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日々是好日

身辺雑記です。今昔あれこれ思い出の記も。ご用とお急ぎでない方はどうぞ・・・。

『橋梁談合』を糾弾する前に ― 奥田経団連会長の当たり前の発言に思う

2005-07-13 16:13:05 | 社会・政治
昨日(7月12日)日本道路公団発注の橋梁工事をめぐる談合事件で、独占禁止法(不当な取引制限)違反容疑で同公団元理事たち5人が逮捕された。

この『談合』に関して奥田経団連会長が7月11日の定例記者会見で「全国津々浦々に行きわたっている慣習のようなもので、地方では仕事を回しあっているワークシェアリング。本当にフェアな戦いをすれば、力の強いところが勝ち、弱いところが沈んでしまう」と述べた。また、談合が納税者や消費者からみれば落札価格の高値維持を招きマイナスになるとの問いに対して、奥田会長は「経済的な影響がどう出るかはそう簡単にはわからない」と述べた。

経団連の会長としては相当思い切った発言だと受け止める向きもあるが、私はそうは思わない。これまで誰もが知っている当たり前のことを云ったに過ぎないからだ。マスメディアも知っていて書かなかっただけ。それをもう何十年も前から行われていた、なんて始めて知ったかのように報じられた読者はただ白々しく思っているだけなんだから。

そして今日お昼のテレビに猪瀬直樹氏が出演して、談合が存在している証拠として過去の落札率が工事予定価格に軒並みかなり近いところで納まっているとのデータを提示していた。ところが談合問題が表に出て世間を憚るようになると落札率が一気に10%ほど低下しているのである。だから猪瀬氏によると談合のせいで少なくとも10%程度が納税者や消費者の余分な負担になっていたということになる。

このように数字ではっきりと示されると猪瀬氏の主張がすんなりと心の中に入ってくる・・・、と云いたいのだが、それよりも私の心に引っかかったのは『工事予定価格』なるものであった。

『工事予定価格』は誰が決めたのだろう。
またどのようにして算出されたのだろう。

発注側の道路公団がたとえ何処かに委託したにせよ作ったものに違いあるまい。
そこで私の単純な疑問は、どれぐらいまともにつくられたものだろうか、ということである。

常識では最大限の節約をしてもこれぐらいの価格で出来るだろうと真面目に計算したのだろうと思いたい。そうであるなら落札率が限りなく『工事予定価格』にいくら近かろうと、それは当然のことであって、誰も文句を云う筋合いのものではない。しかし、なにがきっかけになったにせよ、平均して95%を上まわった落札率が80%台前半になったとすると、これは問題である。それで工事が出来るということは、公団側の『工事予定価格』の算出に甘さがあったことになり、責められるのはいい加減な数値をだした公団側にある。この点の指摘が『談合問題』から完全に欠落しているのは私には納得がいかない。

道路公団の職員は『工事予定価格』の算出に少々ミスがあろうとなかろうと痛くもかゆくもない。一方工事を受注する側は仕事が回ってこなければおまんまの食い上げになるから真剣にならざるを得ない。『談合』もそのなかから生まれたのであろうが、『工事価格』だけに限ってもそのの算出にあたって受注側では真剣にならざるを得ない。出血受注では話にならないからである。

ここで私は『工事予定価格』の算出にあたって、道路公団側はプロ意識に徹していないと云いたい。プロ意識に徹しているのであれば落札率が高ければ高いほど算出が真面目であったと誇れるのである。落札率が低ければ己の手落ちを恥じなければならない。ところが現実はどうか。業者に80%台の落札率を許すのである。いかに当初の算定がいい加減なものであったかのしるしである。これでは工事価格の計算を業者に丸投げしていることになる。

道路公団側の『工事予定価格』がこのようにいい加減なものだから、これをもとに落札率を論じても得るところは少ない。受注価格がまともな計算以外の要素で決まってくるのも不思議ではない。これでは受注者側の談合はもとより、工事発注側と受注側の馴れ合いが長年の慣習のようになっていたのも当たり前のことであって、奥田経団連会長の言葉を待つまでもない。既に『談合』は『日本文化』として定着しているのだから。

『文化大革命』はおおごとである。しかしこの文化は無駄を省くためにも変えなければならない。ではどうすればいいのか。私の提案の要点は『工事予定価格』の公表による従来の入札制度の抜本的改革である。

