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日々是好日

身辺雑記です。今昔あれこれ思い出の記も。ご用とお急ぎでない方はどうぞ・・・。

一弦琴「住の江」再演

2007-09-13 10:25:32 | 一弦琴
以前にこの曲を私家版の演奏としてアップロードしたことがある。要するに我流の演奏である。最近自分で聞き返して愕然とした。演奏の一部に品がないのである、それも我流の部分が。そこで改めてお師匠さんにお浚いをしていただいてた。ほどほどの出来であるが忘れないうちに正調版として録音に残すことにした。もちろん私家版は抹消である。


          詞 世阿弥
          曲 真鍋豊平

高砂や この浦舟に 帆をあげて
月もろともに 出で潮の
波の淡路の 島影や

遠くなるをの 沖過ぎて
はや住の江に 着きにけり

一弦琴「漁火」久しぶりの再演

2007-08-02 11:24:23 | 一弦琴
久しぶりに「漁火」を唄った。お遊びを取り入れた以前の演奏以来である。

一絃琴「漁火」
    詞 不詳 曲 松島有伯

  もののふの 八十氏川の
  網代木に いざよふ波の
  音澄みて 影もかすかに
  漁火の あかつきかけて
  汀なる 平等院の 後夜の鐘に
  無明の夢や さめぬらむ


お遊びも面白いと思ったのに、半年以上間をおいたこの度の演奏は、最初にお師匠さんから習ったときのスタイルに自然に?戻っている。放蕩息子が家に舞い戻ったようなものか。師の力は偉大なり!

一弦琴「千代の友」

2007-07-25 19:30:22 | 一弦琴
久しぶりに一弦琴の演奏である。「千代の友」のお浚いを一人で始めて、少し慣れてきたので公開することにした。自分で唄い方に工夫を凝らしたつもりの部分もあるので、お師匠さんにみていただくと、演奏がまた大幅に変わるだろうと思う。

           三絃より 真鍋豊平 編

松といふも 千代の縁
竹といふも 千代の縁
千代よろず 世のなかに 梅一木(ひとき)
かかれど 名は おほせぬ

学びの本道とは そして一弦琴「明石」の再演

2007-06-22 13:55:18 | 一弦琴
今週は一弦琴のお稽古があった。2週間前の稽古では「明石」のお浚いをさせられたことがちょっと不満だった。新しい曲に進む予定だったからである。ところが、お浚いをしているうちに、これもいいなと思った。

以前に習った曲でもどのように演奏したのか、時間が経つといい加減忘れてしまう。それをお浚いが思い出させてくれる。初めに習うときはお師匠さん(おっしょさん)の演奏を真似して覚えるだけで精一杯である。ところがお浚いでは、お師匠さんの指使いをちらちら見るゆとりがでてくる。この時はどうされるのだろう、と自分で「知りたい」ポイントで、注意を払うのである。

お師匠さんの演奏姿勢は美しい。手の動きも滑らかで、踊りのようにも見える。それでいて要所要所では手の位置がピシッと決まる。その要所をおさえるのが難しい。「ピシッと止めて」とよく注意される。私の手が「惑い箸」よろしく、フラフラ揺らいでいるからだ。

声の出し方はよく注意されていた。実は私はオペラのアリアを何曲かは歌いたい、と一念発起してヴォイストレーニングを受けている。それでついつい口を開けてしまうのだ。すると「声は前に出すのじゃないの。ここに当ててご覧なさい」と後頭部をぺたぺたと叩かれる。ところがそれがいつまで経っても出来ない。一人の人間が声を前に出したり後に当てたり、そんな器用なことができるか、と居直っていたこともあった。そしてお師匠さんに「出来ません」を連発していた。

ところがある時ふと思ったのである。我流を押し通すのなら、何もわざわざ神戸から京都までやってきて、自分の出来ないことを棚に上げて、お師匠さん議論を吹っ掛けることもないじゃないか、と。ましてや一弦琴を通じてでも昔の人と心を通わせたい、と思っている私にとって、お師匠さんは『口寄せ』ではないか。そこで、私はお師匠さんの云われることに素直に耳を傾けて、その通り実行することにした。

すると面白いもので、何を注意されているのかが分かってくる。例えば「明石」の出だし、「所から」と私が唄うと、「あなたの『ら』こう。このように出してご覧なさい」とお師匠さんが私の『ら』とご自分の『ら』を歌い分けてくださる。その違いがはっきりと区別できるのである。それでは「後に当てる」というのを自分の言葉で説明できるか、といえば、私には自信がない。それなのに説明の言葉に拘りすぎていたのである。言葉での説明で分かるのなら、本を読んでも分かることだろう。わざわざ人に教えて貰うことはないのである。

