星のひとかけ

文学、音楽、アート、、etc.
好きなもののこと すこしずつ…

虞美人草のヒロインは、、?

2006-10-28 | 文学にまつわるあれこれ(漱石と猫の篭)
、、と、下の続きで、
世田谷文学館に置いてあったたくさんのチラシで、嬉しい情報があったので。。

東京国立近代美術館フィルムセンターで、「没後50年 溝口健二再発見」として
この11月~12月に主要作品の上映があるそう。
この夏、、だったかな? 『雨月物語』はNHK‐BSで見ました。
上映リストなどはこちらに載っています(National Film Center>>

夏目漱石の『虞美人草』(1935年)は、かならず観に行こうと思う。
そうそう、つい昨日、、教育TVの『美の壺』という番組を初めて見ました。昨日のテーマは「文豪の装丁」。
ここにも、ケシの花に似た朱の虞美人草をあしらった、初版の装丁が登場しましたが(番組サイトにも載っています>>)、この表紙のさらに上に、ひもで結ぶような(喩えは悪いですが、まるで駅弁をさらに紙でつつむように)、真っ青な、もうひとつのカバー(箱?)がついていたのは知らなかったです。なんて贅沢で美しい、、。

溝口の映画の解説には、原作のヒロイン「藤尾」から、庶民の女「小夜子」へと、焦点が変わっているようですが、、『虞美人草』、、果して、漱石原作のヒロインは、本当に(当初は)「藤尾」だったのでしょうか、、どうかしら? 
そして主人公の男は、当然、ふたりの間で悩む「小野さん」と位置づけられるでしょうけれど、、小説を読むと、、主人公は、、小野さん、、? そうと言えない面が多いですね、、などと、『虞美人草』って「裏」と「表」の話があるような、面白い物語なんですよ。

絢爛美を誇る文体も、、慣れてしまえば案外ラクに読めます。
山々や、樹々が、美しい錦絵をつくりだすこの季節、、こんな文明開化の華やぎの世界に浸ってみてはいかがでしょうか? 結構おすすめの作品です。

『虞美人草』岩波文庫(Amazon.co.jp)

、、あしたは、神田の古本市へまいります、、。

世田谷文学館へ。

2006-10-28 | 文学にまつわるあれこれ(ほんの話)
芦花公園という初めての駅で降りて、
とても静かな場所にある「世田谷文学館」へ行ってきました。

前に書いた、「宮沢和史さんの世界展」のイベントで、仲井戸チャボ麗市さんの朗読&コンサートに行くことが出来たの。。葉書が当ったなんて、びっくり。今年、チャボさんのLIVEを日程の都合で諦めたから、すご~く嬉しかった! 

展示を見ようと、昼過ぎに着いた頃には、暗幕の向うでリハーサルをするチャボさんの歌とギターが、ロビーに響き渡っていた。ギターのいい、音。聞こえ過ぎるほど聞こえてしまう、、それだけで、どきどき。。詩を朗読する声が、、あれ?、、チャボさんの声じゃない。。どうやら宮沢さんと一緒に何かなさるんだな、、と。

世田谷文学館には、常設展示もあって、世田谷ゆかりの文人の原稿などが展示されていました。北杜夫、斉藤茂吉、大江健三郎、野上弥生子、、最近では、、大藪春彦の「蘇える金狼」の一節に「梅が丘」(だっけ?)が出てくるそうで、映画の松田優作さんのカッコいい写真なども飾ってありました。。興味深かったのは、三島由紀夫が、北杜夫の『楡家の人びと』を賞賛している生原稿で、文章も美しいですが、三島の文字は大ぶりで流麗で、展示品としてたいへん美しかったです。

