川端裕人のブログ

旧・リヴァイアさん日々のわざ

ヒッキー、すれすれ

2004-09-09 15:02:27 | 日々のわざ
ここ数週間、資料を読んでばかりの日々です。
長編のためのリサーチなんですけどね、一行も書いていないから、だんだんフラストレーション。
おまけに、あまり予定とか入っていなくて、ほとんどヒッキー状態ですわ。
精神衛生上よくないので、今から、近くのサンリオショップで、シナモンちゃんのぬいぐるみを買いに行くとします。
娘の4歳の誕生日なのでした。
ついでに喫茶店で読書、かな。
さっきからぜんぜん進まないField Epidemiology


なんやかんやいって、生物学的(かどうかは分からないが)な根拠は、あるのかもしれないと思っています。旧

2004-09-09 14:43:15 | 保育園、小学校、育児やら教育やら
リヴァイアさん、日々のわざ: ジェンダーフリーっていけなかったんだ??

リヴァイアさん、日々のわざ: ジェンダーフリーっていけなかったんだ??

まずはですね、この記事の、親記事と、それに対するコメントをお読み下さいませ。上の二つのリンクです。

で、最初に宣言しておきますと、ぼくは「ゆきさんの側」の人間です。
伝統的な男女の役割分担は、「都合の良い思いこみ」だと思っています。
でもね、ちょっとだけ違うのは、その際の「都合」というのが、男の都合とか、女の都合とか、ではなく、生物学的(かどうかは知らないがとにかく、普遍的ななにか)に基づいた「都合」である可能性はかなりあると思ってることです。

例えば、力仕事は男の仕事という「伝統的役割分担」があったとしてます。
これって、合理的でしょう?
だって、たいていの男性は女性よりも力が強いですからね。これは統計的な事実といってよい。
でもね、男の中にも力が弱いとか、セルフイメージとして力仕事は嫌だ、みたいな人はいるわけです。
逆に女性の中にも平均的な男性よりも力が強くて、セルフイメージとしても「力強さ」を重要な要素として、自分のキャラに組み込んでいる人がいても不思議はありませんよね。
ぼくが思う「ジェンダーフリーな社会」は、こういう非典型的・非平均的な、男性・女性が、従来、自分とは違う性別の人が担うとされている仕事なり役割なりに、すんなり入っていける社会ってことです。

さらにつっこんで、子育て関連のことを考えてみます。
伝統的に、男は外で仕事をして、女は家で家事アンド子育て、という役割分担があるってことになってますよね。
これは、力仕事と同じように、客観的な事実というか、普遍的あるいは統計的ななにかに基づいた役割分担なんでしょうか。
ぼくはやはり、そうだと思っています。
だって、でなければ、ジンルイのほとんどの民族で、それが「伝統的な役割分担」として定着したはずがないと思うんですよね。これまでの世界で、男は外に出てブレッド・ウィナーになり、女は家でケア・テイカーになるというのが、ごく自然であるような状況が、我々の内的な要因なのか、外的な要因てのかわからないけどあった、ということです。

イメージとして、「極値」ですね。
高校数学で微積分なんか習いながら一緒に習った概念、覚えてますか?
最大・最小ではなく、極大・極小。
最大・最小は、ひとつしかないけど、極大・極小はいくらでもあるというのがポイント。
ある役割分担について、ぼくたちの社会制度なりが、落ち込むことができる場所はいろんなところがありえると思っていて、「男は仕事、女は家で育児・家事」というのは、ぼくらジンルイの内的な、時には外的な要因の中で、すごく落ち込みやすい極値なのではないかと思っているわけです。
それを否定しちゃって、「ただの思いこみ」と切り捨てると、また困ったことになるような気がするんですね。

その上で、ぼくはカップルの組み合わせによっては、男と女の役割分担が逆になったり、イーヴンになったりすることを積極的に支持します。また、社会として、「どっちでもあり」なんだということを強調することを、支持します。
なぜなら、今の世界は、ぼくたちの「内的」な要因は同じだったとしても、少なくとも「外的」な要因は大いに変わっているから。
とすると、これまでと違う「極値」に、男女の役割分担が落ち込むことは、充分合理的だと思うから。また、ぼく自身、男の役割を押しつけられるよりは、自分らしさと男らしさ(と、時には女っぽさ)をすりあわせつつ、選んでいく方が居心地がいいから。

その際にね、旧来の男女の役割分担を好む人(カップル)は別にそれでいいのです。
ただ現実問題として、役割分担を問い直そうとしている人たちの存在が、彼らにとって「人格の否定」とすら感じられることがあるみたいで、そこが難しいわけですね。
「ジェンダーフリー」は、男らしさ、女らしさを否定する、って感じている人たちは、ちょっとちゃんと考えてよっていいたくなるくらい、思考が硬直化しているとぼくは感じちゃいますが、それと同時に「これまでの男女の役割分担はただの思いこみだった」なんて言い方も、とても嘘くさくて、彼らが過剰反応するのも分かる気がするんですねぇ。