道路公団は『工事予定価格』を算出する真のプロ集団を作る。
その価格を公表して受注業者をひろく公募する。
受注業者は公表された価格計算の内訳書を徹底的に精査して、工法、材料等々少しでも安くあげられるところを見つけだし、それを自社の『工事価格』に反映させて応募する。

道路公団側はなぜ自分たちの算定価格よりも低い価格で工事が可能になるのか、応募者と徹底的に討議して応募者は公団側を納得させなければならない。いくら『工事価格』が低くても、公団側のプロ集団を納得させられなかったら受注は出来ない。公団側はこのステップを繰り返し、プロ集団の誇りにかけて納得できる最低価格を提示した応募者に工事をゆだねることにする。この方法のいろんな利点をとくに数え上げるまでもなかろう。

私の提案では道路公団のOBの居所というか指定席は受注者側のどこにも設けられていない。受注者側に必要性がないからである。しかし反面『真のプロ』の相互引き抜きが常態になるかも知れない。

奥田経団連会長は記者会見でこのようにも述べている。
「天下りと官製談合との間にどのような関係があるのかわからない。この問題については時間をかけて検討してみたい」
奥田会長が「天下りと官製談合との間にどのような関係があるのか」お分かりでないはずはない。トーンダウンしたにせよ一度は中央省庁からの天下りの受け入れ停止を表明しているのだから。私の提案では『天下り』は消滅せざるを得ない。『天下り』のを年額報酬を計算に入れるととうてい受注可能な価格を提示できないからだ。

私の『靖国神社』問題 ― 後藤田正晴さんと多くの共通点

2005-07-13 09:32:21 | 社会・政治
『靖国神社』について自分なりに整理して、天皇陛下に参拝していただける靖国神社であって欲しい、というのが私の結論であった。

《何が天皇陛下の靖国参拝を妨げているのであろう》と問いかけて、これは《天皇陛下にお伺いするしかないのである》としばらく考えに時間を置くことにした。

ところが今朝の朝日新聞に中曽根内閣の官房長官であった後藤田正晴さんへの『戦後60年』インタビュー記事が《A級戦犯には「結果責任」》の見出しで掲載されている。それを読むと私の考えと共通するところが多いのに感銘を受けて、また書き連ねることになった。

後藤田氏はこのように云われる。

「僕は陸軍で6年間、軍務に従事した。敗戦についてそれなりの負い目を感じていた。だが、46年4月に復員したとき、『一億総懺悔』という言葉を聞き、どういうことなのかと強い疑問をもった。一般の国民は国の方針に従って命令されて戦いに赴き、あるいは銃後を守った。国全体が戦争に負けた無念さを共有するというのはわかるが、全国民が責任を負うというのは納得できなかった」

まったくその通り。
一言付け加えると、『被害を被った国』に対しては日本国民は等しく責任を共有するというのが私の考えである。

「A級戦犯といわれる人たちが戦争に勝ちたいと真剣に努力したことを誰も疑っていない。しかし、天皇陛下に対する補弼の責任を果たすことができなかった。国民の多くが命を落とし、傷つき、そして敗戦という塗炭の苦しみをなめることになった。そのことに、結果責任を負ってもらわないといけない」

まったくその通り。

「日本国民としても、敗戦の結果責任を負って貰わなくてはならない人たちを神にするのはいかがなものか、という疑問があることだろう」

まったくその通り。

「国民の多くは、戦死者をまつる中心的施設は靖国神社だと考えている。戦死者自身、靖国神社にまつられたことで安らぎを感じているはずだ。新施設ができると、そうした安らぎが壊れ、ご遺族にたいし申し訳ないことになるのではないか」

まったくその通り。

「一番いいのは、合祀されているA級戦犯のご遺族が、それぞれの家庭に引き取って静に慰霊なさることだとう」

私の考えを推し進めていくと先ず最初この提言に繋がることが目に見えていたが、しばらく時間をを置くつもりでいたところ、後藤田さんはサラリと云われた。現時点では最も現実的な選択肢であると思う。

後藤田さんと私は親子に近い年齢差がある。しかしこの『靖国神社』問題についてもかくも多くの点で考えが共通するのに因縁を思った。かって老若男女『億兆心を一にして』ひたすら戦争勝利に向けて邁進した絆の証しかと私はニヤリとしたのである。

