下地中分図(したじちゅうぶんず)
荘園が恣意的に広がるに従い、鎌倉後期から室町時代(13c~15c)にかけて、
在地の地頭と荘園領主の間に境界争いが頻発していました。
幕府はその争いを決済するため、単純に半分ずつ分けて落ち着かせたが、そのための図面が「下地中分図」です。
下の図のように、荘園図に赤線を引いて、左を「領家方(荘園領主)」、右を「地頭方(幕府の派遣した武士層)」と示して分けています。
現在の地形図と対照させてみたが、あまりはっきりしません。
多分、土地境界線を引くにはこれでよかったのかもしれないが、こんなに簡単に土地領有権の主張が収まったのでしょうか。
こうあってほしいというあっせん案ではなかったかと思います。
この地図には、「吉利名」の多くが分断されていますが、下地中分の堺を明確にするため、
現在の地形図と比較すればわかるように、中央の地域が大きく誇張して表現されています。
また、この地図には
赤線に沿って、「領家方」と「地頭方」の文字がはっきり読み取れます。
また、「朱點者、両方之堺注也、/但此絵図者、堺一段也、自/余両方不及委細也、」と添え書きがしてあります。
どうも、「・・・堺一段也、・・・」が全く分かりませんが。
下地中分の堺であることが明記してあります。
しかし、やがて、武力をもった「地頭方」が、大勢を占めるようになりました。
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