日々是好日

身辺雑記です。今昔あれこれ思い出の記も。ご用とお急ぎでない方はどうぞ・・・。

昭和天皇は養子を後嗣に考えられたのではない 再論

2006-05-01 14:34:10 | 社会・政治
2月12日のブログで私は以下のようなことを述べている。

《先ほど(2月12日)のサンデー・プロジェクトで櫻井よしこ氏が昭和天皇が養子の可能性をご下問されたが、それを昭和天皇が男系にこだわられたしるしのように発言していた。この発言の根拠を私は知らないが、「西園寺公望傳」の記述は櫻井氏の発言内容と明らかに食い違っている。》

その後福田和也氏も文藝春秋3月号(2006)に『牧野伸顕日記』(昭和六年三月二十六日)を引用して,、昭和天皇がご自分の養子の可能性を西園寺公望に問い合わせたように述べている。櫻井氏と同じ主張である。

ちなみに『牧野伸顕日記』昭和六年三月二十六日の記事は次の通りである。

《三月二十六日
 ブラジル大使離任に付御陪食賜る。陪席す。
 宮相より内話の次第あり。二十五日興津行之予定を申上げたるに、好き機会なればとて三ケ条に付西園寺の意見承知したしと仰せありたる由。
 第一、此際皇室典範を改正して養子の制度を認むるの可否。
 第二、華族階級に低(逓)減主義を取るの可否。
 第三、邦英王臣籍降下に付授爵の階級に関する件、なり。
 然るに第一、二に付ては近々出京之上拝謁の際奉答致度、第三に付ては彼是事情はあるべきも伯爵可然旨言上相成度とのことに有之候。》

私は『西園寺公望傳』の記載に基づいて《昭和天皇はご自分の後嗣のことを考えて『皇族に養子』を西園寺に下問されたのでないことはこれで明らかである。》と論じた。第一を第三に関連するものと解釈したのである。
ここで『西園寺公望傳』からの引用を再録しておく。

《第一は皇室典範を改正して皇族に養子の制度を認めることの可否、
 第二は華族階級に逓減主義を取るの可否、
 第三は久邇宮邦英王臣籍降下につきどの爵位が適当か、の三件があげられる。》

この引用の部分に関して「江差」氏より次のコメントを頂いた。

《第一の「皇室典範を改正して皇族に養子の制度を認めることの可否」と第三の「久邇宮邦英王臣籍降下につきどの爵位が適当か」というのは関連性がないようにも思えます。したがって、邦英王に賜うべき爵位についての記述は、邦英王を東伏見宮の王とみなして侯爵とするか、あくまで実系主義を尊重して久邇宮の王であるから、伯爵とするかの問題であって、皇室典範を改正して養子を認めるか否かの記述とは関係ないのではないでしょうか?》

確かに「江差」氏がご指摘される受け取り方もあると思う。第一と第三が別のこととしておいてもよい。しかしだからと言って昭和天皇がご自分の養子の件でご下問されたことになるのだろうか。いや、やはりそうではないのである。前回に触れなかったが、この疑問への解答は『牧野伸顕日記』と『西園寺公望傳』を比べてみると自ずと明らかになるのでここに両者を併記する。

『牧野伸顕日記』 此際皇室典範を改正して養子の制度を認むるの可否
『西園寺公望傳』 皇室典範を改正して皇族に養子の制度を認めることの可否

後者では『皇族に養子』と範囲を明らかに皇族に限定しているのである。

ここで旧皇室典範(明治22年2月11日)を引用することになるが、第七章皇族では
第三十条 皇族ト称フルハ太皇太后皇太后皇后皇太子皇太子妃皇太孫皇太孫妃親王親王妃内親王王王妃女王ヲ謂フ

とあり、皇族に天皇が入っていない。なぜなら天皇は皇族ではないからである。天皇を皇族に含めないというのが明治憲法下の決まりなのであり、だからこそ天皇のみが『現人神』であり得たのである。

従って『西園寺公望傳』の記載に従う限り昭和天皇がご下問されたのはご自分の養子のことではないことが明白である。やはり第一は第三と関連するものと解釈するのが妥当ではなかろうか。

