鉄ちゃん爺やの 独り言

鉄ちゃん爺やは大阪に住んでますので
画像で隠れた関西の名所も紹介します。

鉄ちゃん爺や  上杉神社から立石寺へ  

2016-08-11 19:43:55 | 旅行
昼食を終えて集合時間まで約30分ぐらいかな。

近くの米沢城址にある上杉神社を訪ねてみまひょ。

(米沢城址の外濠)




元は上杉15万石のお城でしたが、明治の初めに
取り壊されて、現在は本丸跡に上杉神社が在るだけ。

(上杉神社の鳥居)


昔は上杉謙信公や上杉景勝、そして上杉鷹山公など
上杉家の藩主や重役がお祀りされていたようでっけど。

明治時代に上杉謙信公が別格官幣社に列する事になり
現在は上杉謙信公のみを、お祀りしているんだって。

他のお方は、城外の松岬神社に移されたとのこと。

これからは、上杉家を巡る歴史のお話になりまんねん。

興味のない方は画像だけ見て、文章はスルーして頂戴ね。

(上杉神社の ご朱印)


(上杉謙信公の銅像)


(上杉謙信公の詠んだ 漢詩)


上杉家と言えば、やはりこの方が語られるのも当然かな。

「義」を重んじて戦国を駆け抜けた偉大な武将でっから。

正式には上杉家の初代藩主は上杉景勝さんになりまぁ。

時は太閤秀吉さんの晩年で徳川家康を牽制するお役目。

越後の国から会津への、お国替えがおましたんや。

これは後に、米沢に移されてからのお話のようでっけど。

上杉謙信公の亡骸に甲冑をかぶせ、大がめに入れて
春日山城から、ここ米沢城の本丸へ移し替えたとの記録。

(上杉謙信公の 廟跡)


江戸時代には、ここに安置されていたそうですが、明治維新後
近くの上杉家歴代藩主をお祀りする廟所に移し替えたそうですわ。

立派な廟所だと聞いてまっけど、時間が足りまへんのでスルー。

(上杉神社 拝殿)




ご存じの通り上杉謙信公には、お子さんが居ませんので
お姉さんの子供である、景勝さんを養子にされますんや。

家督争いの「御館の乱=みたてのらん」で同じく養子の
上杉景虎と正室であった景勝の姉とその子供までを、殺し
上杉家の当主になったのが上杉景勝と称されるお方でっせ。

本当は北条家から養子に入った上杉景虎に謙信公が家督を
継がせたかったと書かれた書物も見られますが
今と成っては、どちらなのかは定かではおまへん。

豊臣秀吉の晩年には会津120万石を誇り、五大老の一人
徳川家康や前田利家や毛利輝元に並ぶ、大大名でしたんや。

(天地人 景勝&兼続の銅像)


NHKの大河ドラマでは、やや綺麗ごとに描かれてますが
戦国の時代を、力強く生き延びた上杉家のお話でしたかな。

反徳川家康の先鋒として旗を揚げたのが上杉景勝さんですわ。

ここ米沢は直江兼続が城代として、関ヶ原の戦いの際には
山形県内で最上氏や伊逹氏と激しく戦った古戦場がおます。

本戦の関ヶ原で西軍が破れ、直江兼続も兵を引くことになりまぁ。

反徳川家康の戦いを起こしたにもかかわらず、戦後は30万石に
減らされたが、米沢城主として存続したのが不可解なお話。

謙信公以来の武勇の家として、武士の情けを考慮したのかも?

(上杉家と伊達家 よく似た家紋)


上杉謙信公が関東管領の上杉憲政から名称を譲られたから
これは、鉄ちゃん爺やも知ってたが、伊達家がその昔
越後の上杉家と縁を結ぶ予定で、家紋を引き継いだとは。

この越後の上杉家は謙信公の先祖が主君筋にあたる名門
元は公家さんである、観修寺家の紋と書かれてまんな。

「竹に飛び雀」と呼ぶ、よく似た家紋に成ってますんや。

(上杉神社境内の 灯篭)


上杉家は景勝ー定勝ー綱勝と 三代が続いた処で災難が。

3代藩主・上杉綱勝が子供もなくて急死してしまうんですわ。

これが3代将軍家光の時代迄なら、お家断絶が当然なんでっせ。

時代が4代将軍家綱の時代で、しかも上杉綱勝の正室が
会津の名君である保科正之の娘さんときますんや。

保科正之さん娘婿の家を守るべく、驚くべき策略でっせ。

公家筆頭の吉良上野介に上杉綱勝の妹が正室として嫁入り。

そのお二方との間に、生まれたばかりの息子を養子にして、
上杉家を継がす事に、しはりますんや。

この方が4代藩主・上杉綱憲(つなのり)さんでおます。

赤穂浪士の吉良邸のお話で少しだけ登場するお殿様でんな。

保科正之は兄の将軍家光から4代将軍・家綱の後見を依頼され
米沢藩の隣で、会津若松城を治めていた徳川将軍家のご親戚。

だから上杉家には会津藩は命の恩人とも言える存在ですわ。

現在も米沢市では吉良上野介も悪くは言わないんだって。

だから謙信公や景勝さんの直系はここで絶えてしまった感じ。

(上杉家の 家紋) (竹に飛び雀)


