星のひとかけ

文学、音楽、アート、、etc.
好きなもののこと すこしずつ…

『もう一つの彩月 -絵とことば-』中林忠良・著

2019-11-29 | 文学にまつわるあれこれ(林檎の小道)
今月 О美術館で開催されていた中林忠良さんの銅版画展(>>) 

生涯をつらぬいて追及されてきたモノクロの世界は、 ギャラリーの空間に身を置いて背筋をぴんとさせながら向き合っていたい世界でした。 モノクロームの腐蝕銅版画の静謐な世界に混じって… ふっと心が安らぐような 手彩色を施した小さな銅版画があり そこに添えられた季節感あふれる中林さんのことばが とても印象的でした。 

ことばを添えられ、色を添えられた葉っぱや樹々の小さな版画は 手元にとって読み返したい気持ちになり…
、、展覧会の図録を買いそびれたので、 何か御本は…と検索したら、 この彩色版画とエッセイをまとめた本がみつかって、 とても読みたくなりました。



『もう一つの彩月 -絵とことば-』中林忠良・著 玲風書房 2012年

版画作品53点、 ことば51篇からなる御本です。

 ***


  …おもしろいことに、焔の前に坐る者の多くが自分の過去を語りだす。 過ぎ去った日々やそれにまつわる感慨を――。
       「山のアトリエ」より


季節のことばと共に彩られる版画は、 《腐蝕》という銅版画を専門とされている中林さんの美意識からか、 生命の真っ盛りというよりもどこか 過ぎ行く季節を感じさせます。 葉脈だけになった枯葉、、 枝に残った木の実、、 窓の水滴越しに見えるような、、 薄氷に閉じこめられたような、、

でも 淋しいのではなくて ひっそりと美しい。。

一方で、 一頁ぶんのエッセイでは 友人のこと、 家族のこと、 教え子のこと、、 ネコのこと、、 ぬくもりが溢れています。。 上でリンクした作品展の感想でも書いていますが、 優しい方なのだろうなぁ… と、本を手にしながらお仲間の語らいにそっと耳を傾けます。


  落葉松(からまつ)の丸い幹がはぜながら燃えてゆく。 外側から芯にむかって、晴れた年も悪い年も一つ一つ重ねた年輪を、老いた時代から若木の時代へと順に燃えてゆく。
        「山のアトリエ」より 


、、暖炉で燃える丸太の詩情を、 画家の鋭敏な観察眼と奥深いことばで表現されているエッセイに、 こちらも読みながら遠い日に心がさらわれたり、 懐かしんだり…


 ***

今朝はベランダ側の窓が 一面水滴がいっぱいでした。。 普段はあまり結露しないのですが、 今朝はとても冷え込んだのと、 キッチンでスープを煮込んでから寝たせいです、きっと。 でも今朝はとてもよく晴れたから、 小さな水滴の向こうで朝陽がきらきらしてとても美しかった…

昼間、 病院へ行ったのですが 春 園児たちがお花見をしていた場所がすっかり優しい落葉の色に変わって、 黄色や茜色の梢の向こうに真っ青な空がまぶしくて…


そんな季節にこの御本に出会えてよかったです。


冬ごもりのお部屋で 温かい飲み物を傍に…

今夜は、 arte.tv(>>)で ヤン・ティエルセン(Yann Tiersen)さんのコンサートを聴きながら書いてます。。



 どうぞあたたかい週末を…


再読でつながる歴史:『ディビザデロ通り』マイケル・オンダーチェ著

2019-11-25 | 文学にまつわるあれこれ(詩人の海)
 孤児の歴史感覚をもつ人間は歴史が好きになる。 わたしの声は孤児の声になった。
 …(略)… なぜなら歴史を掠奪しないかぎり、不在がわたしたちを糧にして生き残ってしまうからだ。

   (『ディビザデロ通り』 「かつてはアンナとして知られていた人物」より)


『ディビザデロ通り』を最初に読んだのは 7年前の11月でした(読書記>>
↑このときの重複ですが 
 「アンナとクレアと、 クープ。 互いに血のつながらない姉妹と兄のような、、 家族でもあり、幼馴染みでもあるような、、 そんな関係で生まれ育ち、 十代を共に成長していった3人が、 ある出来事を境に 互いの人生が離れてしまう」 本書の前半はこのような物語で…

そして本書の後半は、 フランスのリュシアン・セグーラという埋もれた作家をめぐる物語になっていく。 リュシアン・セグーラもまた 家族と訣別し孤独に生きた作家だった。 リュシアンの人生=《歴史》を語るのは、 あの《出来事》の後 故郷をとび出し やがて研究者へと成長したアンナ。 冒頭に挙げたのは そのアンナの言葉です。 

