星のひとかけ

文学、音楽、アート、、etc.
好きなもののこと すこしずつ…

桜、咲きました。

2003-03-31 | …まつわる日もいろいろ
 花の香りが、街にあふれて・・・桜、咲きました。
 つつみこむように枝をひろげるその下で、人々は憂いを忘れようと、去年にも増して賑わいを見せていました。

 先日、職場で、テロ警戒の通達が。。。他人事ではない、この街。いつ救急車のサイレンが街中を埋め尽くす日が来ないともわからない。大好きな菫咲く丘を下りつつ、そんなことを思い出した。

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 ずっと見たかった「ロード・オブ・ザ・リング 二つの塔」を見ました。雪をいただいた山嶺を背景に、旅をつづけるアラゴルン、レゴラスらの姿を見たら、この1年に起こった現実の変化がふっと胸によぎって、涙を我慢するのが苦しかった。ファンタジーが欲しかった、本当は。。夢を見られない自分が苦しかったんだね、と気づいて、夢の中へ身を置くことが出来る歓びのせいで、ずっと泣きそうだった。

ずっと少年のまま。。

2003-03-26 | LIVEにまつわるあれこれ
 天本英世さんを想って、ロルカで一番好きな詩の一部から。。

   どの鏡の後ろにも
   死んだ星が一つずつ
   それから 眠っている
   幼い虹が一つずつ。

   どの鏡の後ろにも
   永遠の静けさが一つずつ
   それから 飛び去らなかった
   沈黙たちの巣が一つずつ。   
     (「綺想曲 カプリーチョ」より 小海永ニ訳)

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「ふたり会」のつづきを・・
 言葉をとりもどしたあとのマリさんとチャボさんのふたりのLIVEは、とても楽しいものでした。マリさんから「カリスマ」の称号をもらったチャボさんはお客さんに大威張りで(子供みたい・・)、そのくせ、この会のためにふたりで「交換日記」をしたなんて話を暴露されて、チャボさんからのFAXをマリさんに読み上げられてしまったら、帽子で顔隠して逃げ出したいように椅子の上でじりじりして(やっぱり子供だ・・笑)

 でも、マリー・ローランサンの「鎮痛剤」を歌う時、マリさんはギターひとつの伴奏で歌うのは初めてだと言って、それでチャボさんがイントロを爪弾きながらマリさんを見て、「いつでもいいぜ」って(男らしく)促した時は、私はと~っても妬けました。

 頬っぺにキスされて「来年もやる!」って言い切っていた(!?)チャボさん、、、あのあと3日くらい寝込むんじゃないかと心配です。

あしたへの言葉。。ハレルヨ。

2003-03-24 | LIVEにまつわるあれこれ
 21日はお友達みなさんの手づくりコンサートでした。終了後のお疲れ様会にも出させていただいてどうもありがとうございました。機材の準備や片づけをする頼もしいダンナ様たちや、ママのギターケースやいろいろな荷物をせっせと運んでくれる子供たち。みんなでつくったコンサートという暖かさがしみじみ・・(私はご馳走になっただけで、スミマセン・・)

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 このところ、CDをかけることも少なくなって、普段ならニュース一本見終わったらそれで消してしまうTVなのに、CNNやABCやずっと見続けて、次第にもたらされる、兵士や記者の死傷者や、民間の犠牲者の情報を耳にしながら、、、こんな時だからこそ、あったかくて人間らしい食事をつくることが出来る喜びに感謝しなくては、と妙に気負ったりして、、、私は行かなかったけどたくさんの友達が出かけたはずのストーンズ公演の話題にも、なぜだか熱い思いになれなくて、、、春めいた青空が部屋の窓いっぱいに広がっているのを、ただ見てはそれさえもやるせなくて、、、

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 23日、今日は鎌倉芸術館で、仲井戸CHABO麗市さんと夏木マリさんの、詩と音楽の「ふたり会」でした。
 一緒に行ってくれたのが、ストーンズ好きな友達。・・会場に行く前に食事しながら、ずっとずっと昔に買ったストーンズのアルバムの話とか、ミックの声が一番素敵に聴こえるバラードは何かって話とかしていたら、ストーンズの来日を素直に喜べていなかった自分の気持ちがちょっとほぐれた。

「ふたり会」のこと、、、ライブレポしてね、って友達に言われていたのだけど、、いっぱいいっぱい思いがありすぎて、今はうまく書けない。マリさんの意外な登場場面からもう、とても胸に迫るものがあって、そこでマリさんは踊り、歌い、叫ぶのだけれど、それはばらばらに壊れてしまった言葉、意味を奪われてしまった言葉だったのです。永遠につづいてしまいそうな、マリさんのこなごなの叫び。。。怖くて、かなしかった。

 その意味を奪われてしまった言葉の悲しみが、言葉として回復されていく事を、マリさんは女優だから象徴的に表現したのだと思う。そして、チャボさんは、女優さんのような演技者ではないから、思いのありったけを込めてギターを弾いて、言葉は言葉として、まっすぐに人に届けようとしたのだろう、と思いました。チャボさんの声はどうしてあんなに、あったかくて切ないのだろう。そして、マリさんの声はどうしてあんなに、強くて美しいのだろう。