『牧野伸顕日記』の内容では皇族が脱落しているが故に昭和天皇ご自身のこととする解釈が成り立たないわけではない。しかし天皇と皇族が明らかに異なる身分である当時の状況で、天皇か皇族か、あの科学者昭和天皇が曖昧にされたままご下問されたとは考えにくい。

私が『西園寺公望傳』の記載を是として『昭和天皇は養子を後嗣に考えられたのではない』と再度主張する所以である。

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5 コメント

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Unknown (江差)
2006-05-02 23:22:52
私のコメントにご丁寧に回答いただきありがとうございます。

《昭和天皇がご自身の養子の可能性をご下問なさったのではない》という点については、全く同意できます。同時に私も勉強させていただきました。感謝しております。

私もよくよく考えたみました。そもそも、明治皇室典範制定当時、内廷にいる男子は、明治天皇と皇太子(大正天皇)のみであり、もし、一方又は両方がお隠れになった場合、誰に皇位を伝えるか定めておく必要があったののであります。故に、明治皇室典範2条以下にプロシアに倣った皇位継承順位が定められたのであります。皇室典範は、昭和天皇の時代では完全に定着してました。仮に、昭和天皇に男子がなくても、秩父宮以下の弟宮が皇室典範の規定に従い、継承してゆけばいいわけで、さらに弟宮が全ていなくても、伏見宮系の皇族が皇室典範の実系主義に従って継承すればいいわけです。

桜井女史に対するこのような鋭いご意見は、私にとっては初めてです。新鮮さを感じました。
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私の関心事は (lazybones)
2006-05-02 23:18:42
邦英王関連の新知識をご教授いただき有難うございます。旧皇室典範制定前の明治19年に明治天皇が依仁親王をご養子にされたとの記録があるのですね。それなのに何故皇室典範で養子を禁じられたのか、知りたいものです。



それはさておき本論で繰り返しになりますが、私の主張の要点は昭和天皇がご自身の養子の可能性をご下問なさったのではないと言うことにありまして、この主張にご同意いただけたことを嬉しく思っております。



その主張の支えとして『第三』と『第一』の関連性を述べたのですが、それはあくまでも『西園寺公望傳』にある《東伏見宮妃は侯爵を懇望しており、昭和天皇も皇室典範の遵守と義理の弟である邦英王の個人的利益とを考えあわせて、いささか迷うところがあったのだろう。》と言う箇所を、上のコメントに述べましたように、私が大胆に憶測したことに基づいております。その意味で私は他の方々が上記の引用文の箇所をどのように受け取られるのか大いに興味がありますし、より説得力のある解釈に出会えば私は自分の憶測にこだわるつもりはありません。何故かと言えば『第三』と『第一』の関連性がないとしても、『西園寺公望傳』にあるように昭和天皇が《皇族の養子》の可能性をご下問なさったという事実が私の主張の根拠になりうるからです。



私の邦英王に関する知識は『牧野伸顕日記』と『西園寺公望傳』での記載に限られておりまたそれが私の関心の及ぶ範囲でもあります。それ以上の知識を要する論議に私は入り込む資格も意欲もございませんのでどうかこの旨をご了承下さい。

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Unknown (江差)
2006-05-02 08:39:03
《もし東伏見宮妃が懇望されている侯爵を授けるのであれば東伏見宮家の養子としなければならず、そのためには皇族の養子を可とするように皇室典範まで変えなければならない。》という点ですが、そもそも侯爵であれ、伯爵であれ華族に列するのであれば、皇室典範を改正してまで養子にする必要はないはずだと私は考えます。そもそも、依仁親王は、皇室典範制定以前の明治18年小松宮の継嗣たる親王として宮を承継する予定でしたが、彰仁親王の希望により北白川宮の輝久王が小松宮の祭祀を継ぐことになり、依仁親王は、東伏見宮を創立したのは、ご存知のことと拝察いたします。輝久王は、依仁親王と違い養子を禁じる皇室典範が制定されていたため、小松宮の養子にはなれなかったのです。臣籍に降下して小松宮の祭祀を継承することになったのであります。

そして、邦英王も、皇族に養子が禁じられているため、皇族として東伏見宮を承継できなかった。その上で、華族として宮の祭祀を承継するが、侯爵に列するがよいか伯爵に列するによいかという問題点があり、それが御下問につながったと私は考えます。おそらく、侯爵にすべしと周子妃が考えたのは、輝久王や博信王が侯爵になっていることも影響してるのではないでしょうか?