、、7年前に読んだ時は、 引き裂かれる物語、 失ってしまった過去 離ればなれで生きる喪失の物語、、 というせつない印象がすごくありました。 その痛みを抱えながら、 ぷつんと断ち切られた記憶の破片が心に刺さったまま生きていかなくてはならない… それが人生、、 そんな風に感じていました。 

けれど、 今回再読していくと そのときとは全く違った気持ちに包まれたのです。。 引き裂かれ、喪失する物語… それは確かにそうなのですが、 ばらばらにされたそれぞれの歩みは、 結局 自分のゆくべき(還るべき)場所へ… 魂の呼び寄せられる場所へと かれらは必然的に其処へ行き着いたのではないか… そんな印象に変わっていたのです。

その気持ちの変化は、 前回書いたように オンダーチェさんの作品を続けて読んだからに他なりません(>>) (以下、作品のネタバレを含みます、ご容赦ください)

 ***

アンナは、 あの嵐の晩の《出来事》のあと、 父をのこして家をとび出し、 共に育った孤児のクープや 姉妹として育った養女クレアも失い、故郷も失い…(孤児になったというのはこのことを指します)、 たった独りで大学で文学を学びます。
彼女がリュシアン・セグーラという作家を見出したのは、 たまたま図書館で耳にした彼の録音肉声に 「傷ついた人の響きがあるのを聞き取った」からでした。 その「傷ついた心を包みこんだ」声が頭から離れず、 この作家が最期を生きた家で彼の人生を発掘すべく フランスへ渡ったのです。

オンダーチェさんの作品には《孤児》あるいは親を失った子供がしばしば登場しますが、『ディビザデロ通り』では クープ(孤児)、 クレア(養女)、 アンナ(出生時に母と死別)、、 作家リュシアン・セグーラも父を知らず、養父も早く亡くしたのでした。

冒頭にあげた引用に 「歴史を掠奪しないかぎり、不在がわたしたちを糧にして生き残ってしまう」とありますが、 ルーツの《不在》…父や母がどんな人生を歩んできたのかがわからない、という事が 自分という存在を侵食し《欠けた穴》となり だからそれを埋めるように《歴史=ルーツ》を求めてしまうのだ… と。。
 
アンナが生まれたときに亡くなった母は、カリフォルニアに入植したスペイン系移民(カリフォルニオ)でした。
リュシアン・セグーラの父は、 スペインからフランスに働きに来ていた渡りの屋根職人でした。
このことは物語の中では少ししか触れられていませんが、 読み過ごしてしまいそうなこういう小さな繋がりにふと気づいたのも、 『ライオンの皮をまとって』の移民たちの物語を読み、 『イギリス人の患者』を読み、 ハナやカラヴァッジョのルーツを考えたりした結果でしょう。 

アンナがリュシアンの肉声を聞いた時、 知っている情報は「奇妙な家出」をした作家ということだけでした。 《家出》というのはアンナと作家を結ぶひとつの共通項ですが、 でもアンナが作家の声の中に聞き取った直感には、 家族を捨てたという共通項以外に、 じつは両者の亡き親のルーツ(歴史)にも共通項があったという そのような《魂》のレベルでの呼び声に暗に導かれたのかな、などと… そんな運命的な《道のり》を今回は感じてしまったのです。

そしてアンナは リュシアン・セグーラが最期を過ごした土地で ラファエルというギタリストの男に出会いますが、 彼の母アリアはマヌーシュ(ロマ)の人でした。 そして父は…
ラファエルの父は《泥棒》でしたね。。 
父と母が出会ったのは、 第二次大戦のすこし後、、 ラファエルの父はフランス人ではなく 大戦中はイタリアにいて負傷し、 戦後は妻のいる自分の国に帰らずフランスへ来た。 そして父はちゃんとした英語が話せた、とラファエルは北米人のアンナに語ります… 

この経歴は… 、、 もしかして カラヴァッジョのこと…?? (『イギリス人の患者』そして『ライオンの皮をまとって』の…) だって全て辻褄が合いますもの…

一篇の小説を読むのに このような詮索は邪道だと承知で、、 でも、 ラファエルの父についての情報はわざわざ謎めいて書かれていて(本名を決して明かさず リエバール、アストルフ、等と偽名を次々変えていくのも)、 そこにはちゃんと意味があると思わずにはいられないですし…
敢えてそう考えてみると、 ラファエルの父が大戦後に国へ戻らずこの地にいる理由も、 家馬車での移動生活をしていたのも、 カラヴァッジョの経歴として納得できるものですし、 書かれている文章以上の意味をもって想像されます。 ここにも物語の表面には表れないひとりの男の《歴史》をオンダーチェさんは用意していたのかも…

