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地図を楽しむ

地図と共に歩く。里山歩きや、ウオーキングに、そして時には読書に・・・

藤沢周平の「小川の辺」を読んで

2015-08-30 | 読書

藤沢周平の「小川の辺」を読んで


私の好きな藤沢周平さんの作品です。

タイトルは「海坂(うなさか)藩大全」の一節で、『小川の辺(ほとり)』です。

ところで、海坂藩というのは藤沢周平好みの架空の藩名だそうです。
江戸の頃の下級武士の活きざまをテーマにした舞台です。

大分以前に、この物語を、映画かテレビを見て、ずいぶん感動したことがあります。
下級武士の生活の様子がよく描かれています。

忘れがたい地図がらみの部分を引用すると、

「一刻半ほど前、その家から田鶴が出てきて、丸太橋を渡り、村の方に姿を消した。
田鶴は村の者と同じように質素な身なりをし、手に風呂敷包みを下げていた。
まだ戻ってこないところをみると、
田鶴は多分、ここから一里ほど南にある、新河岸と呼ばれる行徳の船場まで行ったものと思われる。

新河岸は、寛永九年(1632)に行徳船が公許になり、
日本橋小網町から小名木川を通って新河岸に達する、水路三里八丁の船便が開かれると、
安房、常陸に旅する者の駅路として、急に賑やかになった。
商いの店がふえ、旅籠、茶屋が軒を並べ、・・・」

そして、巻末に

「『俺はひと足先に帰る。お前たちは、ゆっくり後のことを相談しろ。
国へ帰るなり、江戸にとどまるなり、どちらでもよいぞ』

お前たちと云った言葉を、少しも不自然に感じなかった。・・・

橋を渡るとき振り返ると、
立ち上がった田鶴が新蔵に肩を抱かれて、隠れ家の方に歩いて行くところだった。


橋の下で豊かな川水が軽やかな音を立てていた。」

落としどころを工夫した、憎らしい作品です。


新規投稿開始

2015-08-08 | 読書

新規投稿開始

永い間、休んでいましたが、老骨に鞭打って、投稿を始めることにしました。

すべてに、地図を絡めてみます。

先ずは、読んだばかりの、宮尾登美子さんの『朱夏』のことです。 

下の地図は、この本の巻頭に載せられていた地図です。

今の長春(チャンチュン)~吉林(チーサン)の間の、
欣馬河(インバホウ)、九台(キュウダイ)、営城子(エイジョウシ)の生活。 
錦州(チンチョウ)近くの葫蘆島(コロトウ)から佐世保への引揚。

それらの配置を示した満州国の地図です。

満州にわたった開拓団の生活、敗戦時のこと、引揚の苦労等が述べられています。

死と隣り合った生活が克明に述べられています。

暫くは、食生活に感謝しいしい生きていました。喰えれば「よし」という感覚です。

彼女の作品は大分読んでいますが、どれも中身が濃いです。

文学作品は「かくあるべきでは」?

いつまでも私の生活の中に生きている作品です。



羽根木公園に梅見

2015-02-08 | 読書

羽根木公園に梅見

梅の季節なので、散歩がてら観梅としゃれました。

ごく近くに羽根木公園という世田谷区立の観梅の名所がありますので、例年のごとく出かけました。

   

     (蝋梅も咲いていました)

説明板によると、

「その昔六郎次という鍬や鎌を作る鍛冶屋が住んでいたことから六郎地山と呼ばれていました。

また、大正時代末期敷地の一部が、根津財閥の所有であったことから根津山とも呼ばれるようになり、

土地の人達には、今なお『根津山の公園』、或いは『六郎j次山』と呼ばれています。・・・」

説明板のように、やや小高い丘になっています。結構見晴らしのいい丘です。 


また、その中には、『羽根木の梅林』 と題して

「・・・昭和46年(1971)東京都100周年記念や昭和47年(1972)世田谷区制40周年などの記念樹を経て、

現在は紅梅170本、白梅530本の700本を数える都内でも屈指の観梅の名所となりました。・・・」

今日は、梅見たけなわのようで、結構な人出でした。


さて、ブラブラ歩きながら、観梅を楽しみました。

下手な説明より、写真の方がよかろうと

         

思いつくまま、載せてみました。

ある場所には、梅の説明板が建っていました。

  

「  梅(中国野梅)

梅の原種は、中国の西南部及び長江流域、台湾に自生しています。
西南麓一帯に点在し、海抜170mから高い処は所は3300m以上の所に生息しています。
(え、え・・・、富士山ぐらいのところに??) 

