昨日(7月12日)日本道路公団発注の橋梁工事をめぐる談合事件で、独占禁止法(不当な取引制限)違反容疑で同公団元理事たち5人が逮捕された。
この『談合』に関して奥田経団連会長が7月11日の定例記者会見で「全国津々浦々に行きわたっている慣習のようなもので、地方では仕事を回しあっているワークシェアリング。本当にフェアな戦いをすれば、力の強いところが勝ち、弱いところが沈んでしまう」と述べた。また、談合が納税者や消費者からみれば落札価格の高値維持を招きマイナスになるとの問いに対して、奥田会長は「経済的な影響がどう出るかはそう簡単にはわからない」と述べた。
経団連の会長としては相当思い切った発言だと受け止める向きもあるが、私はそうは思わない。これまで誰もが知っている当たり前のことを云ったに過ぎないからだ。マスメディアも知っていて書かなかっただけ。それをもう何十年も前から行われていた、なんて始めて知ったかのように報じられた読者はただ白々しく思っているだけなんだから。
そして今日お昼のテレビに猪瀬直樹氏が出演して、談合が存在している証拠として過去の落札率が工事予定価格に軒並みかなり近いところで納まっているとのデータを提示していた。ところが談合問題が表に出て世間を憚るようになると落札率が一気に10%ほど低下しているのである。だから猪瀬氏によると談合のせいで少なくとも10%程度が納税者や消費者の余分な負担になっていたということになる。
このように数字ではっきりと示されると猪瀬氏の主張がすんなりと心の中に入ってくる・・・、と云いたいのだが、それよりも私の心に引っかかったのは『工事予定価格』なるものであった。
『工事予定価格』は誰が決めたのだろう。
またどのようにして算出されたのだろう。
発注側の道路公団がたとえ何処かに委託したにせよ作ったものに違いあるまい。
そこで私の単純な疑問は、どれぐらいまともにつくられたものだろうか、ということである。
常識では最大限の節約をしてもこれぐらいの価格で出来るだろうと真面目に計算したのだろうと思いたい。そうであるなら落札率が限りなく『工事予定価格』にいくら近かろうと、それは当然のことであって、誰も文句を云う筋合いのものではない。しかし、なにがきっかけになったにせよ、平均して95%を上まわった落札率が80%台前半になったとすると、これは問題である。それで工事が出来るということは、公団側の『工事予定価格』の算出に甘さがあったことになり、責められるのはいい加減な数値をだした公団側にある。この点の指摘が『談合問題』から完全に欠落しているのは私には納得がいかない。
道路公団の職員は『工事予定価格』の算出に少々ミスがあろうとなかろうと痛くもかゆくもない。一方工事を受注する側は仕事が回ってこなければおまんまの食い上げになるから真剣にならざるを得ない。『談合』もそのなかから生まれたのであろうが、『工事価格』だけに限ってもそのの算出にあたって受注側では真剣にならざるを得ない。出血受注では話にならないからである。
ここで私は『工事予定価格』の算出にあたって、道路公団側はプロ意識に徹していないと云いたい。プロ意識に徹しているのであれば落札率が高ければ高いほど算出が真面目であったと誇れるのである。落札率が低ければ己の手落ちを恥じなければならない。ところが現実はどうか。業者に80%台の落札率を許すのである。いかに当初の算定がいい加減なものであったかのしるしである。これでは工事価格の計算を業者に丸投げしていることになる。
道路公団側の『工事予定価格』がこのようにいい加減なものだから、これをもとに落札率を論じても得るところは少ない。受注価格がまともな計算以外の要素で決まってくるのも不思議ではない。これでは受注者側の談合はもとより、工事発注側と受注側の馴れ合いが長年の慣習のようになっていたのも当たり前のことであって、奥田経団連会長の言葉を待つまでもない。既に『談合』は『日本文化』として定着しているのだから。
『文化大革命』はおおごとである。しかしこの文化は無駄を省くためにも変えなければならない。ではどうすればいいのか。私の提案の要点は『工事予定価格』の公表による従来の入札制度の抜本的改革である。
道路公団は『工事予定価格』を算出する真のプロ集団を作る。
その価格を公表して受注業者をひろく公募する。
受注業者は公表された価格計算の内訳書を徹底的に精査して、工法、材料等々少しでも安くあげられるところを見つけだし、それを自社の『工事価格』に反映させて応募する。
道路公団側はなぜ自分たちの算定価格よりも低い価格で工事が可能になるのか、応募者と徹底的に討議して応募者は公団側を納得させなければならない。いくら『工事価格』が低くても、公団側のプロ集団を納得させられなかったら受注は出来ない。公団側はこのステップを繰り返し、プロ集団の誇りにかけて納得できる最低価格を提示した応募者に工事をゆだねることにする。この方法のいろんな利点をとくに数え上げるまでもなかろう。
私の提案では道路公団のOBの居所というか指定席は受注者側のどこにも設けられていない。受注者側に必要性がないからである。しかし反面『真のプロ』の相互引き抜きが常態になるかも知れない。
奥田経団連会長は記者会見でこのようにも述べている。
「天下りと官製談合との間にどのような関係があるのかわからない。この問題については時間をかけて検討してみたい」
奥田会長が「天下りと官製談合との間にどのような関係があるのか」お分かりでないはずはない。トーンダウンしたにせよ一度は中央省庁からの天下りの受け入れ停止を表明しているのだから。私の提案では『天下り』は消滅せざるを得ない。『天下り』のを年額報酬を計算に入れるととうてい受注可能な価格を提示できないからだ。
