星のひとかけ

文学、音楽、アート、、etc.
好きなもののこと すこしずつ…

おつかれさまでした 2021

2021-12-30 | …まつわる日もいろいろ
家の所用でちょっと遠出してきました。

電車を乗り継いで片道2時間あまり、、 行って帰っての 私には少々強行軍だったので、 昨日は一日ダウンしていましたが なんとか体調をもどして年越しができそうです。

出掛けてみて、 思いもよらないところに吃驚している自分に吃驚してしまいました…笑。。 高層ビルがひとつも無い街並みにおどろいたり、、 家がみんなたいらだ、、とか (←日頃どんなところに住んでるの…苦笑) 稲の狩り跡の田んぼを数年ぶりに見たわ、、とか。。 田舎育ちの自分がね。。

もともと 旅することも 列車に乗ることも 大好きなほうなのに、、 この2年のコロナ生活で 自分の心の状態がどんなにか窮屈なものになっていたか 気づかされました。 
、、 マスクをしながらの旅は息苦しいね。。 身体そのものも、 気持ちのうえでも。。


マスクなしの旅、、

いつかは戻ってくるのかな。。


来年はまだむずかしそうだね。。  すこし息苦しくても 心は窮屈にならないように、、 両手のばして、、 脚ものばして、、 もう少し遠くへ、、。


 ***

おつかれさまでした 2021年。


どんなひとも あらゆるひとみんな、、 おつかれさまの一年間でした。


何かが大きく変わったとか 何かが達成できたとか、、 ものすごいことは何も無かった一年だったけれど、 ちいさなことの繰り返し、、 ちいさなことの積み重ね、、 無駄にはならなかった一年だと思いたいです。 おつかれさま、、 自分。。

来年も がんばろうね。



2021年 ありがとうございました。

 ***




ゆきはちょっと雲にまぎれて、、




かえりはちいさな笠のせて、、


富士山みれるとやっぱり嬉しい。。 ひとつ笠の富士山だったけれど、 今日も真っ青な空よ。




愛が 終わりのない青空に・・・



もっと はばたけ







来年もたくさんのコンサート いろんな場所に出かけられますように… ♡


クリスマスのBGMはフィンランドのアコーディオンで♪

2021-12-24 | MUSICにまつわるあれこれ
もう十数年前、 当時 音楽関係の職場にいた知り合いが 「会社の荷物整理をして出てきたCDいる?」と言って くださった沢山のCDがあって、、

90年代のJポップとか UKロックとかは 自分で聴いたりしてたのですが、 中に全然文字が読めなくてなんだかさっぱりわからない北欧、東欧?のCDがあり、、 処分しようかと思いつつなんとなく取っておいてそのままに…

今年の初め、、 スウェーデンのミステリ小説 ヨーナ・リンナ警部シリーズを立て続けに読んでいた頃のこと、、(ヨーナ・リンナ警部シリーズの過去ログ>>

作中にヨーナ・リンナ警部のアシスタントの アーニャという女性がでてくるのですが、 この子は普段は体育会系、 仕事は超速、 そんな彼女はヨーナのことが大好きで なにかと (一緒にサウナに入りたい)だの (一緒にヨガ教室へ行って)だの (署のクリスマスパーティーで一緒にタンゴを踊って)と、 可愛らしいお願いをヨーナに突きつけるのです。。(あ、ヨーナ・リンナ警部はスウェーデン生まれのフィンランド人という設定で、 だからちょっと文化の違う彼にアーニャはフィンランドらしいお願いをするのです)

第一作か二作目だったかな… 警察署のクリスマスパーティーでヨーナがアーニャとタンゴを踊ってくれる♡ という素敵なシーンがあるのです。 でも、なぜタンゴ…?? 

