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地図を楽しむ

地図と共に歩く。里山歩きや、ウオーキングに、そして時には読書に・・・

『鉄道員』を読んで思うこと

2015-11-27 | 読書

『鉄道員』を読んで思うこと

 

以下は、浅田次郎さんの『ポッポヤ』を読んでの雑感です。

以前、テレビか映画で見たことがあります。追憶の表現に感動しました。

駅は私の故郷の駅舎よりちょっと小さい程度で、あまり変わりません。

書き出しを引用すると、

「美寄(びより)駅のホームを出ると、
幌舞(ほろまい)行きの単線(今はない)は町並みを抜けるまでのしばらくの間、
ガラス張りの本線と並走する。
ガラス張りのリゾート特急が、一両だけのキハ12形気動車を、
ゆっくりと眺め過ごすように追い抜いて行く。・・・

終着駅の幌舞は、明治以来北海道でも有数の炭鉱の町として栄えた。
21.6キロの沿線に六つの駅をもち、
本線に乗り入れるデゴイチが、石炭を満載してひっきりなしに往還したものだった。

それが今では、朝晩に高校生専用の単行気動車が往復するだけで、
途中駅はすべて無人になった。

最後の山が採炭を停止してから十年が経つ。」

  

 

 この駅の駅長は一人だけで、しかも一人もん。
とは言っても、結婚はしていた。
年とってからの結婚で、やっと女の子を授かったが、、 
2歳ぐらいで急逝してしまった。
そして、妻も後を追うように亡くなった。

その想い出を亡霊に託して表現しています。 今で云う認知症かも。

私も、妻の三十三回忌をつい先ほど済ませました。
次は五十回忌ですから、多分、これが最後でしょう。


ボツボツ酒に付き合ってくれないかな~! 
楽しい酒を飲みましょう。 

 

 

 

 

 

 


『風と雲と砦』(井上靖著)を読んで

2015-11-01 | 読書

『風と雲と砦』(井上靖著)を読んで

 

戦国時代も、やがて統一に向かおうとする時、
長篠城をめぐり、武田方と織田・徳川方は、激しい戦いをくりひろげていました。

 

この歴史小説は、武田信玄の晩年と勝頼による滅亡をえがいたものですが、
その中に、3組の男女の恋を織り込んでいます。 

武田信玄は中央へ乗り出すため、元亀3年(1572)三方ケ原の戦いで織田・徳川連合軍を破り、
二股城、長篠城を拠点に戦いを拡げていきますが、いかんせん胸の病から病没。
後をついだ勝頼が、戦いを続けますが、
しかし、天正3年(1575)長篠の戦で敗れてしまいました。

鉄砲を中心にした織田・徳川連合軍に、旧来の槍と騎馬で対抗する武田軍は、敗退してしまいました。

「鳶(とび)ノ巣城からは山伝いに遠江に出る。
遠江の只来(たたら)城、飯田城など、いずれもこちらの手中にあるが、
敵中に取り残されている島と思って差し支えない。
少しも頼みにならぬ。
至るところ、徳川方の軍勢がうじょうじょしている。」

こんな状態で、長篠の戦は終わりました。

 


「終わらざる夏」より (つづき)

2015-10-16 | 読書

「終わらざる夏」より (つづき)

 

北千島の占守島は千島列島の最北東端で、面積は230㎢(小豆島の1.5倍)、

海抜200mくらいの緩やかな、丘陵や沼や草原のひろがる島です。

 

オホーツク海と太平洋に囲まれ、気温は夏でも15°Cくらい。
濃霧が濃く、視界が開けない日が多いそうです。
また、冬はマイナス15°Cの極寒で、かつ吹雪の日が多い。

カムチャッカ半島の南端、ロパトカ岬とは12kmしか離れていない島です。

この島での玉音放送の様子は、

「正午ちょうどに、『君が代』が流れ始めた。
音曲はきれぎれで、どうかすると何秒も雑音に紛れた。
人々は直立不動のまま、だれも生まれて初めて聴く玉音を待った。

  『朕深く世界の大勢と帝国の現状とに鑑みーー』

 そこまでははっきり聞こえた。・・・
全身を耳に変えた。
玉音は雑音に冒され、まるで荒波に見え隠れする小舟のように、消えたり現われたりした。

 『帝国の自存と東亜の安定・・・戦局は必ずしも好天せず・・・

残虐なる爆弾を使用してしきりに無辜を殺傷し・・・
皇祖皇宗の心霊に謝せんや・・・始終東亜の開放に協力せる諸盟邦に対し・・・

堪えがたきをーー堪え、忍びがたきを忍び・・』」

 

 『堪えがたきを』の後の「ーー」は、1,2秒の空白を示します。こみ上げるものがあったのでしょうか。

 

 続いて鈴木貫太郎首相による説明があり、
「これもまた雑音に紛れてよく聞こえなかったが、
まるで企まかれたように、『無条件降伏』という言葉だけは人々の耳にはっきりと届いた。
それですべては明らかになった。」

とありました。

そして、ここ北千島では、

「その日、占守島に正しく玉音放送が流れることは無かった。
ラジオ受信機は長崎港(占守島の)海軍根拠地隊と、日ロ漁業の工場と、
四嶺山山頂の電探を使った独立歩兵大隊の装備品があるきりで、
それらにしてもほとんど聞き取れぬ感度だった。

・・・高貴な抑揚がときおり雑音のすきまに確かめられるだけで十分だった。
本土決戦に向けて、陛下が全国民を激励なさっているのだと、将兵は皆信じ切っていた。・・・」

 

しかし、遅くとも八月十五日のうちには、全将兵が終戦を知った
「多年にわたる常時即応の気構えが直ちに挫けるはずもなく、
翌十六日にはいつに変わらぬ訓練や作業が行われた。
そしてその惰性の一日で将兵らは、
それぞれの常の日課がすでに無意味であると知り、終戦を受容した。」

 

 「傍受することのできた電文の中に・・・

 『十八日一六〇〇ヲ以テ師団ハ一切ノ戦闘行動ヲ停止ス可シ。

但シ、止ムヲ得ザル自衛行動ノ為ノ戦闘ハ之ヲ妨ゲズ』、 

 一見したところ正当な判断だが、・・・」

 この『但シ、止ムヲ得ザル自衛行動ノ為ノ戦闘ハ之ヲ妨ゲズ』、が多大な災いを生じた。

 その一つが、占守島の戦いです。
ネットによると、

「太平洋戦争終戦後の1945年(昭和20年)8月18日 ~21日に、

千島列島東端の占守島で行われたソ連労農赤軍と大日本帝国陸軍との間の戦闘である。

ポツダム宣言受諾により太平洋戦争が停戦した後の8月18日未明、
日ソ中立条約を一方的に破棄(8月9日)したソ連軍が占守島に奇襲攻撃、
ポツダム宣言受諾に従い武装解除中であった日本軍守備隊と戦闘となった。

戦闘は日本軍優勢に推移するものの
軍命により21日に日本軍が降伏し停戦が成立、23日に日本軍は武装解除された。

捕虜となった日本兵はその後大勢が法的根拠無く拉致され、シベリアへ抑留された。」

 

この戦いのなかで、400人の女子挺身隊員の本土への送還問題がありました。
ソ連軍が上陸してからでは、無残の状態は見えていた。

しかし、まともな船は無く、かつオホーツク海側は霧が晴れていて危ない。

止むを得ず、霧で視界の見えない太平洋側を、小さな漁船に分乗して漕ぎだし、

無事、根室に上陸しえたことです。 

「飢えと寒さの中で、その捕虜がばたばたと死んでゆくこの有様が、
国際法で禁じられている虐待でなかろうはずがない。
ましてや終戦まぎわの八月八日に、不可侵条約を一方的に破棄して宣戦布告をした国の、
正当な権利であるとは思えない。
それでも、理不尽な終戦後の戦争を勇敢に戦った兵士たちは、
この仕打ちさえ無条件降伏の内だと信じて、
飢えも寒さも、その結果としての知れ切った死すらも潔く受容していた。」

そして、
「四百人の女子工員を乗せた船団が、一隻も欠けることなく根室に到着したという無線を傍受したとき、・・・
時ならぬ万歳の大歓声が上ったそうだ。」

 


