年を検証したい。

◆パネラー略歴
◇富 哲世(とみ てつよ) 詩
1954年神戸生まれ。
詩集『血の月』『天人五衰』『殺佛』他
歌集『死明』
共著『離婚・結婚・再婚』『スペイン内乱とガルシア・ロルカ』等
現在『月刊めらんじゅ』に月評と詩を掲載。詩と評論の定例研究会として「めらんじゅ読書会」、「詩の窟」の会等に参加。神戸震災を契機に神戸スペイン料理「カルメン」にて毎年開かれる朗読祭「ロルカ詩祭」に実行委員のひとりとして朗読参加。

◇日比野純一 FMわぃわぃ代表
 阪神・淡路大震災から14年。11言語で放送するコミュニティラジオ局FMわぃわぃが伝え続けているのは、被災地・神戸に暮らす多様な社会的な背景を持つ住民達によって作り上げられる多文化社会である。植民地支配によって朝鮮半島から渡ってきたコリアン、難民として海を越えてきたベトナム人、中南米からの労働移民、障害を持った人々など、震災前まではともすると不可視されてきた人々が共生のまちづくりを育むために、日ごとのラジオ番組を通して語り、唄い、表現し続けてきた14年を検証したい。

◇堀本 吟(ほりもと・ぎん) 俳句 
一九四二年犬山市生。松山市で育つ。奈良県生駒市在。現在「俳句空間ー豈」所属。震災の年の四月「関西戦後俳句聞語りの会」で津田清子を招き公開インタビュー。この活動などを元に「俳句空間ー豈39ノ2号特別号関西編」(特集・関西の前衛俳句)を編集。現在超ジャンルの「北の句会」参加。句会や読書会を企画。「子規新報」にコラム《現代川柳論》、詩誌「びーぐる」に《俳句時評》Web週刊誌「俳句空間ー豈ーweeky」に《書物の影》をそれぞれ連載。著書・評論集『霧くらげ 何処へ』(一九九二・深夜叢書社)。


◆開催曜日/2009年1月10日(土)午後2時~3時45分
◆開催場所/神戸市立神戸文学館
〒657-0838神戸市灘区王子町3丁目1番2号 電話・FAX 078-882-2028 
阪急「王子公園駅」下車、神戸市立王子動物園の西隣。徒歩7分。
JR「灘駅」からは北へ徒歩10分。--神戸文学館へは入場無料ですが、パネルディスカッ
ションへの参加費は200円です。 

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この日、都合のつく方は、ご来場をお待ちしています。当日は、参加者に当日発表内容と資料がついた冊子をさしあげます。




15日に神戸文学館で女性文学の会

2008年11月07日 09時09分35秒 | 文学
☆今年も、神戸文学館で、神戸から 神戸ゆかりの女性作家を語るパネルディスカッション
〈詩・短歌・俳句・川柳〉を催します。

今回のテーマは、「女性の身体とジェンダーから文学表現を考える」。
とてもコアな内容です。今回も各ジャンルで活躍している表現者のみなさんに参加してもらいます。ふるっての参加をお待ちしています。

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第2回 神戸から 神戸ゆかりの女性作家を語るパネルディスカッション
        〈詩・短歌・俳句・川柳〉

      女性の身体とジェンダーから文学表現を考える
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☆〈あいさつ〉神戸文学館が開館(2006年12月)したことを機に、神戸から文学のありようを議論していくメディアとして、去年に引き続き「神戸から神戸ゆかりの女性作家を語るパネルディスカッション〈詩・短歌・俳句・川柳〉」を開催します。

詩、短歌、俳句、川柳の各界で活躍する女性作家兼評論家に、パネラーとして参加してもらい、それぞれのジャンルから、〈女性の身体とジェンターから文学表現を考える〉のテーマのもとに、神戸ゆかりの女性作家についての評価、読み直しを提議していく内容です。去年開催して好評だった第一回に続く連続企画です。パネラー同士と会場参加者との双方向性が期待できるパネルディスカッション形式で進めていきます。