それまで全然知らなかったのですが、 フィンランドってタンゴを老いも若きも踊るのが大好きなのだそうです。。 高校でタンゴのダンスを習うくらいだと。。 (日本でもフォークダンスの授業があったのは 昭和…だけ?) タンゴではないけれど、 ジェンカの発祥はフィンランドなんですね、、(ジェンカって愉しいですよね♪)

ムーミン公式サイトにも フィンランドの踊りのことがブログに書かれていました。 フィンランドでは大きなパーティーでは必ずみんな踊るみたいです、、>>(ムーミン公式サイト)

そんな感じで、、 スウェーデンのストックホルム警察署のクリスマスパーティーで、 ヨーナ・リンナ警部がアーニャを相手に見事なタンゴを決める! というシーンがあって…

そのときに はた! と例のCDのことを思い出したのです。。 アコーディオンを片手に テンガロンハットを被った男性の謎のCD、、 もしかしたらあれはフィンランドの伝統音楽なのかもしれない… って。

 ***


今朝、ようやく引っ張り出してみました。

CDを貰った当時も いちおうパソコンで調べようとはしたのです、、 でも解らなかった。 今ならちゃんと出てきます。 youtube にも載ってました。

Veli-Matti Järvenpää さん(現在54歳。お若いんだ…)という フィンランドのアコーディオン奏者。 
上の写真のCDは 「Veli-Matti Järvenpää - Särkijärven Bolero」1992年。 youtube での演奏映像を見ると、、 ここでも踊っていらっしゃいます、お客さんが。。 こういう光景なのですね、、 フィンランドのカントリーミュージック。。 (このアルバムにタンゴの曲はなかったけど、 踊るのにぴったいの楽しい曲ばかり)

アコーディオンという楽器も フィンランドの伝統音楽には欠かせない楽器なのだそうです。 陽気で素朴な、、 フィンランド語の歌の響きも なんというか可愛い響き。。 寒い寒い森林とか湖とかの情景が見えてこない不思議さ、、 たぶん 外が寒いからこそ 暖かいお部屋やライブハウスでみんなで踊って楽しむのでしょうね。


ちなみに、、 もう一枚のCDは、、 たぶんこれ
Тацу (альбом) - Википедия(ロシアのウィキペディアに出てました。 キリル文字は読み方すらわからないけれど曲名が一緒) オリジナルは87年みたいです、 当時はソヴィエト連邦。 ウチにあるのは94年の メイドイン・オーストリアって書いてあります。

聴いた感じでは ちょっとケイト・ブッシュさん風のハイトーンヴォイス。 可愛いめのポップパンクという感じかな。 ペレストロイカのゴルバチョフ書記長の時代ですね、、 自由が近づいてきてる時代だったんだなぁ… 
.
 ***


きょうはクリスマスイヴ


軽快で素朴な フィンランドのアコーディオンを聴きながら過ごしたいと思います。 (リモート生活終了でお部屋で自由に音楽聴けるようになりました♪)


フィンランドからやってくるサンタさんも 喜んでくれるかな…? (ヨーナみたいに手をとって踊ってくれたら素敵だな… ♡)




お友だちが手づくりマーマレードをプレゼントしてくれました。 大好きな馬くんと記念撮影。



… どうぞ愉しい聖夜を … ☆



パトリック・モディアノとトマス・ド・クインシーと夏目漱石…?:『地平線』P・モディアノ著

2021-12-20 | 文学にまつわるあれこれ(漱石と猫の篭)
パトリック・モディアノの読書 2冊目は『地平線』です。

前回の『迷子たちの街』が84年の作品だったので、今度はもっと現在に近いものを、と思って、2010年に書かれたこの作品にしました。

 ***

物語への感想、というよりまずは、 とっても驚いたことから先に書いてしまいましょう。

『地平線』を読んでいる間、私のあたまには何度となく別の本のことが浮んできて、読めば読むほどに両方の作品が近づいてくる気がしたのでした。。 その本とは 19世紀の英文学者 トマス・ド・クインシーが書いた『阿片常用者の告白』。

前回書いた『迷子たちの街』にも 若き日のパリの街での出会いと別れが書かれていましたが、 『地平線』で描かれる 《群衆》の中での女性との出会い、 なにかに怯えている身寄りの無い境遇、 街角での待ち合わせの約束や、互いを見失うという不安、、 年月を隔てた記憶や夢での再会、、
さらには、 女性が救済を求めても相手にされなかったことや、  主人公の寄宿学校からの脱走、、となってくると、 ん??? と、私の頭に引っ掛かってくることばかりなのでした。



