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俳人杉田久女(考)、旅行記&つれづれ記、お出かけ記など。

永観堂と与謝野晶子

2017年12月27日 | つれづれ

一ヶ月ほど前に永観堂に紅葉狩りに行った時、放生池横に与謝野晶子の歌碑があるのを見ました(その記事はこちら)。歌碑には

   「秋を三人 椎の実なげし 鯉やいづこ 池の朝風 手とてつめたき」 晶子 

と刻まれていて、それを見た時、
ここ永観堂と与謝野晶子の関わりについて思いました。
「与謝野晶子」の画像検索結果<与謝野晶子1878-1942>

与謝野晶子(当時は鳳晶子21才)は明治33(1900)年8月に短歌誌「明星」同人の山川登美子(20才)と共に、来阪した与謝野鉄幹(27才)を浜寺に訪ねて彼と初めて対面しました。そしてその年の11月5日に鉄幹、登美子、晶子の三人は京都永観堂の紅葉をめでた後、近くの粟田山に当時あった「辻野旅館」に宿泊しました。 最初から3人だけの予定ではなく、他2~3人の「明星」同人も誘ったけれど都合がつかなかったとも言われています。

ここで3人はどんな話をしたのでしょう。晶子を主人公にしたドラマなどによると、鉄幹は妻とうまくいっていないこと、登美子は意にそまない結婚を親に強いられそうになっていること、晶子も生家の旧さや両親の無理解さを訴え、ともに悲しみの告白をしあった様に描かれていますが、鉄幹はその時の自分の境遇を強調することで、若い二人の女性の気を引いたのかもしれませんね。

これからしばらく後、登美子は親の薦める相手と結婚し、晶子は翌年の明治34年1月9日に昨秋三人で泊まった粟田山の辻野旅館で鉄幹と再会、宿泊します。この時、晶子は親の元を飛び出し鉄幹の元に出奔する意を心に固めたのだと感じます。

歌碑に刻まれた上の和歌は、鉄幹と二人だけで泊まったこの時、二人で再び永観堂に遊び、昨秋自分達二人と登美子の三人で池の鯉に椎の実を投げて過ごした時を回想して詠んだ和歌だと思われます。

そう考えると、永観堂は与謝野晶子の歌人としての出発点になった場所で、その後の彼女の数々の業績のスタート地点だと言えるでしょう。

                                                                    

今年も残り少なくなってまいりました。時間の過ぎるのがほんとに速く感じられ、まさに瞬きのような一年でした。細々と続けている拙いブログにいつもお越し下さりありがとうございます。今のところ穏やかな年の瀬の当地ですが、北国では大荒れなお天気で大変な様ですね。皆様お体にお気を付けて年末年始をお過ごし下さい。新しい年にまたお会い致しましょう。それまでごきげんよう

(写真はネットよりお借りしました)