今回のテーマは、女性の身体とジェンターから文学表現を考えるというもので、表現する者にとって、根源的な内容を含むものであると思っています。今年も活発な議論と会場との応答が期待されます。 

☆日時/2008年11月15日(土)午後2時~4時
☆場所/神戸市立神戸文学館
 〒657-0838神戸市灘区王子町3丁目1番2号 電話・FAX 078-882-2028 阪急「王子公園駅」下車、神戸市立王子動物園の西隣。徒歩7分。JR「灘駅」からは北へ徒歩10分。
☆参加費/200円(当日発表する内容が掲載された小冊子もついています)

☆パネラーの方々と取り上げる神戸の作家たち
  〈詩〉 たかとう匡子   (多田智満子)
  〈短歌〉彦坂美喜子    (石橋妙子、尾崎まゆみ)
  〈俳句〉堀本 吟     (桂信子、藤木清子ほか)
  〈川柳〉樋口由紀子     (森中恵美子)
          ---------(司会)大橋愛由等(図書出版まろうど社代表)

☆各パネラーの発表予定内容

◇たかとう匡子----詩 
 「女性性」というのはフェミニズムの影響を受けている言葉であり、最近はむしろ邪魔だから(というより逆差別を強調することにもなりかねないから)性差を無化しようという傾向にある。とはいえ身体の構造上、男女の差異は当然ある。そのうえで表現の世界にあっても、女性たちは男性を越え(あるいは肩を並べ)ようとすれば、女性の身体性にアクセントを置くしかなかった。それでは多田智満子のばあいはどうか。
 前回同様、多田智満子を採りあげ、第三詩集『薔薇宇宙』を中心にそういったところを見ていきたい。
 多田智満子(1930~2003)は、1959年結婚と同時に神戸、六甲山麓に移り住んで、同年第一詩集『花火』を上梓。『薔薇宇宙』、『川のほとりに』、『長い川のある國』など十数冊の詩集と評論集、歌集、句集を精力的に出すなど多くの仕事をした。英知大学名誉教授。

◇彦坂美喜子----短歌
 歌の世界は古典の時代から女性も活躍していますが、特に表現上で女性性に注目された論は、折口信夫の「女流の歌を閉塞したもの」(昭和26年1月「短歌研究」)ではないかと思います。1980年代初めには、篠弘が身体感覚を現実認識と結びつける表現を求める「体性感覚」を提唱します。これらは女性性というより、短歌表現の問題として提出されているものですが、それを軸に、二人の神戸在住の女性歌人、石橋妙子さんの第一歌集『花鏡』(昭和1979年刊)と、尾崎まゆみさんの第3歌集『真珠鎖骨』(2003年刊)の作品から、どのような方向に表現の場所が展かれているかをみていきたい思います。
 石橋妙子(1929~)神戸市在住。「花鏡短歌会」主宰。歌誌「花鏡」発行者。「潮音」選者。歌集『花鏡』、『白栲』、『風樹』、『素描の繭』、『有縁無縁』、評論集『歌の翼』、著書『鑑賞 太田青丘の秀歌』など。神戸市文化活動功労賞受賞(1994年)
 尾崎まゆみ(1955~)神戸市在住。「玲瓏」所属。歌集『微熱海域』、『酸つぱい月』、『真珠鎖骨』。第34回「短歌研究新人賞受賞」(1991年)