『地平線』パトリック・モディアノ著 小谷奈津子・訳 水声社 2015年
『トマス・ド・クインシー著作集Ⅰ』 国書刊行会 野島秀勝・訳

   (『阿片常用者の告白』は現在 岩波文庫にあり)


『阿片常用者の告白』はトマス・ド・クインシーの回想録で、 父親を亡くし寄宿学校にやられた若きド・クインシーが、学寮を脱走して放浪の果てにロンドンの街に流れ着くまでの記憶が前半部分で語られています。 倫敦の街路で身寄りのない少女アンと出会い、二人は夜な夜な街を彷徨います。 ド・クインシーはアンの窮乏を助けるため、一週間後に通りの角で待っているという約束をして金策のため街を離れます、、が… アンに二度と会うことはできなかったのでした。。

、、このアンの物語が『地平線』を読むあいだずっと私の頭から離れずに、、 
でも、ド・クインシーは英国の作家、、 モディアノさんはフランス人。。 だけど、 ド・クインシーの『告白』に魅せられたアルフレッド・ド・ミュッセやシャルル・ボードレールは、 まるで自分自身の物語でもあるかのように自己流のアレンジを加えてこれを翻訳したくらいだから、、 二度と会えない少女アンとの生き別れのテーマは、 英国人よりもフランス人の心をより深くつかむものだったのかしらん…… 

だから、もしかしてモディアノさんも、、
などと思って、、 「Patrick Modiano Thomas De Quincey」と、両者の名前を検索窓に入力してみました、、 らば…

なんと、、 検索のトップに モディアノさんご本人の ノーベル文学賞記念講演(英文翻訳のもの)があらわれてきて、、 びっくり… というか 唖然…。。

https://www.nobelprize.org/prizes/literature/2014/modiano/25238-nobel-lecture-2014/


私は難なく英語を読める語学力はないし、 なによりモディアノ作品がまだ2作目なので あまり詳しい解説とか情報を仕入れてしまうと まっさらな気持ちで作品を読むことができなくなってしまうおそれがあるので、 「Thomas De Quincey」の文字の前後だけを拾い読みしてみたのですが、、 
モディアノさんが言及していたのも、 倫敦の街という迷宮のなかでアンと生き別れてしまった苦悩をド・クインシーが振り返っている箇所でした。

  ‘If she lived, doubtless we must have been some time in search of each other, at the very same moment, through the mighty labyrinths of London; perhaps even within a few feet of each other – a barrier no wider than a London street often amounting in the end to a separation for eternity.’
     (Confessions of an English Opium Eater / Thomas De Quincey 1821)



話は少しとびますが…

『阿片常用者の告白』は (アヘン中毒の異常な悪夢を語った告白録として有名ではあるものの) 若き日の少女アンとの出会いと別れ、 追憶と夢の物語というロマン派文学としてもう少し広く読まれてもいいのになぁ、、と思っているのですが…

この作品は夏目漱石の大学時代の愛読書でもあり、 漱石先生は 「オキスフォード」で「アン」を見失った(「倫敦消息」) と、これ以上になく端的な言葉でこの物語を言い表しています(笑 
漱石もまたアンとの生き別れの物語に強く影響を受けたのでしょう、、 都市の群衆の恐怖や、 迷宮のような小路で人とはぐれ、 或は人と人が運命的にめぐり会う、という内容をたくさん書いています。

「都市」「雑踏」「見失う」 というテーマは モディアノさんが記念講演で触れている点とも驚くほど共通していて(モディアノさんは Soseki Natsume の作品をご存知かわかりませんが)、、 作家という感性が引き寄せられる共通項なのか、 生まれ育ちや境遇の類似性によるのか(詳しくは知りませんが)、、 モディアノ作品と漱石作品を掘り下げていけば きっといろいろと響き合うものが見えるはずです。


 運命は丸い池を作る。池を回るものはどこかで落ち合わねばならぬ。落ち合って知らぬ顔で行くものは幸である。人の海の湧き返る薄黒い倫敦で、朝な夕なに回り合わんと心掛ける甲斐もなく、眼を皿に、足を棒に、尋ねあぐんだ当人は、ただ一重の壁に遮られて隣りの家に煤けた空を眺めている。それでも逢えぬ、一生逢えぬ、骨が舎利になって、墓に草が生えるまで逢う事が出来ぬかも知れぬと書いた人がある。運命は一重の壁に思う人を終古に隔てると共に、丸い池に思わぬ人をはたと行き合わせる。変なものは互に池の周囲を回りながら近寄って来る。不可思議の糸は闇の夜をさえ縫う。 (『虞美人草』)


