星のひとかけ

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夏目漱石の『三四郎』と、 戸川秋骨の「ぐうたら先生」

2014-06-19 | 文学にまつわるあれこれ(漱石と猫の篭)
前回、 漱石と秋骨先生とド・クインシーの繋がりのこと書きましたが、、 昨日の新聞掲載の『心』に、 たまたま中学校教員の月給の話が載っていたので、 前から気になっていたことを。。。

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秋骨先生の「漱石先生の憶出」の中に、 「引越」の部分が出てきます。 以下引用、、

  それから後三十八年に、私が地方の高等学校をやめて東京に帰って来てから、就職若しくは仕事を求めて、私は千駄木の先生のお宅を尋ねたが、その時は非常に親切に扱はれ、いろいろの指導を受けたのであった。以後それが縁となって、恐らく先生はうるさく思はれたかも知れない程、屡々訪問を重ねるやうになったのである。千駄木町から南町へ来られる前かと思ふが、私の家へも来られて、一緒に大久保に貸家を探したこともあった。或家が貸家になるといふ事を聞いて居り、且つその家賃までも概そ何ほどと、私が耳にして居たので、その家を外から先生に見て頂きながらその話をした。・・・(後略)

、、これを読んだ時は、 秋骨先生とそんな交流があったのか、、と 『三四郎』の広田先生の引越しの場面を思い出しながら、、 あの中にも

 「今日は大久保まで行って見たが、やっぱりない…」 と、与次郎が話すところがあったのを思い出していた。 ちなみに野々宮さんは大久保に住んでいて、 わざわざ遠く東大まで通っている。(秋骨先生の住まいも大久保)

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その後、 秋骨先生の 「ぐうたら先生」というエッセイを読んで驚いた。。 「ぐうたら先生」とは、 秋骨先生の中学の恩師で、 その頃(?)から、 東大入学までの数年間を書生として同居していた先生のこと。 なんか、『三四郎』の広田先生に居候している 与次郎みたいな関係じゃないですか。。

 「僕(秋骨)が今文学士になって高等学校の先生になって居るにも拘はらず、なほその十数年を一日の如く中学の先生で通して居るのみならず、その十数年前大学を卒業した当時新調したといふ、その時の新式で今では職工の外あまり来て居るものもない位な、背広を着て通って居るのである」

、、、ね? 天長節も近いというのに「夏服」を着たまままの広田先生みたいでしょ? 違っているのは、 広田先生は高等学校、 ぐうたら先生は中学校、 与次郎が「十年一日の如しと言うが、もう十二三年になるだろう」と言う辺りまで、 似ている。

さらに、、 「ぐうたら先生」は、、

 「僕(秋骨)は一度戯言(じょうだん)半分揶揄(からかい)半分に、先生何故奥さんをお迎えならんのですと尋ねて見た。先生は只ニヤニヤして計り居て何とも答へない。例の失恋の結果でゝもあるのですかと、少し乱暴であったが単刀直入に切り込んで見た。処が先生それでも矢張ニヤニヤして居て答へなかったが、稍や暫くして、君、お釈迦様や耶蘇の妻君になれる女があるかねぇと言はれた。此れには僕も少し驚いた・・・(略)

、、う~む、、ますます広田先生に似てきた。。 その上 ぐうたら先生、 「日頃から口癖のやうに、まあ日本では親鸞聖人か芳澤新吉かといふのだからネ、と言って居る」と。。。

、、私は宗教に詳しくはないので 「親鸞聖人」をWikiで見たら、、 「六角堂」で百日参籠の間に 「夢告」があったのだそう。。。(Wiki>>

「広田先生」が夢の中でたった一度会ったきりの女性(女の子)の話を 三四郎にする点については、、 多々説があるようですし、 私も思うところがあるので、「親鸞聖人」の夢のお告げと関係があるのかはわかりませんけど、、

でも、、 秋骨先生が、 漱石先生の引越し探しを手伝っている間に、 自分が東大に入るまで居候していた このお嫁さんを貰わない「ぐうたら先生」の話を、 漱石にしていたのだと想像すると、 すごくすごく楽しいですね。

あ、、 そうそう、、 ちなみに漱石が南町に引越したのは 明治40年9月、 『三四郎』は明治41年9月からの掲載、だそうです。 秋骨先生と「ぐうたら先生」の同居は、 もっと前、、明治20年代のことですが、 ぐうたら先生の月給は「六十円」だったそうです。

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秋骨先生の数々のエッセイ、、 なんと 国立国会図書館の「近代デジタルライブラリー」で全部読むことが出来ます。 
http://kindai.ndl.go.jp/