アンナがラファエルを愛しはじめるのも、 ラファエルが作家リュシアン・セグーラの晩年を知っている人物という事などとは関係なく、 ラファエルのルーツと生き方が自然とアンナの《魂》を呼び寄せたのでは、 ラファエルがギターを弾く音色を初めて聴いたアンナは そのときすでに無意識に何かを感じ取っていたのでは、、、そんな風にも思えてしまいます…

 「彼女をこの空き地に誘いこんだのはこの男だったのかもしれない
…そう書かれています。 

 ***

唐突ですが…
『イギリス人の患者』の中で、 人妻キャサリンを愛したアルマシー(患者)が妄想のように彼女の事を語る場面があります。
 
 「出会いの何年も前、私の分身がいつも君に付き従っていたように …(略)… 君は知らないだろうが、 ロンドンとオックスフォードのあの数々のパーティーで、私はいつも君を見ていたぞ

 患者のこの語りは一頁以上にもわたり、 「恋に落ちる相手と出会うとき、 心の一部は知ったかぶりの歴史家になり、 かつて、相手が何も知らずに目の前を通りすぎていったことを思い出す」 とつづく。

 「何年も砂漠で暮らしながら、私はこんなことを信じるようになった。 …(略)… ジャッカルは片目で過去を振り返り、片目で君が進もうとする道をながめやる。 口には過去の断片をくわえ、それを君に引き渡す。 時間のすべてが完全にそろったとき、君はそれをすでに知っていたことに気づく
   (『イギリス人の患者』 「泳ぐ人の洞窟」より)

、、この最後の 「ジャッカルは…」以下の部分は、 今回『ディビザデロ通り』を読み返した時、 とても強く感じたことでした。 あらかじめ知っていたかのような《運命的》な出会い、 過去の出来事は道がやがてそこへ通じるための必然であったかのような、、。

 ***

『ディビザデロ通り』のもうひとつの重要なキーワードとして 《取り替え子》というものがあります。 《身代わり》とも言えます。
 
「名前につまずく」の章がその象徴的な部分ですが、 アンナ、クープ、クレアという3人の関係では クレアがアンナの《身代わり》になりました。 
はじめに読んだ時には そのようになってしまった事があまりにも切なくて、 愛を失ったアンナも、 記憶を失ったクープも、 アンナの代わりになったクレアも、 みんなが哀しくてたまりませんでした。

でも… 今回、 アンナがリュシアン・セグーラという作家を見出し、フランスへ行き、 ラファエルに出会ったのは決して偶然ではない、と思えた時、、 クープもまた《魂》の安らぎを結果的に得られたのだと、、だから《身代わり》としてのクレアも決して悲しくはない、と。
クレアがクープを見つける前にスケートボードの男にさらわれるのも決して偶然ではないし、 クープがあの店に入ってきたのも偶然なんかじゃなかった、、… それは 上の『イギリス人の患者』で引用した 「時間のすべてが完全にそろった」ということなのだ、と。。 そう思ったのです。

同様に、 《身代わり》というテーマは、 ロマン、 マリ=ネージュ、 リュシアン、という3人の関係にも当て嵌まります。 リュシアンもまた ロマンの身代わりという運命を受け入れたのです。

悲しみではなく、 それがあるべき形… 自分がたどり着くべき《魂》の安らぎの道、としてこのことを考えられるようになった理由は、 新作の『戦下の淡き光』を読んだからでもあります。。 これはネタバレになるので詳しくは避けますが(お読みになった方なら はっと気づかれることでしょう)、 《身代わり》を受け入れること、、 このことは『戦下の淡き光』でも語られている重要なテーマでしょう…

 ***

前回も書きましたが、 オンダーチェさんの作品の再読は ひとつの物語の枠を超えて、 作品と作品とがパッチワークを作っていきます。 そのように読んでしまうことの良し悪しは別として…

物語の地図はヨーロッパから北米大陸まで世界をめぐりますし、、 そして時代は、 作家リュシアン・セグーラが赴いた第一次大戦から、 ラファエルの父がイタリアにいた第二次大戦、 クレアの上司が経験したヴェトナム、、 そして物語の前半でクープたちギャンブラー仲間がTV画面を通して観る まるでコンピューターゲームのような湾岸戦争へ、、と 20世紀の戦争のすべての《歴史》が、 物語の背後にずっと存在していることも知らされます。

このこともオンダーチェさんの作品をずっと通して 新作の『戦下の淡き光』までをつらぬいている《芯》のひとつでしょう…

 ***

宙ぶらりんのまま断ち切られる物語… 

オンダーチェさんの作品にはそのような印象がずっとありました。 途絶と喪失… 手に残る破片…


でも 再読・併読によってこの印象はかなり変わりました。 手に残るピースを決して失くしてはいけないこと… どの小さなピースもどこかへ繋がる可能性を秘めているし、 歴史のあちらとこちら、 物語のあらゆる場所で彼らは生きている…


  片目で過去を振り返り…


  口には過去の断片をくわえ…

 
  時間のすべてが完全にそろったとき、君はそれをすでに知っていたことに気づく…




*お知らせ*

2019-11-22 | …まつわる日もいろいろ
過去のブログ記事の中の 音楽関係のカテゴリをこのたび、非公開にいたしました。

さまざまなミュージシャンのことや、 試聴音源や動画など、 観たり聴いたりしたこと 好き勝手に書いてきましたが、 当ブログももう18年が経過して 過去の記事の中にはリンク先が閉鎖になっていたり、 中には無関係なリンク先へ繋がっているものもあるかもしれません。 最近は気をつけて、 オフィシャルなものしかリンクしないよう心掛けてきましたが、 古いものは自分でも管理しきれていない状態のため、 特に動画サイトへのリンクが多い音楽カテゴリの記事を非公開にいたしました。

特定のミュージシャンの情報を探して たくさんの方が見に来てくださっていた記事もあり、有難く思っています。 今後どうしていくかは未定ですが、 ブログにのこしておきたいもの、、 言葉にしておきたいもの、、 考えながら 自分の体調に合わせてゆっくりと続けていきたいと思っております。


見て下さったかた、 お立ち寄りいただいた方々、 ありがとうございます。


再読・併読のクロスワード『イギリス人の患者』と『ライオンの皮をまとって』マイケル・オンダーチェ

2019-11-16 | 文学にまつわるあれこれ(詩人の海)


 マイケル・オンダーチェさんの作品は 作品同士の間でも パッチワークをつくることが可能なのだ、、

と、 先月 『ライオンの皮をまとって』を読み、 新作の『戦下の淡き光』を読んだ後に(>>)書きました。 
マイケル・オンダーチェ著『ライオンの皮をまとって』は初期の作品で、『イギリス人の患者』の前に書いた作品、、 登場人物にも両作品にはつながりがあります。
(今回、再読後に感じたことを書くので 両作品の内容に触れています。ご容赦ください↓) 

『イギリス人の患者』の舞台はは第二次大戦終結間近のイタリア。
連合軍が去った後の廃墟の寺院に残った身元不明の大火傷の患者と、 彼を看護するハナ、 そこに地雷除去の工兵キップと、 ハナを良く知る元泥棒の兵士カラヴァッジョが加わり、 四人の不思議な共同生活がはじまる。 患者の口から断片的に語られる 戦前そして戦時中の砂漠探検の記憶や愛の物語、、 見知らぬ者同士だったハナ、キップそれぞれの戦争中の記憶、、 それらが散文詩のように織り成され、 国籍も来し方も異なる彼らの過去や 戦争によって失ったものの哀しみがすこしずつ明らかになっていく。 

けれども、 最初に読んだ二十数年前には、 その詩的な文章がもたらす映像的なイメージに酔いしれるのが精一杯。。 患者が語る人妻キャサリンとの愛の物語や、 看護婦ハナと地雷除去の工兵キップが互いに惹かれ合っていく過程に心をうばわれ、、 彼らがそもそもなぜこのイタリアの戦地にいるのか、 ハナがどこの国から来たのかすら殆んど考えていませんでした。 前作にあたる『ライオンの皮をまとって』と、 第二次大戦後の英国を描いた『戦下の淡き光』を読んでやっとそのことに気づいたのです。

重複になりますが、、

 「、、 でも、 『戦下の淡き光』を読んで、 『イギリス人の患者』を二十数年ぶりに読んで、 その前提となっている『ライオンの皮をまとって』をまたまた読み返しているところですが(共通するのはふたつの大戦にまたがる時代だということ)、、 
『イギリス人の患者』には《イギリス人》など何処にも出てこなかった事… ハナも、ハナの父親のパトリックやカラヴァッジョもカナダから何をしに戦争に加わってイタリアにいたのか、、 (恋におちる相手の)人妻のキャサリンはなぜ砂漠へ来たのか、、」
(前回 『戦場のアリス』実在した英国諜報部の女性スパイ小説の読書記より>>

『イギリス人の患者』の中で 看護婦ハナの身の上についてはわずかの情報しか書かれていませんが カナダ人であること、 母はアリス、 継母はクララ、 父パトリックは大戦に参戦しフランスで死亡し、 父の長年の友人が元泥棒のカラヴァッジョでハナを探し出してこの寺院に現れる。 
彼らの前半生の物語が『ライオンの皮をまとって』です。 ハナが生まれる以前の、 パトリックとアリスが出会う話や、 後に継母になるクララとの関わり、 そして泥棒としてのカラヴァッジョの経歴。

『イギリス人の患者』と『ライオンの皮をまとって』は別々の独立した小説ですが、 これら共通する登場人物にはマイケル・オンダーチェさんのそれなりの《意図》がたぶんあるのでしょう、、 カナダへの移民たちの物語、 その家族の物語、 人と人が出会い結ばれ 別れ 時代が移り変わっていく歴史… だから、『イギリス人の患者』を再読するときに、 なぜハナが、 カラヴァッジョが、 カナダを遠く離れたイタリアの戦場にいるのかを考えてみる意味はあると思うのです。 《イギリス人の患者》も英国人ではないし、 イギリスの戦争をインドの工兵キップが戦い、 カナダ人のハナの父がフランスで戦死し、 ハナとカラヴァッジョは今イタリアにいる。。

『ライオンの皮をまとって』のネタバレになりますが、 ハナは母アリスと、プロレタリアートの活動家カートウとの子で カートウはハナが生まれる前に殺されました。 ハナが父と呼んでいるパトリックは育ての父です。 そして母アリスはハナが11歳のとき爆死しました。 
《爆弾》というのは『イギリス人の患者』の中でとても大きな意味を持っているものです。 ハナが恋心を抱く工兵キップは爆弾処理の工兵。 書かれていないけれども、 ハナの父パトリックも元々建設現場のダイナマイト爆薬のプロでした。  
カナダの国づくりの為に使われたダイナマイト、 そして資本家の権力に抵抗する闘争の爆弾、、 大戦下では敵を斃す爆撃や地雷になり、 それから無差別に大量に人類を破壊する原爆へ、、 

ハナは『イギリス人の患者』のなかで自分の過去や家族についていっさい語りません。 養父パトリックの戦死も頭から締め出して、 取り憑かれたように患者の看護に身を捧げます。 が、活動家の実父の死、 その闘争活動にも関わった母の爆死、 養父パトリックの戦死、、 ハナの心の闇の深さは底知れないはず…  前作では養父パトリックと暮らすようになるハナは16歳、、 もしかしたらパトリックを父というよりかけがえのない人、愛する人として見ていたのかも、と思う。 全身にやけどを負って生死をさまよう患者を憑かれたように看護するハナは 自分の闇、自分の喪失を患者に投影して必死にその命を引きとどめようとしているのかもしれない。 ハナは《イギリス人患者》を「愛している」とカラヴァッジョに語る。。
そのハナが 《爆薬》の専門家、地雷除去の工兵キップに惹かれていくのは ここにもなにか意味があるのだろう… 

深読みすれば ハナの養父パトリック(戦時には40代のはず)が従軍するとしたら、 爆破や火薬の知識を請われて、ではないだろうか… 元泥棒のカラヴァッジョが諜報活動に利用されていたことが書かれているのだから、 そう考えられる。 かつてパトリックとカラヴァッジョは資本家を狙って犯罪を犯した服役者だった。 大戦の兵士に迎え入れるとしたら、 彼らの技術を軍が利用する為と考えるのが妥当かと思う。。
爆死した母をもつハナにとってのこの戦争、、 移民としてまたプロレタリアートとして連合軍に参加している(させられている?)カナダ人のパトリックやカラヴァッジョにとっての戦争、 キップの戦争、、 英国人の出てこない英国軍の戦争という意味。。、

『ライオンの皮をまとって』を読んだ上で『イギリス人の患者』を読み直すと、 インド人工兵キップの英国軍参戦への想いや、 クライマックスでヒロシマへの原爆投下を知ったときのキップの白人憎悪という急展開の違和感が 少し違った意味でわかる気がしてきます。
カナダで白人の国づくりの為に移民が過酷な労働を強いられ、命を奪われ、搾取され、、 という『ライオンの皮をまとって』からのつながりで見れば、 非白人兵士キップに原爆の怒りを体現させたオンダーチェさんの想いもなんとなく感じることはできる。
、、 白人憎悪というよりも、 《爆薬》を終わりの無い争いの手段へ、、殺戮の手段へと変えてしまった者への憎悪。

《爆弾》《爆薬》というキーワードは 『戦下の淡き光』にも繋がっていくこともまた 考える必要があるけれども 新作についてはここではやめておきましょう。。

 ***

《イギリス人の患者》=アルマシー伯爵はハンガリー人の貴族の考古学者・探検家でした。 そのことは後半のほうで カラヴァッジョが患者にアヘンを投与し、 語り合う過程で明らかにされます。 カラヴァッジョは英国諜報部の命を受けたスパイなのでしょう、、 アルマシーが愛した人妻キャサリンと夫のクリフトンも諜報活動に関わっていたことをカラヴァッジョは告げます。 サハラ砂漠の詳細な地図作成をし、 その土地や部族の知識を持つハンガリー人アルマシーの情報を得る為にクリフトン夫妻が送られた、ということです。

キャサリンがアルマシーに 読むものがなくなったから本を貸して、という場面があります。 肌身離さず持ち歩き、さまざまな備忘録を書き留めてある手帳がわりのヘロドトス『歴史』を、キャサリンはアルマシーから一週間借り受けます。 小説の中ではたったこれだけですが、 このことを別の意味にとらえることもできるでしょう。。
 
小説の中では アルマシーはキャサリンの遺体を隠した洞窟へたどり着く為 三年後に砂漠へ戻ったことが語られます。 カラヴァッジョは、 アルマシーがドイツ軍のスパイとなり、 ロンメル将軍率いるドイツ軍の「サラーム作戦」にアルマシーが関与し、 諜報員エプラーをカイロへ導く役割をアルマシーがしたことを追求します。 このことは史実だそうですが、 ドイツ軍の手引きをしたアルマシーという解釈や、 その情報を得たカラヴァッジョが諜報員としてその後どうしたか、 アルマシーをどう扱ったか、については 物語には出てきません。 キャサリンを純粋に愛しただけのアルマシーの行動か、、それともスパイか…
意味は読者の解釈にゆだねられます。

正直、、 最初に読んだ二十数年前には、 ロンメル将軍や「サラーム作戦」のことなど何一つ知りませんでしたし、読んだ記憶も残っていません。 アルマシーが実在の人物だというのも知りませんでした。
マイケル・オンダーチェさんの作品は、 たった1行を読み飛ばすと とてつもなく大事なキーワードや伏線を忘れることになる、、と今回気づきました。 ただ、 そこに気づかせるのがオンダーチェさんの主眼なのか、 それとも 詩的で映像的な断片的記憶のつぎはぎの中を読者に自由にさまよわせるのが それが作者の望む読まれ方なのか、、 それもよくわかりません。。
人それぞれで良いのだと思います。


アルマシー伯爵を検索していたら、 オーストリア政府観光局のこんなサイトをみつけました。 アルマシーが暮らした城に現在宿泊できるのだそうです。 実在のアルマシーはイタリアでは死ななかったのですね…⤵
ベルシュタイン城

László Almásy Wiki
 ラースロー・アルマシー伯爵について


 ***

『ライオンの皮をまとって』の中にも描かれていない謎がいっぱいです。。

ハナを生んだ母アリスはなぜ若いころ尼僧だったのか…  やがて愛し合いハナを身籠ることになる相手の活動家カートウについても詳細はなにも描かれません…
尼僧だったアリスの命を助けた男ニコラス・テメルコフは、 パトリックが服役していた間 両親のいないハナを5年間育てた大事な人です。 そのニコラス・テメルコフについても、 とても重要な人物なのに、、(尼僧アリスとのエピソードもものすごくロマンティックなものだったのに) テメルコフの生き様についてはほんの少ししか書かれません。

マイケル・オンダーチェさんの断片的な物語の手法、、 空白の物語がもたらす余韻や想像の世界、、 その深さ、広さ、、はかなさ、、 ゆえに その物語が愛おしくてたまらないのだと思います。 でも 彼等はきっとどこかに生身の肉体を持って 歴史のなかで生きていたのだろうし(実在しなくてもそう思わせる背景を持ち) オンダーチェさんの作品世界のどこかと別の本のどこかで多くの存在が互いに響き合っているのだろうと思います。

きっと どこかに カートウの物語や、 ニコラス・テメルコフの物語や、 若き尼僧の物語が隠れているのかもしれないし、 これから書かれることもあるのかもしれない…

新作『戦下の淡き光』にも似たような想いがあります。。 新作ではラストにひとつの《種明かし》をオンダーチェさんはめずらしく描いて下さったけれど、 「娥」の物語や 「屋根から落ちた少年」の物語や、、 読後も想いはいつまでもひろがります…

、、 個人的には 『イギリス人の患者』のハナと、 『戦下の淡き光』のぼくが、、 このあと出会うこともあるのかもしれない、、 などと考えてしまいました。 親を喪失した子供時代という過去を持つ二人が… 


たんなる想像 ですが…


、、 オンダーチェさんの残りの作品や 『ディビザデロ通り』もまた再読したくなってきました、、 エンドレスになっちゃう…



秋の日よ 暮れないで…


よい読書を。 よい週末を。。


中林忠良銅版画展―腐蝕の旅路 O美術館

2019-11-11 | アートにまつわるあれこれ
大崎駅からすぐの О美術館で 『中林忠良銅版画展 ―腐蝕の旅路』を見てきました。

О(オー)美術館、 存在はずっと前から知っていましたが実は行くの初めてです。 現代アートを主に展示していたイメージで、 品川では原美術館へは幾度も行きましたが、 O美術館にはなぜか縁が無く、、 どこにあるのかも知らず
大崎駅の北改札からすぐの大崎ニューシティという複合施設の2階、、 居酒屋さんやお食事処や飲食店がならぶフロアの奥に おもむろにO美術館があらわれるのにはちょっとびっくり(笑) でもこんなアクセスの良い場所に こんな素敵な広々とした展示スペースがあるのはとっても利用価値のある場所だなぁ…と。。