樹高10mの小喬木ないし灌木、太いものは樹囲120cm~160cmで、
多数の梅林をなしている所もあります。・・・」

 

梅ヶ丘駅近くの行列のできる美味しい『にぎり寿司』を買ってきて、
我が家で食べるのも、一興かと思いましたが、

今は亡き、彼女の事が尾を引いていて、止めにしました。

カップラーメンにしました。



トムラウシ山遭難事故

2013-07-05 | 読書

トムラウシ山遭難事故

2009年7月16日、トムラウシ登山者15名、添乗員3名の内、9名が低体温症で死亡した事件。
参加者15名の性別は男性5人、女性10人。その年齢は、50~60才。

 

一行は、天人峡温泉から旭岳を経て大雪山系の主稜線を縦走し、トムラウシ温泉へ下山する2泊3日の登山予定でした。

行動予定は下の地図赤線です。

そのおおよその日程は次の通りです。
登山1日目(7月14日 ):
 旭岳温泉 - (旭岳ロープウェイ) - 姿見平駅 - 旭岳 - 間宮岳 - 北海岳 - 白雲岳避難小屋 - 白雲岳 - 白雲岳避難小屋(泊)

登山2日目(7月15日):
 白雲岳避難小屋 - 高根ヶ原 - 中別岳 - 五色岳 - 化雲岳 - ヒサゴ沼避難小屋(泊)

登山3日目(7月16日):
 ヒサゴ沼避難小屋 - 日本庭園 - 北沼 - トムラウシ山 - トムラウシ公園 - 南沼 - 前トム平 - トムラウシ温泉

最初の二日間は、大体予定通り進みましたが、
次の7月16日からが台風の中の強行軍のようでした。

報告書の要旨では

「7月16日
午前3時半起床。午前5時の出発予定であったが、天候悪化のため雨と風が強く、待機。
ガイドらはラジオで十勝地方の予報『曇り、昼過ぎから晴れ』と聞き、
午後から天候は好転すると見越して出発を決定。
 

一行は午前5時半頃に避難小屋を出発。

ヒサゴ沼の窪地から稜線に出ると風速20~25m(90Km/h)の強風をモロに受けて転ぶ人が続出。先頭のガイドの声が最後尾まで届かない状況。
ガイドからは『風が強く吹いたらとにかくしゃがんで』と繰り返し指示。


通常なら3時間のところを6時間近くかけて山頂下の北沼に到着。
しかし大雨で沼から溢れた水が大きな川(幅約2m、水深は膝ぐらいまで)となり登山道を横切って居た。
川の中に立ったガイドの助けを借り何とか渡りきるが、ここで多くの人がずぶ濡れになった。(実際はガイドだけがずぶぬれで、他はそうでもなかった様子)

午前10時半頃、北沼の川を渡ったすぐ先の分岐手前で女性1人が低体温症のため歩行困難となった。

一行はガイドの指示によりその場で1時間半待機させられた。
座り込んだ人を囲んで風よけを作ったり、『寒い、寒い』と叫び声を上げる女性客も居た。
結局パーティはツエルト(小型のテント)を設営しガイド(リーダー)を残して先に進んだ。

前設営地から距離を置かずして別の女性客1人が意識不明に陥った。
ここで岩陰を探してテントを設営。
この女性に加えて歩行困難になった女性客2人と付き添いの男性客1人、ガイド(メインガイド)の計5人がこの場でビバーグ(緊急野営)することとなった。

登山客と付き添いのガイド(添乗員)はトムラウシ山頂を迂回し西側の平坦なコースで下山を続行した。
この時ガイドは遅れた人を待つことなく大急ぎで進んだため列が伸びて全員を確認できなくなったという。・・・


この時点(午後三時ごろ)で霧や雲で視界は悪いが雨や風は弱まっていたという。・・・」

遭難事故にまでならなくて済ンだでしょうに、
残念でしたね。(他のパーティーはOKのようでした。)

 

その原因を後でたどってみましたが、


1) 天候判断のミス、そして早めに引き返す決断のミス、
2) にわかづくりのチーム、現場での協議不足、
3) 「安全優先」が実際には「経済優先」、
4) ツアー参加希望者の選定(経済優先)、
5)  着用すべき防寒着の指示・確認不足、
6) 「低体温症」に対する認識不足
 等々の要因が重なって起きた事故のようです。

後ではなんとでも言えますが・・・。


安岡正太郎さんの『難福図巻について』を読んで

2013-06-22 | 読書

安岡正太郎さんの『難福図巻について』を読んで

 

