元和元年(1615年)に道頓堀川は完成しましたんや。
大坂夏の陣と同じく今年が400周年となりまっせ。
(安井道頓・道卜の顕彰碑) (大正4年に完成の石碑)
photo by kuroda0729 from フォトフレンド for マイポケット
安井道頓と云う方は東横堀川や猫間川などの開削に
功績があり豊臣秀吉から城南の地を拝領したとか。
当時の東横堀川は大坂城の外堀だったんですが
南端から東西に川を開削したのが安井道頓さんでっせ。
木津川まで約2.9kmの人工の川でおます。
安井道頓は私財を投下して工事を進めたようでんな。
大坂冬の陣で外堀を埋めた徳川軍に遺恨を感じたとか。
大坂夏の陣に際し豊臣家に恩義を感じて大坂城に入り
元和元年(1615年)6月に戦死しはったんですわ。
道頓堀川は殆んど完成目前だったようで親族の安井道卜や
関係者の努力でその年の暮れに完成したようでんな。
大坂城初代城主の松平忠明(ただあきら)は完成した川に
安井道頓の名前を採用して道頓堀川と名付けたようでっせ。
この方は徳川家康公の外孫で大坂夏の陣の功労者でおます。
この石碑は道頓堀川の日本橋の北東に建てられてますんや。
(日本橋=にっぽんばし)
photo by kuroda0729 from フォトフレンド for マイポケット
photo by kuroda0729 from フォトフレンド for マイポケット
お江戸では日本橋(にほんばし)でっけど、大坂では
日本橋(につぽんばし)と読み方が違いまんねんで。
この日本橋は江戸時代には道頓堀川に架かる橋では
唯一の公儀橋で紀州街道から現在の堺筋に繋がっていたとか。
現在は大阪では御堂筋がメイン道路でっけど昭和の初期まで
ここ堺筋が大阪ではメイン道路の時代が続きましたんや。
この日本橋には四国の金比羅参りへの船着き場もあったとか。
大坂の橋は殆んどが町人がお金を出して作った経緯があり
お江戸とは違った大阪商人の心意気を感じまんな。
八百八橋と云いますけど当時は700橋ぐらいだったとか。
でもこの日本橋は江戸時代から重要な橋だったので
高麗橋や天神橋や京橋など12の公儀橋の一つでしたんや。
もう一つだけ船場商人が作った橋を貼り付けておきまひょ。
(道頓堀川 太左衛門橋=たざえもんばし)
photo by kuroda0729 from フォトフレンド for マイポケット
江戸時代に大坂太左衛門という興行師が道頓堀川の南側に
芝居小屋を作ったので彼の名前が橋に付けられたとの説。
こんな感じで大坂には個人の名前が付けられた橋が
多数おますんや、淀屋橋・末吉橋・常安橋など。
それでは大阪の観光名所である地区に移動しまひょ。
(グリコの看板と 表側のビル)
photo by kuroda0729 from フォトフレンド for マイポケット
photo by kuroda0729 from フォトフレンド for マイポケット
グリコの看板は年末にも紹介しましたけど6代目として
リニューアルされて現在も多くの方が写真を写してはりま。
でもこの看板の表側が何のビルかご存知では無いと思いますんや。
正解は大阪市消防局・道頓堀出張所が入るビルでっせ。
でも地主さんは別で大阪市の建物では無いかもしれまへんな。
この表側を写真に撮るのは物好きな鉄ちゃん爺やだけかも。
この反対側が道頓堀通りに残る唯一の劇場で大阪松竹座だっせ。
(大阪松竹座)
photo by kuroda0729 from フォトフレンド for マイポケット
1923年(大正12年)にネオ・ルネッサンス様式として
関西で初の洋式劇場として発足した建物です。
正面の大アーチは鉄ちゃん爺やが子供の頃のままでんな。
当時は松竹系の洋画封切りの映画館でしたんや。
1997年(平成9年)に歌舞伎が上演できる劇場に改装し
正面の部分以外は全て新しく建て直されたとの事。