◇堀本 吟----俳句
1) 趣旨
 女性の俳人が、自分(人間)を身体的存在であると自覚するのはどういうときでしょうか? 台所の日常を主にした「ホトトギス」の女性と、内面探求を深くした新興俳句系では「自我・身体・詩型」の表現のあり方がまったくちがう、という例を挙げ。その身体表現のあり方をさぐります。
 ふところに乳房ある憂さ梅雨ながき = 桂信子  
 戦死せり三十二枚の歯をそろへ=藤木清子 
 幼年が 濃密にある 茹卵 =伊丹公子    
 爽やかな涙となりてゆくことも= 稲畑汀子
2) 例句に登場する作家 について。
A 芦屋に住む稲畑汀子(1931~)若くより祖父虚子父年尾に俳句を学ぶ。虚子の「花鳥諷詠」をまもり、日本最大俳句の結社「ホトトギス」の現主宰。ここでは「季語の表現」が第一であるから、身体表現というテーマ自体がおこりえない。日常存問、花鳥諷詠のモチーフのひとつである。だが・・・・・ 作品はかならすしも教科書通りではない。
B 新興俳句作家、桂 信子(1914~2004) 藤木清子(生歿年不詳)ともに1938年頃日野草城の「旗艦」に投句。信子は戦後、「青玄」で活躍。やがて「草苑」主宰。伊丹公子(1914~ )戦後「まるめろ」「青玄」で出発。草城死後、三樹彦とともに「青玄」を運営。公子のモダンな美意識が とらえる身体の俳句。A・Bをならべるとき、今回のテーマがスリリングな趣で立ち上がってくる。

◇樋口由紀子----川柳
 川柳は現代詩、短歌、俳句と比べて、一番わかりやすく、 いわゆる大衆性を獲得しています。それは読み手と 書き手の共同性のところで書かれていることが多いためです。 それは女性性、身体性においても顕著に出て、身体を通しての 情感が立ち上がってきます。 第一回で取り上げた時実新子と人気を二分した日本最大の川柳結社である 「番傘」の花形作家である森中恵美子を通して、川柳における女性性、 身体性の長所と短所を検証します。 森中恵美子(もりなかえみこ)(1930年~)神戸市生まれ。 現在、「番傘」副幹事長。 句集に『水たまり』『水たまり今昔』『仁王の口』。 第一回日本現代詩歌文学館館長賞受賞。

そろそろ源氏物語の話を

2008年10月23日 18時30分36秒 | 文学
今秋になにか、読書をしようと発案して撰んだのが『源氏物語』。

現代語訳と原文を照らし合わせながら読み進めているのですが、長編小説だけあって、多くの恋愛のパターンが出て来て、その多彩ぶりは、千年の間読み継がれて来た理由が分かるような気がします。

面白いのは、登場人物の女性が象徴化されて、その時代なりに読みが可能だということ。

研究もまた何百年と重ねられているので、これは奥深い世界にわけいってしまったと思っています。




こんな文学レターも

2008年10月10日 14時03分55秒 | 文学
先日、季村敏夫さんが主催した「アーカイブカフェ」で偶然お会いした寺田操さんから、個人発行の文学通信レター「Poetry EDGING」のとを送っていただきました。

定型の封書に入るように、A4判の色上質紙を三つ折りにして、その折り目の部分に合わせて、段落(三段)となるようにレイアウトされています。
通信には、詩作品と、エッセィ、日々雑感(書評)なども書かれていて、こういった個人通信が大好きな私にはたまらない内容になので、一気に読んでしまいました。

表紙にあたる場所には写真が印刷されています。

私もかつてこうした通信文を発信していたことがあるので、ふたたびやってみたくなりました。

写真は今年の夏に写した白黒写真があります。
それを活用して、詩あるいは、エッセィ、俳句、書評などを印刷してみる。
6号限定で出してみてもいいのかもしれません。

さっそく声をかけてみることにしましょう。

面白うてやがて哀しき

2008年09月10日 14時08分08秒 | 文学
源氏物語の翻訳書を比較するために書店の文庫棚を渉猟している時に、おもわず買ってしまったのが、水木しげる著『猫楠--南方熊楠の生涯』(角川文庫)であった。

読み出すと面白くて一気に読んでしまった。猥談をしだすと止まらない熊楠と、熊楠を先生と尊敬する田辺在住の「弟子」たちが天真爛漫に生きていて、その活写が優れ、なんども哄笑してしまった。