たまたま、読んでいた本に「牛裂きの刑」のことが載っており、近くにもその刑場跡があることを知っていたので、

早速にお詣りしてきました。

甲州街道と中野通りの交差点脇です。窪地のど真ん中です。

 

 

そこの碑には次のような文言が書かれていました

「・・・以前この地は極悪人の刑場として牛を使って最も厳しい牛裂きの刑という両足から股を引裂く
酷刑場の地であったと伝えられている。
この牛と窪地であったことから牛窪の地名となり・・・。

宝永より正徳年間にかけてこの地方に悪疫病が流行り
これが悪人の霊のたたりと伝えられ
子供の安泰を守り苦難の時の身代わり地蔵として
この淋しい土地に地蔵尊を祭り霊を慰めたのである。・・・」

今は、交通渋滞が激しく、事故防止の碑にさえなっていますが、
当時は大変淋しい窪地だったようです。

 

さて、安岡正太郎さんの著「まぼろしの川」の中に、『難福図巻について』があり、
その扉に、下のような『牛裂き刑』の図が載っていました。

 円山応挙 画 (満野美術館蔵=大阪市にある由)より

そして一部文章を拝借すると、

「・・・下絵では
左右の牛に引き裂かれた男が宙に飛び上がろうとして、
左右の足首とも牛の脚にくくりつけられて飛び上がれず、
背をねじる形で引き裂かれ、苦しさに眼球が外に飛び出すことになっている。・・・」

と述べて、水墨の下絵を(彩色の本絵以上に)激賞しています。

 

確かに寒気のする絵です。

円山応挙の幽霊の絵とともに、実物を見たいと思いますが・・・。


地勢図で見る霧島火山

2013-06-12 | 読書

地勢図で見る霧島火山

 

霧島山は北海道・大雪山などと同じく複数の山の総称です。

「高千穂峰、中岳、新燃岳、韓国岳が南東から北西にならんでいる。
間断なく活動をつづける活火山であり、火口湖の多い火山である。・・・」(武揚堂発行「地形図の手引き」より)

高千穂峰と新燃岳は現在も活動をつづけている活火山です。

特に新燃岳は2011.1.26~29にかけて爆発があり、噴煙の災害があったばかりです。

 

地勢図の赤線に沿った断面図をみると

さて、霧島の名称ですが、霧深い山に由来しているそうです。
年間降水量も多く、4500mmで、特に6~8月のこの時期に集中しています。
従って、霧もこの頃が一番深く、霧の中に浮かんだ島のように見えるそうです。

カシバードで撮影した霧島温泉から見た霧島山を掲載してみます。
設定が悪く、出来がよくありませんが・・・

 


地形図 に見るカルデラとマール

2013-06-06 | 読書

地形図 に見るカルデラとマール

 

鹿児島県薩摩半島の南端に、池田湖を中心に、カルデラとマールがあります。

カルデラとは、火山の活動によってできた大きな凹地のことです。

また、マールは水蒸気爆発によるもので、爆発後に地下水がたまって池を作ることもあります。

その分類には疑問を感じますが・・・?

「山川港、鰻池、池底、池田湖と4つの凹線地が見られる。
池底はマール、他はカルデラといわれている。
山川港は東側に発達した砂嘴に囲まれ天然の防波堤を形成している。」(武揚堂発行「地形図の手引き」より)

 

それぞれの河口断面図を作ってみますと

左から、池田湖(直径約4km)、鰻池(直径約1km)、山川港(港口の長さ約500m)

  

中でも、マールといわれている下図の“池底”は極めて浅い窪地ですね。
 池底は池田湖と鰻池の間にあります。

池底の断面図。直径約400m

湖底に少し水田が見られますが、池らしいものは見られません。

 

また、爆発によって山頂が飛び散ったり、陥没したりして火口湖や港が出来ていますが、爆発しないまま冷えて固まった山も多く見られます。

その最たるものが開聞岳です。

池田湖北岸から眺めた開聞岳の姿です。(カシバードによる)

日本の火山の中でも、もっとも姿かたちの美しい山ですね。

その近くにも類似の山がたくさん見られます。

 


地形図 で見る北アルプスの壮年山地

2013-05-30 | 読書

地形図 で見る北アルプスの壮年山地

 

「・・・飛騨山脈(北アルプス)が日本海におちこむあたりは、日本でも代表的な豪雪地域にあたるため、
正規浸蝕に雪蝕も加わって、美事な壮年山地にけずられている。
北又谷は深く谷底をきざみこみ、峡谷を形成し、一部に魚止滝をかけている。」
(武揚堂発行「地形図の手引き」より)

 