江戸時代には道頓堀通りには芝居小屋が五座あったとか。
(江戸時代の 竹本座跡)
photo by kuroda0729 from フォトフレンド for マイポケット
ここには鉄ちゃん爺やが若い頃には「浪花座」がおました。
確か「浪花座」はわての時代は映画館だったような記憶。
当時は松竹新喜劇の「中座」漫才などお笑い芸能の「角座」
文楽を演じる「朝日座」と「浪花座」の都合四つの劇場が
まだ江戸時代からの名残りで、おましたが現在ではおまへん。
「角座」などは場外馬券売り場になってしまいましたがな。
(かに道楽 本店)
photo by kuroda0729 from フォトフレンド for マイポケット
道頓堀名物の派手な看板はやはり、かに道楽さんが草分けかな。
えび道楽もあったけど現在は、かに道楽の分室に変ってますわ。
最近は中国人観光客が増大してお昼の時間帯に日本人が
予約なしで訪れたら食べれないほどの商売繁盛だとか。
観光客が増える事は悪くはないけどもう少しマナーを
向上して貰わないと大阪人としては文句も云いたくなりまっせ。
(元祖 廻る 元禄寿司 道頓堀店)
photo by kuroda0729 from フォトフレンド for マイポケット
現在は日本中に回転寿司の店舗がおますけど元祖はここでっせ。
先代社長がAビールの工場でビン詰めのラインを見て
回転寿司の機械を思いつき石川県?で作らせたとか。
でも昭和30年代には流行らなくて苦労したんだって。
昭和末からブームになり今では何処にでもおますけど。
特許を取らなかったとかの噂でっけど、どうなんでしょう?
この元禄寿司さん現在は関西でしか見れないような感じ。
次ぎは説明抜きで派手な看板を3~4枚ほど貼り付けまひょ。
(大阪王将 道頓堀店 餃子と中華の店)
photo by kuroda0729 from フォトフレンド for マイポケット
(巨大な たこの看板 コナモンアイドル)
photo by kuroda0729 from フォトフレンド for マイポケット
(ふぐ料理 づぼらや 道頓堀店)
photo by kuroda0729 from フォトフレンド for マイポケット
(元祖 串かつ だるま 道頓堀店)
photo by kuroda0729 from フォトフレンド for マイポケット
(金龍ラーメン 道頓堀店)
photo by kuroda0729 from フォトフレンド for マイポケット
この金龍ラーメンの画像は一昨年に写した物なんだけど
今回に訪れたらたこ焼きとお好み焼きの店に変っていたよ。
店舗の出入りは現在でも凄く激しいようでっせ。
何せ道頓堀通りでお客が集まらないような店舗は大阪の
何処でやっても駄目だと云われるほどの激戦区なんだって。
因みに金龍ラーメンさんは向かい側に移ってましたけど。
(たこ八 総本店)
photo by kuroda0729 from フォトフレンド for マイポケット
鉄ちゃん爺やはここの明石焼きが一番好きなんだけど
たこ焼きもお好み焼きも定番で流行っているんだね。
少し気分を変えて法善寺横丁の方へ行ってみまひょ。
(観光地化した 水かけ不動さん)
photo by kuroda0729 from フォトフレンド for マイポケット
まさか~! こんな行列とはわても驚きですわ。
昔は水商売の女性が静かに願かけを、しはる場所でしたんや。
わても~ お不動さんに水を掛けようと思ったんやけど
諦めてデジカメで写すだけにして移動しまひょ。
(法善寺の 水かけ不動さん)
photo by kuroda0729 from フォトフレンド for マイポケット
江戸時代には法善寺は八千日回向でお隣の竹林寺は五千日回向。
千日ごとに亡くなった方を回向したので千日寺と呼んでいたとか。
この南側一帯は江戸時代には刑場と大きな墓地が有ったんでっせ。
