goo blog サービス終了のお知らせ 

日々是好日

身辺雑記です。今昔あれこれ思い出の記も。ご用とお急ぎでない方はどうぞ・・・。

古本市で掘り出し物 富士川遊博士の著書

2008-08-03 20:01:33 | 読書
先週の金曜日(8月1日)、散髪の帰りに三宮に出たところ、7月31日から8月5日まで開かれている「さんちか古書大即売会」に出くわして、東洋文庫六冊に単行本二冊を仕入れることになった。

東洋文庫(平凡社)がかなり沢山出品されていたが、その中に私がかねてから探していた富士川遊著「日本医学史綱要1、2」と「日本疾病史」の三冊を同時に見つけたのである。前者は昭和四十九年の刊行で共に七百円、また後者は昭和四十四年の刊行で四百五十円、この原価とほぼ同じ値札がつけられていたので迷うことなく手を出した。この三冊とも現在は東洋文庫で品切れになっており、「日本医学史綱要1、2」のみはワイド版、それもオンデマンド版で入手可能、ただし二冊で六千三百円になる。



私がかって川喜田愛郎著「近代医学の史的基盤上、下」を繙いた時、西洋の医学史もさることながら、いつか日本の医学史も一通り見渡したいと思っていたがなかなか時間の余裕がなかった。この川喜田愛郎氏が佐々木力氏との共著「医学史と数学史の対話 試練の中の科学と医学」(中公新書)のなかで次のように語っておられた。




《日本の医学史界で言えば、富士川遊先生という明治の終わり頃から昭和の初めまで活動された巨匠がおられました。(中略)遊先生は広島の医学校を出られた方で、『中外医事新報』という医学雑誌の編集を長くやっておられたいわば在野の学者ですが、イエナに行って内科学のかたわら、当時のドイツ史学の研究水準をも見てこられ、そして『日本医学史』という大著を1904年(明治三十七年)に公刊されました。それは莫大な史料を収集し、発掘して、たしかな史眼で叙述した、文字どおり前人未踏の大業績です。(中略)富士川には『日本疾病史』のような名著もあります。》余談ながら私は川喜田愛郎氏と不思議なご縁があり、氏が逝去の折は弔電を送らせていただいたことを思い出した。

そのようなことで富士川遊という名前を知ったのだろうと思うが、何らかのおりに東洋文庫に医学史の著書が収められているのを知った。しかしすでに入手が難しく古本屋でもなかなかお目にかかれなかった。それなのに「さんちか古書大即売会」で三冊まとめて手に入れることが出来たのである。

国史大事典によると富士川遊とはこのような方である。



明治三十七年に刊行された『日本医学史』は全体で千二百ページを超える大冊とのことで、その八年後の明治四十五年にこの著書に対して学士院賞恩賜賞が授与された。学士院賞の制度が始まって第二回目のことである。この大冊を著者自ら抜粋して『日本医学史綱要』を昭和八年に刊行したが、東洋文庫本はその覆刻本なのである。

一方『日本疾病史』は明治四十五年、恩賜賞を頂く直前にその上巻が刊行されたが、その後下巻は刊行されることなく、日本疫病史としてまとまっている上巻が『日本疾病史』として東洋文庫に覆刻されているのである。『日本疾病史』を開いてみて、この本と私がかって勤務していた京大医学部と深い関係のあることが分かった。

まず「日本疾病史序」を寄せているのが《明治四十四年十二月京都医科大学病理学教室ニ於テ識ス 医学博士 藤浪鑑》で、それによると富士川博士が明治四十二年五月から《京都帝国大学ノ聘ニ応ジテ日本医学史ヲ医科大学ニ講ズル》ために、週に一度東京から通われた旨の記述がある。今でいう非常勤講師として講義されたのだろうが、新幹線もない時代に何回ぐらい通われたのだろうか。その熱意のほどがうかがわれる。そして大正四年三月、京都帝国大学がこの著書に対して医学博士の学位を授けた。ちなみに大正三年七月には東京帝国大学が文学博士の学位を授与している。

富士川博士は古い医書の蒐集に莫大なエネルギーを注ぎ、浩瀚な著書を産んだ二万冊の和漢の古医書は現在富士川文庫として京都大学と慶應義塾大学の図書館に保管されているとのことである。インターネットも複写機もない時代に、すべて手作業でことを運ばねばならなかった時代の大仕事であった。その先人のご苦労に思いを馳せつつ、粛然とこれらの書に向かいたいと思っている。


最新の画像もっと見る