地形図を拡げてみると

赤い線は境川沿いの断面図の線です。 

 境川の日本海側・大平あたりまでは、川底が平たく砂地も多少残していますが、
それより上流はほとんど砂地もなく、すぐ切り立った山地になり、
しかも水平距離1kmで、500mも登る急崖がつづいています。

その辺りの断面図を河口から川上へ並べてみますと、下図のようになります。

川底の標高が高くなるに従い(上流になるに従い)、両岸の崖の勾配が急になり、深くなっています。

これでは、魚も遡かのぼれませんね。(魚止滝)

    

親不知付近の地形は大体がこうした壮年期の谷でえぐられています。

 


地形図 余呉湖と断層地形を見て

2013-05-27 | 読書

地形図 余呉湖(よごのうみ)と断層地形を見て

「北国街道・・・に並走する北北西~南南東の谷(断層崖)に沿って、西側の山地が相対的に陥没し、余呉湖や木之本町の低地を形成した。
余呉川の堆積物が余呉湖の北側をふさいでいる。」(武揚堂発行「地形図の手引き」より)

余呉湖の北側には、地形図を着色したように、同じような三角形の砂地が連なっています。東側の断層地形に邪魔されて出来た砂地のようです。

余呉湖は奥に深く囲まれていたため、湖になったようです。
多分放水隧道が出来るまでは、水害で大変苦労された地帯でしょう。

余呉湖の砂地は下の断面図にもはっきり表れています。
全長1.5kmもある広い水田地帯です。


そして、戦後になって、余呉湖放水隧道や飯浦送水隧道が掘られ、下余呉一帯の干拓が完成しました。

 

素人考えですが、飯浦送水隧道をもう少し深く(約20m)掘っていたら、余呉湖全体の干拓が出来たのでは。
戦後しばらくは干拓工事が盛んでした。(結果的には残されてよかったのですが)

送水道が出来たためか、北陸本線も、水害の心配もなく、干拓地を横切るコースに変わったようです。
下の旧図と比較してください。(昭和25年応急修正版)


最近、たまたま日本の民話を読んでいますが、その中に
『余呉湖の天女』の、いわゆる “天女の羽衣” 物語に出くわしました。

その一端を引用しますと
「遠いはるかなむかし。
近江の国で、一夜のうちに、大地がメリメリと落ち込み、大きな深い湖となった。琵琶湖である。
そして落ち込んだ土は駿河の国へドシン、ドドンと盛り上がって、富士山になった。
ところが、どうも富士山の姿が、もう一つ、美しさが足りない。
そこで神様は近江の土を一つかみ、つかみ取って、富士山を良い形に仕上げた。
そのつかみ取ったくぼみが湖となって、余呉湖という。」

「・・・天女たちは、海のように広い琵琶湖より、この湖が好きだった。・・・
水は、わき水(?)で冷たく、青く澄んでいた。
湖に映るわが影を楽しみながら舞い降りると、岸辺の柳に、羽衣をふわりとかけて、水浴びを始めたと。・・・」
「余呉湖の岸べには今も、天女が羽衣をかけた柳や、子供が母を慕って泣いた石などが残っている。」そうです。
いい話です。

この湖は、約3万年ぐらい前、琵琶湖と同じ頃に出来たと言われています。
始めは、琵琶湖に包含されていたのが、分かれて独立したと言われています。

長らく鏡湖(きょうこ)とも呼ばれていました。澄み切ったきれいな湖だったのでしょうね。
面積1.8km²、周囲長 6.4kmです。ジョギング大会もあるとか。


地形図で見る 富士見山断層崖とバットランド地形

2013-05-25 | 読書

地形図で見る 富士見山断層崖とバットランド地形

 

富士山の西隣、身延町にある富士見山を眺めてみました。

ここは、諏訪湖から続くフォッサマグナ線上にある急崖です。

 

1/20万地勢図と12.5万地形図を見ると

 

 

「富士火山の東側の約1000mの急崖は、フォッサマグナに沿って発達する断層崖として知られている。

山麓の礫層の部分には崩壊が多く、バットランド地形を示す。」とあります。(武揚堂発行「地形図の手引き」より)

 

12.5万地形図の断面図をみると

東に向かう礫層の急崖が見られます。

地形図上には「がけ(岩)」記号が多く見られます。

ここで云うバッドランド地形とは、そうした急崖に多く散在する「がけ(岩)」の状態を言います。
なんということはない、バットランドとは Bat Land (悪地)の英訳ですか。

雨水による浸食が激しく、深い谷が削られ、降り終ると急に水は引き、涸れ谷になります。
従って、土壌も少なく植生の乏しい荒れ地になります。

ハイキング道には向きませんね。