上記の引用の 「書いた人」というのは もちろんド・クインシーのこと。 それにしても、 この部分はモディアノさんがノーベル文学賞記念講演でド・クインシーについて触れた箇所とぴったり符合していますね。 だから 『地平線』を読んだときびっくりしてしまったんです、、私。

 ***

モディアノの『地平線』に話をもどして…

  もうすぐ、僕らは新しい地平線を求めてパリを離れることができる。僕らは自由なんだ。 (『地平線』p47)


地平線の彼方に自由があり、未来がある、という考え方は、 ド・クインシーのロンドンと違って パリならでは という感じがします。 陸続きに列車で地平線を越えてゆけば、ヨーロッパのどこへでも行けますね。


、、作品の終わりのほうで モディアノさんはインターネット検索を登場させていますが、 ネットの世界にはもう 地平線など存在しないのだなぁ… と感慨深く思いました。 

ド・クインシーが、 ミュッセが、 ボードレールが、、 アラン・ポーが、 漱石が、 そしてモディアノさんが、、 人と人を出会わせ、 また永遠に隔てさせた 「都市」や「群衆」や「通り=street」や、、 それから「年月」という時間の「地平線」さえも、、 検索ツールで易々と超えて結びつけてしまう今の世の中。。 記憶がつむぐ物語は、 SNSのタイムラインの中に閉じこめられた 永遠の「事実」というものにすりかわってしまうのでしょうか…



そのような世の中における 見失った《アン》の物語は、、


どうなっていくのでしょうね…


 ***

貴重で ふしぎな、、

パトリック・モディアノさんとの出会い…



今年のラストにすばらしい収穫です。


nonchalant な…:『迷子たちの街』 パトリック・モディアノ

2021-12-14 | 文学にまつわるあれこれ(ほんの話)
12月の冬の日に 7月のパリの物語を読んでいました。


20年ぶりにパリに降り立った男、、 過去を棄て 異なる国に住み 異なる言葉をあやつって生きてきた男。。 20年の時を隔てたパリの街が 男の記憶を呼び覚ます、、。 19歳の僕、、 そこで出会った男たち、 女たち、、。 決して忘れられないひとりの女性、、

記憶をさかのぼる物語だから、 冬の寒さのなかで 炎暑のパリを想うのも良いでしょう。 19歳の自分を追憶するには (読み手にとっても) きっと ある痛みがともないますから…。 

 ***


  そこで僕の視線はこのマダム・ブランへと注がれた。僕に背を向けノンシャランに肘をレセプションのカウンターについていた。コンシェルジュの電灯が、そのブロンドの髪を照らし出していた。彼女はベージュの毛皮のジャケットを着ていた。





『迷子たちの街』 パトリック・モディアノ 平中悠一・訳 2015年 作品社 (原著は1984年刊) 


あるひとつの言葉に衝撃をおぼえる、、 という体験をひさびさにしました。 衝撃、、 というか、 その言葉によって 火花のように新鮮なイメージが喚起される、 という体験。。 本のなかで眼にしたあるひとつの言葉、、

《ノンシャラン》という言葉。


この言葉、、まったく忘れ去っていました。 忘れ去っていた、ということに自分で気づいて その意味がよみがえってきた時、 まるで眼が覚めるように新鮮でした。。 ノンシャランなんて言葉、、 自分で使ったことも、 どこかで眼にしたことも、、 それこそ20年くらい無かった気がします。

この小説には その《ノンシャラン》という言葉が ぜんぶで4回(たぶん)出てきたのですが、 あまりに新鮮だったために 出てくるたびに (ノンシャラン…だ) と、口元が自然にほころんでしまうのでした、、


べつに この言葉が物語の重要な要素というのではないのです。 私が勝手に《ノンシャラン》という言葉に反応しただけです。。 でも、 ノンシャランという言葉がつくりだすパリのイメージ、 どんな時代か、、 どんな男たちか、、 女たちか、、。 それはやっぱり パリでしか存在し得ない言葉のように思えます。。 ノンシャランな…