現在はアムザ1000の建物が有る辺りが昔の刑場だったんだって。
明治時代の初期に買い手が無くて10坪に対して5円のお金を
支払って払い下げたそうで骨や灰の処理費用だったとか。
当時の5円ちゅうたら大金でっせ。
何でも200坪も受けた老婆がいたとかその後の消息は不明だとか。
もし子孫が残って居たら数十億円の財産になりまっしゃろな。
現在は千日前と呼ぶ歓楽街に様変わりしてしてまっけど。
千日前と云う地名は千日寺の前と云う意味から付いたそうでっせ。
(こいさん通り 法善寺に向かう小道)
photo by kuroda0729 from フォトフレンド for マイポケット
「こいさん」とは大阪弁で一番末の娘さんの意味でっせ。
昭和30年代に「月の法善寺横丁」という演歌がおました。
歌の途中でこんなセリフが入りましたな。
「わてが 藤芳に奉公に上った晩やった こいさんが
はよ~ 立派な板前さんになりや 云って
長いこと水かけ不動さんに お願してくれはりましたな
あの晩から わては わては こいさんが 好きになりました」
藤島恒夫さんの甘い歌声で一世を風靡したもんだすわ。
鉄ちゃん爺やも関東に単身赴任中に時々やけど歌わされましたで。
この法善寺へ向かう小道が「こいさん通り」と名付けられたんだね。
(法善寺横丁 入口)
photo by kuroda0729 from フォトフレンド for マイポケット
鉄ちゃん爺やが関東に単身赴任中の平成13年だったかな
「中座」の解体工事現場から出火して法善寺横丁まで延焼。
本来なら大阪市条例でこんな狭い通路での建物は許可されないはず
それを市民の署名と寄付金で特例の再建が許可されたんですわ。
鉄ちゃん爺やも帰阪中に訪れて署名と千円だけ寄付しましたで。
古き良き時代の法善寺横丁を復興させたいという熱意でしたかな。
(法善寺横丁 正弁丹吾亭=しょうべんたんごてい)
photo by kuroda0729 from フォトフレンド for マイポケット
面白い名前のお店でっしゃろ。
明治時代から此処で営業する老舗の割烹でっせ。
その頃、酔っ払い客の為に「肥え桶」が置かれていたんだって。
それを、奇麗な名前に置き換えて店名にしたんだそうな。
入口には織田作之助の石碑も置かれた有名なお店でっせ。
現在は高級なお店になり鉄ちゃん爺やではとてもじゃないが
この店に入って一杯呑むなんてことは出来なく成りましたけど。
もう一度、道頓堀通りへ戻って「くいだおれ太郎」をお見せしまひょ。
(くいだおれ太郎ちゃん)
photo by kuroda0729 from フォトフレンド for マイポケット
鉄ちゃん爺やが若い頃は大阪人が入るような食堂じゃなく
他府県の方が訪れる「くいだおれ食堂」でおましたんや。
店頭に立つチンドン屋の人形という意味しか感じまへんでした。
それが「くいだおれ食堂」が廃業するとなって何故か人気が沸騰。
現在は全国へも出かける人気ぶりで、普段は新しく完成した
「中座くいだおれビル」の店頭に立ってますんや。
今もデジカメで撮影する人はそれなりに多いでっかな。
(うどん・蕎麦の 今井)
photo by kuroda0729 from フォトフレンド for マイポケット
道頓堀通りには派手な看板のお店が氾濫してますんやけど
こんな、純和風のお店もあるんでっせ。
戦前は楽器店だったそうで戦後の食糧難の時代に急遽
うどんのお店に転職したんだけど現在はもう老舗のお店。
道頓堀界隈は派手な看板が多くて大阪人の、わてが見ても
下品で猥雑な街のように感じまんねんけど、これはこれで
大阪らしいと云う方もいらっしゃるようでんな。
今日はこれで道頓堀界隈のデジカメ散歩はお仕舞いでっせ。
次回は南船場の松尾芭蕉終焉の地を訪れまひょ。
ほんなら~ 今日はこれで、さいなら~
大坂夏の陣と同じく今年が400周年となりまっせ。
(安井道頓・道卜の顕彰碑) (大正4年に完成の石碑)