この作品では熊楠が猫語をしゃべることが出来て、知能の高い猫と議論したりする。すると、猫が通る道「猫道」を研究しているという魚屋の主人が現れ、「古猫語」をさぐるのである。またネズミ猫という珍種を持ち込み、その猫が人語を喋ることができる。その猫の導きで一年に一回の猫会議に、熊楠たちも呼ばれ、猫たちと踊りを楽しむのだが、そこに西洋の魔女が交じっている。驚いた熊楠は魔女を一喝すると、ネズミ猫が魔女の箒に乗って高野山方面に去って行く。そこで熊楠は魔女退治に高野山を訪れてみると、ロンドンで知り合った僧職がそのネズミ猫を抱いているではないか。事情を聞くと、老いた魔女は霊力をなくし、ネズミ猫に操られているのだという----そんな楽しい水木ワールドが次々と展開されていて飽きることはなかった。

勿論、熊楠が没頭した粘菌研究や、密教的宇宙観にもとずく哲理の追求なども書かれていて、この方面でも興味深かった。

熊楠を描くのに、水木しげるの筆致・画風は驚くほどフィットしているのである。


源氏物語

2008年09月07日 14時51分39秒 | 文学
書店というのはまったきにおいて知のワンダーランドですね。

昨日ジュンク堂書店に行った折、強く感じました。

二階の文庫本コーナーに行き、『源氏物語』についての本を撰ぶことにしました。
二人で今週『源氏物語』について読み合おうということになったのです。この物語が書かれてから今年でちょうど千年になるそうですね。

私は数日前に悩んだ末に、三巻分冊で手頃感がある田辺聖子訳を買って上巻から読み始めているのです。それも冒頭からではなくて、「須磨・明石の巻」から読むという変則的なものです。二人で読んで、それをなにか書き物にまとめようとしています。どういう形で書いたものを交換するのか決めていませんが、往復書簡のような形式でも面白いのかもしれません。

そして違う訳書をそれぞれ読もうという提案に従って、さまざまに比較してみました。

☆復刊なった円地文子訳(この人の訳は教科書に載っていたものをソノヒトは読んだことがあるらしく、訳文も「教科書的」でちょっと硬いとの評を受け不採用。この円地訳の帯裏に「初心者なら田辺聖子訳を推薦」と書かれていて、なんじゃそりゃ、著者〈円地さん〉に失礼ではないのかと絶句)、
☆谷崎潤一郎訳(棒ゲラのような“のたっ”とした版面で、原書に近い表記なのでしょうが、やはりちょっと読みずらそう。ここまで原書に近いものであればむしろ原文の方がいいかもという二人のささやきで却下)、
☆橋本治版(ちょっとこれはやりすぎ、“ほたえ”すぎ、自分の作品でありすぎと拒否感が先行して没。分冊が多かったのも経済的理由になったかも)、
☆瀬戸内寂聴訳(この訳者は典型的な阿波女の丸顔で、ソノヒトの親戚に多いという理由で愛憎半ばすると語り合い、それが理由になったのかならないのか分からないまま結局撰ばなかった)

ということで私は田辺聖子訳を読み続けることに(田辺訳は読んでいてイヤミがないものの、しっかり田辺文学になっているのが不思議)。そしてソノヒトはネットの青空文庫で読める与謝野晶子版を読むことにしたのです(この与謝野訳は歌人の訳書らしく自分の短歌も入れ込んでいるという、なんだかなあ版。ネット版でもちゃんとルビがついてるのはびっくり)。

のっぴきならないこと

2008年05月27日 14時39分33秒 | 文学
わたしは「俳人」と自称してきたのですが、最近書き続けているのは、もっぱら詩であるのです。

詩は気質的にあっているのでしようか。
俳句は「断念の詩型」であると思っていましたが、存外に一句の中にすべてを読み込むことができる。
すなわち〈一句宇宙〉が存在するのです。
ところがいくら行を重ねてもいい詩の方が、すべてを書ききること、多弁でありすぎることを忌避する。部分の切り取りであった方が作品として成功する場合が多い。
詩は書きたいテーマ/内容の一部始終を書き切っては、かえって陳腐になるということです。
また、俳句では切れ字ですましてしまっている抒情性を、詩も作品の終盤で必要としているのには驚きでした。

