リヴァイアさん、日々のわざ: ジェンダーフリーっていけなかったんだ??
リヴァイアさん、日々のわざ: ジェンダーフリーっていけなかったんだ??
まずはですね、この記事の、親記事と、それに対するコメントをお読み下さいませ。上の二つのリンクです。
で、最初に宣言しておきますと、ぼくは「ゆきさんの側」の人間です。
伝統的な男女の役割分担は、「都合の良い思いこみ」だと思っています。
でもね、ちょっとだけ違うのは、その際の「都合」というのが、男の都合とか、女の都合とか、ではなく、生物学的(かどうかは知らないがとにかく、普遍的ななにか)に基づいた「都合」である可能性はかなりあると思ってることです。
例えば、力仕事は男の仕事という「伝統的役割分担」があったとしてます。
これって、合理的でしょう?
だって、たいていの男性は女性よりも力が強いですからね。これは統計的な事実といってよい。
でもね、男の中にも力が弱いとか、セルフイメージとして力仕事は嫌だ、みたいな人はいるわけです。
逆に女性の中にも平均的な男性よりも力が強くて、セルフイメージとしても「力強さ」を重要な要素として、自分のキャラに組み込んでいる人がいても不思議はありませんよね。
ぼくが思う「ジェンダーフリーな社会」は、こういう非典型的・非平均的な、男性・女性が、従来、自分とは違う性別の人が担うとされている仕事なり役割なりに、すんなり入っていける社会ってことです。
さらにつっこんで、子育て関連のことを考えてみます。
伝統的に、男は外で仕事をして、女は家で家事アンド子育て、という役割分担があるってことになってますよね。
これは、力仕事と同じように、客観的な事実というか、普遍的あるいは統計的ななにかに基づいた役割分担なんでしょうか。
ぼくはやはり、そうだと思っています。
だって、でなければ、ジンルイのほとんどの民族で、それが「伝統的な役割分担」として定着したはずがないと思うんですよね。これまでの世界で、男は外に出てブレッド・ウィナーになり、女は家でケア・テイカーになるというのが、ごく自然であるような状況が、我々の内的な要因なのか、外的な要因てのかわからないけどあった、ということです。
イメージとして、「極値」ですね。
高校数学で微積分なんか習いながら一緒に習った概念、覚えてますか?
最大・最小ではなく、極大・極小。
最大・最小は、ひとつしかないけど、極大・極小はいくらでもあるというのがポイント。
ある役割分担について、ぼくたちの社会制度なりが、落ち込むことができる場所はいろんなところがありえると思っていて、「男は仕事、女は家で育児・家事」というのは、ぼくらジンルイの内的な、時には外的な要因の中で、すごく落ち込みやすい極値なのではないかと思っているわけです。
それを否定しちゃって、「ただの思いこみ」と切り捨てると、また困ったことになるような気がするんですね。
その上で、ぼくはカップルの組み合わせによっては、男と女の役割分担が逆になったり、イーヴンになったりすることを積極的に支持します。また、社会として、「どっちでもあり」なんだということを強調することを、支持します。
なぜなら、今の世界は、ぼくたちの「内的」な要因は同じだったとしても、少なくとも「外的」な要因は大いに変わっているから。
とすると、これまでと違う「極値」に、男女の役割分担が落ち込むことは、充分合理的だと思うから。また、ぼく自身、男の役割を押しつけられるよりは、自分らしさと男らしさ(と、時には女っぽさ)をすりあわせつつ、選んでいく方が居心地がいいから。
その際にね、旧来の男女の役割分担を好む人(カップル)は別にそれでいいのです。
ただ現実問題として、役割分担を問い直そうとしている人たちの存在が、彼らにとって「人格の否定」とすら感じられることがあるみたいで、そこが難しいわけですね。
「ジェンダーフリー」は、男らしさ、女らしさを否定する、って感じている人たちは、ちょっとちゃんと考えてよっていいたくなるくらい、思考が硬直化しているとぼくは感じちゃいますが、それと同時に「これまでの男女の役割分担はただの思いこみだった」なんて言い方も、とても嘘くさくて、彼らが過剰反応するのも分かる気がするんですねぇ。