goo blog サービス終了のお知らせ 

「虚庵居士のお遊び」

和歌・エッセー・フォート 心のときめきを

「Erskine Lakes の紅葉」

2015-11-11 01:40:35 | 和歌

 米国NJ州の北部、Erskine Lakesの湖畔に住む娘婿から紅葉の写真が届いた。
この辺り一帯は、背の高い楓の林が大地を被い、11月から年末にかけての黄葉・紅葉は見事だが、そんな中でも数少ない「もみじ」の紅葉には目を瞠る。



 秋になると湖の水面が凡そ1メートル程も下がって、露出した湖岸には落葉が敷き詰められる。数少ない「いろはもみじ」等が敷地内に数本植えられているので、鮮やかな紅葉を楽しんでいる様だ。 

 かつて孫と娘夫妻のささやかな菜園の遊びを、「小さな農場 - 小さな経営者」或は「小さな農場 - 楓ともみじ」等のタイトルで、5日連載でご紹介した。(クリックすれば、リンク先が表示されます↑) 林の中の紅葉の様子など、併せてお楽しみ頂きたい。




           なだらかに連なる山々間もなくも

           織りなす楓の錦に変わらむ


           湖の岸の近くの紅葉の

           その声聞かむ じじばば観てよと 


           無造作に伸ばすもみじの枝下に

           カメラ構えし想いを汲むかな


           アースキンレイクの秋の錦葉に

           託すあまたの想いを受けにし






「虎杖・いたどり」

2015-11-08 17:24:32 | 和歌

 石垣の上に咲いていた「虎杖・いたどり」の花に、目を瞠った。
規則正しく並んだ節毎の葉と、淡い花穂をかざす姿の対比にほれぼれと見惚れた。



 もっと近づいて花のリアルな姿を写したかったが、高い石垣に遮られてそれも叶わず残念だった。しかし、それが却って憧れの思いを掻き立てたのかもしれない。
「いたどり」の茎はかなり逞しいが、節々の花穂の重さで茎が撓み、やっと水平に保っている姿が何ともいじらしいではないか。

 田舎で育った虚庵居士の子供の頃は、何処にでも「いたどり」が自生していた。
春先のすくすくっと伸びる太めの茎は、素手でポキンと簡単に折れて、皮を剥いてよく食べた。淡い酸味が誠に爽やかで、子供達には人気だった。

 それにしても、「虎杖」を「いたどり」と読ませるのは腑に落ちない。
転んで擦り傷を負うと、葉を揉んで擦り傷を治療してくれた母の面影が偲ばれる。
痛みがスッと消えるので、「痛み取り・いたどり」は子供ながらに理解できた。

 枕草子でも、「虎杖」の読みかたには疑問を呈していたことを最近になって知った。かの清少納言も、虚庵居士と同様に「虎杖」に頭をかしげていたというから、千年を隔てての共感に思わず笑みがこぼれた。


           微かにも夕陽をうけていたどりの

           花穂は浮かびぬ石垣の上に


           律儀にも並べた節葉に花穂かかげ

           重さに堪えるいたどり愛しき


           ひざの傷にいたどりの葉を揉み添える

           母の面影 偲ぶじじかな


           腑に落ちぬ「虎杖」の読みは 千年を

           へだてし吾も 清少納言も






パグウォッシュ会議 「長崎宣言」

2015-11-06 22:05:49 | 和歌

11月1~5日の間、長崎・伊王島で開催されていたパグウォッシュ会議世界大会は、
「長崎宣言」を採択して閉会した。

南シナ海での米中対立などが注目され、原子力再稼働反対や安保法制反対などが
連日報道される一方で、核廃絶を訴える「長崎宣言」があまり報じられない現実に、
世界で唯一の原爆被災国・日本の行く末が案じられます。

「長崎宣言」を引用しますので、お目通し下さい。
-----------------------------------------------------------------

The 61st Pugwash Conference on Science and World Affairs
“Nagasaki’s Voice: Remember Your Humanity” 
1-5 November 2015, Nagasaki, Japan