もしお時間があれば『靖国神社』問題について私の考えの軌跡にお目通しください。

私の『靖国神社』問題 ― 知らないことだらけ
私の『靖国神社』問題 ― 英霊は納得しているのか
天皇、皇后両陛下のサイパン島ご訪問と私の私の『靖国神社』問題
私の『靖国神社』問題 ― 『A級戦犯』を『犯罪人』とは思えないが・・・
私の『靖国神社』問題 ― 東条英機元首相の心の内は?
私の『靖国神社』問題 ― 天皇陛下にお伺いするしか・・


京都の夏は祇園祭

2005-07-12 22:26:33 | Weblog

祇園祭に向けていよいよ鉾の組み立てが始まった。

京都で用を済ませて地下鉄烏丸御池で下車、室町通りを下るとほぼ出来上がった菊水鉾に出会った。夕方一時的にかなり強い雨が降ったせいだろうか懸装品などはビニールシートで覆われていた。

四条通に出ると右手には月鉾が見えた。既に組み立ては終わっていたが人影はなかった。



左手には函谷鉾が出来上がっていた。すでに提灯に火がはいり人も登っている。そしてはやくも祇園囃子が始まった。いよいよこれから夏の京都を彩る祇園祭の前景気である。

通りすがりに携帯で鉾の姿をおさめた。




『パイプ』をくゆらせていた頃

2005-07-11 17:06:49 | 読書

昨日整理したフィルムに混じって白黒のプリントも沢山あった。そのなかに思いがけない儲けものがあった。私がパイプを燻らせているのである。その唯一の証拠写真だと思う。どのような状況であったかのか記憶にないが場所は間違いなく覚えている。現在大阪市立科学館の建っているところである。

第二室戸台風による高潮で研究室が水没してしまったが、実はその時に完成すれば移るはずであった新しい研究所の建設が始まっていた。株式会社壽屋(現社名をご存じの方は相当のご年配)の創業60周年記念行事の一環として、酵素化学を中心とした生化学研究のための研究所が大阪大学に寄贈されることになっていたのである。そして理学部の北棟の西方延長線上に建てられた4階建てのスマートな建物は鳥井記念館『酵素研究所』と命名された。一階が機械室に培養室で2、3、4階をそれぞれ分野の異なる研究室が占めることになっていたが、私の所属する研究室が2階に一番乗りした。全研究室が水没した事情が考慮されたのであろうか、高潮の翌1962年5月に早くも移転が完了した。

新しい研究室は夢のような環境であった。もちろん冷房室完備、摂氏5度にちゃんと保たれている。さらに生体材料凍結保存のための冷凍室まで備えられていた。また測定室は摂氏20度に保たれた恒温室で最新鋭の高価な測定器が部屋の主であった。

一方泣き所もあった。リフトが無いのである。大型の実験機器などはクレーン車を使って搬入された。しかし日常の物品はみな手で運ばなければならなかった。一番こたえたのが窒素などの入った『ボンベ』の運搬であったが、30代の私は多分50kgを超えたであろうボンベをひょいっと肩に担ぎ、弾みをつけて2階まで駆け上がったものである。幸い途中で落とすようなことは一度もなかった。

建物は出来たがメンテナンスの人員はゼロ、日常の保守点検は大学院生など若手研究者が分担した。クーラーの冷却水が屋上に送られてどう呼ぶのであろうか、かなり大きな箱形装置の上部からメッシュを伝わって落下する水流に大きな扇風機からの冷風が吹き付けられた。ゴミを取り除いたり貯めの水位を一定に保つように毎日のように点検していた。給水に排水、そして電気系統の保守など、ビルの保守管理のアルバイトなら出来そう、と冗談を言い合ったものである。そして手に負えない異常があるとやむを得ず業者に連絡してきてもらう。『須賀工業』という施工業者であった。

後年思いがけないところでこの『須賀工業』に出会った。
私はかねてから、数年前に亡くなったが、須賀敦子さんの書かれたものを愛読している。亡夫君がイタリア人でイタリア生活が長く、暖かいゆったりとした眼差しで眺めたイタリアの生活の描写がなかなか魅力的だからである。さらに筑摩書房から出版された「遠い朝の本たち」に出てくる昔に読まれた数々の本が私の思い出と重なるのがまた楽しかった。女のくせして(失礼!)少年講談集の「猿飛佐助」に「霧隠才蔵」、田河水泡の「のらくろ二等兵」や澤田謙の「プルターク英雄伝」を読んでいたとは、と親近感を抱いてしまった。