チャボさんと宮沢さんのコンサートの事はまた、、。チャボさん、素敵すぎます。


どうせ大声をだすんなら泣くより笑うほうがいいです。 : オルコット『病院のスケッチ』

2006-10-28 | 文学にまつわるあれこれ(林檎の小道)
しばらく前に読んだ本と、つい最近、読み終えた本、、。

ひとつめは『ルイーザ・メイとソローさんのフルート』という絵本。
これは、新聞の子供の図書欄で見つけて、
読もうと切り抜いておいたもの。

ルイーザは、『若草物語』の作者ルイザ・メイ・オルコット。
ソローさんというのは、『森の生活』で有名なヘンリー・デヴィッド・ソロー。

ルイザのオルコット一家は、ボストン・コンコードで暮らし、お父さんのブロンソンは、自由教育の学校をつくったりして、エマソンや、ソローなど、トランセンデンタリズム(超絶主義)の文学者らと親交がありました。…という話は読みかじった程度で、以前、ウィノナ・ライダー主演の『若草物語』のビデオを観た時に、ジョーことウィノナが、NYで出会うベア先生に超絶主義について熱く語る、というシーンをみて、ふ~んと思ったものでした(原作にはそんなシーンは無かったと思うな、、)。

でも、若きソローさんと少女ルイザが仲良しさんだったとは、知りませんでした。
ソローさんは毎日森をぶらぶらしている変わり者の若者(森の生活をはじめる前のことです)。。ルイザは、当時の少女にふさわしい縫い物仕事などを、なんとか抜け出して、ソローさんと森の散策や川下りをしたくてたまらない、、。

ルイザの少女時代が読める、ということで興味深く手にしましたが、、う~ん、、オルコットもソローも未知な子供が読むにはどうなんだろ、、? 前もって興味がないと、日本の子供には何もピンと来るものがないかもしれないかも、、と思ってしまいました、が。。150年前の家や服装を描いたイラストもね、、ちょっと好き嫌いが分かれるかなあ、、。
、、(勝手だけど)私の好きなバーバラ・クーニーの絵だったら、もっと可愛かったのにな、、なんてちょっぴり残念が残りました。

 ***

もう1冊は、これも、オルコット。『病院のスケッチ』。
ルイザが1862年、従軍看護婦を志願し、南北戦争の負傷兵を看護したときの体験記録。。これは現地から、家族のもとへ手紙として書き送られたものを、のちに新聞に掲載したのだそうです。まだ『若草物語』を書く前、、作家になる前のスケッチです。こちらはたまたま図書館で目にして読んだもので、もう絶版のよう。
すばらしい本なので、再販されて手に入るようになればいいなあ、と思います。

自分がもうすぐ病人になるっていうのに、苦しむ負傷兵のスケッチを読んだりしなくても、、って思われるかもしれないけど、、手を差し伸べられる幸せよりも、手を差し伸べる幸せのほうが、いいものね。。

設備も薬も、麻酔も整っていない南北戦争時代の負傷は、治癒を待つか、切り落とすか、感染が広がって死ぬか、、手を施すにも限界のあることばかり。。でも、そんな状況に、持ち前の不屈の精神と、使命感と、姉のような愛情で立ち向かうルイザの言葉には、力が溢れてて、、。ここにまさに、ジョーがいる!という感じでした。『若草物語』の冒頭も、お隣のローリー君の風邪お見舞いから親交が始まるのですよね。ルイザには、男の子の心を開いて、すぐにかけがえのない友になってしまう魅力があることが、このスケッチでもよくわかります。

肺を撃ち抜かれ、死を宣告された、誰よりも勇敢な兵士「ジョン」が、故郷の弟「ローリー」に宛てて手紙を書いて下さいとルイザに頼む話など、、つらく悲しい場面もあるけれど、ルイザの筆致は、どんな状況にも屈服しないジョーにつながる萌芽をそこかしこに。。大袈裟な比喩とか、ディケンズや聖書の文句のもじりとか、爆発する喜怒哀楽とか、暴走してしまう行動とか(笑)。

・・・現代の病院風景は、昔とはずいぶん変わったけれど、、それでも、できたら若い人は一度は病院で看護士見習いとか、看護体験とか、してみたらいいのではないかな、、と、ふと思いました。難しいかも知れないけれど、死と向き合いつつある人と、何も出来なくてもいいから、話をしてみたら、、と思う。望みの少ない人が、「看護婦(士)さん、ありがとう」と口にする時、どんな表情をするか、ただ身を横たえるより方法の無い人が、時にどんな崇高な笑顔をみせるものか、知る事が出来たら、きっと生きる力になるはず、と私は思うのですけれど、、。
と、これは余談。

