日々是好日

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「教授って実験できないといけないんでしょうか?」と問われて

2007-01-09 22:51:25 | 学問・教育・研究
昨年12月28日の私のエントリーにコメントが寄せられ、「教授って実験できないといけないんでしょうか?」との疑問をだされた。私が『自分で実験をしない、その実、実験をもはや出来なくなった教授』を問題視するのに対して、この方は「私が在籍する大学では教授みずからが実験することはありえませんし、またそうすべきでもないと思っております」という立場から、至極当たり前の疑問を出されたのだと思う。

実は私は諸悪を引き起こさない限り、教授が実験しようとしよまいと、そんなことはどうでもいいと思っている。しかしその本音を述べる前に、この疑問にまず形式的なお答えをしよう思う。

「教授って実験できないといけないんでしょうか?」と問われると、教授という職を維持するには、との前提付きではあるが「いや、そんなことはありません」と私は即答する。

学校教育法第58条第6項(強調は改正による追加分)では「教授は、専攻分野について、教育上、研究上又は実務上の特に優れた知識、能力及び実績を有する者であつて、学生を教授し、その研究を指導し、又は研究に従事する」と定められている。

統計データを見ていないので私が見聞きする範囲に限られるが、私学の大学教授は週あたりの講義時間数が極めて多いようである。そのうえ学部学生の卒業研究の研究指導もある。毎年指導学生が10人というのも珍しくない。それに校務もある。この教授がいくら実験好きでも自分で実験する時間を見付けることは物理的に不可能であろう。しかし講義とたとえ卒業研究と雖も研究指導を誠実にこなしている以上、この教授は学校教育法第58条第6項の要件を十分に満たしており、学生からもそれにふさわしい評価と尊敬を得るであろう。

以上のことは同じような境遇にある国立大学法人の大学教授についても云える。しかしこのことは、この教授がプロフェッショナルな研究者として世界に通用する教授なのか、というのとは別の次元での話である。私が『自分で実験をしない、その実、実験をもはや出来なくなった教授』で取り上げる教授とは、この『プロフェッショナルな研究者として世界に通用する教授』を意識しているのであり、私のこれまでの小文に目を通していただけた方にはお分かり頂けていると思うし、今回のコメントを寄せられた方も私の主旨を了解された上での疑問であろうと思う。

そこで「教授って実験できないといけないんでしょうか?」への疑問へのあらためての回答であるが、それが罷り通っている大学で、その身近な周辺がそれが当たり前と思っているなら、「それでいいじゃないですか」としか私の云いようはないのである。

いったん実験から離れると再び実験に戻るのは至難の業である。実験へのモーティベーションを失った教授に、実験を勧めるほど私はお節介焼きではないし親切心も持ち合わせていない。ただ現役の研究者として認めないだけである。

「今は大型のプロジェクトを動かす時代。それぞれのパートのスペシャリストを招集し、円滑に研究が進むように配置と予算を確保することが教授の使命と思っています」というのが寄せられたコメントの要点でもある。

私は科学を発展させるのに「今は大型のプロジェクトを動かす時代」という認識は持ち合わせていない。事実、平成18年度の科学研究費の採択研究課題と予算配分は私の認識を支持しているが、これは一応見解の相違としておこう。そして「予算を確保することが教授の使命」とのことであるが、その実体を考えることにする。

ここでわが国が『大型プロジェクト』をどのように動かすのか、その一例として、文部科学省科学研究費補助金「特定領域研究」を取り上げてみる。

平成18年度から22年度にわたる企画として新規採用されたなかに「感染現象のマトリックス」という特定領域研究がある。野本明雄東大教授が領域代表者で総額35億6800万円の予算を請求している。研究項目が研究項目A「ウイルス研究マトリックス」、研究項目B「細菌研究マトリックス」、研究項目C「寄生虫研究マトリックス」の三項目よりなり、それぞれの研究項目をいくつかの研究班が分担することになっている。このプロジェクトではAが5班、Bが5班、Cが4班の計14班で、14名の班長がいることになる。班長の下に班員がおり、この班員は計画研究分担者と一般公募のなかから選ばれた公募班員とに分かれる。この領域研究が認められた以上、この14名の計画班班長と計画研究分担者は研究費配分のいわば指定席を確保したようなもので、よほどのことがない限りこれからの5年間、かなりの額の研究費が保証される。これで教授は期待される研究予算を確保できたことになる。

この研究組織の骨子は、領域代表者→計画研究代表者(班長)→班員(計画研究分担者+公募班員)で、その頂点にいるのが領域代表者である。しかしだからと云ってこの領域代表者がこの領域研究活動から生み出される全ての学術論文に責任著者として名前を載せるだろうか。答えは「No」であろう。それはこの特定領域研究のプロジェクトそのものが、研究費獲得の便法であることをお互いが了解しているからで、いかに領域代表者が優れた研究者であろうと、論文に結実した研究に(研究費以外の)実質的な寄与がない以上、責任著者はもちろんのこと、共著者にすることもない。

では計画研究分担者と公募班員が、その計画研究代表者を『代表者』というだけで自分たちの論文の責任著者にするだろうか。この場合も答えは「No」であろう。

ここまでは「研究組織の長となり、研究予算を確保しただけで、学術論文の著者になれるわけではないよ」と云うことが確立しているといって良い。ところがこれが一番下の研究組織に下がってくると、この論理が不思議なことに急に通らなくなるのである。研究組織の長であり、予算を獲得したことが、研究そのものへのかかわり方如何に関わらず、論文の責任著者であることを保証するのである。

一番下の研究組織とは、計画であれ公募であれ班員となった教授と、その教授の率いる研究グループのことである。この教授がたとえ『自分で実験をしない、その実、実験をもはや出来なくなった教授』であっても、お金さえ集めてくれば、学術論文の責任著者として罷り通るのである。なぜか。それは人間が功利的だからである。そして、私もそれを無下に否定するわけではない。

その研究グループの全員がそれでハッピーであるなら「お金を稼ぐ人と使う人」とお互いが相手を利用し合えばいいのである。既に私は2006年9月25日のエントリー「実験をしない教授に論文書きをまかせることが諸悪を生む」の中で、そうした研究グループの具体的なあり方を描いているので、そちらにお目通し頂ければと思う。

その考えをさらに敷衍することになるが、私は『実験をしない、しかし金集めに長けている』教授を徹底的に利用して、自分のやりたい研究を推し進めるパワーのある若い実力派の研究者がどんどん出てくればよいと思っている。彼らこそが科学発展の真の担い手であるからだ。そのパワーの前に「教授って実験できないといけないんでしょうか?」のような疑問は霞んでしまうことだろう。教授が実験しようとしよまいと、そんなことはどうでもいいと思っている、と最初に私の述べた真意がここにある。

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1 コメント

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有り難うございます (夢乃猪太郎)
2007-01-10 00:36:27
小生のようなものの素朴な質問にかくもご丁寧に
ご指導して頂き、ありがとうございます。

教授職は研究者である以上、研究の構想や
立案、総括に力を注ぐべきであり、実験者では
必ずしもないというようなことを述べたかった
次第です。揶揄したわけではありません。

先生の論調がちょっと偏っているように解釈して
しまったのは事実です。論調が強いとアンチテーゼ的な
意見も生むと言う事例かと思いますがw

研究者=実験者では必ずしも無い、という
主旨には共通の認識かと理解しております。
ではまた!
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