この『談合』に関して奥田経団連会長が7月11日の定例記者会見で「全国津々浦々に行きわたっている慣習のようなもので、地方では仕事を回しあっているワークシェアリング。本当にフェアな戦いをすれば、力の強いところが勝ち、弱いところが沈んでしまう」と述べた。また、談合が納税者や消費者からみれば落札価格の高値維持を招きマイナスになるとの問いに対して、奥田会長は「経済的な影響がどう出るかはそう簡単にはわからない」と述べた。
経団連の会長としては相当思い切った発言だと受け止める向きもあるが、私はそうは思わない。これまで誰もが知っている当たり前のことを云ったに過ぎないからだ。マスメディアも知っていて書かなかっただけ。それをもう何十年も前から行われていた、なんて始めて知ったかのように報じられた読者はただ白々しく思っているだけなんだから。
そして今日お昼のテレビに猪瀬直樹氏が出演して、談合が存在している証拠として過去の落札率が工事予定価格に軒並みかなり近いところで納まっているとのデータを提示していた。ところが談合問題が表に出て世間を憚るようになると落札率が一気に10%ほど低下しているのである。だから猪瀬氏によると談合のせいで少なくとも10%程度が納税者や消費者の余分な負担になっていたということになる。
このように数字ではっきりと示されると猪瀬氏の主張がすんなりと心の中に入ってくる・・・、と云いたいのだが、それよりも私の心に引っかかったのは『工事予定価格』なるものであった。
『工事予定価格』は誰が決めたのだろう。
またどのようにして算出されたのだろう。
発注側の道路公団がたとえ何処かに委託したにせよ作ったものに違いあるまい。
そこで私の単純な疑問は、どれぐらいまともにつくられたものだろうか、ということである。
常識では最大限の節約をしてもこれぐらいの価格で出来るだろうと真面目に計算したのだろうと思いたい。そうであるなら落札率が限りなく『工事予定価格』にいくら近かろうと、それは当然のことであって、誰も文句を云う筋合いのものではない。しかし、なにがきっかけになったにせよ、平均して95%を上まわった落札率が80%台前半になったとすると、これは問題である。それで工事が出来るということは、公団側の『工事予定価格』の算出に甘さがあったことになり、責められるのはいい加減な数値をだした公団側にある。この点の指摘が『談合問題』から完全に欠落しているのは私には納得がいかない。
道路公団の職員は『工事予定価格』の算出に少々ミスがあろうとなかろうと痛くもかゆくもない。一方工事を受注する側は仕事が回ってこなければおまんまの食い上げになるから真剣にならざるを得ない。『談合』もそのなかから生まれたのであろうが、『工事価格』だけに限ってもそのの算出にあたって受注側では真剣にならざるを得ない。出血受注では話にならないからである。
ここで私は『工事予定価格』の算出にあたって、道路公団側はプロ意識に徹していないと云いたい。プロ意識に徹しているのであれば落札率が高ければ高いほど算出が真面目であったと誇れるのである。落札率が低ければ己の手落ちを恥じなければならない。ところが現実はどうか。業者に80%台の落札率を許すのである。いかに当初の算定がいい加減なものであったかのしるしである。これでは工事価格の計算を業者に丸投げしていることになる。
道路公団側の『工事予定価格』がこのようにいい加減なものだから、これをもとに落札率を論じても得るところは少ない。受注価格がまともな計算以外の要素で決まってくるのも不思議ではない。これでは受注者側の談合はもとより、工事発注側と受注側の馴れ合いが長年の慣習のようになっていたのも当たり前のことであって、奥田経団連会長の言葉を待つまでもない。既に『談合』は『日本文化』として定着しているのだから。
『文化大革命』はおおごとである。しかしこの文化は無駄を省くためにも変えなければならない。ではどうすればいいのか。私の提案の要点は『工事予定価格』の公表による従来の入札制度の抜本的改革である。
道路公団は『工事予定価格』を算出する真のプロ集団を作る。
その価格を公表して受注業者をひろく公募する。
受注業者は公表された価格計算の内訳書を徹底的に精査して、工法、材料等々少しでも安くあげられるところを見つけだし、それを自社の『工事価格』に反映させて応募する。
道路公団側はなぜ自分たちの算定価格よりも低い価格で工事が可能になるのか、応募者と徹底的に討議して応募者は公団側を納得させなければならない。いくら『工事価格』が低くても、公団側のプロ集団を納得させられなかったら受注は出来ない。公団側はこのステップを繰り返し、プロ集団の誇りにかけて納得できる最低価格を提示した応募者に工事をゆだねることにする。この方法のいろんな利点をとくに数え上げるまでもなかろう。
私の提案では道路公団のOBの居所というか指定席は受注者側のどこにも設けられていない。受注者側に必要性がないからである。しかし反面『真のプロ』の相互引き抜きが常態になるかも知れない。
奥田経団連会長は記者会見でこのようにも述べている。
「天下りと官製談合との間にどのような関係があるのかわからない。この問題については時間をかけて検討してみたい」
奥田会長が「天下りと官製談合との間にどのような関係があるのか」お分かりでないはずはない。トーンダウンしたにせよ一度は中央省庁からの天下りの受け入れ停止を表明しているのだから。私の提案では『天下り』は消滅せざるを得ない。『天下り』のを年額報酬を計算に入れるととうてい受注可能な価格を提示できないからだ。