goo blog サービス終了のお知らせ 

星のひとかけ

文学、音楽、アート、、etc.
好きなもののこと すこしずつ…

言葉はひといろではないもの。。

2006-01-30 | 文学にまつわるあれこれ(ほんの話)
いつかよく考えてみたいと思っている事があって、、、

子供の頃に、「尼寺へ行け!」という台詞を何処からか憶えて、
それがシェイクスピア劇だと知ったのはずっと大きくなってからだけれど、それまでは〈寛一〉〈お宮〉と同じ世界の台詞だと思っていたのです。寛一が下駄でお宮を蹴飛ばしながら「尼寺へ行け!」、、、記憶の中のセリフは、人情劇を演じる役者さんが、ポーズを決めつつ吐くような、そういうものだったのです。。お陰で私のシェイクスピア観はずいぶんと狭められました。

でも、作品を本で読むようになって、
あの言葉は、そんな冷酷な仕打ちの言葉ではないんじゃないかと、、そう思うようになりました。おぼろな疑問を、ちょっと確信に近づけてくれたのが、ペーター・シュタイン演出のロシア語劇「HAMLET」(公演当時の案内>>)。とってもナイーヴな、音楽好きの王子と、可憐で儚げな妖精のようなオフィーリア。・・・少し記憶が曖昧になってしまったけれど、あの劇では王子はオフィーリアのそばに屈みこんで、耳元に囁くように、その台詞を言ったような気がします。

王子は復讐を遂げたら、たぶん死ぬ覚悟でいたのではないかしら。。だから、、あの台詞は、永遠の愛をたむけた台詞、、。自分は、ずっと一緒にいてあげることは出来ないけれども、、オフィーリアには、生涯、祈りの場で自分を想っていてくれ、、と。

オフィーリアは、彼を失った悲しみで、夢の世界の住人になってしまったのだろうか、、、? なんだか、そうではないような気がする。。 オフィーリアは、彼の言葉を、理解できたのではないかしら、、、。 どうかな。

きょうはそんなことを考えていました。

the beat generation と三島

2006-01-19 | 文学にまつわるあれこれ(ほんの話)

   当時東京ではツウィストが流行しはじめ、ビート・バアがいくつか店を開いた。
   ・・・(中略)・・多分、かれらの生活は、短篇小説の題材にしか適しないので
   あろう。流行は去り、かれらも年をとり、さらに滅茶苦茶な新しい世代へ代が替
   って、かれらも、かれらの青春も、一時期の新宿界隈も、そして作者の私自身も、
   過去に向って埋もれることになった。


 ***

三島由紀夫自選短篇集『真夏の死』(新潮文庫)の解説、『葡萄パン』という作品に対するものである。これを読んだのが15才。『葡萄パン』の〈透明な存在〉ジャックは、以来私個人の中ではずっと(勝手に)トム・ヴァーレインなのだった。〈ビート・バア〉という言葉は解らなかったけれど、70年代のNYアンダーグラウンドもまあこんなもんだろうと、、。小説の中でジャックが読む『マルドロールの歌』の本をすぐに探した。田舎の書店ではなかなかみつからずに(注文しようという気など当然無かった)、読むまでに1,2年かかった気がする。

トム選曲のRadioの最後に「the beat generation」という曲がかかった。
「ああ、、」と思って、『マルドロールの歌』をまた引っ張り出した。
ジャック=トムと想像していた子供には強烈すぎたマルドロールが、今読むと何とも〈ピュア〉なのであった。。
〈ビート・バア〉も、、「the beat generation」で歌われた情景、あの古めかしい音と共に「ああ、、」なのであった。。ついでに、主人公の名前、、そうだ、〈ジャック〉だ。
それで、、(Radioのお喋りを聴いて)、、やっぱり今もジャックはトムなのだと思う。

15才の読書もムダにはならないものらしい、、。

新しい年に、、いまの気持ち

2006-01-03 | アートにまつわるあれこれ
2006年が始まりました。
今年が皆さまにとって良い一年でありますように。

アンドレイ・ルブリョフの「聖三位一体」。
旧約聖書 創世記18に記された、アブラハムのもとを訪れた3人の天使をもてなす場面、というものですが、私はロシア正教信者ではないのでこれは美しい芸術として、見るたびにいつも心を穏やかにしてもらうことのできる、大事な〈作品〉です。戦乱で荒廃した国土の復活とそこに生きる人々の和を願って、空の青と、大地の茶と、作物の緑と、美しい薔薇色とで彩られた、睦まじい天使の姿。

新年の番組で、仏像100選をとりあげたものがありました。半分ほど見ていましたが、私も大好きなはなちゃんが、お仏像に「会いに行く」と表現していて、、本当にその表現の通りだと思うのです。出来たら仏像は美術館の展示ではなくそのお寺へ「会いに」行きたい。そうやって「お会いした」お仏像には、TVで再見した時にも、かつてのお寺の景色、お堂の静かさ、お香の匂い、その日の寒さあるいは暑さ、それらが同時に甦ってくるから。お堂の中でお会いする仏像には、長い長い時間、其処でずっと人々を見守ってきた〈時間〉が感じられるのです。自分の生命の前の果てしない〈時間〉が見えてくるのです。

宗教の境を超えて、「聖三位一体」は、お仏像と同じ気持ちで見つめられます。以前にも書いたことですが、ロシアの研究家が京都を訪れたとき、弥勒菩薩像にルブリョフの天使像と同じ美を感じたと語ったそうです。ルブリョフがイコンを描いた修道院や、この天使たちが収められたトレチャコフ美術館へ、私が「お会いしに行く」ことは、もしかしたら無いかもしれないけれど、世界中から宗教も人種の境も超えていろんな人がこの天使に会いに行って欲しい、、、いつまでも、、いつまでも、けっして戦乱などで破壊されることなく。。