この須賀敦子さんがこの『須賀工業』のお嬢さんであったらしいのである。道理で優雅な話がさりげなく出てくるのも納得できた。《私が六歳のとき、父は、当時そう呼ばれた世界一周の旅をした》とか、《麻布に住んでいたころ、私と一つ違いの妹とは、二階の洋間に大きなベッドを二台ならべて寝ていた》等々である。不思議な因縁を感じたといえる。

ところで上の写真である。この建物の正面入り口の上に庇が横に長く張り出していたと思う。何故庇にわざわざ降り立ったのか記憶にはない。しかしその光景をカメラに収めるなにか特別の機会であったことは間違いない。まあ、それにしても暖炉の前の安楽椅子にどっかりと身を沈めてならともかく、私の庇の上のパイプ姿はどうにも様にならない。それでも本人は一端にダンディーぶっていたのだから若さとはこわいものである。

建物は消えてしまったがここに写っている8人全員が三十数年の齢をそれぞれ重ねて健在であるのが嬉しい。

さくら丸で神戸を出航

2005-07-10 17:47:58 | 海外旅行・海外生活

雨の日曜日、外に出る気もしないのでふだん手を出しかねている『がらくた箱』の一つを開けてみた。亡父が残したフィルムなどが入っている。白黒のネガなので見づらいがテープの沢山垂れ下がったような光景が何駒も続いている。どうも私たちが1966年7月に渡米したときの神戸港での出航風景らしい。そこでスキャナーで取り込むことにした。写真はかれこれ40年前のものである。写っている人物は本人でも自分だとは分からないだろうからてを加えずにご覧に入れることにする。

神戸港の第四突堤は上屋のない頃で埠頭からタラップで乗船した。その辺りの様子がこの写真からうかがわれる。



乗り込んだのが『さくら丸』、Mitsui OSK Linesが運航していたことが分かる。



出航の際は私一人だけが甲板に出ていた。妻は二人の幼児をかかえて船室に残っていた。先がどうなることやらさっぱり様子も分からないのに、屈託もなげにひときわ表情の明るいのが私である。やがて『深刻な問題』に対面することなど夢にも思っていなかったのである。



『がらくた箱』の中に縁がすり切れて中身の出かかった封筒があった。その中にどうしたことか『さくら丸』の食事メニューが一片紛れこんでいた。今から見てもなかなか豪華な食事である。なんせこれがお昼のランチなのだから夜のディナーは推して知るべし。それにお茶の時間が午前と午後にあった。

引き揚げ船『こがね丸』で荒波の玄界灘を渡ったときもそうであったが、この『さくら丸』の全航程で私は船酔いに悩まされることもなく極めて快適であった。ところが私より鈍感であるはずの妻が横浜を出航間もなく船酔いにかかり気分が悪いと訴える。やむを得ず私が子供二人を連れて食堂に出かけることも再々あった。

妻は医務室を訪れて酔い止めの薬を貰った。同じように船酔いにかかった船客が徐々に元気を回復してきても妻の容体は一向に良くならない。ところがある日医務室から帰ってきた妻が薬を飲まないように、と医者に言われたとのこと。なんと船酔いが長引くのはひょっとしてつわりのせいではないか、というのである。これが『深刻な問題』の発端であった。

1958年に西ドイツで開発されたサリドマイドという薬品は、妊婦のつわりを緩和して安眠を約束するはずのものであった。ところが1961年11月、西ドイツの小児科医レンツ博士がサリドマイドの副作用で奇形児が生まれる可能性があるとの警告を発したのである。これを切っ掛けに、西ドイツをはじめヨーロッパの諸国では即座に薬剤の製造中止と製品回収が行われた。ところで日本ではその対策が遅れ(この時も後手後手の厚生省であった)、サリドマイド剤である睡眠薬(イソミン)を製造元の大日本製薬が製造、出荷中止したのは1962年5月であった。そして日本でサリドマイドの副作用により約900人の奇形児が生まれたのである。

私どもが日本を離れる前にはサリドマイド奇形児が大きな社会問題になっていた。従って妊婦に対して投与する薬剤の副作用については用心の上用心を重ねても注意のし過ぎということはない。だからたとえ短期間といえども酔い止めに睡眠薬を服用していたので、妻の妊娠が確実になってからは出産まで心の澱は消えなかった。

乗船して間もなく船医を紹介され専門が産婦人科と聞いて、そんな先生がまたなぜこの船に、なんて妻と冗談話にしていたのに、その一番の恩恵を受けたのは私たちであったようである。お陰様で翌3月五体満足な息子をアメリカの地で授かった。