お師匠さんの発声をとにかく真似る。駄目なら直されるし、よければそのまま進む。我を出さずにひたすら真似る。学ぶとは真似ることなのであった。

日本国語大辞典(第一版)にも《まな・ぶ【学】(まねぶ(学)と同源)①ならって行う。まねてする。》とあり、《まね・ぶ【学】①他の者の言ったことやその口調をそっくりまねて言う。口まねして言う。》とある。私はその学びの本道から大きく逸れていたのであった。

出来る限り我を抑えて「明石」をお浚いした。


追記(6月29日)
後半部分をアップロードした。

一弦琴「明石」のこと

2007-06-07 19:59:24 | 一弦琴
根拠の程は定かではないが、来年は源氏物語1000年祭だそうである。記念のいろいろな行事が企画されているように思う。一弦琴にも源氏物語にちなんだ曲がある。詞は箏曲から取られたが作曲は真鍋豊平で、私も何年も前に一応習った。でもこの時はとにかくお師匠さんの後を追っかけるのに精一杯で、曲を楽しむとはほど遠い境地だった。

数日前にどうしたことかこの曲のお浚いをやらされた。記憶を甦らすにはよい機会なので、お師匠さんに合わせて唄ったが、なんと私のたどたどしいこと。これではなるまい、と稽古をすこしして、何はともあれ通しで唄ってみた。これから稽古を重ねていくつもりであるが、そのスタートとして今日の演奏を録音に残した。進歩の跡を検証するためのサンプルである。

全曲が長いせいか、アップロードがうまくいかない。そこで曲を前半と後半に分けた。精進を積み重ねて、紫式部と心を通わせられるようになりたいと思う。


追記(6月21日)
前半の演奏のみ差し替えて、後半の演奏は削除した。

一弦琴「嵐山」

2007-05-25 12:05:32 | 一弦琴
さる5月20日(日)に京都嵐山で三船祭りが催され、例年の如くテレビでその模様が放映された。宇多上皇が嵐山に御幸をされ、大堰川で船遊びをされたのがその起こりとか。余計なことであるが、あの菅原道真を重用した第五十九代宇多天皇は、ほんまかうそか、わが家の系図ではご先祖様なのである。

一弦琴にある「秋の御幸」は季節が秋、いっぽう「嵐山」は花も歌われている。今日は朝から雨音が喧しいが、春をおくる雨であろうか。雨音をバックに「嵐山」を唄ってみた。

一弦琴「井手の花」

2007-05-19 10:51:13 | 一弦琴
             詞  不詳
             曲 真鍋豊平

  井手へとは 思ふものから
  道遠み 植えてわが見る
  山吹の花
  折りかざす 春の暮


《【井手】京都府南部の地名。木津川に注ぐ玉川の扇状地にあり、奈良へ至る交通の要地。井手左大臣橘諸兄(たちばなのもろえ)が別荘をおいた所。ヤマブキとカエルの名所。歌枕。》(日本国語大辞典、第一版)

《いでの花(はな) (昔、井手の里がヤマブキの名所であったところから)「やまぶき(山吹)」の花の異称。転じて、黄金をもいう。》(同上)

橘諸兄は奈良時代の人(684~757年)。その後、井手は古今和歌集(913年)、後選和歌集(956年)、大和物語(957年)、狭衣物語(1077年)、袋草子(1159年)、新古今和歌集(1205年)、伊勢物語(平安中期)などの作品に顔を出しており、その故事は後世の文人には周知のことであったのだろう。

一弦琴を奏でる楽しみの一つは、昔の人に心を通わせることである。真鍋豊平が「今様」と「須磨」に始めて接したのが1830年頃と推定されている。それ以来延べ何千人の人たちが、「今様」、「須磨」を唄ってきたことだろう。嬉しいとき、悲しいとき、忙しいとき、暇なとき、どのような状況で、どのような気持ちで唄っていたのだろう。私の唄に「これこれ、そんな勝手な唄い方をしたらいけないよ」なんて声も聞こえてきそうだし、「なんだか無理をして低い声をだしているね。そんなの聞き苦しいよ。唄いやすいように唄いなさい」と親切に云ってくださる声も聞こえてくるようだ。