愛と勇気と笑いで奮闘するルイザの筆が、本当に生き生きと、素晴らしいスケッチでした。きょうのタイトルは、本文の兵士の言葉です。。

プライマル。

2006-10-13 | …まつわる日もいろいろ
嬉しいことはつづくもので、、(身体へろへろなんだけど、、)

「卒業おめでとう~」Blah Blah Blah Blah,,,

と、通知が来ました!

5年半、、たっくさんつらくて、たっくさん楽しかった。
それを支えてくれたのは、貴方に、貴女に、貴男に、彼方、、、のみんな。
本当にどうもありがとう。。。

できることなら、日本中駆け回って、皆に会いに行きたい。
でも、このあと大事ないろいろもあるし、、
この胸の内、、届くといいな。  だんだんに、皆にお手紙書こうと思う。

VERY GOOD だいぶイケそうだ。
なんとか仕事にも、行けそうだ。。(笑)
                         愛をこめて。

グラン・モーヌ -ある青年の愛と冒険-

2006-10-11 | 文学にまつわるあれこれ(妖精の島)
秋だから、
「本」や「映画」の話をたくさんしようと思う。

、、、大人になって、ずいぶん経ってからやっとわかったことだけれど、
子供時代を過ごした「場所」って、生涯、自分に影響するものなのですね。。
まえに書いたこともあるけれど、
私が育った場所には、小・中・高・大などなど、学校が7つほどもあったんです。
それから、大きな病院がふたつ。。
近所に、ぽつんと商店はあったけれど、いわゆる「商店街」というのが無くて、、
これは割と特殊なんだということに、相当経ってから気づきました。

秋の午後、、 思い出をたどれば、、
学校や病院を囲む土手には、金や赤の落ち葉が散り敷かれ、かえりみち、、
草の斜面を滑ったり、姫林檎の実をかじったり、、そんなのんびりした記憶ばかり。。
だって、覗いて見るお店とか、工場とか、なんにも無いんだもの。
その環境が、良いか悪いかはべつとして、、。少女の頃、オルコットが一番好きだったのも
19世紀のマサチューセッツという土地が、自分の想像力にはとてもしっくり来た為なのかもしれない、、と今になって思います。

 ***

『グラン・モーヌ』という小説は、そんな感じに、ちょっと似てる。1890年代のフランスの田舎が舞台。
物語の語り手、フランソワは15歳の少年。両親は教師で、赴任先の村に着いたばかり。
、、、かつて、古い小学校などには、校舎の敷地内に先生の家があったりしましたが、
フランソワが住むのも校舎兼住居。
朝になれば父と母が先生になって、村の子供たちが登校してきます。

物語は、フランソワの家(学校)に、オーギュスタン・モーヌという少年が寄宿生として預けられるところから始まる。
「私たちがあの地方を去ってからやがて15年になるし、二度と再びあすこへ行くこともないだろうと思う」
、、と、こんな回想録風に、すでに今は大人の〈私〉が15歳の記憶をたどるように綴られます。

母に連れられて来たはずのオーギュスタンは、挨拶の場にもいずに、どうやら屋根裏部屋を歩き回っている様子。。
〈私〉と家族のいる戸口にあらわれた彼は、「それは17歳くらいの、丈の高い少年だった」、、、
そうしておもむろに〈私〉を外へ誘い、屋根裏で見つけたという未使用の花火に火をつける。
自分より大人で、背が高く(だから大きな=グラン・モーヌなのです)、予想外の行動に出るモーヌに、
フランソワは憧れのような感情で魅了されてしまいます。

