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小名木川、大横川界隈の散歩

2014-02-04 | 散策

小名木川、大横川界隈の散歩

 

池波正太郎の 『鬼平犯科帳』 でお馴染みの、小名木川、横川周辺を散歩しました。

前回は、確か夏の暑い日でしたが、今回は冬です。
ポカポカと暖かく、歩きよい天気でした。

 

さて、本日は我が家から都営地下鉄大江戸線で浜町駅まで真直に行き、浜町公園から歩きました。

コースは地図の赤線です。総延長は7~8Km。

 

先ず、隅田川(大川)沿いの遊歩道を散歩しました。

途中の堤防壁面に大きく象嵌されている広重の浮世絵を楽しみました。
江戸時代のこの界隈の様子を髣髴させてくれる、ほほえましい絵です。
 

 


 そして、清洲橋の手前を左曲り、小名木川に沿って歩きました。

 (隅田川。向こうに見えるのが清洲橋) 


小名木川は火付盗賊改方 『鬼平』 の主舞台です。
そのすぐ南に仙台堀川、北に 竪川が並行しています。

先ず、万年橋にさしかかりました。

ここの掲示板の一部を掲載すると、

「・・・小名木川に架けられた橋は、船の運航を妨げないよう高く架けられていました。
  
万年橋も虹型をした優美な橋で、安藤広重は『名所江戸風景』のなかで『深川万年橋』としてとりあげています。

また、葛西北斎は『富嶽三十六景』のひとつに『深川万年橋下 』として、美しい曲線を描く万年橋を大きく扱い、その下から富士山を望む、洋画の影響をうけた錦絵を残しています。」

下の図はおなじ掲示板にあった、北斎作・富嶽三十六景 『深川万年橋下』 です。

 

そして、江東区は小名木川について、次のような説明板を残しています。

「小名木川は、隅田川から旧中川まで江東区を東西一直線に横断する、延長4.64Kmの一級河川です。

今から約四00年前の慶長年間(1596~1615)、徳川家康が江戸の街づくりを進めていくなかで、物資の輸送路として開削されました。
以後、米や塩をはじめとする諸物資の輸送路として、または人々の交通路として活躍しました。

江戸幕府は、はじめは隅田川口に、のちに東端の中川口に番所を設置し、江戸と地方を結んで行き交う船を取しまりました。・・・」


小名木川を真直ぐ東に、万年橋から高橋、西深川橋、東深川橋、新高橋と行くと、
やがて横川との合流点に出ます。

ところで、川沿いの歩道の中にはに、2か所ほど『浮橋』なるものがありました。
これは、船のように浮かせた橋で、潮の満ち引きで橋が上がったり下がったりするようです。
実際渡っていると、足元がぐらぐらしました。 

合流点には、昔の面影を残すためか、二基の灯篭が据え付けてありました。

  

さて、地図屋としては、東西に走っているのが竪(縦)川で、南北に走っているのが横川とは?
その答えは途中の掲示板に書いてありました。

「江戸城から見て横に流れるので大横川と名付けられる。」とありました。 納得!

 

さて、横川をスカイツリーに向かって北上していると、江東区が造った『大横川親水公園』が延々と続いていました。

立派ないい公園です。
小さな子供さんたちが伸び伸びと走り回っていました。

  

横川を暗渠にして、その上に公園を造ったようです。

写真にはないですが、釣り堀もありました。
多くのお年寄りが糸を垂れていましたが、私の眺めてる間には釣り上げてる人は見掛けませんでした。

 

そして、言問橋に出ました。そこからのスカイツリーは壮観です。

 

私のカメラでは、上の方までは写りませんでした。

 

そして、裏(国際通り)から浅草寺に入りました。

気付きませんでしたが、今日は丁度 “豆まき” を祝う日でした。
正面には『恒例 節分大祈祷会 執行』 と大看板が建っていました。

 

豆まきが始まるのは、まだ先のようでした。

仲見世通りは人が混んでいましたので、横通りを通って、馴染の『神谷バー』に入りました。

そこで、乾いた咽喉を、生とステーキで一人乾杯しました。

帰り際に、田舎の友達に携帯で電話して、孤独を癒しました。
もちろん相手は女性です。 ハハハハ・・・ハ~。 

いい一日でした。

 


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