 ***

物語とは離れて・・・

ノンシャランという言葉に、 私がこんなにも新鮮な驚きをおぼえたのは、 このコロナの世の中になってから、 自分の感情や さまざまな物事に対する感じ方や 価値観や、、 それらがどんなに凝り固まってしまっていたかを あらためて気づかされたということに通じます。 ノンシャラン、 その意味する肩の力の抜けた、、 こだわりのない、、 どこか余裕のある態度や ものの感じ方、 考え方、、。 それとはどんなにかけ離れていたことか、、。

以前にちらっと書いた事がありましたが、、 もしおばあさんになったら、、 パリのアパルトマンに住んでいるような老女になりたい、、って。。 そのイメージはまさに ノンシャランな感じというのがぴったりの言葉なのです。。 ぎすぎすしない、、 大騒ぎしない、、 世の中のことにいちいち振り回されず、 でも自分流の美意識を持って、、

、、 最後のところがいちばん大事。。 ノンシャランな、 という形容詞には その背後にしっかりとした気品が備わった上でないと。。 それがなければ 単なるずぼらとか だらしなさとかにしかならない。。 だから難しい、、 というか、、 ムリ、、(笑) ノンシャランが似合うような老女になるのは…。

でも、、 なんだかこの凝り固まった昨今の世では、、 ノンシャランな佇まいを もうちょっと思い出すようにして生きていこうかな… と、そんな風に思っています。 理想の老女をめざすためにも…

 ***

話を物語に戻して・・・


パトリック・モディアノさん。。 1945年生まれの仏の作家。 
これまでほとんどまったく知らないままでした。。 2014年のノーベル文学賞受賞者だということも、 この本を読み終えるまで知りませんでした。 だから 今回読んだ作品が この作家さんを特徴づける作品なのかどうなのかもわかりませんし、 いつ書かれた作品かも、、(37年も前に書かれたのだとも)知らずに読み終えたのですが、、 その文体、、 文章の運び方、、 描かれていく場面の連なり、、 物語の組み立て方、、 どれもが面白かったです。

訳者のかたが 「モディアノ作品を原文、フランス語で読む時の感覚を、さらには違和感を、日本語版でもヴァーチャルに、可能な限り体験してほしい」 と書かれているように、 訳文にはたいへんこだわって訳されたのがよくわかり、 その訳文を含め(私はフランス語はまったくわからないので) モディアノ作品の魅力の一端を感じさせてもらえたようで とてもわくわくする読書でした。

検索すると、 モディアノ作品はいろんな方が翻訳されているので、 今度、 ぜんぶ違う方の翻訳でモディアノ作品をいくつかまとめて読んでみようという気になっています。



きょうは寒いですね、、


ミルクティーでも飲みましょうか…



風邪ひかないでね。。

in My Heart...

2021-12-08 | …まつわる日もいろいろ
前々回 ナナカマドの魔法の力のことを書いた二日後、 お買い物先で素敵な赤い実が目にとまりました。
 
ナナカマドでないのはわかったけれど、 クリスマスのリースにぴったりだと思って買って帰りました。 さて、どうやって飾りましょう、、 花を飾る…? リボンを巻く…? 


いろいろ考えたのだけど、、 ネックレスを巻きつけてみました・・・





なんだかシンプルにととのったのでこれで。 ちょっとハートの形にも見えるし。


、、 クリスマスの柊の実の付き方とは少し違いますね、、 この木は何でしょう… と調べたら、 サルトリイバラというのだそうです。 クリスマスの柊はセイヨウヒイラギ(クリスマスホーリー)。

サルトリイバラにも花言葉があって、 不屈の精神、 元気になる、、 というのですって。。 いまの私にぴったり。 もっともっと元気になれますように・・・

 ***

そんな私の今年の漢字、、 すこし前から考えていました。 去年は 「在」 でしたね。  今ここに在る、ということ。

今年は、、 「鍛」 


そのまんまの意味です、、 「きたえる」。  身体を鍛える。 毎日トレーニングする。 筋肉をつける。。 べつにむずかしいことじゃないんですけど、 もともと病気があるので 鍛えることでかえって痛めることにもなってしまうおそれがあるから 励めばよいというものでもない。。 鉄を鍛える、 刀を鍛える、 それといっしょで加減をまちがうと壊れてしまう、、 そうならないように「鍛える」 