そうしたことを学んだのが、すでに32回を数える『Melange』読書会・合評会なのです。

俳句は助詞ひとつが生命(いのち)であり、「の」にするのか「は」「や」にするのかによって作品が大きく異なり、完成度にも影響を与えます。ところが詩はそうした俳句的な一字へのこだわりが希薄です。俳人からすると、言葉に生きるといわれている詩人と詩作品でさえも、一字に対するこだわりやその書法について粗雑感をいだくことがあります。また俳句ではありていすぎる「美しい」「きれい」「かなしい」「やりきれない」といった表現も堂々と登場することも驚きです。この驚きは揶揄的な要素も含まれるのです。

人類の歴史がすべてが織り込まれた絨毯

2008年05月08日 18時40分25秒 | 文学
昨日の続きを書きましょう。

詩人同士のあらがいをテーマとした内容である『漂泊の王』を読み進んでいる最中に、同時進行として身につまされる事態が私に進行していたのです。

「舌がまねく傷は、手が招く傷のごとし」
「舌は人間の半分、もう半分は心。あとは血と肉のみ」

これらは、古いアラブの詩華からの引用だそうです。
とある詩人とちょっとした誤解からメールによる激しい言葉の応酬があったのです。その時に上の箴言が私の心を射抜きます。
今回は私が誤解したからいけないのですが、言葉はやはり激してはいけません。

言い争いの後で語り合ったところによりますと、その詩人の分析では私の星回りは、「旅」が大きな要素となっているとのことです。私もひょっとして「漂泊」を背負って生きていく運命かもしれません。タビの人はいつも移動しているので常に自分の全てを携帯しておかなくてはなりません。おそらくタビ慣れている漂泊の人ほど持ち歩く事物は少ないのでしょう。そしてどこか〈しるし〉を残しておくというマーキング活動をする。その活動は定着民より深い思いをかけてするのでしよう。タビといっても、遊牧民は巡回するのです。石造りのカーサ(Casa/家)は持っていないが、巡回することで円環世界をつくっている。いまいるところがカーサ(Casa/家)であり在所となる。しかし〈しるし〉を刻印していく。私はこの刻印の仕方を学ばなくてはならないのかもしれません。


『漂泊の王』では詩のコンクールで三度続けてワリード王子は、「絨毯織り」を職業としているハキームに敗れます。そこでワリード王子はハキームに、古文書の整理と、「人類の歴史がすべてが織り込まれた絨毯」を織るよう命じます。ハキームはその絨毯を織り上げると生命も尽きるのです。絨毯の持っているアラブを印象づける象徴性と絨毯が持っている世界を表象するタブロー性をうまく物語の道具として作者は使っています。考えてみると、両界曼荼羅もまた世界/宇宙を織り込んでいるタブロー(擬似絨毯)かもしれませんね。

金時鐘氏の会

2008年04月21日 16時58分42秒 | 文学
昨日(20日)、大阪・上本町「アウィーナ」で行われた再訳『朝鮮詩集』(金時鐘訳、岩波書店)の発刊を祝う会合に、出席しました。会場で多くの友人・知人に会い、神戸から一緒に同行した詩人の安西佐有理さんに、その何人かを紹介したのです。

私が二次会のパーティで発言したことは、時鐘氏の“みとどけ”ということです。

私がかつて働いていた図書出版海風社の作井満代表が55歳の若さで急逝した時、身内以外で最後の骨挙げまで見届けたのは、私と金時鐘氏と鄭仁氏の三人でした。時鐘氏はその時、凛として作井氏の遺体の前に屹立してその最期にたちあったのです。

その時、わたしは「ああこの人は、みとどけの人なんだ。人の生を、死を、作井氏の詩を、文学を、いきざまを、とことんみとどける人なんだ」と感得したのです。こうした時鐘のみととげのありようが、戦前に金素雲が訳した岩波文庫の『朝鮮詩集』を再訳することにつながっていったのだろうと思ったのです。再訳することで、自分の中の日本、日本語、皇国少年であった「日本人」、そして1945年8月15日に「朝鮮人に押し戻された」こと、その「解放」の日に一体自分はなにから解放されたのかという自問などを、ずっと永い間内省的にみとどけることで、再訳することへ結晶していったのだと思います。