こんな始まりだと、なんだか少女漫画風の少年たちの物語なのかな、、と思ったのですが、、。
ある日、、毎年恒例で訪れる祖父母を出迎えるため、フランソワはお父さんに馬車で駅まで行くように命じられ、
ところが、お父さんが借りた馬車よりも、もっといい馬の引く馬車があるのを聞いたモーヌは
独り勝手にその馬車を御して、駅をめざして行ってしまうのです、、、そして、モーヌは行方不明に、、
乗り手のいない馬車だけが帰ってくるのです。
モーヌは、4日目に学校へ戻って来ました。道に迷っていたのでした。

その彷徨いの3日間の出来事について、、フランソワはモーヌから話を聞こうとするのですが、、。

この小説の魅力は、
書き手フランソワが15年間の記憶をたどって書いているかたちになっているので、わからない部分はわからない。
モーヌが次第に明かす話もまた、道を失って彷徨った記憶なので、おぼろげで、曖昧で、おとぎ話みたい。。
空腹と疲れと闇の中でモーヌが見るのは、古めかしい屋敷にむかって駆けて行くおめかしした子供。
、、、?、、、(なんだか、不思議の国のアリスみたいじゃない?)、、
そうなの、この屋敷での出来事は、まるでフェリーニの映画か、デレク・ジャーマンの描く不思議なパーティーみたい。。。
(これって現実なの? 疲れて見た夢なのかしら?)・・・さあ、ここからほんの少しネタばれ・・・

 ***

学校に帰り着いた後のモーヌは、それまでのモーヌではもうないのでした。
だって、、彼は、愛することを知ってしまったから。。
モーヌは、、その屋敷でとても美しいひとに出会ったのです。
そして、その夢か、現実か、わからないような〈祝宴〉のことをモーヌはフランソワに語り
ふたりはもう一度、その不思議な屋敷を見つけ出すこと、そして、たったひと言だけ言葉を交わしたひとを、
見つけ出そうと思うのです。
、、、(この展開は、まるで中世の騎士物語や、妖精物語、みたいね)、、、

はじめに引用したように、語り手のフランソワは、30歳くらいになっているわけです。
モーヌは、その後、どうなったのでしょう? その美しいひとに出会えたのでしょうか?
一方のフランソワの境遇は、今は?
、、、これらはみんな物語の後半で明かされます。。
すご~くロマンティックなお話です。 そしてそして、、(泣いてしまった、、モーヌにも、フランソワにも、、)

 ***

著者のアラン=フルニエは、この作品たった1作を書き上げ、第1次大戦に出征。
そのまま行方不明となりました。27歳の生涯でした。。
物語のように、彼の両親も、村の学校に住み込みで教える教師だったそうです。

、、、この小説は、1966年に映画化されているのですって。。
グラン・モーヌ役には、ジェラール・フィリップの名が上っていたそうですが、
アラン=フルニエの死後、著作の管理をしていた妹が
「モーヌをやる役者はその後、他の役をやってはいけないと」(解説・317頁)、、というわけで
本当に、モーヌ役のかたのフィルモグラフィーはごく僅か、、(IMDb>>)。
うゎぁ、絶対に見てみたい、、きっと見ます、なんとか見つけて。。(邦題は「さすらいの青春」)

おとぎ話みたいなんだけどね、、、お伽話のような現実だってあるんだってこと、、信じられる貴方へ、、。

グラン・モーヌ/アラン=フルニエ/みすず書房

罪にさく花をかざらむ

2006-10-08 | 文学にまつわるあれこれ(詩人の海)
強風にぬぐわれた、凄いような満月。
地上の塵にまみれない月光は
目を射すほどに眩いのだと知る。

 ***

昭和のはじめの古本を注文し、今に届くか、とどくかと心待ちにしていたのが届かないので、問い合わせたところ、
なんだか行方不明になってしまった気配。。
月明かりの草原にまぎれてしまった落し物、、見つかって欲しいのだけれど、、。

 ***

以前、、

 「もしどうしてもだれかを召さなくてはならないとしたら、このぼくを」

という一文のある 『火を喰う者たち』という本について書きましたが(>>)、
米国の、(何度となく繰り返される!)銃乱射事件での、「私を…」と訴えた少女の記事を目にして、たまらない気持ちになります。