Nagasaki Declaration of the Pugwash Council
5 November 2015

“Let Nagasaki be the last.” Seventy years after the destruction of Hiroshima and Nagasaki, we are still faced with the imminent dangers posed by thousands of nuclear warheads. Atomic bomb survivors (Hibakusha) are on average above 80 years old. To this day they suffer from the effects of the nuclear attacks that devastated their lives. The Pugwash Council hears the voices of the Hibakusha calling for the abolition of nuclear weapons. We urge world leaders to heed their call now. 以下和訳参照

第61回パグウォッシュ会議世界大会  2015年11月1~5日、長崎

「長崎宣言」   (仮訳)

「長崎を最後の被爆地に」―。原爆が広島と長崎を壊滅してから70年の歳月が流れました。それでも私たちは今なお、数千発の核兵器がもたらす切迫した危険に直面しています。被爆者の平均年齢は80歳を超えました。今日に至っても被爆者は、自身の人生に多大な苦難をもたらした核攻撃の影響に苦しんでいます。パグウォッシュ評議会は核兵器の廃絶を希求する被爆者の声に耳を澄まします。そして世界の政治指導者に対し、被爆者の叫びを受け止めるよう強く訴えます。

核兵器の脅威は今も増大しています。核軍縮は行き詰まっています。紛争が多発しています。核兵器転用可能な核物質の量が世界各地で増大しています。核兵器が法的に禁止され、廃絶されるまで、そして核兵器転用可能な核物質が安全な形で処分される日が来るまで、意図的ないしは偶発的な核兵器使用のリスクは常に存在し続けます。

すべての核兵器保有国は、核兵器システムの近代化計画を中止しなくてはなりません。核兵器保有国の近代化計画に割り当てられた数十億ドルもの財源は、核リスクの最小化、核の偶発的発射やサイバー攻撃の防止、軍縮の促進にこそ使われるべきです。そして最も重要なのは、核兵器保有国が核兵器の削減にとどまらず、核兵器の廃絶を確約しなくてはならないということです。包括的核実験禁止条約(CTBT)の迅速な発効も不可欠です。拡大核抑止(「核の傘」)に依存する非核保有国もまた、核軍縮を支持し、例えば非核兵器地帯への参加や創設によって、自身の安全保障政策を変革しなくてはなりません。

核拡散防止条約(NPT)の再検討(レビュー)プロセスやジュネーブ軍縮会議(CD)といった、軍縮・不拡散をめぐる既存の国際的な協議枠組みは大切ですが、その限界も明らかです。国々と市民社会、国際組織が連携して核兵器の法的禁止を目指す全世界的なイニシアティブが、核の脅威除去のために重要な役割を果たしうるでしょう。

2011年に発生した東京電力福島第1原発事故は、原子力安全の重要性、また原子力技術に付随するリスクを封じ込めることの重要性を、私たちに思い起こさせました。現代科学技術が多くの分野で急速に進展しています。そのことが究極的には人間性にまで影響を与えるという点に十分な注意を払わなければ、新たな危険が鎌首をもたげるかもしれません。恐らく今日、科学者の社会的責任はかつてないほど重大なものになっています。

「対立を超えた対話」。 これはパグウォッシュ運動の基本理念です。核兵器使用の引き金を引くかもしれない地域的緊張は外交的な措置によって解消されるべきです。すべての当事者はあらゆるコストを払って軍事衝突を回避しなくてはなりません。戦争が実際になくならなければ、現代また次世代の大量破壊兵器によって、人類はその生存が脅かされ続けることになります。私たちは、ラッセル-アインシュタイン宣言の本質に立ち返りたいと思います。核兵器を廃絶し、究極的に戦争そのものをこの地球上からなくさなくてはなりません。

強固な道徳心と倫理観がなければ、人類は生き延びることはできません。広島、長崎の被爆者、世界中で行われた核実験で被ばくしたヒバクシャの経験を次の世代へと伝承していくことは、決定的に重要です。核兵器およびその他の大量破壊兵器が存在する限り、壊滅的な結末は避けられません。ラッセル-アインシュタイン宣言を思い起こし、長崎市民と被爆者の声を分かち合いながら、きのこ雲の下で起こった惨劇が深く刻み込まれたこの地から、パグウォッシュ評議会は今一度、人類の一員として、人類に向かって訴えます。「あなたがたの人間性を心にとどめ、その他のことを忘れよ」と。

(訳;パグウォッシュ2015組織委員会)



「ピンクのオキザリス」

2015-11-05 01:57:25 | 和歌

 秋も深まり朝夕の肌寒いこの頃では、「ピンクのオキザリス」は目を惹く存在だ。
住宅街を外れて散歩していたら、庭と空地の境が定かならぬ辺りに、「オキザリス・プルプレア」が雑草と入り混じって可憐に咲いていた。



 オキザリスは白・黄色・赤・縞模様など様々な花の種類がある。それぞれに固有の名前が付けられているに違いあるまい、そんな思いを抱きつつ花図鑑を調べたら、「オキザリス・プルプレア」に辿り着いた。

 元来、オキザリス自体が野生と園芸種の区別もつけがたい草花ゆえ、雑草と入り混じった露地は、彼女らには寛げる環境なのかも知れないが、住み人の除草の支援があれば、「オキザリス・プルプレア」はもっと気品を湛えているに違いないと思われるのだが・・・。


           何処までが庭か空地か定かならぬ

           草叢に咲くオキザリスかな


           地境の定かならぬは住み人の

           長閑な暮しの証しならむか


           草叢は「極くつろげる雰囲気よ」

           オキザリス・プルプレアの声聞く心地す






「メキシカン・セージ」

2015-11-02 02:23:13 | 和歌

 「メキシカン・セージ」の花が咲き初めて、既に数週間にもなろうか。これ程長い期間に亘って目を愉しませて呉れる草花は、類い稀だ。この頃は彼方此方の庭先によく見かけるが、そんな事情もあるのだろうか。



 「うつろ庵」の庭でも、かなり以前からお仲間だ。当初は露地植えだったので草丈は1.5メートル程にも繁茂した。狭い庭先で余りにも徒長したので、少々お控え頂きたいとプランターと丸鉢に移植した。

 驚いたことに、露地からプランターに切り替えたら、翌年の草丈は見違える様に短くなって、露地植えのほぼ半分ほどだ。小振りの丸鉢では更に草丈が短く、精々40センチ程だ。

 原産地メキシコの原野で、のびのびと草丈を伸ばし、繁茂していたであろうセージには、プランターや鉢植えはお気の毒な環境に違いあるまい。

 「メキシカン・セージ」が育てられる環境で、これ程の変化が見られるとは思いも依らぬことであった。
ましてや人間社会では育つ環境、生活する環境、更には教育環境などがどれ程か人間性に影響を与えることか、改めて深く考えさせられた。


           久方にのびのび育つメキシカン

           セージに寄り添い言葉を交わしぬ


           瞠るかす原野に波打つ紫の

           メキシカン・セージを頭に描きぬ


           「うつろ庵」のメキシカン・セージはそれなりに

           草丈控えて調和を保ちぬ


           環境のなせる業かな改めて

           この二文字の威力にしびれぬ


           紫の衣をまとい白妙の

           花咲くセージに多くを学びぬ






「ゴルフ場のパンパスグラス」

2015-10-31 01:11:24 | 和歌

 「パンパスグラス」の大きな白穂が、秋の陽ざしに輝いて目に沁みた。
Hennessyのポケット瓶を携えて、ゴルフと酩酊の二途を楽しむ虚庵居士流のゴルフだったが、「パンパスグラス」の応援が誠に鮮やかであった。



 シンポジウムの企画・準備やNHK偏向報道への抗議などが重なり、数か月に亘り、連日100通を超えるメール対応でパソコンに向かう日々が続いた。日頃から腰痛体操などで、体調を整えて来た虚庵居士だったが、長時間に亘りパソコンに向かい続けた結果、激しい腰痛と坐骨神経痛に見舞われた。

 整形外科の診断とリハビリ治療、自宅でのマッサージチェア、自己流の腰痛体操、杖に頼る散歩の励行などを4ヶ月重ねて、やっとゴルフが出来るところまで回復した。そんな事情ゆえスコアはボロボロの無残であったが、Hennessyと虚庵夫人の介添、「パンパスグラス」の応援でゴルフを堪能させて貰った。




           腰痛と激しい坐骨神経痛に

           杖を頼りの爺になるかも


           常日頃 腰痛体操続け来しに

           突如の腰痛 驚き至極ぞ


           専門医の世話になりつつ自己流の

           腰痛体操 必死に続けぬ


           腰痛と脚の痺れを我慢して

           そろりの散歩も 杖を頼りに


           わぎもこのこころのかいぞえあればこそ

           パンパスグラスのしらほがめにしむ






「庭園の石蕗」

2015-10-29 01:35:39 | 和歌

 「石蕗・ツワブキ」の季節になった。
10月から11月頃にかけて、庭の隅や垣根の足元などごく身近なところで見かける石蕗だ。背の低い丸葉から、花茎が立ち上がって咲くのがユーモラスだ。



 お送り下さった石蕗は大きな庭石に寄り添って咲き、それが庭石にも石蕗にもそれぞれに気品をそえて、庭師のセンスの良さが感じられる。

 石蕗は不思議なことに、何かに寄り添って咲く特性があるようだ。この写真の様に、庭石や或いは庭木の足元などに控えめに咲きつつも、その様な環境が却って石蕗の存在感をアッピールするから不思議な花だ。

 庭石に寄り添って咲いた石蕗だが、傍の松の枝葉をかい潜って咲くとは、これまた類い稀なコンビネーションではないか。面白半分に、庭師がこの様な環境を意図的に造ったのであれば、誠に憎いアレンジだ。またカメラで、この様なショットを写してお送り下さった片岡先生のセンスにも、感服だ。

 先生はパグウォッシュ会議の諮問委員をなさっているので、今ごろは長崎・伊王島での国際会議のご準備に追われているに違いあるまい。世界40ヶ国から約200人の専門家が参加すると伺っているが、核兵器と戦争の廃絶を訴える「長崎宣言」に向けて、世界が一丸となることを切に念じている。


                        撮影とご提供 片岡勝子様

  

           庭石に寄り添い咲くかなツワブキは

           互いに気遣い気品を湛えて


           背の低い丸葉を下に花茎は

           背すじを伸ばして石蕗咲くかな


           ツワブキの黄花はそれぞれヤンチャかな

           チョッカイ出して笑いころげて


           庭石に沿って背伸びし松の葉に

           笑顔のぞかすツワブキ愛しき


           庭石と松と石蕗 組み合わせ

           庭師の描く絵画にあらずや






「背高泡立ち草」

2015-10-27 00:59:34 | 和歌

 久しぶりに箱根までドライブしたが、途中の道路沿いには「背高泡立ち草」の群花が咲き誇っていた。 そろそろ紅葉も観れるかなとの期待もあったが、まだまだで、 尾花と「背高泡立ち草」が精一杯の代役をつとめていた。



 海外から持ち込まれた「背高泡立ち草」は、一頃の繁殖には目を瞠ったが、その後急速に繁殖が減退した。 一説によれば急激な繁殖に依り、土壌に変化を齎して、 それが自らの繁殖を抑制したと何処かで聴いたことがある。自然の理なのかもしれないが、昨今では程々の規模での群花を見かける様になった。

 「背高泡立ち草」は名前の通り背が高く、大人の背丈ほどにも徒長する。
かなり真っすぐな茎は、太さがほぼ揃っていてかなり固いので、虚庵居士は数十本を刈り取って、簾を編んでテーブルセンターに仕立てた。

 地味な茎の肌はしっとりと落ち着いた雰囲気を醸しているので、虚庵夫人もお気に入りで、「うつろ庵」ではテーブルセンターや、小ぶりな簾は花器の敷物として重宝に活用している。 「背高泡立ち草」 とのこの様な付き合いを愉しんでいるのは、多分 虚庵居士だけかもしれないが・・・。




           道沿いに尾花と共に咲き誇る

           黄花の群花 背高 泡立ち草は


           走り去る車の風受け嫋やかに

           揺れて挨拶 背高 泡立ち草は

 
           背高の泡立ち草は何処から

           嫁ぎ来たるや大和の国へ 


           故郷を遠く離れて淋しからずや?

           斯くも多くの 朋もありせば!


           群花の黄花を誇るや背高の

           泡立ち草かな野原に拡がり






「藤袴・ふじばかま」

2015-10-25 13:08:22 | 和歌

 最近では殆ど見かけなくなった「藤袴・ふじばかま」との、久方ぶりのご対面だ。
秋の七草(萩・尾花・葛花・撫子・女郎花・藤袴・朝貌/桔梗)の中でも、ことさらに数が減ったのは、何故だろうか。万葉の時代からの日本古来の野花だが、自然環境が変わった証しかもしれない。準絶滅危惧種に指定されているようだ。


                        撮影とご提供 片岡勝子様

 序でながら、山上憶良の秋の七草の歌は余りにも有名だが、最後の「朝貌の花」には諸説がある様で興味深い。古くは桔梗をこの様に詠んだとするのが、有力な説の様ではあるが・・・。

 また藤袴は、漢方の生薬としても様々な薬効があることから、永く利用されて来た。生草には殆ど香りがないが、乾燥させた生薬は芳香を放つから不思議だ。虚庵居士の故郷ではガーゼの袋に入れて、お風呂に浮かべて愉しんだが、そんな子供の頃が懐かしい。
 

           懐かしき藤袴かな群花の

           咲きそむ秋となりにけるかも


           野に出でて秋の七草数えむと

           指折り歩めど片手を越えずも           


           殊更に藤袴の花この頃は

           野にも山にも見かけぬは何故?


           藤袴に田舎の秋をぞ偲ぶかな

           土手の草むら尾花も揺れて


           香り立つ干し藤袴の小袋と

           湯舟に浸かった昔を偲びぬ






「児童公園のコスモス」

2015-10-23 18:02:16 | 和歌

 住宅街の外れの児童公園にはコスモスが咲き乱れていたが、秋の気配を敏感に感じ取って実を結び、花時も終わりに近い様だ。 



 「うつろ庵」の近くの植込みが豊かな遊歩道を15分ほども歩けば、この児童公園に至る。 住宅街の公園の殆どに子供が遊ぶ姿が見えない昨今だが、此処は子供達のキャッキャと遊ぶ声が溢れる、類い稀な公園だ。
 
 さる老婦人が、草花の手入れを小まめになさって、花を絶やさないご尽力には敬服だ。 種を蒔き、或いは苗を植えて水遣りを怠らぬ彼女に出逢えば、「ご苦労さま」とさりげなく声をかける虚庵夫妻だ。老齢にも拘らず、移植ゴテやジョウロなどを自転車に積んで来られる姿には、頭が下がるばかりだ。

 子供達は、鬼ごっこやボール遊びで飛び跳ねて遊んでいるが、花壇のお花を大切にしているのには感心だ。黙々と手入れする老婦人の姿を、子供達も目にしているからに違いない。「無言の教育と躾」の効果には、目を瞠るばかりだ。


           コスモスは秋の陽ざしを感じるや

           何時やら結ぶ 実の数増えにし


           コスモスの

           いと細き首のくねくねと

           曲るは何故ぞ コスモスは

           首を伸ばして花付けて

           そよ風に揺れる花なるに

             なんの謂いかな 首の曲がるは

           
           吹き荒ぶ

           秋の嵐に背の高き

           コスモス堪えずに倒れしか

           助けを求め幾日か

           我慢の日々の続くらむ

             首をもたげて 花を支えて
            

           哀れにも

           わが子を嵐は荒ぶるや

           助けを求める声なくば

           数多の人々手も貸さず・・・

           お待ちなされと援け起し

             支えを結ぶ 老いにし婦人は


           コスモスの首の曲がるは幾たびか

           倒れて援ける歴史ならずや






「うつろ庵の木通」

2015-10-19 01:56:46 | 和歌

 「うつろ庵の木通(あけび)」の果実が、優雅に色付いた。
ガレージの庇に沿って延びる木通の蔓の中ほどに、手を拡げるような姿でふくよかな果実が初めて生った。ご近所の皆さんも「アケビが生りましたね」とご注目だったが、秋の到来と共に優雅に色づいた。



 春先には独特の花を咲かせて皆さんの注目を集めるが、「あけびの花」でご紹介したので、併せてお楽しみ下さい。(クリックするとリンク先が表示されます↑)

 信州・諏訪盆地に育った虚庵居士の子供の頃には、近くの山遊びで、アケビの実を蔓からもぎ取って、仄かな甘い果肉を口一杯に含んだ。 小さな種が沢山あるので、しばらくはお口をもぐもぐさせて果汁を呑み込み、残った種を勢いよく吹きだすのが、子供達のお遊びだった。

 そんな昔を懐かしむ間もなく、木通の果実が熟して割れ目が入った。
東京でのシニアの会議を終えて帰宅した晩に、木通は「待ってたのよ!」と訴えるかの如く、割れ目からは白い果肉が覗いていた。早速そっと鋏で切り取った。

 翌日のテラスでのランチには、デザートに木通の果実が白いお皿に並んだ。
子供の頃の食べ方が懐かしく、口一杯に含んだ果肉の甘味を愉しんだ後、庭の植え込みに向けて一気に種を吹きだした。子供にかえって遊ぶ虚庵夫妻であった。




           幾としも待ちにけるかなアケビ生るを

           「生りましたね」との ごあいさつうれし


           マイカーの出し入れの都度 仰ぎ見れば

           期待に応えるアケビの果実ぞ


           秋たてば優雅に色づくアケビかな

           ふる里遠く 昔を想ほゆ


           夜遅くアケビに帰宅のご挨拶

           アケビは割れて 「待ってたのよ!」と 


           あくる日のテラスのランチのデザートは

           白いお皿にアケビが並びぬ


           じじ・ばばは子供にかえり口の種を

           競いて吹き出し笑いころげぬ






「朝夕のご挨拶」

2015-10-16 20:15:17 | 和歌

 秋明菊の「朝夕のご挨拶」に、目を瞠った。
朝の光を感じて開花し、夕方が近づくと閉じかけ、夜は花芯が見えないように窄む。秋明菊の「朝夕のご挨拶」を、ものの見事に捉えた感性に感嘆した。
花を愛ずるとは、このような花との交歓を表す言葉であろう。

                     
                          撮影とご提供 片岡勝子様

 黒をバックに、秋明菊の嫋やかな表情を見事に捉えた力量にも敬服だ。
それにしても、同じ花をほぼ同じ場所から写して、これほど表情に変化が観られるのかと、改めて感心させられた。何気なく花は生き物、生花だと理解してはいたが、この様に活き活きとした反応を示す秋明菊花であったのかと、目を瞠った。
 

           朝夕のご挨拶かな秋明菊の

           朝日に微笑み夕べに窄むは


           斯くばかり活き活き表情変えるとは

           朝(あした)と夕べのご挨拶なれ


           花を愛でて言葉を交わせば表情の

           変化に目ざとく気付く君かな


           いや遠く秋明菊の嫋やかな

           ご挨拶うけこころ和みぬ






「山茶花の初花」

2015-10-13 13:23:59 | 和歌

 「山茶花の初花」の写真をお送り下さった。
蕾が綻びかけて、「にっこり」と微笑む表情に、思わずこちらも口元がゆるんだ。


                        撮影とご提供 片岡勝子様

 うす紅の外側の花びらに囲まれて、白い花びらが中に覗き、開ききっていない
山茶花の初花に、「待ってたのよ」と声を掛けつつシャッターを押したであろう情景が、瞼に浮かぶ。

