鉄ちゃん爺やの 独り言

鉄ちゃん爺やは大阪に住んでますので
画像で隠れた関西の名所も紹介します。

想い出の 鉄道写真から  国鉄時代を偲ぶ

2021-08-08 16:13:55 | 鉄道
鉄ちゃん爺やの幼い記憶ながら、初めて乗った鉄道を思いだぜば
山陽本線の姫路駅から大阪駅へ向かったのが最初だったはず。

昭和21年の春に叔母の家に養子に入ることになったらしい?

疎開先である但馬の竹田駅から大阪駅に向かった記憶が少しだけ。

祖父が作ってくれた「草鞋=わらじ」履きでの旅だったとの話。

戦災の傷跡があちこちに残る大阪駅はまだ焼け跡のど真ん中でした。

今回は羽曳野市立図書館の蔵書と鉄ちゃん爺やの保存資料から
敗戦後の鉄道小話を進めて行くことにしましたので、ご容赦の程。

(進駐軍の専用列車) (昭和22年10月撮影)


戦前から残っていた1等車や優良な2等車がGHQに接収されて
白い帯を車体に付けて、優先して各地を走り回ったそうですわ。

進駐軍の将校さんや連合国の関係者しか乗ることが出来まへんでした。

日本人が乗る列車に1~2両だけ併結するケースも有ったとか。

客車や電車が空襲で損傷し敗戦国の日本人は貨車で運ばれたんでっせ。

(大阪駅~姫路駅間は 貨車も活躍) (昭和21年5月撮影)


鉄ちゃん爺やも貨車の中で進行方向に向かって足を伸ばして座ってたはず。

走行中は貨車の扉は片側だけが開放され縄が張られていたように記憶。

SLのC51が電力不足で電車を繋いで大阪駅から姫路駅まで走ったことも。

昭和21年までは無蓋の貨車まで利用され雨の時は大変だったとか。

なにせGHQ(進駐軍)に優良な電車や客車を供出していたので日本人は
貨車で運ばれる、まるで動物扱いの時代が2年間ぐらい続いたんでっせ。

(鉄ちゃん爺や 幼少の写真) (昭和21年冬の写真)


敗戦後なので食べるものにも困り、幼稚園に行けば「おやつ」が貰えた。

サッカリンやズルチンという危険な甘味料でしたが甘くて美味しかったね。

あんパンを始めて食べたのも幼稚園のお昼だった、今も大好きですけど。


ご存じの方も少なくなりましたが昭和22年6月1日にGHQ命令で
国営の官設鉄道から「日本国有鉄道=国鉄」に名称が変更になりましたんや。

それまでは「鉄道省」という組織で国が統括していたんでっせ。

そんな訳で「省線」という名前が戦後も使わていたんですわ。

「国鉄」という俗称は有ったが正式には「官鉄」だったんですね。

明治時代からの官設鉄道が民間鉄道16社を併合したそうでんな。

GHQに睨まれて公共企業体に強制的に再編された訳でおます。

何せGHQ(進駐軍)からの指令は、鶴の一声で決まった時代ですわ。

(特急つばめ 大阪駅に到着の写真) (昭和28年頃の写真)


終戦から3年が経過して世の中も少し落ち着いてきた感じでしたかな。

昭和24年(1949年)9月15日に復活したのが特急「へいわ」でした。

翌年の昭和25年1月1日から特急「つばめ」に名前を改めましたんや。

東京駅をAM9時に発車して大阪駅にはPM17時に到着しましたそうな。

特急「つばめ」と 特急「はと」が日本では唯一の特急列車でしたんや。

特急はと は東京駅を12時30分に発車して大阪駅には20時30分に到着。

庶民は乗れないから、大阪弁で「ええし~ が乗るもん」との揶揄も。

大阪弁で「ええし~」は裕福な資産家や貴族階級のことをいいまんねんで。

東京行きの上り便も同じ時刻に発着が設定されていたように思いまんねん。

(京都駅に到着 特急つばめ) (昭和28年頃の写真)


SLのC62は鉄ちