旧東海道・品川宿を徘徊
以前、サイクリングの仲間たちと東京の六地蔵めぐりをしたとき、品川寺(ほんせんじ)にお参りしたことがありましたが、今回は一人で品川宿だけを訪れてみました。
歩いたコースは下の図です。距離は片道4.6Kmで、往復10Km?
八山橋から品川寺を過ぎたあたりまでは、『旧東海道』として街並みは整備されていました。
そのコースを、例によって、明治初期の参謀本部発行の地図と比較してみると、150年間の変遷が明瞭です。
特に海岸線の変遷が目を見張ります。
先ず、八山橋を渡るとすぐに、旧東海道の入口の案内が明示してありました。
よく整備された道のりです。
暫く行くと、品川橋の手前の荏原神社に出くわしました。
品川橋の来歴が『品川橋の今昔』として次のように記されていました。
「この辺りは江戸の昔、『東海道五十三次 一の宿』として、上り下りの旅人で大変にぎわいました。また、海が近く漁業もさかんなところでした。今でも神社仏閣が多く、当時の面影がしのばれます。
『品川橋』は、旧東海道の北品川宿と南品川宿の境を流れる目黒川に架けられ、江戸時代には『境橋』と呼ばれていました。・・・」(品川区)
荏原神社はサイクリングの仲間たちと来て、二度目です。
「龍神を祀る元品川宿の総鎮守」、和銅二年{709}創建だそうです。特に徳川時代には寺領を寄進され擁護されていたようです。
さらに、さきに進むと、品川寺(ほんせんじ)に出ました。ここも二度目です。
2011年1月12日に「江戸六地蔵巡り」サイクリングで訪れています。
ここのは、大きくどっしりしていて、都内六地蔵尊の中でも特に立派ですが、なぜかここのだけは笠をかぶっていないのです。何故でしょう?
そこを過ぎてしばらくすると、道のりはごく普通の街並みになり、商店街も質素になります。そして天祖諏訪神社に出ました。
旧図で見られるように、元は立会川を挟んで天祖神社と諏訪神社が並びまつられていましたが、南側に集合されたようです。
そのことが、説明板『由緒』に書かれてありました。
「天祖諏訪の両社は江戸時代から此の地の鎮守とし神威昭々郷々の発展と共に今日にいたりました。昭和36年1月氏子各位の要望により天祖神社諏訪神社御改築奉賛会が設立せられ新社殿を建立し昭和40年11月1日両社を合祀いたしました。」
そして、今日の終点、鈴ヶ森刑場跡に出ました。
今は、第一京浜国道との合流点になっていますが、旧図によると、海岸未面した田圃の中の鬼子母神の一角にたたずむひっそりとした森だったようですね。
ここの鈴ヶ森遺跡は東京都指定の旧跡で、都教育委員会の説明板によると、
「鈴ヶ森遺跡は品川宿の南、東海道沿いに慶安四年(1651)に開設された御仕置場の跡です。大井村鈴ヶ森の刑場は、東海道に面し、規模は元禄八年{1695}実施の検知では間口40間、奥行き9間であったとされます。東海道(現在は第一京浜)の拡幅等により旧態をとどめていません。大経寺は御仕置場に隣接し処刑者の供養のために建てられた寺で、髭題目を刻んだ石碑は池上本門寺二五世管主日顕の筆によるもので、・・・この鈴ヶ森刑場では、丸橋忠弥、天一坊、新井権八、八百屋お七、白木屋お駒など、演劇などで知られた者が処刑されたとされます。江戸の刑制史上重要な遺跡です。」
長々とほとんど全文を引用しました。
さて、そこの『火炙台』を紹介すると、
「八百屋お七を初め火炙の処刑者は皆この石上で生きたまま焼き殺された。真ん中の穴に鉄柱を立て足下に槇を積み縛りつけて処刑されたのである。鈴ヶ森 史跡保存会」とありました。
読んでいてゾッとしました。
他に、『磔台』もありましたが、省きます。
すぐ横の「しながわ区民公園」などを散策しながら家路につきました。
何か、歴史の重みにつぶされそうな散策でした。
家まで飲まず食わずに帰って、我が家で一杯やりました。