 山茶花も椿も園芸種として人気が高いので、それぞれに固有の名前が付けられて、その数は枚挙にいとまがない。折角お送り下さった「名花の名前は?」と調べ始めたが、程なくして断念した。綻び始めた初々しい「山茶花の初花」にたいして、花図鑑の殆どは、満開状態の山茶花を写したもので、比較することが余りにも難しいことを思い知らされたからだ。

 この先、晩秋から冬にかけて様々な山茶花が目を愉しませて呉れるであろうが、 この写真の様な微笑みに出逢えればよいのだが・・・。
 

           山茶花の綻びかけし初花の

           微笑みにつられ口元ゆるみぬ


           山茶花の初花観つつ偲ばるる

           待ちにし開花を写す姿を


           山茶花はもの言いたげに綻びて

           思ひを告げぬ無言なれども


           この後はあまたの山茶花 競ふらむ

           微笑む乙女に如何ほど逢えるや






「椰子のおばけ」

2015-10-10 20:33:35 | 和歌

 「椰子並木に、『椰子のおばけ』が出たのよ!」
クラウンから降り立った、虚庵夫人の第一声だった。買い物からの帰路、夕陽が三浦半島の山並みに沈み、暮れなずむ椰子並木を走って来たら、『椰子のおばけ』が目に入って怖かったという。翌日、手を引かれる様にして確認に連れて行かれた。



 何時もは海岸のプロムナードを散歩する虚庵夫妻だが、手を引かれて行ったのは椰子並木の、住宅街側の外れだった。太い幹だが意外にも背の低い「カナリー椰子」が、たわわに実って垂れ下がっていた。



 夕暮れの、街路灯の朧な明かりでは「お化けの手」の様に見えたに違いあるまい。それにしても、何とまあ「なつめ椰子の実房」の見事なことか。

 カナリー椰子は「なつめ椰子属」のお仲間ではあるが、食用として持て囃されている「なつめ椰子」とは別種の様だ。
果糖とブドウ糖が豊富な「なつめ椰子の実」は、聖典コーランでは「神の与えた果実」と云われているが、カナリー椰子・ワシントン椰子の並木を散歩しつつ、「椰子の実」に涎を垂らす虚庵居士であった。


           帰るなり 「椰子のおばけ」と ふるえたつ

           わぎ妹子なだめつ明日見に行こうと


           あくる日に手を曳かれゆく椰子並木

           何時もと変らぬ椰子の並木は


           先に立ち 「椰子のおばけ」 は あそこよ! と

           カナリー椰子は 実房を垂れて


           何とまあ 見事な実房か カナリー椰子の

           棗の房の重たげなるかな


           聖典のコーランに称える棗かも

           神の与えた果実ならむや






「ピンクの秋明菊」

2015-10-06 18:03:33 | 和歌

 「ピンクの秋明菊」が精一杯に咲く姿は、何とも可憐だ。
咲きかけた花が首を傾げているのも、可憐な想いが更にくすぐられる。

 ピンクの秋明菊は、別名「貴船菊」とも呼ばれるが、京都の貴船地方に多いことから、この名前が付けられたようだ。

 先に掲載した「秋明菊・しゅうめいぎく」でも触れたが、土地の名を花の名前に留めているケースは、かなりの数にのぼることであろう。 それぞれ花に託す思いは、その土地の、或いは自分たちの花だとの、篤い思いが偲ばれるではないか。


                        撮影とご提供 片岡勝子様
 

           貴船から嫁ぎ來しかなこの花も

           可憐な風情が 未だ残るに


           名にし負う貴船菊かな秋風に

           揺れる風情の嫋やかにして


           咲きかけの首をかしげるこの花の

           こころを偲びぬ 可憐な風情に