今でも妻は『さくら丸』の食事を心ゆくまで味わえなかったことを託つ。
このメニューをだから見せるわけにはいかない。

ラッセル・スクエア地下鉄駅

2005-07-09 13:44:37 | 海外旅行・海外生活

七夕の日の朝、ロンドンで同時多発テロが発生した。あたかもエディンバラの近くでサミットが始まったばかりで、その時期が狙われたようである。地下鉄、バスの交通機関がターゲットになり爆発の起こった場所がテレビで報じられる中、ラッセル・スクエア駅の名前がテレビ画面に現れた時には胃の腑に鉛の棒を突っ込まれた思いがした。この駅が私を初めてロンドンに導いてくれたからである。

1976年にヨーロッパを一ヶ月かけて訪れることになった。その年の夏アメリカ、ニューヨーク州の州都オルバニに四ヶ月滞在していたが、その間を利用してのヨーロッパ訪問であった。費用節約のために飛行機は調べた限り一番安いアイスランド航空を選んだ。ニューヨークからアイスランドのレイキャビクを中継してルクセンブルグに到る、その往復である。ヨーロッパ内の移動は汽車の旅に憧れていたので贅沢ではあるがユーレイルパスを使うことにしたが、宿は安上がりのところを探すことにして「1日10ドルのヨーロッパ」なる『案内書』を購入、それを頼りとにした。予約もなしに直接訪ねての『真剣勝負』であった。

ロンドンで先ず訪れたいのが大英博物館であった。そこでじっくりと時間を過ごしたい。となると宿もその近くがいい。『案内書』を見ると有難いことに大英博物館周辺は安ホテルが集中していることで有名らしい。『たぐいまれな魅力のあるCartwright Gardens』が私の目を捉えた。通りの突き当たりが樹木で囲われた広場になっていて、ロンドン大学に属するテニスコートと一緒に19世紀に建てられたタウンハウスが2ブロック、半月状に立ち並んでいると言うのである、いわゆるB&Bで、大英博物館までは1km前後は離れているが徒歩で10分程度なのでそこを宿泊予定地とした。



このCartwright Gardensに一番近そうな地下鉄駅がラッセル・スクエア駅であった。ドーバー海峡をフェリーで渡り、ユーレイルパスの効かない英国鉄道で着いたのがヴィクトリア駅ではなかったかと思う。地下鉄に乗り換えラッセル・スクエア駅に無事到着、目指すCartwright Gardensで幸いチェックインすることが出来た。ホテルの名前はCrescent Hotel、シングルが一泊4ポンドもしくは$8.40であった。1日10ドルではあと食事を抜かないといけないがそれは『案内書』のお愛嬌というものであろう。

ホテルから大英博物館には何日か通った。その途中、通り抜けたのがラッセル・スクエア公園。ロンドンでも最も大きなスクエアで頑丈なベンチがあちらこちらに置かれているのでぼんやりと時間を潰すにはもってこいの場所であった。詩人T.S.Elliotが1965年までの40年間、しばしば此処を訪れたとのこと、近くの出版社に出入りしていたらしい。東側にはヴィクトリア朝時代を代表する建造物であるRessel Hotelが偉容を誇っていたが、私はただの通行人、中を通り抜けるだけであった。

ロンドンに初めて滞在したときの印象に囚われたというか、その後何回となくロンドンを訪れたがこの周辺に泊まるのが習性のようになった。Cartwright Gardensに戻ってきたこともあるが、いつの間にかMontage Street沿いのホテルを予約するように私も変わってきた。そして大英博物館周辺の徘徊を楽しんではラッセル・スクエア駅に足を伸ばすのであった。この駅から私のロンドンへの、さらには英国への道が始まっただけにひとしおの思いがあったからである。

ラッセル・スクエア駅に初めて着いて地上に出ようとするとエレベーターしかなかったのに戸惑った。2基か3基だったか乗降口に密集した乗客が巨大なスペースのエレベーターに吸い込まれていく。地上に着いたら入り口と反対側のドアが開いて出て行く。乗降客が多い駅とみえてガラガラの時はなかった。かなり深いところにプラットフォームがあるとみえてエスカレーターは最初から考えられていなかったのであろう。それで一度酷い目にあったことがある。