「終わらざる夏」より

2015-10-13 | 読書

「終わらざる夏」より


浅田次郎さんの本です。
まだ、半分程度しか読んでいません。私には難解な本です。

太平洋戦争の終戦前後を題材にしています。
主として、千島列島最北端の物語です。

所々、抜書きしました。

例えば、
「千島列島は北海道の東端から、ソ連領カムチャッカ半島に向かってほぼ真直ぐに伸びる火山列島の総称である。

しかしこの直線状から南に外れる色丹島と歯舞諸島は、地質上も地形上も正しくは千島列島に含まれず、
北海道花咲半島の延長なのだが、主として国防上の便宜からこれらも『南千島』と呼ばれる場合が多い。

正確に言うのなら、
千島列島南部の択捉島と国後島に色丹島と歯舞諸島を加えた部分を便宜的に『南千島』と称し、
得撫(ウルップ)島から雷公計(ライコケ)島までを『中千島』、
捨子古丹((ステコタン)島以北の最東端占守(シュムシュ)島と最北端阿頼度(アライト)島までを『北千島』に区分する。」

 この記述によって、地図を区分してみました。

つぎに、

「戦車第十一連隊が満州から北千島に移駐したのは、昨十九年の二月であった。

つまりその時点では、
アリュウシャン列島を基地とする米軍が日本本土に指向するにあたって、
まず、北千島を攻略するのではないかと考えていた・・・

通称『先』(せん)兵団。
二個旅団の指揮下に十二個の独立歩兵大隊を擁し、
無傷の戦車連隊まで含むその総兵力は二万を超える。
その多くはかって満州にあって世界最強を自負した、関東軍の精兵であった。」

満州から日本の精兵・関東軍を
米軍からの攻撃に備えて、千島列島北端に供えたようです。

事実は、日ソ中立条約は破棄され、且つ、米軍は南から沖縄、九州を襲い、
北千島の精兵は、 輸送手段もなく、孤立無援の状態になってしまったようです。

「ソ連は中立条約を一方的に破棄して、わが国に対し宣戦を布告しました。
満ソ国境を突破した敵は、少なくとも歩兵八十個師団、
すこぶる優勢な航空兵力と多数の機甲部隊を伴います。」

これから、下巻に移ります。
多分、終戦からしばらく、ソ連からの進入に悩まされることでしょう。 

早く読み終えて、もっと明るい本に移りたいです。・


景信山ハイキングへ参加

2015-10-04 | 読書

景信山ハイキングへ参加

今回の景信山行きで私の山行きは終わりにします。

と申しますのは、
体力の限界というか、体のバランスが大変悪いように感じたからです。

今回はたいした迷惑(?)はかけなかったようですが、続ければ、必ずご迷惑をかけるでしょう。 
それに、大変 “ し~んどい” です。

今回のコースは下の図の赤線です。

女性3人、男性3人の6人です。
私以外は皆、元気です。

以前は、このコース、“お茶の子さいさい” でしたが、歳ですかね~。

台風まじりの予報をおして、時間をずらして行きました。
おかげ様で、いいお天気でした。

高尾駅から小仏行きバスで、途中、大下バス停下車、小下沢沿いの林道を歩きました。

大下バス停は“オオシモ” といい、小下沢は“コゲサワ”と発音するのだそうです。
いわれは解りませんが、どちらかに揃えたらよさそうに。

それから、バスの中で、小仏峠で茶店を営んでいるという“おばあさん”と 、隣り合わせました。
一見、年寄りに見えましたが、小仏バス停近くの自分のお家から小仏峠まで
毎日往復しているそうです。
確か片道4Km余はあると思いますが、元気なもんですね。恐れ入りました。

さて、下小沢沿いの林道を早足で歩き、登山道分岐の木橋の所で昼食休み。
キャンプ場らしいところです。

一休みした後、登山道に入りました。


ここから、“歳” を感じ始めました。何回か休憩しながら歩きましたが、
私には限界でした。
腰に力が入らないし、眼はぼんやりしか見えないし・・・

漸くの事で頂上(727m)に着きましたが、
下りは小仏峠に寄らず、わき道を小仏バス停まで降りました。

お世話様になりました。
これで、私の山らしい登りは止めです。あとは里山歩きが限度です。
THE  END 

しかし、これからもウオーキングは頑張りますよ!

