星のひとかけ

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再読でつながる歴史:『ディビザデロ通り』マイケル・オンダーチェ著

2019-11-25 | 文学にまつわるあれこれ(詩人の海)
 孤児の歴史感覚をもつ人間は歴史が好きになる。 わたしの声は孤児の声になった。
 …(略)… なぜなら歴史を掠奪しないかぎり、不在がわたしたちを糧にして生き残ってしまうからだ。

   (『ディビザデロ通り』 「かつてはアンナとして知られていた人物」より)


『ディビザデロ通り』を最初に読んだのは 7年前の11月でした(読書記>>
↑このときの重複ですが 
 「アンナとクレアと、 クープ。 互いに血のつながらない姉妹と兄のような、、 家族でもあり、幼馴染みでもあるような、、 そんな関係で生まれ育ち、 十代を共に成長していった3人が、 ある出来事を境に 互いの人生が離れてしまう」 本書の前半はこのような物語で…

そして本書の後半は、 フランスのリュシアン・セグーラという埋もれた作家をめぐる物語になっていく。 リュシアン・セグーラもまた 家族と訣別し孤独に生きた作家だった。 リュシアンの人生=《歴史》を語るのは、 あの《出来事》の後 故郷をとび出し やがて研究者へと成長したアンナ。 冒頭に挙げたのは そのアンナの言葉です。 

、、7年前に読んだ時は、 引き裂かれる物語、 失ってしまった過去 離ればなれで生きる喪失の物語、、 というせつない印象がすごくありました。 その痛みを抱えながら、 ぷつんと断ち切られた記憶の破片が心に刺さったまま生きていかなくてはならない… それが人生、、 そんな風に感じていました。 

けれど、 今回再読していくと そのときとは全く違った気持ちに包まれたのです。。 引き裂かれ、喪失する物語… それは確かにそうなのですが、 ばらばらにされたそれぞれの歩みは、 結局 自分のゆくべき(還るべき)場所へ… 魂の呼び寄せられる場所へと かれらは必然的に其処へ行き着いたのではないか… そんな印象に変わっていたのです。

その気持ちの変化は、 前回書いたように オンダーチェさんの作品を続けて読んだからに他なりません(>>) (以下、作品のネタバレを含みます、ご容赦ください)

 ***

アンナは、 あの嵐の晩の《出来事》のあと、 父をのこして家をとび出し、 共に育った孤児のクープや 姉妹として育った養女クレアも失い、故郷も失い…(孤児になったというのはこのことを指します)、 たった独りで大学で文学を学びます。
彼女がリュシアン・セグーラという作家を見出したのは、 たまたま図書館で耳にした彼の録音肉声に 「傷ついた人の響きがあるのを聞き取った」からでした。 その「傷ついた心を包みこんだ」声が頭から離れず、 この作家が最期を生きた家で彼の人生を発掘すべく フランスへ渡ったのです。

オンダーチェさんの作品には《孤児》あるいは親を失った子供がしばしば登場しますが、『ディビザデロ通り』では クープ(孤児)、 クレア(養女)、 アンナ(出生時に母と死別)、、 作家リュシアン・セグーラも父を知らず、養父も早く亡くしたのでした。

冒頭にあげた引用に 「歴史を掠奪しないかぎり、不在がわたしたちを糧にして生き残ってしまう」とありますが、 ルーツの《不在》…父や母がどんな人生を歩んできたのかがわからない、という事が 自分という存在を侵食し《欠けた穴》となり だからそれを埋めるように《歴史=ルーツ》を求めてしまうのだ… と。。
 
アンナが生まれたときに亡くなった母は、カリフォルニアに入植したスペイン系移民(カリフォルニオ)でした。
リュシアン・セグーラの父は、 スペインからフランスに働きに来ていた渡りの屋根職人でした。
このことは物語の中では少ししか触れられていませんが、 読み過ごしてしまいそうなこういう小さな繋がりにふと気づいたのも、 『ライオンの皮をまとって』の移民たちの物語を読み、 『イギリス人の患者』を読み、 ハナやカラヴァッジョのルーツを考えたりした結果でしょう。 

アンナがリュシアンの肉声を聞いた時、 知っている情報は「奇妙な家出」をした作家ということだけでした。 《家出》というのはアンナと作家を結ぶひとつの共通項ですが、 でもアンナが作家の声の中に聞き取った直感には、 家族を捨てたという共通項以外に、 じつは両者の亡き親のルーツ(歴史)にも共通項があったという そのような《魂》のレベルでの呼び声に暗に導かれたのかな、などと… そんな運命的な《道のり》を今回は感じてしまったのです。

そしてアンナは リュシアン・セグーラが最期を過ごした土地で ラファエルというギタリストの男に出会いますが、 彼の母アリアはマヌーシュ(ロマ)の人でした。 そして父は…
ラファエルの父は《泥棒》でしたね。。 
父と母が出会ったのは、 第二次大戦のすこし後、、 ラファエルの父はフランス人ではなく 大戦中はイタリアにいて負傷し、 戦後は妻のいる自分の国に帰らずフランスへ来た。 そして父はちゃんとした英語が話せた、とラファエルは北米人のアンナに語ります… 