 ***




エッチングを初めてやったのは中学の授業です。 私は美術の才能はあまり無かったけれど、繊細な線とモノトーンの詩的な世界が刻まれる腐蝕銅版画の制作は とても楽しかった記憶があります。 そのときは校庭の樹木(桜だったかな)をスケッチしました。

中林忠良さんのお名前は(ごめんなさい) 存じ上げていなかったのですが、 この版画展の案内を見つけた時に すぐに「行ってみたい!」と思ったのは、 銅版画の世界が好きな事と、 そこに載っていた小さな写真の中の画に なにか魅かれるものを感じたからでした。


作品展示は時代を追って構成されていて、 70年代の「囚われ」シリーズ、 80年代の「転移」シリーズ、 近年の自然や光をテーマにしたシリーズなどの他、 金子光晴の詩と中林さんの版画で構成された 詩画集『大腐爛頌』(だいふらんしょう)など、 文章と版画作品が一緒に展示されているものもありました。

中林さん、 現在82歳とのことで、 70年代の作品や金子光晴氏との作品などでは あの時代の表現者が社会に向けていた先鋭的な視線と言葉がうねりあっているようでしたし、、 時が移るとともに 見つめておられるテーマの変化がうまれ、 自然や光へのまなざしが深まっていく様子や、 東日本大震災を経験したのちの自然や生命への想い、、 
私は中林さんの子供にあたる世代ですが それでも自分も70年代、80年代そして現代へと生きてきたからか、 時を経るにしたがって自然や光へ親しみを覚えていく過程がなんだかとても親しみというか 同調というか、、 そのような共鳴をおぼえながら見ていました。







中でも、 展示の仕方も素敵だったのは、 上のフォトの右側に光っているスペースがありますが、 ゾーンを区切る柱の部分に四角いガラスケースが組み込まれていて その中に 版画に手彩色を施した作品と中林さんのエッセイが一緒に展示されていて、 その文章を読みながら版画作品を拝見していると、 中林さんの日常の想いやアトリエのある蓼科の自然の中での暮らし、 友やお弟子さんらとの交流などが読みとれて、 きっと優しい方なのだろうなぁ… とお人柄を想像していました。
(これらエッセイは 社会福祉法人済生会の機関誌に掲載されたもので、 その表紙画を50年も描かれていたそうです、、 50年!!てすごいことだと思います… 済生会といえばきっと病院の患者さんなどもご覧になるのでしょう… 中林さんのエッセイ、 ほんの一部を読んだだけですが温もりのある文章でした…)



今回、 すべて撮影OKとのことでしたので いくつか載せさせていただきました。
上記の作品の中で書かれている 冬の朝の凍った窓ガラスに咲く氷の結晶、、 私も子供時代の懐かしい記憶の中にあるものです。 そして、 昨年の冬に読んだ『シューベルトの冬の旅』でもこの氷の葉模様のことが歌われていましたね(>>

中林さんは蓼科のアトリエで冬を過ごされることもあるそうで、 その情景は 堀辰雄が書いた富士見高原での冬(『風立ちぬ』の終章)のことも想い出されます(>>

そんな風に、 中林さんの銅版画にはなにか文学作品と共鳴する情趣が感じられ、 初めて見た作品展でしたが いろいろと記憶が喚起される作品展でした。


今回の美術展を紹介する 品川区公式チャンネルのyoutube動画がありました。くわしく説明されていて作品についても紹介されています⤵
しながわのチカラ 腐蝕銅版画家中林忠良の世界


〇〇コレクションとか多数の画家を一堂に集めた展覧会もワクワクがあるけれど、 やはりひとりの作家さんの人生や創造の歩みが作品を通して伝わってくるような美術展は、 見させて頂くことで自分もどこか充実した気持ちになれる、、 とても良かったです。


史実に基づくエンタメ歴史小説:『戦場のアリス』ケイト・クイン著

2019-11-09 | 文学にまつわるあれこれ(鴉の破れ窓)

『戦場のアリス』ケイト・クイン著 加藤洋子・訳 ハーパーBOOKS


第一次大戦下、 ドイツ軍占領下のフランスでスパイ活動をし、 英国側へ情報を伝える活動をしていた 実在の女スパイ組織《アリス・ネットワーク》を題材にした歴史エンターテインメント小説…

面白かったです。

、、 上のフォトで なぜ マイケル・オンダーチェ著の『戦下の淡き光』と 『イギリス人の患者』に挟まれて写っているかというのは、、 このところの自分の読書履歴でもありますし、 作品を読んだ方なら理由がわかるかもしれません、、 が オンダーチェさんの話はまた今度にして、、