 

 

 

 


先島諸島について

2015-09-28 | 読書

先島諸島について

 

天気予報でよく云われる先島諸島などがよく解らないので、整理してみました。

下の図は、帝国書院刊行の「新詳高等地図」の一部です。

わからない点は、

琉球諸島ですが、諸説あり、一番解りやすいのを引用すると、

 「九州から台湾に連なる琉球列島(正しく諸島)の中の南半にあたる島々の総称。
なお、北半の島々は薩南諸島とよぶ。・・・」

また、琉球諸島は、

「沖縄本島を中心とした沖縄諸島と、先島(さきしま)諸島に二分され、
先島諸島はさらに宮古列島と八重山列島とに区分される。」
とあります。 (「日本大百科全書」より要約)
 
 
 
 
そして、尖閣諸島の位置づけですが、
古くから琉球王国や中国歴代王朝では、その存在は知られていましたが、
航路の標識として利用する程度で、人は住んでおりませんでした。

しかし、「1872年の内務省地理局発行の『大日本府県管轄図』に魚釣島が記載されるなど、
日本国内で発行される地図には尖閣諸島は琉球諸島に含められて記載されていた。」
そうです。
もちろん、先島諸島とは別扱いです。 (領土問題には触れません。)

なお、広辞苑(昭和39年8月刊行版)には、先島諸島も尖閣諸島も載っていませんでした。

 

ところで、諸島と列島との違いですが、

広辞苑によると、
諸島は「二つ以上の島の集団をいい、列状をなすものをとくに列島という。例、伊豆諸島。」
また、列島は 「列状をなしている諸島。例、五島列島。」だそうです。

この辺で、納得と致しましょう。

 

 

 

 



日本の領土(4) 最西端

2015-09-10 | 読書
日本の領土(4) 最西端
 
与那国島・西崎(いりざき) 沖縄県与那国町 日本の最西端です。
西表島の西隣です。
 
 
 
西崎を拡大して見ると、下のようになります。
 
さて、沖縄では、「西」を「いり}と読みます。
「西表島」は「いりおもてじま」、「西崎」は「いりざき」と、
猫ちゃんも、「西表山猫」を「いりおもて…」と呼びます。
 
これは、 沖縄固有の言葉に、あとから同じ意味の漢字を宛てたからです。
 
「西」のことを「イリ」、「北」のことを「ニシ」、「東」のことを「アガリ」、「南」のことを「フウェ」と云うそうです。

ちなみに、那覇市の首里城の北側には「北原」と書いて「ニシハラ」と読む地名がありました。
いまでは「西原」と書くようですが・・・

しかし、それが鹿児島になると、種子島の「西之表町」は「にしのおもて・・・」と発音します。
 
同じようなことは、全国各地にありますよね。

 
この島は、北緯24°26′ 東経122°56′ に位置し、
東端の南鳥島が東経153°59′ですから、
経度差約31° 即ち、約2000Km離れています。

南北には3700Km離れていますから、広い海洋国ですね。
自覚しましょう! 
 
 
さて、東京から沖縄本島までも遠いのに、さらに沖縄本島からフェリーで9時間も離れています。
 
この島の岬の突端には西崎灯台があり、『日本最西端の地』の碑が設けられています。

天気のよい日には約110km先の台湾を見ることができるそうです。
 
ところで、今話題の尖閣諸島ですが、
諸島西端の魚釣島は 北緯25°44′、東経123°28.′で、
与那国島が東経122℃ですから、
日本の西端が与那国島であることには変わりません。
 
西表島、石垣島などからも約170 km北に離れているそうです。
 
 
 
 
 
 
 

日本の領土(3) 最東端 

2015-09-08 | 読書

日本の領土(3) 最東端 

 