おかげさまで 今年一年の努力が多少は身になって、 ようやく身体らしい体が戻ってきました。 悪いところはいっぱいだけれど(笑)、、 でも また何処かへ出掛けられるという希望がかないそうになってきました。 コロナがおさまっていてくれれば、、ですけどね。

 ***


身体は鍛えられても、 心はなかなか鍛えられません・・・  鉄を熱して叩くようには 心はなかなかトレーニングできません。。 今年もダメなところいっぱいでした。。 自己嫌悪になることいっぱいでした。。

さっき、 心の漢字を見ていて、、 「りっしんべん」の漢字って、 心のマイナス要素の文字が結構多いのね、、 思い当たるものばかりで苦笑しました。。 思い当たるそういう部分、 もっと少なくできるようにしたいな。。

「心」の漢字のなかでも、 「慈(いつくしむ)」 とか 「恵(めぐむ)」 という ひとに与えることのできる美しい部分、 そういうものをたくさん持っている心に、、。 むずかしいです。


 ***

テンプレートをクリスマス柄にしました。


これから年末へのいそがしい季節、、



あなたが 幸せでありますように…


 

感謝と感動♪:ジョナサン・ノット指揮 東京交響楽団 川崎定期演奏会 第84回

2021-12-06 | LIVEにまつわるあれこれ
街がクリスマスの装飾に彩られるなか、 わたしにとって今年最後の公演に行って来ました。 

先月のウルバンスキ指揮 東響さんの公演を観たあと、 生の演奏をコンサートホールで聴ける歓びをとにかくもう一度味わっておきたくて (感染の抑えられている今なら大丈夫!)と、 すぐに予約したのでした。

ジョナサン・ノット音楽監督指揮の東京交響楽団を観るのは 恥ずかしながら私はまだ2度目? 昨年の第九公演をはじめ、 配信などで何度もノット監督の姿を拝見しているのでそんな気がしないのですが、 振り返ったら 2018年のマーラーの10番、 ブルックナーの9番という「遺作」公演のとき以来でした。

今回は、、

ブラームス:ピアノ協奏曲第2番 変ロ長調 op.83
 ピアノ:ゲルハルト・オピッツ

ルトスワフスキ:管弦楽のための協奏曲


 ***

当初発表のピアニストのかたが体調不良により来日できないことになり、 11月末までピアニストの発表がなかったのですが、 ソロリサイタルで来日公演をなさっていたゲルハルト・オピッツさんが、急遽弾いてくださることになり、 代役という言葉にはあたらないような大ベテランの演奏に触れることができたのでした。

オピッツさんの演奏ぶりは まるで鍵盤のうえを両手で優雅に撫でているかのようなのに そこから驚くようなゴージャスな響きが生まれてきて、 あの響きが生まれるのは お身体が大きいせいでしょうか…? 安定感たっぷりの心地良さでした。   

そしてともかく美しかったのは オケの方と一緒に弾くところ。。 オーボエさんとだったり、 チェロさんとだったり。 そのときの共鳴し合うハーモニーの得も言われぬうつくしさ。 あ、そうそう、、 今回 席に着いた時、 楽器の配置がいつもと逆になっているのに気づいて、、 クラシック無知の私はこういう楽器の配置は誰が決めるんだろう… 楽譜に書いてあるのかな… などと不思議に思っていました(対抗配置というのだそうです)

でもその配置が私の耳とこの日の席にはどんぴしゃりで、 弦の響き合い、 コントラバスの存在感、 ピッチカートの弾み、 そこへ溶け込む優雅でゴージャスなピアノの響き、、 すべてが一体化したシンフォニーの美しさにうっとりと聴き入っていました。

特に特にチェロさんとピアノの共演はほんとうに素晴らしくて、 終わった時 オピッツさんがチェロさんをしきりに称えていらしたのも拍手喝采でした。 オピッツさん自身も感動なさったのか、 ノット監督と思わず両手で握手、、 このコロナ禍の世の中になってから、 両手を握り合うのはタブーになってしまいましたけど、 本当に気持ちが高まったらそうしてしまうのよくわかります。。 こちらまで胸アツ…

ブラヴォーが言えない代わりに弾けるような拍手の嵐が起こっていました。
 
 ***

後半のルトスワフスキ。

ルトスワフスキはポーランドの指揮者ウルバンスキ君もレコーディングしており、 いかにも緻密に構築するウルバンスキ氏が大好きそうな… と思っていましたら、、 ノット監督率いるルトスワフスキの熱量の凄さに圧倒されました~~!!