ヒースロー空港に出るために大きなスーツケースを持って駅までやって来たところいつもと様子が違う。入り口がごった返しているので様子を確かめたところなんとエレベーターが動かないというのである。地下鉄に乗りたければ非常階段を使えとのことで仕方なしに横の扉から前の人に続いて入るとなんとこれが狭い狭い螺旋階段である。一瞬ひるんだが「エイッ」とばかりにスーツケースを片手に降り始めた。しばらく降りては休んで後ろの人に先に行って貰い、なんてことを繰り返し繰り返しようようの思いで下まで降りたがなんと長かったこと。優にビルの5、6階分はあったのではなかろうか。これが降りる方だからよかったものの、もし登る方なら完全にグロッキーになっていただろうと恐ろしく思った。

テロ攻撃でラッセル・スクエア駅での状況がどうなのか、もうひとつはっきりと伝わってこない。駅間で車両が爆破されて犠牲者が駅へ、そして地上へ運び出されているのだろうか。せめてエレベーターだけは正常に動いていて救助活動に支障を来さないようにとただ祈るのみである。

『ゴッホ展』にアルルを想う

2005-07-08 14:50:21 | 海外旅行・海外生活

アルルはゴッホにとって特別の土地であったようだ。
1882年2月下旬にアルルに着いてから友人や近親者に送った手紙にこのようなくだりがある。

「この地方が空気の透明さと明るい色彩の効果のために僕には日本のように美しく見える」
《アルル近郊の花畑》が「まるで日本の夢のようだ」
「僕はここで日本にいるのだ、といつもそう思っている」(van Gogh in Contextから)

日本浮世絵の明るい色彩が南仏アルルでは満ちあふれていたのだろう。

一方アルルはゴッホにとって芸術家のユートピアを実現するところでもあった。芸術家が集団で制作しながらお互いの生活を支え合う共同体の拠点が《黄色い家》で知られる家屋であった。ここでゴッホは傾倒するゴーギャンと共同生活を始めるがあの『耳切り事件』でその生活ははやくも壊れる。二ヶ月少々の日々であった。

そのアルルを私が訪れたのは2002年4月、アヴィニョンに数日滞在してそこから列車での日帰り小旅行であった。お目当ての一つが《夜のカフェテラス》のモデルとなったカフェで、観光案内所で貰った案内図と磁石を頼りに探すことにした。この観光案内図なるもの、無料で貰って注文をつけるのもなんであるが、国外であろうと国内であろうと適当に描かれているのが多くてあまり役に立たない。通りの名前から地図上での位置を見つけだすのも難しいし、地図から実際の通りを見つけるのも難しい。地図では通り、小道が結構省かれ
ているし、また距離表示が正確からほど遠いことが多いからである。

それでもCAFE VAN GOGHをなんとか探し当て、お昼時でもあったので昼食を摂ることにした。



ここでちょっとしたハプニングがあった。妻とそれぞれ違う料理を注文したが、その一つが注文と違ってしかも値段の高いのを持ってきている。ウエイトレスに間違いを指摘しても「間違っていない」と言い張る。そこでオーダーしたときのやりとりを再現してようやく彼女が間違っていたことを認めさせた。となると私も日本紳士、せっかく持ってきたのだからそれでいいよ、と鷹揚に頷いたのである。「メルシー」としおらしくなった彼女、そしていざ勘定を済まようとするとなんと最初に注文した安い方の値段で計算している。自分の勘違いに気づいたらそのあとの態度が潔い。『アルルの娘』の素直さに心を打たれたのでチップにその差額を上乗せして店を出た。

お目当てのもう一つは《アルルの病院の中庭》である。ゴッホが自分で耳たぶを切ったあと療養生活を送った病院あとで、ここは簡単に見つかった。中庭を取り囲むように回廊があって、そこに土産物店を始めいろんな店が入っている。中庭は《アルルの病院の中庭》に従って復元されたようで、その出来映えを絵の『複製』と比較して確かめることが出来る。



実は跳ね橋で知られる《ラングロワの橋》がアルルの郊外にあって行ってみたかった。アルルの鉄道駅からタクシーで行けないこともなかったが、列車の時間がギリギリになりそうなので慌ただしく訪れるところでもあるまい、といさぎよく断念した。

《夜のカフェテラス》を所蔵するクレラー・ミュラー美術館はアムステルダムから鉄道で2時間余りのところにある。これまで訪れるチャンスがなかったが、今回のゴッホ展にこの美術館からゴッホアルル時代の作品がほかにも《種まく人》《公園の小道》《ミリエの肖像》《子守女(ルーラン夫人の肖像》と出品されているのが嬉しかった。《夜のカフェテラス》とのご対面はわれわれミーハー夫婦にとってこたえられない出来事であったのである。