入間基地から飛行機で4時間、1800Km離れた、三角形の小さな島です。

東経 153度59分,北緯24度17分で、最東端に位置しています。

周囲はサンゴ礁に囲まれていて、良港といえるようなものはありません。

ここが、日本最東端の『南鳥島』です。
「南」となっていますが日本の最東端です。

面積は1­・5平方㌔、周囲約6㌔です。
沖ノ鳥島よりやや狭いですが、完全な島です。

常時、所轄の職員や隊員が数十名住んでいます。
一般人は住んでいませんし、自由に行き来できないそうです。
と、云われると、行ってみたいですね。温かそうですし・・・ 

 
サンゴ礁のため、港はないですが、飛行場はあります。
自衛隊や気象庁の施設もあります。

小さな波止場はありますが、サンゴ礁に取り囲まれて、大型船は接岸できないそうです。
従って、荷物は飛行機や沖合いに停泊した大型船から、小型ボートで運ぶのだそうです。

 

国土は、領土・領海・領空から成り立っています。

領土は国の主権の及ぶ土地です。
領海は領土の周りの水域です。
そして領空は領土と領海の上空です。

そして、領海には、低潮時(潮が引いて、海水面が最も低くなるとき)の海岸線から
12海里(約22km)の範囲と定められています。

また、領海の基線から200海里(約370km)以内を排他的経済水域と云っています。

 

ところで、『排他的経済水域』ですが、ネットによると、

「天然資源及び自然エネルギーに関する『主権的権利』、並びに
人工島・施設の設置、環境保護・保全、海洋科学調査に関する『管轄権』がおよぶ水域のことを指す。」
とあります。

日本は、沖ノ鳥島や小さな島々のおかげで、広い排他的経済水域をもっています。
レアメタル、自然エネルギー然り、人工島、科学調査等、上手く活用しなければね。 

太平洋戦争の時の戦車や大砲の残骸が今もなお残っているそうです。

それら犠牲者のためにも・・・


日本の領土(2) その最南端

2015-09-07 | 読書

日本の領土(2) その最南端

最南端は沖ノ鳥島(東京都小笠原村)と云われています。
位置は北緯20度25分、東経136度4分です。

 赤丸の所です。

最北端が45°33′ですから、緯度差約25度、これは距離にすると3700km余りになります。
日本は小さくないですね。海洋開発をもっと熱心にやらなくっちゃネ。


東京からは1,740kmはなれ、 太平洋の絶海に孤立しています。
大きさは、南北約1.7km、東西約4.5km、周囲約11kmほどのコメ粒形のサンゴ礁です。
外周は、渋谷区の約1/3の面積です。

そして、 すぐ南隣が、東京大空襲でB29が飛び立っていたマリアナ諸島です。

 

さて、この島々は、干潮時には大部分が海上に姿を現していますが
満潮時には東小島と北小島を除いては海の下に隠れてしまいます。
それでも、沖ノ鳥島のうちの東小島には、一等三角点が設置されているのです。

また、灯台もあり、太陽電池で発光ダイオードが光でるそうです。

なかなかやるね!


日本の領土(1) その北限

2015-09-01 | 読書

日本の領土 (1) その北限

北は 択捉島 北緯45°33′。東経148°45′ 
沖縄本島の約2.7倍の面積でで、わが国最大の島です。



現在は、ソ連が日ソ平和中立条約を一方的に破り、実効支配していますが、
これは国際法違反で、不法占拠です。日本は領有権を主張しています。
続けて、末永く主張してください。 

とくろで、日ソ平和中立条約とは、ネットで調べると

正しくは、「 大日本帝国及ソヴイエト社会主義共和国連邦間中立条約」
であり 1941年(昭和16年)に締結しています。

「相互不可侵および、一方が第三国の軍事行動の対象になった場合の
他方の中立などを定めた全4条の条約本文、および、
満州国とモンゴル人民共和国それぞれの領土の保全と相互不可侵を謳った声明書から成る。

有効期間は5年であり、その満了1年前までに両国のいずれかが廃棄を通告しない場合は、
さらに次の5年間、自動的に延長されるものとされた(第3条)。」 とあります。

従って、有効期間内でもあります。

ネットに掲載されている元島民の文章を見ていると、
ソ連軍人の非人道的な行為に憤りを感じます。
 


択捉島の最北端はカモイワッカ岬です。

5万分一地図で表すと次のようになります。


この地図は、旧帝国陸軍の作成したものです。

そして、我々が通常行ける宗谷岬とは 3分(約5km)ぐらいしか離れていません。

それだけに、領有権は主張しつけて欲しいです。