そのとき、開いた本にこんな詩をみつけました。



   キリストよ
   こんなことはあへてめづらしくもないのだが
   けふも年若な婦人がわたしのところに来た
   そしてどうしたら
   聖書の中にかいてあるあの罪深い女のやうに
   泥まみれなおん足をなみだで洗つて
   黒い房房したこの髪の毛で
   それを拭いてあげるやうなことができるかとたづねるのだ
   わたしはちよつとこまつたが
   斯う言つた
   一人がくるしめばそれでいいのだ
   それでみんな救はれるんだと
   婦人はわたしの此の言葉によろこばされていそいそと帰つた
   婦人は大きなお腹をしてゐた
   それで独り身だといつてゐた
   キリストよ
   それでよかつたか
   何だかおそろしいやうな気がしてならない
                 (キリストに与へる詩/『山村暮鳥詩集』より)

 ***

この世界の中で、、「一人がくるしめばそれでいいのだ」、、、と、納得するには、、
やはりあまりにも「何だかおそろしい」、そして、せつない。

、、、職場で、休んでいる人、介護をしなければならない人、、その代わりで不規則な超過出勤がつづいた一週間。しかも、台風、大雨。。
昨夜、おおきな月を眺めつつ帰宅。。
心待ちにしている本、心待ちにしていた音楽、、、まだ、手元にない。。 お祝いが言えない、、
ごめんね。 でもいそがない。

山村暮鳥は聖職者になる一方、ボードレールを愛し、その官能、悪徳をうたった芸術と、信仰や人間への信頼の有り方をつねに自問していた詩人のように思います。
暮鳥の「挿話」という詩の中の、第2連だけ、、。

   しろがねの指にまつはる愛の伴奏
   その髪には罪にさく花をかざらむ


ジェイムス・ブラント@SHIBUYA-AX Apr.24,2006

2006-10-05 | LIVEにまつわるあれこれ
まだUPしていなかったLIVEレポ、
4月のJames Blunt さんからにしましょうか。。

その日は、家で作業をしていて、まあ、渋谷だし、指定席だし、とタカをくくって開場時間ごろに家を出たら、駅に着いてからAXまで辿り着くのに、人込みを掻き分けかきわけ、遅々として進まず、、入口に入ったらもう歌が聞こえてました。確か「High」、、。でも息が切れていたのでバーでウォッカトニックのカップを購入、すでに超満席状態の座席を自分の位置まで係りの人に連れて行ってもらい、、。開演は、ほぼ時間通りだったみたい、真面目な人です。AX2階の座席の後ろも立見の人がいっぱいに入ってて、私の横の通路にも外国のお姉さま方がビール片手に立っておられました。

曲順など忘れてしまったので、アルバムを聴きながら、思い出したことつらつらと書いてみたのですが、なにしろ、まだ持ち歌が10曲しか無いんですから、総ての曲プラス2曲ほど(60年代の曲のカヴァーとエルトンだったかな、あやふや)、、、あっという間に終わってしまったLIVEでした。でも全ての曲、非常に丁寧に、素晴らしい歌声で、、CDでもそうですが英語の発音もはっきりした美しい響きで、あんなに歌詞の聞き取れたLIVEは初めて。、、でも、一方、語りは何をお話になったか全然おぼえてません、、(侘)。ただ、「どうもありがとうございます」という日本語がちっとも外人さん風じゃなて、吃驚したのと、Rockスター風の言葉、、(Yeahとか、ね)を一切使わなかったのが印象的。

でも、姿はぼたっとしたジーンズのぜんぜん飾らないかっこうで、ガタイが思いの外、大きくてね、第一印象が「やっぱ軍人さんの身体だぁ」、、。だから、声量も見事でした。

Bluntさんは、吟遊詩人とよく書かれていますが、詞(コトバ)と音の抑揚が絶妙なんだと思うのです。、、唐突な話、、かつて藤山一郎さんは、たとえば「空(そら)」とか、コトバの音の高低と曲の音階が合うように非常にこだわったそうですが、ちょっとそんなことも想い出したりして、、。歌詞の単語も、私にもわかる簡単な単語が多いのに、その語彙で素晴らしい詩をつくる、やはり詩人なのです。そして、声は、、CDで聴くよりも、感情が入るぶんだけ、あの独特のヨーデルっぽい声の変化がさらに大きくて、CDの声に〈光〉と〈色〉が加わったみたい。