 「今日の会は言葉のための会だから」と何度もマリさんは言いました。
 チャボさんは、「ストーンズが来ちゃったしさあ・・」とはにかんで、ブライアン・ジョーンズの事を綴ったエッセイを朗読したり、そんなチャボさんはリバプールサウンドやキンクスやヤードバーズにいかれてしまったロック少年のままだったのだけど、、、

 でも、どうしても歌わずにはいられなかった「今」への思い。その苦しさを声にして、言葉にして、ギターの音にして伝えようとするチャボさんから、、、離れて、、、舞台の端の暗がりで無言で踊り続けるマリさん。演奏が終わって、チャボさんが去って、追い出しの曲のルイ・アームストロングの「What a wonderful world」が流れ終わるまで、ずっと踊り続けていたマリさん。
 ・・・言葉は温かいけれども、言葉は、時に苦しい。

 たったひと晩限りの、詩と音楽の「ふたり会」でした。言葉についてともに語らったお友達、見たいなあと言っていた友達にも、、本当に見せたかったよ。今度ゆっくり、たくさん話すからね。やっぱり、言葉を尽くして。。

過誤とはならぬよう。

2003-03-19 | …まつわる日もいろいろ
 今度の攻撃は「イラクの自由」作戦(Operation Iraqi Freedom)だそう。。爆弾3000発落とされる下の人々が「自由」なものか。。

 昨日、BSでノーカット版のブッシュ演説を見ていたら、後ろに控えているシナリオライターや演技指導担当の姿が見えてきて(今回に限ったことでもありませんが)、今回はローレンス・オリヴィエがケネス・ブラナーを目指したんだろか。。この演説に自分で酔っていたご様子。アジンコートの戦いに臨む前、恐怖を隠せない兵士たちを説得し、鼓舞するヘンリー五世の演説はたしかに胸を打つ名場面でした・・「君たちとともに闘うこの日は、永遠に人々によって語り継がれていく・・神のご加護を!」って。。「暴君は倒れ、人々には平和が、新たな戦争はもうありません」・・「神のご加護を!」このひと言で、国民は正義のため、自由のため、神様に許されたやむを得ない攻撃と受け止めるのかもしれませんが、「神」を持ち出していいのは、互いの「神」が共通している場合だけ。ブッシュさんの「神」は世界中の「神」じゃない。

 イメージで惑わされるのだけは避けたい。何を信じるか、、どこに目を向けたらいいのか、、それをどう考えるのか、、解りやすいイメージに冷静に向き合うこと、、。戦争の影になっている他の国や、原因不明の肺感染症のことも心配ですね。本当に日本はすぐに報道が一辺倒になっていくし。首相自身が「その場の雰囲気で」決断するだなんて。。

ささやかな、祈り。

2003-03-11 | 文学にまつわるあれこれ(詩人の海)
 そろそろ・・・かな? と思って、去年ブックマークに入れてあったサイトを開いてみたら、やはり今日(11日)からアイルランドではセント・パトリックのお祭りが始まるのでした。

 栩木伸明先生の『アイルランド現代詩は語る』という本をたまに開いてみていて、私はシェイマス・ヒーニー以外のアイルランド詩人は全然わからないのだけど、私と同じ生まれ年のパット・ボランという詩人が、こんなことを語っている文章が載っていました。

   一般に「祈り」というのは「あれがほしいこれがほしい」と
   神様に頼むことだと思われてるけど、ぼくにとって本物の祈りは
   「褒め称える」ことだね。いまここにあることを感謝すること。
   オレはこれが好きだ、オレは今この瞬間を信じる、ということ。
   自分を再定義する瞬間。そういう瞬間にいたるようなプロセスが祈りだ
                           (P56)

 この人は高校を出たあと、ロックミュージシャンになるつもりだったそうで、ロックスターになりたい、という願望と、↑の言葉のような無垢な精神性が矛盾せずに彼という人間の中に在る、ということがアイルランドの「声の文化」が持ち続けてきたひとつの「力」だと思うし、そんな所に私もなんとなく導かれてきたのかもしれない、と思っています。

 ・・・自分のサイトの日記なのに、どうしても書けないことが胃につかえたりしてるけど、、「言葉」と「歌」の力を私に教えてくれた人たちに、こうして巡りめぐって出会えてきたことを、「感謝」するし、その出会いを「信じ」たいと思っている。「言葉」と「歌」の力が失われないこと、、それが私の「祈り」かな。

雨音、やんだようです。

2003-03-02 | …まつわる日もいろいろ
 冷たい雨の一日。暦が変わって、でも気温はまた冬にもどって、それでも時間は流れている。風はあしたの方向へしか吹いていかないものね。だから、風の中に暴言を飛ばしてしまったら、それは風が吹いてきれいさっぱりにしてくれるわけではないんだものね。。一日、一日、誰かがTVの中で言う愚かしい言葉に、明日が汚されないようにして欲しいんだ。

 雨音が街を、屋根を、ベランダを叩く音を聴いているのは、私はキライじゃないです。空とこの地上を結ぶ無数の糸が、たくさんの命をつなげてくれているような、そんな気がしたりするから。空には頼もしい人たちがいっぱいいるし。。

 風に綿毛が飛んでいくのはまだ少し先のことになりそうだけど、世界に飛んでいくのは花の種子であって欲しいし、私も落下傘で憧れの地へとんでいきたい。