photo by kuroda0729 from フォトフレンド for マイポケット
安井道頓と云う方は東横堀川や猫間川などの開削に
功績があり豊臣秀吉から城南の地を拝領したとか。
当時の東横堀川は大坂城の外堀だったんですが
南端から東西に川を開削したのが安井道頓さんでっせ。
木津川まで約2.9kmの人工の川でおます。
安井道頓は私財を投下して工事を進めたようでんな。
大坂冬の陣で外堀を埋めた徳川軍に遺恨を感じたとか。
大坂夏の陣に際し豊臣家に恩義を感じて大坂城に入り
元和元年(1615年)6月に戦死しはったんですわ。
道頓堀川は殆んど完成目前だったようで親族の安井道卜や
関係者の努力でその年の暮れに完成したようでんな。
大坂城初代城主の松平忠明(ただあきら)は完成した川に
安井道頓の名前を採用して道頓堀川と名付けたようでっせ。
この方は徳川家康公の外孫で大坂夏の陣の功労者でおます。
この石碑は道頓堀川の日本橋の北東に建てられてますんや。
(日本橋=にっぽんばし)
photo by kuroda0729 from フォトフレンド for マイポケット
photo by kuroda0729 from フォトフレンド for マイポケット
お江戸では日本橋(にほんばし)でっけど、大坂では
日本橋(につぽんばし)と読み方が違いまんねんで。
この日本橋は江戸時代には道頓堀川に架かる橋では
唯一の公儀橋で紀州街道から現在の堺筋に繋がっていたとか。
現在は大阪では御堂筋がメイン道路でっけど昭和の初期まで
ここ堺筋が大阪ではメイン道路の時代が続きましたんや。
この日本橋には四国の金比羅参りへの船着き場もあったとか。
大坂の橋は殆んどが町人がお金を出して作った経緯があり
お江戸とは違った大阪商人の心意気を感じまんな。
八百八橋と云いますけど当時は700橋ぐらいだったとか。
でもこの日本橋は江戸時代から重要な橋だったので
高麗橋や天神橋や京橋など12の公儀橋の一つでしたんや。
もう一つだけ船場商人が作った橋を貼り付けておきまひょ。
(道頓堀川 太左衛門橋=たざえもんばし)
photo by kuroda0729 from フォトフレンド for マイポケット
江戸時代に大坂太左衛門という興行師が道頓堀川の南側に
芝居小屋を作ったので彼の名前が橋に付けられたとの説。
こんな感じで大坂には個人の名前が付けられた橋が
多数おますんや、淀屋橋・末吉橋・常安橋など。
それでは大阪の観光名所である地区に移動しまひょ。
(グリコの看板と 表側のビル)
photo by kuroda0729 from フォトフレンド for マイポケット
photo by kuroda0729 from フォトフレンド for マイポケット
グリコの看板は年末にも紹介しましたけど6代目として
リニューアルされて現在も多くの方が写真を写してはりま。
でもこの看板の表側が何のビルかご存知では無いと思いますんや。
正解は大阪市消防局・道頓堀出張所が入るビルでっせ。
でも地主さんは別で大阪市の建物では無いかもしれまへんな。
この表側を写真に撮るのは物好きな鉄ちゃん爺やだけかも。
この反対側が道頓堀通りに残る唯一の劇場で大阪松竹座だっせ。
(大阪松竹座)
photo by kuroda0729 from フォトフレンド for マイポケット
1923年(大正12年)にネオ・ルネッサンス様式として
関西で初の洋式劇場として発足した建物です。
正面の大アーチは鉄ちゃん爺やが子供の頃のままでんな。
当時は松竹系の洋画封切りの映画館でしたんや。
1997年(平成9年)に歌舞伎が上演できる劇場に改装し
正面の部分以外は全て新しく建て直されたとの事。
江戸時代には道頓堀通りには芝居小屋が五座あったとか。
(江戸時代の 竹本座跡)
photo by kuroda0729 from フォトフレンド for マイポケット
