日々是好日

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遺骨DNA鑑定の混乱を巡る『げすの勘ぐり』

2005-03-25 11:59:33 | 社会・政治
北朝鮮から提供された遺骨試料のDNA鑑定にまつわる私なりの疑念を、これまでブログで数回にわたり述べてきた。

遺骨DNA鑑定で知りたいこと
遺骨DNA鑑定と科学者の社会的責任
遺骨DNA鑑定の怪 何がどこでどうなったか
遺骨DNA鑑定の怪の続き 須藤信彦議員の発言を評価

①《帝京大はDNAを鑑定できた、科警研は出来なかった。これは科学的立証の一番基本的な条件である再現性が確認出来ていないことを示す。何故再現性が確認できないのかをつまびらかにするのは、科学者の責務である。》
②《DNAが検出されたのは事実として、このDNAを遺骨由来のものと断定した科学的根拠の明示が必要である。》

と云うことから私の疑念は始まったのである。

ところがネイチャー2月3日号の記事によると、帝京大の吉井講師が《「私の検査は決定的なものではありませんよ。鑑定試料が汚れていた可能性もありますからね」》と云ったらしいのである。

この記事を巡り衆議院の外務委員会で、町村外相の次のような発言があった。《横田めぐみさんの遺骨とされるものの一部から別人のDNAが検出されたとする鑑定結果について、本件のネイチャー誌から取材を受けた関係者にも事実関係を確認したところ、取材においては、焼かれた骨によるDNA鑑定の困難性について一般論を述べたものであって、鑑定結果が確定的でない旨や、あるいは汚染された可能性がある旨応答した事実はなかったという返事を受けているということだけちょっと申し添えさせていただきます》

これは前出ネイチャー記事の完全否定である。

私は帝京大の吉井富夫講師に自ら進んで事情の説明を求めると同時に、ネイチャー誌からも事情説明があるべきである、と思っていた。ところがこの時点で私は気づかなかったが、既にネーチャー誌が3月17日号の論説(新聞の社説に相当)でまさにその問題を論じていたのである。

私はまだ原文に接していないが、その翻訳がブログに公開されているのでその内容を知ることが出来た。その論説は2月3日号の記事に関して《鑑定を行った科学者へのネイチャーのインタビューは、遺骨が汚染されていて、当該DNA鑑定を結論の出せないものにしている可能性を提起したものである。》と述べて、件の記事の内容を追認しているのである。

私は科学的に判断できる部分について、この問題はすでに決着がついたものと考えている。

帝京大の吉井富夫講師がどういう鑑定書を出したのか、またネイチャー誌のライターにどう語ったかにかかわらず、『遺骨は横田めぐみさんのものではない』は科学的には立証されなかったのである。これまでに実験結果の再現性が確認できなかったし、試料が残っていない現状ではこれからも再現性を確認できないという状況から下される私の結論である。

日本政府はこのように科学的に立証されていないものを、『世界に冠たる日本の鑑定技術の誇るべき成果』とばかりに北朝鮮に突きつけ、それと同時に実は『科学音痴』の醜態を世界に曝したのである。その責任問題を明らかにすることが今後に残される。

ここで『鑑定書』の流れを想像してみよう。

『鑑定』を科警研、帝京大に依頼した主体を私は知らないが、それをAとしよう。もちろんAは個人ではなくて複数の係官の居るある部署であろう。このAに科警研、帝京大から鑑定結果が戻ってきた。DNAが検出できたのは帝京大だけである。

この結果にAはどう対処したのだろうか。

ここに一人でも科学的常識を備えた係官がおれば、「こんなことではダメだな」とは思いつつも、鑑定結果を報告書にとりまとめてより上部の部署に上げたのであろう。その際に『意見書』が添えられておれば上々である。

役所の中での文書の流れは必ず辿れるであろう。そして流れのどこかで、急に『遺骨は横田めぐみさんのものではない』との文言が結論として生まれ、一人歩きを始めたことは容易に推測がつく。その決断を下したのが誰か、が問題なのである。

私は実務に当たっての日本の官僚の優秀さに期待したい。多くはプロとしての誇りを持っていることを私は信じているからである。『鑑定書』が流れていく過程で、「こんなことではダメだな」が絶えずついて回ったであろうと思いたい。

となるとどうしても考えざるを得ないのが『政治家』の関与である。

ここで突然『ハマコーさん』に登場していただこう。今やテレビでのアイドル、かっては博奕大好きで名を売ったあの愛すべき元政治家『ハマコーさん』である。なぜ彼が登場するかと云えば、『ハマコーさん』のおかげで、私には『政治家』と『博奕』のイメージが結びついてしまったからである。

『選挙』はとどのつまりは一発勝負、土下座しようと何をしようと『選挙』に勝てば勝ち。負けたときとの落差の大きさが『政治家』の博打打ち的性質を否が応でも助長する。

宝くじであれ馬券であれ博奕は全て一発勝負。一発でも当たれば大金が転がり込む。2回3回と勝ちを重ねてでないと勝ったとは言えないなんて、そんなご託を並べるひねくれ者はいない。一発でも当たればそれが真実なのである。

このような『政治家』が今回の『遺骨DNA鑑定』事件にもどこかで口を挟んだのではないか、というのが私の『げすの勘ぐり』である。一発でも当たればそれが真実、その一発が帝京大からの『鑑定書』だったのである。『鑑定書』の扱いに現れる一発勝負的感覚は、『政治家』(現実にはその影響下の官僚が行ったことであっても)の体臭そのものである。

もちろんこの勘ぐりは『遺骨は横田めぐみさんのものではない』を世間に流布させる元となった『鑑定書』を提供した科学者の社会的責任を免罪するものではない。『げすの勘ぐり』が的中するような『悲劇』を避けるためにも、科学的に立証されなかったことを事実として扱った、日本政府の公文書の出来上がった経緯をつまびらかにする責務が、国民の知る権利を代行する国会にあるのではなかろうか。


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