ルトスワフスキを生で聴くのは初めてだったのですが、 生で聴くとこんなにも立体的でマジカルで、 あれよあれよと驚きの連続で、 ノット監督はものすごいエネルギッシュ。 

曲のタイプは全然ちがうけど、 ちょっとボレロのように同じ旋律で楽器がつぎつぎに加わって行ったり、 追いかけっこをするように こちらの楽器のあとをあちらの楽器がエコーのようについて行く、 というように音楽がすごく立体的に幾何学的に構築される。 ノット監督は暗譜で縦横無尽に指先と身体全体でそれを捌く(暗譜でないとあのめくるめく楽曲でページをめくっているヒマはないと思えるほど)。 見ているこちらもスリリングとわくわくが止まらない。。

対抗配置というのが このときも強く印象づけられました。 なんだかあっちとこっち、 対角線上に楽器が鳴ったり、 こちらからあちらへ、、 旋律を追いかける様子が波のような曲線のような、、 音に図形を感じ取ったり、 音に色彩を感じ取ったりする能力のある人が世の中にはいるそうですが、、 昨日のルトスワフスキを聴いていた私にはつぎつぎに変容するいろんな図形がいっぱい見えるような気がしました。

やはりこれは現場で そこで鳴っている楽器の音に身を浸してこその音楽だと思いました。 それが出来ることの喜び。。 ノット監督の様子も、 全身で嬉々としてオケを操り、 どんどん前傾姿勢になって、、笑
(このときも3年前のブルックナー9番を思い出し、 あの時はノットさんに東響さんが喰らいついて行く、という感じに思えたのが、 今度は一緒に一体化して燃焼しているみたいに見えて、 共に長い年月を歩んできた結果なんだろうな…と感動でした)

ラストはノット監督の〆のガッツポーズ! やったぁ… 完全燃焼。。。


、、 音楽的な感想が書けなくてスミマセン。。 素晴しかったです。 ノット監督にずっとずっと東響さんと一緒にやっていただきたいです。 一人一人を讃えるように全身で喜びをあらわしながら オケの間を歩き、 客席のあちこちに手を振って挨拶なさるノットさん、、 そのお姿には音楽を愛する情熱や この状況のなかで音楽の場をひとびとと共有できる喜びがいっぱいに感じられて、 ほんとに愛さずにはいられません。。 こちらもただただ感謝感激です。。

楽しかった~~。  素晴しかった~~。


昨日の公演もニコ生の中継がされて、 私もこのあとまた思い出しながら、 みなさまのコメント見ながら、 ふたたび楽しめる、、 それもまた幸せ♪ (大絶賛のようでしたね)
https://live.nicovideo.jp/watch/lv334559166

ノット監督はこのまま日本に滞在されて 年末の第九を振って下さるそうです。。 オミクロン株の様子如何では来年 また海外の演奏家のかたの来日も困難になったり 演奏会に行けなくなったりするかもしれない、、。 そう思うと一回一回の機会がほんとうに貴重に思える。。



音と音が響きあう空間。

そこにいて 耳をすまして 音が描く調和とダイナミズムのなかに身を置ける有難さ。




ミューザのクリスマスツリーにも 音楽がいっぱいでした♪

12月は雨とともに…:「クイックン・ツリーの夜」クレア・キーガン『青い野を歩く』から

2021-12-01 | 文学にまつわるあれこれ(ほんの話)
 
 十二月は雨とともに訪れた。マーガレットにとって、こんな雨は初めてだった。空から落ちてくるのではなく、風に吹かれて斜めに降りつけた。窓には塩がつき、空気には海草のにおいが混じった。
       (「クイックン・ツリーの夜」クレア・キーガン著 『青い野を歩く』所収)