ここには鉄ちゃん爺やが若い頃には「浪花座」がおました。
確か「浪花座」はわての時代は映画館だったような記憶。
当時は松竹新喜劇の「中座」漫才などお笑い芸能の「角座」
文楽を演じる「朝日座」と「浪花座」の都合四つの劇場が
まだ江戸時代からの名残りで、おましたが現在ではおまへん。
「角座」などは場外馬券売り場になってしまいましたがな。
(かに道楽 本店)
photo by kuroda0729 from フォトフレンド for マイポケット
道頓堀名物の派手な看板はやはり、かに道楽さんが草分けかな。
えび道楽もあったけど現在は、かに道楽の分室に変ってますわ。
最近は中国人観光客が増大してお昼の時間帯に日本人が
予約なしで訪れたら食べれないほどの商売繁盛だとか。
観光客が増える事は悪くはないけどもう少しマナーを
向上して貰わないと大阪人としては文句も云いたくなりまっせ。
(元祖 廻る 元禄寿司 道頓堀店)
photo by kuroda0729 from フォトフレンド for マイポケット
現在は日本中に回転寿司の店舗がおますけど元祖はここでっせ。
先代社長がAビールの工場でビン詰めのラインを見て
回転寿司の機械を思いつき石川県?で作らせたとか。
でも昭和30年代には流行らなくて苦労したんだって。
昭和末からブームになり今では何処にでもおますけど。
特許を取らなかったとかの噂でっけど、どうなんでしょう?
この元禄寿司さん現在は関西でしか見れないような感じ。
次ぎは説明抜きで派手な看板を3~4枚ほど貼り付けまひょ。
(大阪王将 道頓堀店 餃子と中華の店)
photo by kuroda0729 from フォトフレンド for マイポケット
(巨大な たこの看板 コナモンアイドル)
photo by kuroda0729 from フォトフレンド for マイポケット
(ふぐ料理 づぼらや 道頓堀店)
photo by kuroda0729 from フォトフレンド for マイポケット
(元祖 串かつ だるま 道頓堀店)
photo by kuroda0729 from フォトフレンド for マイポケット
(金龍ラーメン 道頓堀店)
photo by kuroda0729 from フォトフレンド for マイポケット
この金龍ラーメンの画像は一昨年に写した物なんだけど
今回に訪れたらたこ焼きとお好み焼きの店に変っていたよ。
店舗の出入りは現在でも凄く激しいようでっせ。
何せ道頓堀通りでお客が集まらないような店舗は大阪の
何処でやっても駄目だと云われるほどの激戦区なんだって。
因みに金龍ラーメンさんは向かい側に移ってましたけど。
(たこ八 総本店)
photo by kuroda0729 from フォトフレンド for マイポケット
鉄ちゃん爺やはここの明石焼きが一番好きなんだけど
たこ焼きもお好み焼きも定番で流行っているんだね。
少し気分を変えて法善寺横丁の方へ行ってみまひょ。
(観光地化した 水かけ不動さん)
photo by kuroda0729 from フォトフレンド for マイポケット
まさか~! こんな行列とはわても驚きですわ。
昔は水商売の女性が静かに願かけを、しはる場所でしたんや。
わても~ お不動さんに水を掛けようと思ったんやけど
諦めてデジカメで写すだけにして移動しまひょ。
(法善寺の 水かけ不動さん)
photo by kuroda0729 from フォトフレンド for マイポケット
江戸時代には法善寺は八千日回向でお隣の竹林寺は五千日回向。
千日ごとに亡くなった方を回向したので千日寺と呼んでいたとか。
この南側一帯は江戸時代には刑場と大きな墓地が有ったんでっせ。
現在はアムザ1000の建物が有る辺りが昔の刑場だったんだって。
明治時代の初期に買い手が無くて10坪に対して5円のお金を
支払って払い下げたそうで骨や灰の処理費用だったとか。