それはいいのだけれど、先日若冲展の「動植綵絵」を観て受けたような感動に類するものを、一弦琴演奏で人に伝えることが出来るのだろうか、と考えると、虚脱感が先立ってしまう。ちなみに伊藤若冲が没したのが1800年、真鍋豊平の生誕は1806年なのである。

実は昔の人の演奏技倆に現代人は到底到達できないのではないか、との思いを最近抱くようになった。いずれ私なりの考えをまとめるつもりであるが、よろしければ先ずはお耳汚しながら私の演奏をどうぞ。


追記(5月20日) 花(ハナ)がアナに聞こえる。発音もよろしくないし、息づかいももう一つ。それで唄い直してみた。

一弦琴「牡丹」再演

2007-05-11 11:01:15 | 一弦琴
以前に「牡丹」の部分演奏を公開していたが、その後精進を重ねて、ややいいかな、と思う演奏が出来るようになったので全曲演奏を公開する。

山城一水 作曲 花崎采えん(王扁に炎)訳詞

 鳳凰さし対ふ 金襴の衣
 一夜の雨に ぬるる牡丹花の
 鏡にうつる 爽やかな そがよそほひ
 鬢かろく張る 細おもて
 画楼(おばしま)に 眺め久しき ものおもひ
 てすりの外の 糸柳
 まてど戻らぬ おとづれや
 ひがんの燕 飛びめぐる



追記(5月13日)
 「眺め久しき」のところが気になったので、唄い方をやや変えてみた。
でもまだもう一つである。素直に流れないのでまだ工夫が必要かと。
白牡丹の写真は須磨離宮公園で撮った。

一弦琴「須賀」

2007-05-07 19:43:33 | 一弦琴
音声の流れる「ケロログ」で私のサイト「恥ずかしながら・・・」が「話題のボイスブログ」として紹介されたせいであろう、アクセスが増えたのは恥ずかし嬉しである。

思いがけないことに外国からのアクセスもあった。中国の古都である西安、そして蘇州、上海、広州に台湾の台北、さらにハノイなどである。私は神戸に腰を据えたままなのに、私の一弦琴がこれら異国のとある場所の空気を振動させたのかと思うと浮き浮きする。中国語Googleの検索から時々アクセスがあるので、中国の方にも聴いていただけたのかと思う。このほかオーストラリアのLakemba、イタリアのLunghezza、アメリカテキサス州のFredericksburgなどからもアクセスがあった。どのような方に聴いていただけたのだろうか。

一弦琴を奏でることの嬉しさを唄った「須賀」を、私のつたない演奏に耳を傾けてくださった方々に感謝のしるしとして捧げる。


追記(5月9日)
調子を変えた演奏に差し替えた。このほうが自然に唄える。
一週間期限付き「ケロログ」の紹介が終わった。その間さらに中国の南京にCentral District(広州あたりだが、正確には位置が分からない)、そしてスエーデンのDejeなどからのアクセスが増えた。何に聞こえるのか、感想を聞けないのが残念である。

一弦琴「今様」調子を上げて再演

2007-04-22 10:51:15 | 一弦琴
私の唄いやすいように調子を上げた。
習ったことを少しずつ思いだしながら、しかし自分の好みで唄った。
唄っていると自然に手が動いて弦を弾く、これが私の目指している境地であるが、さあ、いつ到達できることやら、前途遼遠である。


        今様

春のやよひの あけぼのに 四方のやまべを 見渡せば
花ざかりかも 白雲の かからぬ峯こそ なかりけれ

花たちばなの かほるなり のきの菖蒲も 匂ふなり
夕暮れざまの さみだれに 山ほととぎす 名のりして

秋のはじめに なりぬれば 今年の半ばは 過ぎにけり
わが夜ふけゆく 月かげの 傾く見るこそ あわれなれ

冬の夜ざむの 朝ぼらけ ちぎりし山路に 雪ふかし
心のあとは つかねども 思いやるこそ あはれなれ 


追記(4月25日)
何回も繰り返して唄っているうちに、曲に馴染んできたような気がする。六合目から七合目に辿り着いたのだろうか。この曲は一弦琴を始めて二番目に習ったのであるが、今あらためてお浚いをして、なんと難しい曲から入ったのだろう、との思いがひとしおである。

追記(4月27日)
今朝の演奏をあらためてアップロードした。まだ二三カ所引っかかるところがあるが、今様のお浚いはこれでしばらくお休みにして、時間を置いてまた挑戦することにする。