『三四郎』好き(私が一番好きなのは広田先生)としては、、

秋骨先生が明治41年(1908)に出版した 『時代私観』の中の 「電車とイプセン」、、(なんとイプセン文学の新感覚と、 電車飛び込みという世情を絡めて論じてます)

とか、、

大正2年(1913)出版の『そのまゝの記』に入っている 「丸善回顧」や「日記 六月五日 浮夜床」(ここにも大久保での轢死や放火事件のことなど)、、それからこの「ぐうたら先生」 などなど、、

漱石の創作時代を共に感じるには、貴重な文章がいっぱい収められているように思います。 、、ほんと、 漱石とも気が合いそう。。 

新聞の『心』の連載はまだ続いてます。。 日々感じた事はツイートの方に載せてます。 ぼちぼちぼち、、と、、 ゆっくり私も漱石再読をつづけていきましょう。。。

闇の中の男 / ポール・オースター

2014-06-15 | 文学にまつわるあれこれ(ほんの話)
ポール・オースターが2007年に書いた 『写字室の旅』と、 2008年に書いた『闇の中の男』をつづけて読んだ。 翻訳はいずれも2014年、  柴田元幸訳、新潮社。


オースター作品はほぼ読んでいるけれど、 読み返したりしない怠けファンなので、 作品内容はすぐ忘れてしまう。 ましてや登場人物の名前なんて 全然憶えていない。。

、、というわけで、 『写字室の旅』のからくりがわかったのは、 半分以上読んでからの事でした。。 何が起こっているのか、 此処がどこでいつの時代のことなのか、 男は何者なのか、、 全くわからない状況から話を進めていく(世界をつくっていく)オースターのやり方は、 まぁ慣れているとも言えるし、 作家として好きな人だから、、

でも、、 9・11以降のオースターは、 作家として相当に苦しんでいらっしゃるのだな、、と、 その〈あがき〉を味わっている感じだった。 この『写字室の旅』は、 次の『闇の中の男』にも関連を持っていると 柴田さんが書かれていたので、 すぐ『闇の中の男』のほうも読んでみた。

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出たばかりの本だから、 内容についてコメントするのはやめよう。。 『写字室の旅』を読んでいなくても、 『闇の中の男』から読み始めるのは可能だと思う。 むしろその方が良いかもしれない。 『写字室~』のほうで、 作家の意図するものが半分見えてしまっているから。。

このブログにもずっと書いてきたことだけれど、、 私はオースターの 現実世界に対する 〈予兆〉 〈偶然〉 そして〈小さな奇跡〉 を愛してきた。 でも9・11とその後のアメリカ社会(ブッシュ社会)に生きるオースターさんには、 もう〈小さな奇跡〉を描かないのだろうか、、とも書いてきた。

そして2008年にオースターさんが書いたこの作品。。 本当に、作家としていまだ苦しんでいらっしゃるのだな、、と その苦悩の産物を読んだ気がしました。 、、だけど、、 サリン事件や、阪神大震災や、3・11を経てきた日本で、 日本の作家が 「生きる事」「家族」「人との絆」などをテーマに創りだそうとした小説…(私は余り読んでいないから対象がほんのわずかだけど、、) 、、その私が読んだ国内の作家よりは、 オースターの作家としての「創造」の苦悩のほうを 好ましく感じます。

、、だけど、 決してこれで満足な作品ではない。。 〈こうあったかもしれない世界〉を創造してきた作家さんが、 いつの頃からか、 現実を検証しなおすような、 その中に僅かの真実を見つけようとするような、、 そんな書き方になってしまったのだろうか。。。 

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すごく印象に残っている部分を… (ごく短い引用ですが未読の方はごめんなさい)

イラクに行くという「彼」の言葉。。
 
 「アメリカに協力しに行くんじゃありません。 自分のために行くんです」

 ・・・・・

 「(僕は) なんにもしてないんです。 だから行くんです」(太字傍点)

 ・・・・・

、、この「彼」も まさに『闇の中の男』であり、 「彼」は「彼ら」であり、同時に「我ら」であり、 アメリカ日本全世界共通の「未来」でもあること。。。

、、オースターさんも、 もうすぐ老人という年代になるけれど、 現実の中の小さな安寧に希望を求めて欲しくない。 〈予兆〉を感じ取れる作家さんでいて欲しい。 ブッシュ政権は終わりましたが、 オバマさんも苦しんでいます。 芸術に老いは関係ないと言っていたルー・リードさんもいなくなってしまいました。。

だからまだ私は、 新たなオースター作品を待つことはやめないだろうと思います。

ポール・オースターに関する過去ログ>>