印象に残った歌は、、もう、殆どなんですが、、書き切れないので、、。
最大は、ピアノの弾き語りで歌った「Goodbye My Lover」。。CDでも、泣きそうになってしまう曲は結構あって、(僕の肩で泣きなよ、友だちだから)という「Cry」とか、弱いんだけど、でもこの「Goodbye My Lover」は、LIVEで聴いてどうしようもなかったです。。自分が、やることがいっぱいの時期だったので、泣いてなんかいられないからCDも余り聴いていなかったのに、会場でこの歌の歌詞がもう突き刺さるように迫ってきて、英語なのにダイレクトに「解る」というのが、この時の彼のうたごえのチカラだと思うんですけどね、、ウォッカトニックのカップの縁噛みながら、一生懸命我慢したけど、ぼろぼろでした。。
、、畳み掛けるように言葉を重ねる部分…

You touched my heart you touched my soul.
You changed my life and all my goals.
And love is blind and that I knew when,
My heart was blinded by you.
I've kissed your lips and held your head.
Shared your dreams and shared your bed.
I know you well, I know your smell.
I've beed addicted to you.

というところ。。歌詞なんて覚えてなかったのに、不思議。、、この歌詞を見てもきっとわかるように、韻の踏み方と、〈対句表現〉って言ったらいいのかしら、、? 巧い、などと感じる間もなく、情景?想い?が頭を駆けめぐって「泣け」と言わんばかりでした(彼自身、これで女のコを泣かせようとしてるなんてパンフに書いちゃって、、ヤな英国人ですね・笑)。でも、実際、、こんなに感情を込めて歌われてしまって、次の曲、、どうなっちゃうんだろう、、と心配になる程でした。(でも、あっさりと雰囲気戻して、さすがプロ)。

あと、バックスクリーンの映像が、とてもとても美しくてね、、。
アルバムジャケットにも、影絵のような動物たちの絵がのっていますが、そういう影絵が映し出されて、なんだか、万華鏡のように形を変えて、揺れているのが、すご~く美しかったです。「Out of My Mind」の中の、マイマイ~、マイマイ~(my mind)と繰り返されるフレーズの時、あの王冠を被ったお猿さんがいっぱい天井からしっぽで下がってきて、その影が伸びたりちぢんだり、、、とってもファンタジックで素敵でした。



Bluntさんはお父さまも軍人、本人も前歴はNATOの平和維持軍の将校だった、というのは良く知られていますが、、直接的に戦闘地域のことをうたった歌「No Bravery」のときには、スクリーンには、軍用車の上から撮影したと思われる村の様子がずっとずっと映し出されていました。画面の端に、日時・秒を示す数字がカウントされていくのが見えたのでたぶん当時、自分でビデオ撮影したものなのでしょうね。この曲もピアノの弾き語り。しん、と静まる会場、、、でも、MCで何かメッセージ的なこととかはまったく言わず、淡々と歌で表現していました。淡々、、、などと、書いてはいますけれど、それはもう、、、何か怒りを秘めた凄い声でした、この時。。

ラストは、「You're beautiful」。
このBluntさんの歌とほぼ同時期に、吉井和哉さんの新曲のタイトルも、「Beautiful」で、、ちょっとびっくりしたのを憶えてます。、、でも、どちらも本当に美しい曲で、、不思議にも、どちらもさりげない日常のひとこまで見る「美しい人」の歌で、、、(だけど、CMソングのイメージに使われるような、ただほんわか幸せなだけの歌ではなくて)、、世界や世情がこんなだからこそ、、繊細なふたりのミュージシャンの感性が、同時期になんだか重なり合っていた感じ、それがこちらの日々の想いにそっと寄り添ってくる、すごいなあ、、と思う、大好きな歌です。それを聴いて、、おしまい。アンコールが無かったのか、アンコールがこの曲だったのか、、すみません、忘れました。