『戦場のアリス』 面白かったですし、 《アリス・ネットワーク》なる女性スパイ組織がどんな活動をしていたのか、という点にはすごく興味を覚えました、、 が この作品はあくまで史実の部分に 虚構の語り手や虚構の伝説スパイらを付け加えてドラマ仕立てにしてあるお話。 その創作部分の物語に関しては、、 う~~む。。 なので感想はさらりと…

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物語の展開は、 第二次大戦終結後の1947年、 アメリカ人の(虚構の)女子大生が 第二次大戦中にフランスで行方不明になった自分のいとこを探すため、 その手掛かりを求めてロンドンで孤独に暮らす中年女性を訪ねるところから始まります。 その中年女性がかつて 《アリス・ネットワーク》でスパイ活動をしていた伝説の女性とは知らずに…

そして アメリカ人女子学生と、 引退した元スパイの女、 そして元女スパイの面倒をみている運転手の若者、という三人組のロードムービー的な道中が始まり、 次第に元女スパイの過去が語られていくうちに第一次大戦時代の《アリス・ネットワーク》の様子が明らかになっていく、というもの。 

、、 良心的なのは、著者が「あとがき」の部分で、 この物語の虚構の部分と、 実際にあった部分とを詳しく説明してくれている点で、 主人公の女子大生およびロンドンで出会う元女スパイとその運転手の主要人物は ストーリーを進めるための虚構の人物。
元女スパイの口から語られる、 第一次大戦中の諜報活動にまつわる行動のうち 「この部分」「あの作戦」「こういった手口」、、 これらの部分は史実です、と説明されている部分には いろいろと驚くような事実があってとても興味をひかれました。

元女スパイが行動を共にしていたリーダー的存在、 《リリー》は実在の人物で ウィキにも載っていました。 美しい人です⤵
Louise de Bettignies(Wiki) 

また、 《アリス・ネットワーク》の女性たちを見つけ出し、リクルートする役割の英国軍のキャメロン大尉=《エドワードおじさん》として登場する人物も実在の人だそうで、 物語の中のこの大尉のエピソード、、 大戦後のその後のエピソード含めて、 私はこの人物にもとても興味をひかれました。 物語の中では まるで映画『ニキータ』の《ボブおじさん》のような、 任務と私情のはざまで苦悩するような役どころでロマンチックに描かれていましたが、、 その辺は脚色なのでしょう…
Cecil Aylmer Cameron(Wiki)


脚色部分…  ロードムービー的な三人組の道中の物語は、、 アメリカの(1947年とは言え、いまどきの娘…といった感じの)ちょっとドロップアウトしかけた娘の、 路を取り戻す成長物語&ラブロマンス、、
そして 元女スパイの過去の遺恨をめぐる展開は サスペンスアクション映画的な、、 というか なんだか『テルマ&ルイーズ』みたいな所も… 
著者がアメリカ人だからか 良くも悪くもアメリカンニューシネマな感じが 私にはしました、、 (書評などでは余りそういう意見は見当たりませんが…)

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おそらく、 私がこういう感想になってしまうのは、、 現在の関心のありどころ というか、、 マイケル・オンダーチェさんの『戦下の淡き光』を先に読んでしまった流れのせいもあるのでしょうね、、

小説、、 言葉による世界の構築、、 文字から生まれる想像力の芸術、、 そういう領域の作品と、 読者に読む楽しさを与える物語とでは、 どちらかが優劣とかいう問題ではなく 別の領域のモノなのですから。。

、、 でも、 『戦下の淡き光』を読んで、 『イギリス人の患者』を二十数年ぶりに読んで、 その前提となっている『ライオンの皮をまとって』をまたまた読み返しているところですが(共通するのはふたつの大戦にまたがる時代だということ)、、 
『イギリス人の患者』には《イギリス人》など何処にも出てこなかった事… ハナも、ハナの父親のパトリックやカラヴァッジョもカナダから何をしに戦争に加わってイタリアにいたのか、、 (恋におちる相手の)人妻のキャサリンはなぜ砂漠へ来たのか、、
、、全部の背後に隠れていた英国軍の戦争… 秘密裏の戦場…

そういう、、物語の中で語られていなかった部分が、再読すると、 (そして別の作品を読むと)、、 強烈に浮かび上がって来て、 気づいていなかった新しい《物語》の可能性に 頭がくらくらしてきます。。 その《可能性》の拡がりの為には 今回の『戦場のアリス』もとても良い刺激剤にはなりました。 その意味ですごくおもしろかったです。


、、結局 ちょっとまだ マイケル・オンダーチェさんから抜けられそうも無いな…


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秋が深まってきました。。


これからの季節の光の色、 街の色、 樹々の色が大好きです。。 自然が、、 季節が、、身終いをしていくとき…


身仕舞い ではなく…


 
その季節を 自分も共に感じています…


もうしばらく この時間がおだやかにつづきますように。。