星のひとかけ

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『三四郎』の乞食と迷子と、『An Attic Philosopher in Paris』

2015-01-14 | 文学にまつわるあれこれ(漱石と猫の篭)
また今年も、 朝日新聞で連載が続いている『三四郎』について、少し書いてみましょう。

三四郎が 広田先生、野々宮さん、美禰子、よし子 と連れ立って 菊人形見物に出掛ける場面(五の五~五の六)で、 一行は多くの見物人が通る道端で「乞食」を見かけます。

 「誰も顧みるものがない。五人も平気で行き過ぎた」

そして、 各人の感じ方が書かれます。 

 「(お金を)遣る気にならないわね」とよし子がすぐにいった。・・・
 「ああ始終焦っ着いていちゃ、焦っ着き栄えがしないから駄目ですよ」と美禰子が評した。

 「あまり人通が多過ぎるからいけない。山の上の淋しい所で、ああいう男に逢ったら、誰でも遣る気になるんだよ」 ・・・と場所が原因とみる広田先生

 「その代り一日待っていても、誰も通らないかもしれない」と野々宮はくすくす笑い出した。

 「三四郎は四人の乞食に対する批評を聞いて、自分が今日まで養成した徳義上の観念を幾分か傷つけられるような気がした。」

、、、田舎から出たきたばかりの三四郎には、この四人の反応がいかにも軽薄あるいは身勝手で、不道徳なものに映ったのでしょう。 でも、すぐに我が身を振り返ってみて、 自分が乞食の前を通った時、

 「一銭も投げてやる料簡が起らなかったのみならず、実をいえば、寧ろ不愉快な感じが募った事実を反省して見ると、自分よりもこれら四人の方がかえって己れに誠であると思い付いた」

、、、さらにしばらく行くと、今度は迷子の女の子が泣きながら自分の御婆さんを探していて、、 今度も皆、往来の人を含め、「心を動かしている」ようだけれども、「誰も手を付けない」

 「今に巡査が始末をつけるに極っているから、みんな責任を逃れるんだね」と広田先生が説明した。

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この「乞食」と「迷子」への無関心は、都市の群集心理の現れと言えるかもしれませんし、 彼らのエリート意識の表れかもしれませんし、 明治という文明社会が充溢することによってもたらされた人々の意識の変化によるものかもしれません。

のちに、広田先生は三四郎との会話の中で、 先生世代(明治二十年代の青年)と、 現代(明治四十年代)の青年の自我意識の違いについて、 「利他主義」(言い換えれば「偽善家」)と、 「利己主義」(言い換えれば「露悪家」)という差異についての話をします。(七の三)

この「利他」「利己」の意識の違いは、 先の「乞食」と「迷子」のエピソードの解釈にも当然無関係ではないと思われますし、 『三四郎』という作品の中では、 旧来の価値観に培われたまま都会へ出た三四郎と、 新時代の空気の中で育った女性・美禰子との 恋愛の先行きにも大きく影響する とても大事なキーであるように思えます。

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さて、、(ここからが今日の本題)



漱石先生が 熊本五高時代に生徒たちに英語のテキストとして使用していた本に、 エミール・スーヴェストルの An Attic Philosopher in Paris: Emile Souvestre (1850)という本があります。 邦訳では 『屋根裏の哲人』(木村太郎訳 岩波文庫)が現在、古本で入手可能なものです。 (スウヴェストゥル作、と表記)

スーヴェストルは仏の作家なので、 漱石が使用したのは英訳の本でしょう。 スーヴェストルについては こちらのwikiを>>

『屋根裏の哲人』は小説ではなく、 エッセイと言っていいのでしょう、 パリの屋根裏部屋を借りて住んでいる著者が、 日々、隣人や町の人々の暮らしや、 自らが体験したり、 人から聞いたりしたエピソードを、 ひと月一話、12か月の随想にまとめたものです。 時代は19世紀半ば(私は歴史に詳しくないですが) 仏も産業革命によって 新興ブルジョワジーと 貧困層の格差が拡大しており、 屋根裏の著者は主に貧者たちの話や暮らしぶりを綴りながら、 彼らのつましい暮らしぶりに心を寄せ、 同情し、 常に我が身を振り返りつつ自省の念を深くする、、といった内容になっています。