さらにはサン=レミ郊外の療養所時代の作品もクレラー・ミュラー美術館から出展されており、ゴッホ晩年の緑と青の鮮やかな色彩を堪能できたのが大きな収穫であった。

国立国際美術館は大阪大学理学部跡にあった

2005-07-07 17:44:31 | Weblog
前日からつづく

この大阪大学理学部跡に関西電力が資金を提供して出来たのが大阪市立科学館であるとのこと。その地下階が国立国際美術館になっていて地下三階が今回の『ゴッホ展』の会場になっていたのである。

私は昭和30年代のはじめの7年間をこの理学部で過ごした。正面から眺めると南北に建物が広がり、その両端と中央から三棟が西側に伸びていて、私が居住していた研究室は中央棟の地下にあった。田蓑橋から南下して筑前橋に向かう通りから少し高所にある正面玄関には車寄せが通じていた。さらに正面階段をを上り右手に守衛室のあるホールを通り過ぎ数階段上ると廊下が南北に走る。すこし左(南方向)に折れると入り口方向に戻るかたちで階段の降り口があり、踊り場で折り返して地下廊下に達する。やや右に折れると西側に延びる長い廊下がありその突き当たり左側に研究室があった。ここが4年生の卒業実験から大学院の博士課程を終えるまで私の生活の拠点であった。

想い出を辿るとキリがない。

正面の北端には門衛所のような小さな建物があってそこは理容室になっていた。私の恩師も愛用なさっていたようである。洗髪の際には電熱かガスコンロで暖めたのであろうかアルマイトのヤカンから頭に湯を注いでいる光景を目にしたものである。ヤカンに恐れをなしたわけではなく、そういう偉い先生方が順番待ちをされているようなので、学生の分際では恐れ多いとばかり敬遠していた。

私たちの研究室から中庭を隔てて見える南棟には化学系の研究室が入っていた。時々人が慌ただしくバタバタと走り回る一幕がある。アミノ酸の合成か青酸を使う実験をしていて洩れた青酸ガスを吸った研究者がバタッと倒れる。その救出作戦を「またやった」と私たちは高見の見物をしていた。「ドタッと音がした」とか言って臨場感を掻き立ててくれる人もいた。死者が出ることは無かったと思う。さすがベテランの研究者、青酸ガスの吸い加減を心がけていたのだろうか。

化学系の研究室の並びに私の所属する研究室のほかの実験室があった。一つの研究室に全部で五つ六つの実験室が割り当てられていたそのうちの一つである。何かあらたまった会合の後であろうか一張羅を着込んでストーブを囲んで先輩たちと雑談をしていた時のことである。ストーブといってもガスの大きめのリングバーナーの上に、空気抜きの穴を適当に開けた石油缶を裏返しに乗っけただけの物である。「おい、臭いぞ」と言われて下を見ると私のズボンが燻っている。灼熱した石油缶の横壁に接触したらしい。初めて誂えた一張羅を台無しにして母親の目から隠すのに往生したことがあった。

理学部と田蓑橋の架かっている堂島川のの間に医学部があった。
その一郭にある建物の一階が食堂になっており、昼食を摂りに出かけることもあった。この建物にはなにか名称が付いていたと思うが今は思い出せない。その三階かが講堂になっていて全学の卒業式などがそこで執り行われた。記憶がはっきりしているのは巡り合わせで私が在学生総代として卒業生に「はなむけの言葉」を送ったことがあるからである。遠い昔のこと、これで卒業式に出たことにして自分の卒業式には実験多忙を口実に出なかったことを覚えている。

この食堂で「すげい」が献立に上ることがままあった。別にスゲ~わけでもなんでもない。漢字で書くと「酢鯨」になる。豚より鯨の安かった時代、豚の代わりに鯨を使っただけのことであるが、けっこういけたので「すげい」が献立にあるときはいつも注文したものである。

この建物に行くには正面玄関を出て田蓑橋に向けてしばらく北行して左手に入る。しかし私の研究室から裏をまわって医学部の構内を通り裏口から入ることも出来る。あるとき通りすがりの建物の木枠の窓が空いているので何気なく中を覗き込んでギョッとした。台に人体が横たわって頭部が窓の方を向いている。頭部といっても普通の頭ではない。頭の天辺がぱくっと開いて脳が露出しているのである。頭蓋骨の上部をのこぎりで輪切りにしてちょうどお椀の蓋を開けた状態になっていた。法医の部屋だったがお昼時で解剖担当者が席を外していたのかも知れない。