上杉家はこの時に30万石から15万石に減らされますんや。

減らされたのが信夫郡と伊達郡だそうで、現在の福島市辺り。

だけど、家臣は昔の120万石の時代から、殆ど減らさずに
米沢藩になっても約6000人の家臣を引き連れていたんだって。

これは人を重んじる上杉景勝さんの考え方だとか、もしくは
まだ戦いが有るかもしれないとの心構えからだとも。

どこの藩も、江戸時代の半ばからは財政が苦しくなるんだけど
米沢藩は家臣の多さも影響して、大変に苦しんだとのこと。

8代藩主・上杉重定の時代には財政が破たんして15万石を
幕府に返上を考えたあげく、思い留まったと書かれてまんな。

この危機を救ったのが、上杉家・中興の祖とも称される
9代藩主・上杉治憲(はるのり)さん上杉鷹山公と呼ばれます。

(上杉鷹山公の 銅像)




この方は九州は高鍋藩の江戸藩邸でお生まれになった若君。

実母が早く亡くなられ、祖母に育てられたそうで、この方は
4代藩主・上杉綱憲さんの娘さんになられる、お方でおます。

伯母から英明な子供だと聞き及んだ、8代藩主・上杉重定は
この若君を婿養子に迎え、自分の娘と結婚させたんだって。

そして後に生まれた自分の息子を外し、婿養子に家督を譲り
9代藩主・上杉治憲(はるのり)とされたようでっせ。

上杉重定から上杉治憲に藩主が変わった頃の米沢藩では
約20万両もの負債(現在では約200億円?)があり
これを立て直すには、至難の業だと言われたんだって。

(上杉鷹山の 名言)


これは、後に10代藩主となる上杉治広に与えた家訓で
この方は、上杉鷹山公が養子に入ってから生まれた義弟で
上杉鷹山公は隠居した後も、藩主上杉治広を助けて藩政を
死ぬまでリードされたと言われてますんや。

なお「鷹山」とは剃髪後の名前で米沢近くの山の名前だとか。

アメリカ元大統領であったケネディさんが、日本で一番尊敬する
人物が上杉鷹山公だとおっしゃり、日本でも知られるように
オイルショックやバブル破たんの時代には、質素倹約の精神から
上杉鷹山公の政策や精神が、大いにもてはやされましたかな。

(上杉鷹山 伝説の植物)




この日の昼食に「お浸し」で食べたように記憶しまんねん。

今まで味わったことのない、不思議なお味でしたよ。

米沢では上杉鷹山公の奨励した植物の一つなんだって。

(うこぎの生垣)


米沢市の街では所々でこのような生垣が見られまっせ。

他には鉄ちゃん爺やがお土産で買った「鯉の甘露煮」など。

(鯉の甘煮  甘露煮?)


上杉鷹山公は自ら質素倹約に務め、あらゆる草木や魚類に
動物まで食べられるものを探し出し、飢饉に備えたとの事。

下級武士の次男・三男には田畑の開墾命じ、村ごと一人当たり
年一升の籾米を飢饉に備えて蔵に貯蔵することも命じたそうです。

天明の大飢饉に、米沢藩では1人の餓死者も出さなかったとも。

同時に40名も居た奥女中は、9名に絞り込み、自らも
一汁一菜の食事を常とする生活をしたと言われてまんな。

今に伝わる米沢の特産品は殆どが上杉鷹山公に繋がるとか。

自足時給を図り、米沢藩を甦らした名君と呼ばれてまぁ。

上杉鷹山公が亡くなった時には約20万両も残っていた負債が
逆に5千両ばかり、金子がプラスに転換してたそうでっせ。

(松岬神社)




元は米沢城内にお祀りされていた、上杉鷹山公や藩祖である
上杉景勝それに直江兼続や上杉鷹山公を支えた方などが
明治に成ってから、城外のこの神社に移されたとのこと。

米沢市では現在でも上杉鷹山公を尊敬して必ず「公」を
付けてお呼びするとの事で、私もそれに従いましたので。

(松岬神社 拝殿)


これで約30分の時間が過ぎましたので観光バスの
駐車場へ急ぐことにしまひょ。

ここから約1時間30分ぐらい走って東北の名刹で
天台宗の立石寺へ向かいますんや。

松尾芭蕉が奥の細道で有名な句を残したお寺

「静けさや 岩にしみいる 蝉の声」

立石寺と言うよりは「山寺」と呼ぶ方が有名かしら?