この本の 四月の章「互ひに愛し合はう」の中に、 「乞食」と「迷子」のエピソードが描かれているのです。 四月、美しい季節が訪れ、 豊かな物で溢れ、仕事を終えた人々が夕べの楽しみに街へ繰り出すさ中、、 
彼が出会った「乞食」、そして「迷子」に関して、 著者がどう行動し、 どんな観想を綴っているかは書かないでおきます。 

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漱石が 『三四郎』の中に 「乞食」と「迷子」のエピソードを菊人形見物に絡めて登場させたことと、 熊本五高時代に『屋根裏の哲人』を教科書として生徒と共に読んでいたこととは、 決して無関係ではないと思えます。 スーヴェストルの 極めて高潔な(そうであろうと自戒する)姿勢=利他主義にもとづいたエッセイは、 学生に教えるには大変道徳的で良い教科書だったかもしれませんが、 裏を返せば「偽善的」とも言えるでしょう。 著者は、 貧しき者に同情し、 正しい行いに努めてはいますが、 観察者でもあり、 それを綴ることが自らの糧にもなる「哲学者」であって、決して社会の変革者たらんとするわけではないのですから。

漱石はその「矛盾」というか、「傍観者」の姿勢にも気づいていたことでしょう。 そして、 その後の英国留学を経て、 19世紀末のロンドンの富と貧、 美と醜の隣り合わせの都市を体験し、 そこで生れる英国文学の歴史を研究して、 あの『文学論』を著することになり、、 ある程度繁栄を成し遂げた明治41年の 『三四郎』の中で、 「利他主義」と「利己主義」について広田先生に語らせることになるわけですね。

虚実をないまぜにして言ってしまえば、、 熊本五高で『屋根裏の哲人』をテキストに 「乞食」と「迷子」の道徳観を学んだ三四郎が、 東京へ出てきて、 菊人形見物の日に「乞食」と「迷子」に出会い、 熊本で読んだこととは全く異なる感想を、 都会人種の野々宮や美禰子らから聞くことになる、、ということです。

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「利他主義(altruism)」については、、全集(2002年版)の注解にもありますが、 明治44年の「文芸と道徳」という講演の中で漱石は

 「吾々は日に月に個人主義の立場からして世の中を見渡すようになっている。…略… 我が利益のすべてを犠牲にして他のために行動せねば不徳義であると主張するようなアルトルイスチック一方の見解はどうしても空疎になってこなければならない」

、、と、現代(明治末期)の状況を考察しています。

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最後に資料として、、

「An Attic Philosopher」のことは、 八波則吉「漱石先生と私」(漱石全集月報)に 「…夏目先生から教はつた一年間に、『アツチツク、フイロソフアー』や、『オピヤム、イーター』や、『オセロ』など皆ジ、エンドまで読んだ…」とあり、

1898.3.28 の試験問題(東北大学漱石ライブラリ http://dbr.library.tohoku.ac.jp/infolib/user_contents/soseki/images/img15-18.jpg) の長文読解(4-7,10-11)は An Attic Philosopherからの出題と思われます。
*追記 上記URLが変更になっていましたので、以下に訂正します。(2017.2.9)
http://www.i-repository.net/contents/tohoku/soseki/images/img15-18.jpg

余談ですが、、 現在ではほぼ誰も読まなくなった(と思われる)『屋根裏の哲人』ですが、、 古本では昭和25年の版が最後のようで、 その頃までは版を重ねて読まれていた様子。。 検索をしたらこちらの本↓に出会いました。

『昭和の青年友を愛し、国を愛し、ソロモンに没す』 著者: 秋山新一
、、戦地に赴いた青年の日記のようです。 スーヴェストルの読書記のページが見られます(google books>>

今日の『三四郎』(七の三)の中で広田先生が

 「われわれの書生をしている頃には、する事為す事一として他(ひと)を離れた事はなかった。凡(すべ)てが、君とか、親とか、国とか、社会とか、みんな他(ひと)本位であった」

と三四郎に言います。 上記の秋山青年の時代はまさに、 国の為、君の為、、 その一途な思いで自身を律しつつ、『屋根裏の哲人』を読んだのでしょう。 

『三四郎』の冒頭で、 広田先生に「亡びるね」、、と言わしめた漱石が、 あの大戦の時代まで生き長らえていたら、、 何を言いたかっただろうと、、 ふたつの本を読みながら考えています。

 --- もし最後までお読みいただいた方がいらしたら、、 お疲れ様でした。 ありがとうございます ---