この経歴は… 、、 もしかして カラヴァッジョのこと…?? (『イギリス人の患者』そして『ライオンの皮をまとって』の…) だって全て辻褄が合いますもの…

一篇の小説を読むのに このような詮索は邪道だと承知で、、 でも、 ラファエルの父についての情報はわざわざ謎めいて書かれていて(本名を決して明かさず リエバール、アストルフ、等と偽名を次々変えていくのも)、 そこにはちゃんと意味があると思わずにはいられないですし…
敢えてそう考えてみると、 ラファエルの父が大戦後に国へ戻らずこの地にいる理由も、 家馬車での移動生活をしていたのも、 カラヴァッジョの経歴として納得できるものですし、 書かれている文章以上の意味をもって想像されます。 ここにも物語の表面には表れないひとりの男の《歴史》をオンダーチェさんは用意していたのかも…

アンナがラファエルを愛しはじめるのも、 ラファエルが作家リュシアン・セグーラの晩年を知っている人物という事などとは関係なく、 ラファエルのルーツと生き方が自然とアンナの《魂》を呼び寄せたのでは、 ラファエルがギターを弾く音色を初めて聴いたアンナは そのときすでに無意識に何かを感じ取っていたのでは、、、そんな風にも思えてしまいます…

 「彼女をこの空き地に誘いこんだのはこの男だったのかもしれない
…そう書かれています。 

 ***

唐突ですが…
『イギリス人の患者』の中で、 人妻キャサリンを愛したアルマシー(患者)が妄想のように彼女の事を語る場面があります。
 
 「出会いの何年も前、私の分身がいつも君に付き従っていたように …(略)… 君は知らないだろうが、 ロンドンとオックスフォードのあの数々のパーティーで、私はいつも君を見ていたぞ

 患者のこの語りは一頁以上にもわたり、 「恋に落ちる相手と出会うとき、 心の一部は知ったかぶりの歴史家になり、 かつて、相手が何も知らずに目の前を通りすぎていったことを思い出す」 とつづく。

 「何年も砂漠で暮らしながら、私はこんなことを信じるようになった。 …(略)… ジャッカルは片目で過去を振り返り、片目で君が進もうとする道をながめやる。 口には過去の断片をくわえ、それを君に引き渡す。 時間のすべてが完全にそろったとき、君はそれをすでに知っていたことに気づく
   (『イギリス人の患者』 「泳ぐ人の洞窟」より)

、、この最後の 「ジャッカルは…」以下の部分は、 今回『ディビザデロ通り』を読み返した時、 とても強く感じたことでした。 あらかじめ知っていたかのような《運命的》な出会い、 過去の出来事は道がやがてそこへ通じるための必然であったかのような、、。

 ***

『ディビザデロ通り』のもうひとつの重要なキーワードとして 《取り替え子》というものがあります。 《身代わり》とも言えます。
 
「名前につまずく」の章がその象徴的な部分ですが、 アンナ、クープ、クレアという3人の関係では クレアがアンナの《身代わり》になりました。 
はじめに読んだ時には そのようになってしまった事があまりにも切なくて、 愛を失ったアンナも、 記憶を失ったクープも、 アンナの代わりになったクレアも、 みんなが哀しくてたまりませんでした。

でも… 今回、 アンナがリュシアン・セグーラという作家を見出し、フランスへ行き、 ラファエルに出会ったのは決して偶然ではない、と思えた時、、 クープもまた《魂》の安らぎを結果的に得られたのだと、、だから《身代わり》としてのクレアも決して悲しくはない、と。
クレアがクープを見つける前にスケートボードの男にさらわれるのも決して偶然ではないし、 クープがあの店に入ってきたのも偶然なんかじゃなかった、、… それは 上の『イギリス人の患者』で引用した 「時間のすべてが完全にそろった」ということなのだ、と。。 そう思ったのです。

同様に、 《身代わり》というテーマは、 ロマン、 マリ=ネージュ、 リュシアン、という3人の関係にも当て嵌まります。 リュシアンもまた ロマンの身代わりという運命を受け入れたのです。

悲しみではなく、 それがあるべき形… 自分がたどり着くべき《魂》の安らぎの道、としてこのことを考えられるようになった理由は、 新作の『戦下の淡き光』を読んだからでもあります。。 これはネタバレになるので詳しくは避けますが(お読みになった方なら はっと気づかれることでしょう)、 《身代わり》を受け入れること、、 このことは『戦下の淡き光』でも語られている重要なテーマでしょう…

 ***

前回も書きましたが、 オンダーチェさんの作品の再読は ひとつの物語の枠を超えて、 作品と作品とがパッチワークを作っていきます。 そのように読んでしまうことの良し悪しは別として…

物語の地図はヨーロッパから北米大陸まで世界をめぐりますし、、 そして時代は、 作家リュシアン・セグーラが赴いた第一次大戦から、 ラファエルの父がイタリアにいた第二次大戦、 クレアの上司が経験したヴェトナム、、 そして物語の前半でクープたちギャンブラー仲間がTV画面を通して観る まるでコンピューターゲームのような湾岸戦争へ、、と 20世紀の戦争のすべての《歴史》が、 物語の背後にずっと存在していることも知らされます。

このこともオンダーチェさんの作品をずっと通して 新作の『戦下の淡き光』までをつらぬいている《芯》のひとつでしょう…

 ***

宙ぶらりんのまま断ち切られる物語… 

オンダーチェさんの作品にはそのような印象がずっとありました。 途絶と喪失… 手に残る破片…


でも 再読・併読によってこの印象はかなり変わりました。 手に残るピースを決して失くしてはいけないこと… どの小さなピースもどこかへ繋がる可能性を秘めているし、 歴史のあちらとこちら、 物語のあらゆる場所で彼らは生きている…


  片目で過去を振り返り…


  口には過去の断片をくわえ…

 
  時間のすべてが完全にそろったとき、君はそれをすでに知っていたことに気づく…




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