当時の5円ちゅうたら大金でっせ。
何でも200坪も受けた老婆がいたとかその後の消息は不明だとか。
もし子孫が残って居たら数十億円の財産になりまっしゃろな。
現在は千日前と呼ぶ歓楽街に様変わりしてしてまっけど。
千日前と云う地名は千日寺の前と云う意味から付いたそうでっせ。
(こいさん通り 法善寺に向かう小道)
photo by kuroda0729 from フォトフレンド for マイポケット
「こいさん」とは大阪弁で一番末の娘さんの意味でっせ。
昭和30年代に「月の法善寺横丁」という演歌がおました。
歌の途中でこんなセリフが入りましたな。
「わてが 藤芳に奉公に上った晩やった こいさんが
はよ~ 立派な板前さんになりや 云って
長いこと水かけ不動さんに お願してくれはりましたな
あの晩から わては わては こいさんが 好きになりました」
藤島恒夫さんの甘い歌声で一世を風靡したもんだすわ。
鉄ちゃん爺やも関東に単身赴任中に時々やけど歌わされましたで。
この法善寺へ向かう小道が「こいさん通り」と名付けられたんだね。
(法善寺横丁 入口)
photo by kuroda0729 from フォトフレンド for マイポケット
鉄ちゃん爺やが関東に単身赴任中の平成13年だったかな
「中座」の解体工事現場から出火して法善寺横丁まで延焼。
本来なら大阪市条例でこんな狭い通路での建物は許可されないはず
それを市民の署名と寄付金で特例の再建が許可されたんですわ。
鉄ちゃん爺やも帰阪中に訪れて署名と千円だけ寄付しましたで。
古き良き時代の法善寺横丁を復興させたいという熱意でしたかな。
(法善寺横丁 正弁丹吾亭=しょうべんたんごてい)
photo by kuroda0729 from フォトフレンド for マイポケット
面白い名前のお店でっしゃろ。
明治時代から此処で営業する老舗の割烹でっせ。
その頃、酔っ払い客の為に「肥え桶」が置かれていたんだって。
それを、奇麗な名前に置き換えて店名にしたんだそうな。
入口には織田作之助の石碑も置かれた有名なお店でっせ。
現在は高級なお店になり鉄ちゃん爺やではとてもじゃないが
この店に入って一杯呑むなんてことは出来なく成りましたけど。
もう一度、道頓堀通りへ戻って「くいだおれ太郎」をお見せしまひょ。
(くいだおれ太郎ちゃん)
photo by kuroda0729 from フォトフレンド for マイポケット
鉄ちゃん爺やが若い頃は大阪人が入るような食堂じゃなく
他府県の方が訪れる「くいだおれ食堂」でおましたんや。
店頭に立つチンドン屋の人形という意味しか感じまへんでした。
それが「くいだおれ食堂」が廃業するとなって何故か人気が沸騰。
現在は全国へも出かける人気ぶりで、普段は新しく完成した
「中座くいだおれビル」の店頭に立ってますんや。
今もデジカメで撮影する人はそれなりに多いでっかな。
(うどん・蕎麦の 今井)
photo by kuroda0729 from フォトフレンド for マイポケット
道頓堀通りには派手な看板のお店が氾濫してますんやけど
こんな、純和風のお店もあるんでっせ。
戦前は楽器店だったそうで戦後の食糧難の時代に急遽
うどんのお店に転職したんだけど現在はもう老舗のお店。
道頓堀界隈は派手な看板が多くて大阪人の、わてが見ても
下品で猥雑な街のように感じまんねんけど、これはこれで
大阪らしいと云う方もいらっしゃるようでんな。
今日はこれで道頓堀界隈のデジカメ散歩はお仕舞いでっせ。
次回は南船場の松尾芭蕉終焉の地を訪れまひょ。
ほんなら~ 今日はこれで、さいなら~
ありました。北方線です。若いころよく利用して魚町入ってました。砂津から黒崎まで市内路面電車入ってた頃最後のお別れ西鉄電車。ビデオに保存してます。今度DVDに変更してもらうことにします。置手紙に書きました。
「にっぽんばし」はどちらかしら?