(山形県 南陽市を走行中)




気が付いたら米沢・南陽道路を走ってるようでんな。

この辺りは、シーズンが終わったけどサクランボの畑や
桃やブドウ畑の風景が随分と、多く見かけまっせ。

(蔵王スカイラインの入口を通過)


(蔵王の山並み?)




雲が垂れこめているので本体なのか前山なのか不明でんな。

蔵王連山の主峰ならもっと高く見えるような気もするけど。

残念ながら、今回は蔵王には行かないツアーでしたんや。

(山形市を通過中)




此処からはもう少しで山寺に到着という感じですわ。

今回のツアーでは一番の難所だとされる山寺でっせ。

約1000段を超える急な石段が待ち受けてますんや。

(山寺の 入口)


(山寺の拝観券)


今日はこれぐらいでお仕舞にさせてもらいまっさ。

次回は、名刹の立石寺(山寺)の参拝を紹介しまひょ。

ほんなら~ これで、さいなら~🎵















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22 コメント

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お今晩は (小倉のヒデ)
2016-08-11 20:13:29
今晩は山形県までいかれたんですね。米沢市の
上杉鷹山のなせば成るなさねば何事も 有名な文句ですね。
遠くまで鉄ちゃんの爺やさんいかれてますね。僕も
今月いっぱいゆっくり休養して万全な体制で仕事1時間していきます。今年の夏はほんまに暑いどす エアコンつけっぱなしです。炊飯器とベット来週購入します補聴器も
新しくします。 お互いに気を付けましょう。エアコン温度
26度にしています。 ご心配おかけしました
パソコンもデフラグして再新してからシャットダウン後
又付けましたら 昨日の夕刻から快適に作動しています。機会も 多少暑いとごねるかもね。
返信する
飛び雀って言うのですね (くちかずこ)
2016-08-11 20:19:19
雀が家紋に入っているなんて知らなかったです。
上杉家、NHKの大河ドラマによく登場するので、なんとなく断片的には知っていましたが・・・
いろんなことがあったのですねえ。
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こんにちは! (isikazu62)
2016-08-12 13:42:22
数年前のNHK大河ドラマ「天地人」で大体のことは知りましたがドラマを見る前まで上杉鷹山や直江兼継がどのような人物だかは殆どと言っていいほど知りませんでした。

同じドラマでも今年の「真田丸」では直江兼継は少し意地の悪いように扱われている気もしました。


返信する
上杉家のあらまし (hide-san)
2016-08-12 20:52:52
上杉家のあらましがよく解りました。

立石寺に昇られましたか?

ボクは途中であきらめました。
返信する
こんばんは (さっちゃん)
2016-08-12 21:33:49
 米沢出身の友人がいるので、黒田さんのブログを興味深く読ませていただきました。

 上杉鷹山公は名前を知っているだけですが、ブログから、いかに優れた方であるかを知りました。


< ご当地も木の葉っぱや草木の剪定したゴミ袋は
<一度に2個までと決められてるんですか?
 どこかで2袋と書かれていたような。でも確かではありません。

 
返信する
おはようございます (ちやこ)
2016-08-13 06:20:36
由緒ょ 古跡の 後 歩かれて
遠き 昔に  思いを はせて 偲ばれる
旅  良いですね~
健康で あるから 出来る事です。
之からも 楽しんで 下さい。
そして up してくださいませ。


返信する
コメント有難うございました~♪ (小倉のヒデさんへ)
2016-08-13 09:05:14
青春18きっぷで米沢や山形へとも考えたんですが
ツアーで1人参加OKのプランがありましたので
これにしたんですわ。

47都道府県を完全走破を目指していましたので今年の目標の達成となりました。

大阪は猛暑日が9日間連続で続いてますよ。

何時まで続くのやら~
返信する
コメント有難うございました~♪ (くちかずこ 様へ)
2016-08-13 09:17:57
関ヶ原の戦いで敵中を突破して祖国へ帰った
島津氏が所領の安堵。

反家康で戦った上杉家が30万石で生き残り
出陣したが戦わなかった毛利家がこれも
29万石で生き残る、歴史とは不思議ですね。

他の西軍の大名は全てが潰されてますから。

やはり鎌倉時代からの名門の家は存続させようと家康は考えたのかも?
返信する
コメント有難うございました~♪ (isikazu 62さんへ)
2016-08-13 09:23:04
直江兼続は主君・上杉景勝の意志を実行したのか
それとも景勝が兼続に引っ張られたのか?

どちらなのかは今となっては不明ですけど。

でも戦いは負けたけど上杉家を立派に
守り通したことには違いはありませんよね。
返信する
コメント有難うございました~♪ (hide-san 様へ)
2016-08-13 09:27:34
山寺は奥の院や五大堂まで登ってきましたよ。

参加者が私と年齢が違わない方ばかりでしたが
大正生まれの方が1名だけ脱落
残りの35名は全てが奥の院まで行かれましたね。

金比羅さんの石段より立石寺の石段の方が
数段きつかったとの声が大半でしたよ。
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