日々のiPOD mini1

2004-09-09 10:35:00 | ソングライン、ぼくらの音楽のこと
本日のアルバムは、Orange PekoeのPoetic O.
結構好きなんですよ、オレンジ・ペコ。
でも、曲を聴いていて、心地よくはなっても、タマシイが揺さぶられたりはしないのですね。
楽曲の完成度を楽しんでいるかんじ。

ぼくとしては、コトバが大事なのですが、彼らにとっては、まず楽曲があって、それに相応しいコトバを乗せているってかんじなんですよね。
楽曲が歌詞を呼び、過不足なくおさまっているというイメージ。
これは悪くないです。押しつけがましくなく、エレガントで、ニート。楽しめます。

でも、いっつもダメなんだよなあ。
ぼくは何度か聴いても、コトバが引っかかってこないアルバムって、その後だんだん聴かなくなります。聴き込む以前の段階で、入っていけずにおしまい。
完成度がアダになる、というか。

ぼくは多少、破れている、過剰なコトバの方が好き。
楽曲からついはみ出してしまうような。

あるいは、コトバと曲がお互いに呼び合ったとしか考えられないような曲が好き。

オレンジ・ペコにはたぶん、そういった部分がないんです。
たぶん、明日からは聴かないな。
今度聴くとしたら、ドライブ中とか、あるいは家で小さなパーティを開いたりとか、あたりさわりのない心地よい音楽が必要な時だな。
というかんじでした。


シンジについて思うこと

2004-09-09 09:53:00 | サッカーとか、スポーツ一般
いつも思うんですよ。
小野伸二、きみはもっとできる!
トータルとしては、シンジが機能した試合だと、このインド戦は言えるのかもしれないけど、それでもまだまだもどかしい。
なにがって、やっぱりがむしゃらさ、なんですよね。
フリーキック、前半も後半も全部蹴ってよかったんです。アレに任せるのは、たまのオプションでいいんだから。
走らないやつを、後ろから叱咤激励していいんです。
で、自分も走ってね。
いつもそう思ってます。
だって、シンジは、キャプテン翼に一番近いヤツだもの。
にこにこ笑いながら、カラダで示すキャプテンシー。それって、シンジにしかできないことでしょう?


ジェンダーフリーっていけなかったんだ??

2004-09-09 01:40:25 | 保育園、小学校、育児やら教育やら
Yahoo!ニュース
- 社会 - 共同通信


かなり前のニュースなのだけど、わが東京都教育委員会は、ジェンダーフリーという言葉を使わないことに決めたそうです。理由は、この言葉が定義困難であり、また、「男らしさ」「女らしさ」といったことを、全否定するものとして使われることがあるから、だそうです。
おまけに、今後、学籍簿の男女混合を原則廃止、なんですって。
ジェンダーフリーって言葉を使わないってのは別にいいんだけど、なんで、名簿を男女で分けるってのをやめなきゃならないんだろ。ぼくは、男女別でも、男女混合でも、どっちでもいいんだけど、ジェンダーフリーという言葉が「男らしさ」「女らしさ」を否定しているから、ということと、名簿を男女別にすることの関連がよく分からないです。

それにしても、ジェンダーフリーって、そういう言葉なの?
ぐぐってみたら、たしかに、そうだわ。そういう使い方してる人がたくさんいる。それは、ジェンダーフリーが気に入らない人たちがそうしているのね。
ぼくの理解では、ジェンダーフリーって、男女の間に横たわる統計的な違いというのは厳然と認めた上で(たとえは、筋力なんてたいていの場合オトコの方が強いでしょう?)、なおかつ、マッチョさを自分のアイデンティティに取り込みたかったり、オトコのものとされきた社会的な役割を担いたい生物学的♀やら、フェミニンになりたかったり、オンナのものとされきてた社会的役割をやってみたかったりする生物学的♂を許容すること、だと思ってたのだけど、いかがなもの?
ある男女の組み合わせの中で、伝統的な女性の役割のある部分を男性が肩代わりしたり、その逆だったり、ということがごく自然と感じられるような社会、というのが、ジェンダーフリーだと思っていたのですがねぇ。

きっと、反ジェンダーフリーな人にとってみると、「ふにゅう」なんて理解不能だったり、あるいは曲解しどころ満載なんだろうなあ。たとえば「エピキュリアン」あたり、「それみたことか、だから子育ては女性の役割なんだ」ということになって、ぼくのとこに講演依頼すら舞い込みかねないよ。