歩いていた人に尋ねたら、はあ~ と
怪訝な顔をされた事が有りますね。
地名は同じ漢字でも読み方が違っていて難しいもんですわ。
モノレールの記憶と国道10号線や高速道路しか記憶が残ってませんな。
確かに各地で良き昭和の風景が少なく成っている感じはしますね。
内部はすっかり変ってしまったそうですが
私はまだ入場した事はないんですけど。
正面からみたら懐かしい昔のままの劇場にも見えますね。
見覚えのあるお店多いです。
法善寺横丁も通った気がします。明日から京都なんです、寒そう。。。
最後に大阪に行ってから、もう何年経つのかしら。
7?8年?忘れたけど、楽しい街ですよね。
今も営業していると思いますよ。
明石焼きやたこ焼きを味わってもらえますよ。
多少は関東風にアレンジしてるかもしれませんけど。
今も将棋や囲碁の会所が残ってますね。
今は亡き親友が将棋が上手で新世界でプロの初段以上の実力だと云われていました。
彼はABC朝日放送で内藤九段と飛車落ちで対戦して互角だったとの
噂が社内の方から聞きましたね。
昔からよく利用した割烹はありますよ。
でも年金生活者になってから、ここ暫くは行ってませんね。
最近はキタのお初天神の近くで飲む機会が多くなりましたけど。
でも昭和の30年代の道頓堀通りを見てきた鉄ちゃん爺やには
イメージが違うんじゃないのと云いたくなるんですけど。
昔は芝居小屋の名残りがある劇場が四つもあり
芸能などの高尚な街だったんですよ。
明石焼き・・・
新宿迄友人と映画の帰りに頂いて来た記憶が^^♪
近くのショッピングーモール2階に有った時には
孫と良く通いましたが・・・今はラーメン店に変っちゃいました^^;
此方で今日も楽しく拝見させて頂きました
ありがとうございます。
小倉も昔も今も怖いです。
あの温泉も作って損だったのかな高いです件ね一回のみ
入っただけです。通天閣界隈は昔懐かしい将棋と囲碁を皆さんやってるのみてほっとしました。小倉の街もありましたが今は ないようです。戸畑の商店街の一角で土日将棋やってる風景見ました、昔と今に比べると暮らしも大きく変わりましたね。大阪も小倉も
鉄ちゃん爺やさん行きつけの飲み屋がありませんでしたか?
今回も立ち寄られたのでしょうね。
全く賑やかなところですね~
看板も面白いものが沢山あって
楽しい道頓堀通りですね~。
金龍ラーメンも私は御堂筋に面した店で何度か食べた記憶がありますね。
現在も御堂筋のお店も健在ですが道頓堀通りにも進出して店舗を拡大しているようですよ。
昔を知る私には少し違和感もありますね。
新世界は昭和の時代は女性や子供が入れないような少しだけ怖い街でしたが
最近は若い方が押し掛ける人気スポットに成ってますね。
あの大温泉も大阪市の失敗した政策の一つでお隣に在った遊戯施設は
パチンコ企業に買い取られるそうですけど。
元々は大阪市の市電から後にバスの車庫として利用していた土地でしたね。
金龍ラーメン、久々に見ました。
そういえば、直近の大阪にいた5年間。
一度も食べませんでした。
学生の頃は何度も行ったのですけどね。
キムチをのせて食べる大阪的ラーメンの食べ方が大好きです。
包丁一本さらしにまいてで有名ですねグリコ新しくなりましたね。さすがの食い倒れの街です。蟹から始まりたこ
最終はうどんですね。 通天閣界隈は何度行っても
見飽きない場所です。天王寺動物園はまだ一度もいっておまへんわ~顔の交番は時々行くとき挨拶しておます。
こいさん通りも今度いきたいどすな~~
新世界の大温泉も一回いきました。何度行ってもあかない場所です。確か通天閣の一角にスナックがあって
そこで白ネコちゃんと会いました。場所
確かめたいです。