ところで、枢密院では、邦英王に授けるべき爵位については審議されていないはずです。ご確認ください。それを前提に私は昨晩投稿いたしました。

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憶測混じりですが (lazybones)
2006-05-02 00:08:54
私は第一の「皇族典範を改正して皇族に養子の制度を認めることの可否」と第三の「久邇宮邦英王臣籍降下につきどの爵位が適当か」というのが関連あるのでは、と考えたのは前回のブログにも引用しました次の記述に基づく私なりの憶測があるからです。《東伏見宮妃は侯爵を懇望しており、昭和天皇も皇室典範の遵守と義理の弟である邦英王の個人的利益とを考えあわせて、いささか迷うところがあったのだろう。》

昭和天皇が《いささか迷うところがあった》ものの前例では邦英王が伯爵が相当とは十分ご承知であったと思います。もし東伏見宮妃が懇望されている侯爵を授けるのであれば東伏見宮家の養子としなければならず、そのためには皇族の養子を可とするように皇室典範まで変えなければならない。だから皇室典範の改正が可能かどうか私(昭和天皇)は西園寺に一応は聞いたのだよ、と『ポーズ』を取られたのでは、というのが私の憶測です。

それにもし昭和天皇がご自身の養子を考えておられないとしたら何故この時点で皇族の養子にたいするご下問があったのか、を考えますと、他に急を要する案件があれば別ですがやはり第三の件が引っかかってくるのです。



《皇室典範を改正して養子を認めるとなると、邦英王は、侯爵どころか、親王又は王として待遇することが前提となるでしょう》とのことですが、私はここは臣籍降下が前提の話であると受け取っております。また《枢密院が既に昭和6年3月11日に「勲一等邦英王殿下ニ家名ヲ賜ヒ華族ニ列セラルルノ件」を議決しています。邦英王に間に合わせるために皇室典範を改正するにしては随分と遅い下問となってしまいます》とのことですが、この時点で一旦伯爵が授けられたとしても昇爵は手続きさえ踏めばその後でも可能ですから、ご下問の時期がタイムリミットと考えなくてもいいのではないでしょうか。



以上大胆な憶測が入りますが私なりの思考過程を申し上げました。

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Unknown (江差)
2006-05-01 23:08:55
私のコメントにお答えいただきありがとうございます。私も昭和天皇がご自身の養子を考えていたとは思っていません。そもそも、明治皇室典範の第2条以下の皇位継承の順位の規定がある以上、それを安易に変更するような制度を昭和天皇が考えたとは思えないからです。

ところで、第一の「皇族典範を改正して皇族に養子の制度を認めることの可否」と第三の「久邇宮邦英王臣籍降下につきどの爵位が適当か」というのは関連性がないようにも思えますと、今朝申し上げましたが、西園寺公望伝には、「邦英王には、伯爵が適当であるというのが西園寺の奉答の内容であり、特例を認めなかった。これ以外の二問については、重要な問題なので近々上京の折に直接言上するつもりであると述べて、即答を避けている。(P202)」とあります。また、ただいま手元にある枢密院会議筆記の複写を見ましたところ、枢密院が既に昭和6年3月11日に「勲一等邦英王殿下ニ家名ヲ賜ヒ華族ニ列セラルルノ件」を議決しています。邦英王に間に合わせるために皇室典範を改正するにしては随分と遅い下問となってしまいます。しかも、皇室典範を改正して養子を認めるとなると、邦英王は、侯爵どころか、親王又は王として待遇することが前提となるでしょう。故に、皇族の養子の可否と邦英王の問題は別個と考えてよいかと愚考いたします。
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