ブラントさんの歌は、(吉井さんの歌もそうかも)、、全部は言わない歌、、だと思うな。。あるいは、、別の意味にもとれる歌。。先にも書きましたが、あの会場に響いていた<声>が、その時の歌の意味をつたえるもの、、、と、思います。だから、CDを聴いていると、頭の中に、もうひとつのLIVEの〈声〉が浮んできたりする、、それが体験、なのかな。。。

会場を出て、まっすぐ家に帰って、、また机に向かったのでした。。


見えますか、、? 胸のうちの焔。。

2006-10-03 | 文学にまつわるあれこれ(漱石と猫の篭)
、、そういえば、、
あれはどうなったんだろう、、、と。。

「あれ」というのは、昨年耳にした漱石作品の映画化「ユメ十夜」。
検索したら、公式サイトの入口だけ出来ていました(>>)。

「夢十夜」については前にも勝手な独り言を書きましたけれど(>>
私はこの作品、、、文字通り、漱石が「こんな夢を見た」のでは無いんだろうな、と思っています。

夢の中では、「他者」はほんとうの「他者」でしょうか?
夢の中の「他者」は、ほんとうは「自分」だったりしません?
この先は、ちょっと誤魔化してしまいますけれど、「夢十夜」には、私、、いろんな漱石が見え隠れしている気がします。ずいぶんと無防備な、、。そこが面白いと思って。

映画の「ユメ十夜」の前に、ちょっと漱石の「夢十夜」を手にしてみようかな、、というときにお薦めかしら、と思うのが、金井田英津子さんの挿画のついた大人の絵本のような『夢十夜』(写真)。
表紙になっている画は、「焔(ほむら)」ですが、十の夜の作品の奥にみえるものは、、「夢」の中でさえ猛り狂う胸のうちの「焔」、、。その思い。
そして、もうひとつこの作品群をつらぬくキーワードに、「遺棄(いき)」というものがあるように感じます。つまり、、〈棄て措かれた身〉、、、。
その身が受けなければならない思いというものも、決して文豪漱石のものなどではなくて、、現在のここかしこにいる〈わたし〉たちにも在るものかもしれませんね。

漱石の第一作といえば、『吾輩は猫である』、、、。あの〈猫〉さんも、「棄てられた」猫さん、、、しかも、、未だ名前も無い、、。自分が誰だかわからない、、。わからないまま、世の中を一生懸命、見てる。。
そんな捨て猫さんの眼差しの中にも、、、ちっちゃな〈焔〉が見えるでしょうか、、?

今度は、同じ金井田さんの絵本で、『猫町』を読んでみることにします。

『夢十夜』/ 夏目 漱石 (著)/ 金井田 英津子(画) パロル舎


神無月。まほうのつき。

2006-10-01 | …まつわる日もいろいろ
10月はじめの日曜は午後から雨に。。

でも何冊かの本をお取り寄せしておいたので、てくてく図書館まで雨の散歩。
仕事に行く日の雨は、スカートが濡れたりするからキライ。だけど、濡れるの覚悟の雨ならば、気持ちの良いもの。。
バイクに乗っていた頃は雨の中を自分の身体で走る感覚が、心地良かった(怖くもあったけど、、)、、
だから、靴の先が濡れるのも、平気さ(笑)

玄関で靴下ぬいで、かかと歩きでバスルームへ。。

 ***


肌をつたう雨は神秘。

雲間を降りるひとすじの光は真理。

神さまはいないかもしれないけれど、魔法はいつでも起きている。

、、私に。

だから、それを信じればいい。

かつて見た背中が、どこか不安気で、それがいま、なんだか広くて楽し気であったら、

それを信じればいい。なにも心配せずに。

雨の歌を聴くように、、 空の夢を聴くように、、 教えてくれる、その声を聴く。

聴いている。