12月になりました。
昨夜から台風のような風雨が通り抜けていきました。 いまは真っ青な空の下、色づいた樹木がかがやいています。 ちょうど昨日読み終えた本のなかに 今朝の風雨のような情景をみつけたので上に挙げてみました。

アイルランドの現代作家、 68年生まれのクレア・キーガンの短篇集です。 アイルランドというとダブリンくらいしか私は街の名まえを知らないですが、 この本で描かれるのはダブリンのある東部の都会ではなく、アイルランド西部の荒涼とした海辺の村で生きるひとびとの物語。

吹きすさぶ風、 荒れる海、 泥炭のかよわい炎で暖をとる百年前から変わらないような暮らし。。 厳しい自然と折り合って生きる日々がひとを寡黙に、かたくなにするかのように、主人公たちは言えない想いや、伝えられなかった悔いや、踏み出せない迷いを抱えながら沈黙している。 でも生きている。 生きていく…


言葉にならない想いを抱えながら、、 でも 生きていく…  そこにうつくしさがある。。

高い樹木も生えない、 暖炉に燃やす薪にも事欠く曠野。 灰色の空と野と海のモノトーンの情景がみえる。 愛したひとと神の道のはざまで神父が祈っている、、。 なんだか、 読んでいるとホージアの音楽が聞こえてきそうな物語たち。。 Take Me to Church とか。 Shrike とか。。 アイルランドゆえの生きざま。。 苦しくて やるせなくて しかし純粋な、、。



『青い野を歩く』クレア・キーガン著 岩本正恵 訳 白水社 2009年


 ***

 「生まれた地方が恋しくないかい」
 「木が恋しいわ。ナナカマドが恋しい」
 生命を与えるクイックン・ツリーが、ナナカマドが、なによりも恋しかった。
 「そいつはもっともだ。ナナカマドの火にかなうものはないからな」

         (「クイックン・ツリーの夜」)


東部から移り住んだ女性の物語に出てくるナナカマドについての会話。。 わたしもナナカマドが恋しい。。 都会にもたくさんの樹木があって、都会の12月はおだやかに晴れ渡って、ようやくの紅葉が初冬の陽射しにやさしく照らされています。 とても美しい風景だけれど、 ナナカマドの赤い実と真っ赤に色づいた葉っぱはやはり恋しい。

でもこの本を読むまで、 ナナカマドが「魔法の力と守る力」を持っているというのは知りませんでした。 「霊樹」「聖樹」とも呼ばれているそうで、、 「クイックン・ツリー」の quicken というのは、 赤ちゃんがお腹のなかで動き始める 「胎動」の意味もあるとのこと。 だから 「生命を与える木」。

ナナカマドの実は真っ赤ですが、 春に咲く花は白い淡雪のようなかわいい花です。 守る霊力を持っているからか、花言葉は「あなたを守る」だそうです。 赤い実にも意味ってあるのかな、、 実言葉 っていうのはあるのかしら…

 ***

 
ナナカマドの魔法の力を借りたい今…
11月はすばらしい月になりました。 2回のコンサートホール、 それからお知り合いのJazzコンサートにも行けました。 吉井和哉さんのライヴにも。(ツアーはまだ始まったばかりだからこのお話はまたいずれ…)

外出機会が急に増えて お友だちから 体調だいじょうぶ?と心配されてしまって、、 でも、だいじょうぶ。。 気掛かりだった感染者もずっと増えずにいてくれて、、 このまま穏やかな日々が続いてくれることを願いましたが、、 ここへ来て突然 オミクロン株、って。。

、、こんなふうに ようやく沈静化したと思ったら新しい変異種があらわれて、、 ふたたび世界中が息をひそめて、 また次のワクチンが行き渡るまで耐える。。 そういう繰り返しになるのでしょうか、、。 世界のひとびとが自由に行き来するグローバルな世の中が なんだか遠い幻のように懐かしく感じられてしまいます。


でも 生きて行かなくちゃ ね、、 まっすぐに 前を向いて。


素敵な12月にしましょう。





先月 Jazzを聴いたホールの近く、、 2年ぶりにみなとみらいに行きました。