(我が町内を 南北に通る 東高野街道)
平安時代に作られた金剛生駒山脈の麓を通り現在の河内長野市で
西高野街道と合流して高野街道となり、紀見峠を越えて高野山に至る
真言宗の総本山・金剛峯寺へお参りするために出来た古道なんですよ。
現在は乗用車がすれ違うのがやっという細い道ですけどね。
この辺りは高屋集落なので南行きの一方通行になってますんや。
(式内社 高屋神社)
現在は小さい祠だけの村社としてお祀りされていますが
平安時代の延喜式神名帳にも式内社として記録される神社です。
この辺りは今も昔も高屋という地名で呼ばれていますや。
物部高屋連(もののべのたかやむらじ)という豪族が住んでいた。
饒速日命の十世の孫にあたる方の後裔と言われてますんや。
そんな訳でご祭神は「饒速日命=にぎはやひのみこと」と
同じ高屋丘陵に有る第27代安閑天皇の合わせて二祭神。
物部高屋連の本家は現在の八尾市にあった豪族でご存じの
聖徳太子の時代に廃仏騒動で蘇我氏に滅ぼされたようです。
分家の物部高屋連は細々と奈良時代から平安時代初期まで
存続しましたが現在は絶てしまったように思われます。
(高屋神社の拝殿)
(高屋神社の 由緒書き説明板)
続日本紀(しょくにほんぎ)に高屋連の女子が三つ児を出産したと
当時は三つ児の誕生なんて国史に乗るぐらい珍しい事だったようですね。
高屋連牧人(正六位上)が常陸の国の大目として赴任中に現地で死亡
隣町の太子町で墓誌が出土して、奈良時代には中級の官人だったとか。
もう一つだけ位が上がり従五位下になれば貴族になれるぐらいの位置。
西淋寺の僧名にも河内国の古市郡の人、高屋連○○と記される人々も。
(東高野街道)
東高野街道を150mぐらい戻ってみまひょ。
ここ高屋集落は戦前から存在する街で高屋と呼ぶ町内会。
我が街はお隣で戦後に出来た街で城山会と呼んでいます。
戦国時代の高屋城址から城山と呼ぶようになったとか。
(高屋城址 説明板)
我家の位置は二の丸跡の西側になるんですが三の丸跡へ向かいます。
書斎から見える竹林が高屋城の土塁跡だとYOOの地図に載りましたよ。
最近までゴミを捨てていたんだけどこれからはダメですよね。
(安閑天皇の皇后 春日山田皇女陵)
日本書紀には安閑天皇の御陵に合葬されたと記されていますが
平安時代の延喜式には安閑天皇陵の南側に埋葬されたとの記録。
現在の宮内庁では別に埋葬された高屋八幡古墳の方を指定している。
春日山田皇女(かすがやまだのひめみこ)は第24代仁賢天皇の娘で
第25代武烈天皇の姉とされ、安閑天皇が皇太子の際に妃として結婚
傍系から入った第26代継体天皇も同じく仁賢天皇の皇女を娶り
婿入りの形で皇位を継承した、その同様の一環だった考えられます。
皇位は26代継体天皇~27代安閑~第28代宣化~29代欣明と
継承されますが第29代欣明天皇はまだ歳が若く未熟なので
春日山田皇太后に皇位を継ぐように依頼したが、春日山田皇太后は
お断りしたと日本書紀に記されているようなお方ですね。
もし実現していたら推古天皇より早く女性天皇が出現した可能性も?
当時は仁賢天皇の皇女が3人も継体天皇・安閑天皇・宣化天皇に
嫁いでおられますが、春日山田皇女が生存する長老だったのかも。
仁徳天皇の血を引く女性が傍系から入る天皇には皇后の条件として
当時は先代の内親王でなければ皇后に成れなかったようですから。
(安閑天皇の皇后 春日山田皇女陵)
現在は長さ82mの方墳に見えますが、戦国時代に高屋城を
築城する際に、削られたか元は100mを超える前方後円墳の
立派な御陵で、安閑天皇陵とは直線で100m前後しか離れていない
生前は仲のいい天皇皇后両陛下で有ったんでしょうね。
我が町内会の敷き地に安閑天皇と安閑皇后の二つの御陵が
存在するのは珍しいと言えるかもしれません。
本日はこれまでにしまひょ、 ほな~ さいなら~♪