理学部正面玄関を出て通りの向かい側に以前ブログに書いた炭屋兼氷屋があったのである。実験の合間に仲間とよく屯した喫茶店も通りを隔てて二軒あり、その一つはたしか「ボア」という名前であったと思う。この想い出に残る建物は綺麗さっぱりと消え去っていて関電の建物に取って代わられていた。

昭和36年9月の第二室戸台風で堂島川が氾濫、大洪水になり地下の部屋はほぼ完全に水没して研究を中断することになったが、このことはまたあらためて述べることにする。回想から離れてまずは『ゴッホ展』に戻らないといけない。

国立国際美術館『ゴッホ展』で甦ったこと

2005-07-06 17:45:33 | Weblog
『ゴッホ展』に出かける前に会場をインターネットで調べた。
「あれっ、ひょっとして・・・」と思った。
大阪駅から桜橋の方に下がり渡辺橋を渡って右折し、田蓑橋まで歩いたところで「やっぱり」と確信した。目指している会場にはかって私が学生時代の一時期を過ごした大学の建物が立っていた。その建物がスパッと姿を消し、かわりに忽然と現れた形容のしようのない『オブジェもどき』が会場なのである。道路から会場に通じる小さな石段をしばらく眺めていると、懐かしい昔の正面玄関がそれに重なって見えてきた。日本人として初のノーベル賞受賞者湯川秀樹博士がこの階段を上り下りしておられた頃、あの「中間子理論」をまとめあげられていたのである。

つづく


曾野綾子さんに『絵文字』のすすめ

2005-07-04 19:53:51 | 読書
妻が図書館から借りてきた曾野綾子著「透明な歳月の光」を読み終えて私に廻してきた。著者を通して伝えられる夫君朱門氏の言動が、日頃私の『珍説』とよく符合することに妻が面白がって彼女の本を探し出してくるのである。もちろんわたしも曾野綾子さんの見解に賛同することが多い。六、七割は共通の感覚を持っているように思う。

でも時にはひっかかる文章もある。
「絵文字 個性豊かな文章を書く努力を」の一文もそうである。

ある日ファックスが間違って著者の家に届いた。返送するにも発信人の電話番号が見当たらない。ところが、そのさまよいこんだファックスが《最近ますます隆盛を極める「絵文字入り」の手紙》で、この種の手紙を現実に受け取ったのがこれまでなかった彼女に《別の感動》を与えたそうである。

《「★今日は手紙ありがと!!胸あつくなっちゃたよ◇◇しかたないよね、そういうこともあるんだから▽▽」》 ここで◇はハートマーク、▽は雨だれマークである。

しかし著者はものわかりのいい「年長者」になるのをやめる、と宣言してこのように宣うのである。

《昔から一芸に達するには、それぞれに一定の年月の修業が要った。(中略)毎日毎日文章を書き続けた。何万枚どころか何十万枚も書いたのだから、呼吸をするのと同じくらい楽に文章を書けるようになった・・・(後略)》
《一つのことを続ければ、一芸に達するだけでなく、いいか悪いかはわからないなりに個性ができる。だからわれわれ年長者はものわかりのいいことを言って若者の好きなようにさせるのではなく、絵文字でない文章を書ける人になることを若者に強制していいのだと思っている。》

なるほど、修業せいと仰っているのである。
でもこれは向ける矛先が違っているのではなかろうか。

一方は仲間同士の『会話』でもう一方は商品としての『文章』である。
ご自分は呼吸するように文章をお書きになるのはいいとして、皆が皆まで文章を売り物にするわけではない。この若者にレポートを書かせたら見違えるような文章でまとめるかも知れないではないか。問題の持ち出し方に無理がある。何十万枚も書くには時にこのような『こじつけ』がやむを得ないのかと思ってしまう。

数十年前に神戸の由緒正しき女子大のアメリカ人教師が、学生がジーパン姿で教室に現れたと激怒して授業を放棄したことがある。何故激怒したのか、ジーンズ姿の教師が伊達に見えるこの頃、それをわかる人が今どれぐらいいるだろう。それを思うと、絵文字、顔文字を巧みに操る『作家』が幅をきかす時代がもうそこまでやってきているのかも知れない。