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俳人杉田久女(考)、旅行記&つれづれ記、お出かけ記など。

福岡市でのモンロー&ディマジオとその後

2017年02月09日 | つれづれ

前回モンローが福岡市滞在時に足を運んだフレンチレストランのことを書きましたので、モンローとディマジオの福岡市での足取りについてネットで調べてみました。こんなことに興味を持つなんて暇を持て余している婆さんだと思われそう~(^-^)

1954(昭和29)年1月にマリリン・モンローと元大リーグのスーパースター、ジョー・ディマジオは、サンフランシスコ で結婚しました。

翌2月に読売ジャイアンツの招きもあり、二人は新婚旅行を兼ねて日本にやって来ました。約3週間の日本滞在のうち、福岡市滞在は3日間と短いものでしたが、一地方都市にとってこれは衝撃的な出来事だったらしく、この時のことを書いたものを六十数年経った今でも時々目にします。

二人は2月10日夕方板付空港に到着しました。その時のこんな写真がネット上にありました。いずれもイタヅケエアベース写真班によって撮影されたものだそうです。
二人とも非常にリラックスして楽しげで、モンローは黒いベレ-帽をかぶっていますネ。

空港のVIPルームでしょうか、脚を組んでコーヒーカップをもつ演技ではないモンローの表情がいいですね~。


その後、二人は宿泊先の福岡国際ホテルに向いました。このホテルのあった場所は、今は下の写真のアクア博多という新しいビルになっていて、赤いマルで囲んだ辺りだったようです。明治通りの西大橋を渡ってすぐの那珂川沿いです。なるほど二人が食事をした「花の木」の前身「ロイヤル中洲店」があった場所は、ここから歩いて2、3分の所です。

このホテルの周りに大勢のファンがおしかけたため、モンローはカーネーションを投げるというファンサービスを行ったそうで、こんな写真が残っています。
<カーネーションを投げるモンロー>

二人の日本への訪問は新婚旅行とはいうものの、実際はジョー・ディマジオの日本のプロ野球選手への技術指導のためという目的がほとんどで、二人は福岡市においても観光地などは一切訪れていません。

ディマジオは福岡滞在中は香椎球場に行っており、モンローは西戸崎にあった米軍キャンプへ慰問に訪れています。この時モンローは一人で海ノ中道をドライブしたそうです。すれ違いが多かったんですね。

当時二人はハリウッドの人気女優と全米で最も人気の野球選手でしたが、来日中はどこでもモンローの方が圧倒的に注目を浴び、このこともディマジオは面白くなかったようです。

そんな時、モンローに朝鮮戦争で駐留していた在韓米軍を慰問してほしいという依頼が舞い込み、彼女はディマジオの反対を押し切って、彼を日本に残したまま韓国に行ったといわれています。モンローにすれば、どうせ野球の指導で一緒に過ごせないならば、同じことと考えたのかもしれませんネ。4日間の韓国滞在から日本に戻り、二人はそろって2月24日に日本をたち帰国しました。

その後、結局2人は195
5年9月に離婚、それは入籍してからたった9ヶ月後のことでした。

7年後の1962年に36歳でモンローは亡くなりますが、死の3日後に行われた葬儀はディマジオが取り仕切り、参列者は生前にモンローの世話などをしていたごく一部の関係者など約30名の小規模なもので、マスコミは一切シャットアウトされ、ハリウッドの映画関係者には1名も呼出しはなかった様です。

ディマジオはモンローの死後再婚することなく、ずっと週3回、彼女の墓に赤いバラを贈り続けました。1999年に85歳で亡くなる数日前に友人に語った最後の言葉は「死んだら、マリリンのところへ行ける」だったそうです。
<ロスアンゼルスにあるモンローのお墓>

(写真はすべてネットよりお借りしました)

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フレンチレストラン 「花の木」

2017年02月06日 | お出かけ

夫と大濠公園脇に佇むフレンチレストラン「花の木」に行った。

急にここに行ってみたくなったのは、

先日見たマリリン・モンローとジョー・ディマジオの

テレビ番組と関係があるかもしれない。

この店は1953年オープンで、

開店当初は「ロイヤル中洲店」という名前で、市の中心部、中洲の那珂川沿いにあった。


1954年2月にモンローとディマジオは新婚旅行で福岡市に滞在。

二人が三日間この「ロイヤル中洲店」に通いつめたことで有名になった。

当時は他にまともなレストランがなかっただけかもしれないけれど...。

1972年に店名を「花の木」と変え、1989年には大濠公園脇に移転。

その店舗も建て替えの為一時休業後、一昨年新規オープン。

私は新しい「花の木」に行くのはこの日が初めてだった。

お店の入口で写真を撮っていると、突然電池切れの表示が
<今日の貴重な一枚>

1Fのクロークにコート類を預け、2Fに上がると、ほぼ満席。

BGMも何もない静かな雰囲気。

サービスをしてくれる人達が行き来するだけの音。

全面ガラス張りの室内から見る一部ライトアップされた夜の大濠公園。

まず食前酒にスパークリングワインを一杯。

アミューズというのかな、簡単な一口料理に続いて前菜、

そしてオニオングラタンスープが運ばれて来た。

このスープはモンローお気に入りのスープで、このお店の看板メニュー。

モンローは何回もお代わりしたそう。

お料理が次々に運ばれて来て、それぞれの講釈を聞くのも楽しいし、

合うワインを選ぶのも楽しい。

いつの間にかデザートになり、最後はコーヒーで〆ということに。



帰りがけに、1954年の来店時にモンローが使用したテーブル、椅子などが

置いてあるモンロールームを見せてくれた。

モンロールームは現在も個室として使われているのだそう。

時計を見るといつの間にか22時近くに。

かなりの散財だったけれど、たまにはいいんじゃないかしら?


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久女の魅力満載の句画集『杉田久女101句』

2017年02月03日 | つれづれ

昨年は女性俳人の草分け的存在である杉田久女の没後70年でした。それにちなみ北九州の文化の息吹きを伝える活動をしている「北九州ディスカバリーの会」がこんな句画集を刊行されました。


杉田久女は旧小倉中学の美術教師の妻として小倉に住んでいた大正5年に俳句に目覚め、高浜虚子を師と仰ぎ、『ホトトギス』同人として活躍しましたが、のちに虚子から同人を除名されるなどして不幸の中で没しました。

久女にとって小倉での生活は必ずしも満ち足りたものではなかった様ですが、しかしこの地から近代女性俳句の草分けとして活躍し俳句史に大きな足跡を残しました。

101句の選句と鑑賞を杉田久女研究の第一人者の坂本宮尾さんが、画を北九州市出身の画家、西川幸夫さんが画いておられ、久女の魅力満載の句画集です。

西川さんは風景画が専門。この句画集では鉛筆画を彩色する手法で、下の写真の様に久女の代表作「谺して 山ほととぎす ほしいまゝ」には深閑とした山を、「張りとほす 女の意地や 藍ゆかた 」の句には朝顔模様の藍色の浴衣を斜めにクッキリと描き、久女の心模様が表現されています。




巻末に「杉田久女とおばら」と題した久女の長女石昌子さんのご長男、石太郎氏の淡々とした心に沁み込む様な文章が載っています。

それによると、久女は昭和17年夏に夫宇内の父が小原村松名で死去した時、松名にしばらく滞在し、そこで「腹返す 鯉大きけれ 水は秋」という句を作ったと書かれています。久女が亡くなる3年半前位の作ですが、やはり完全に俳句から決別したわけではなかったのですね。その当時の彼女の気持ちを想像すると、何だか胸が苦しくなります。

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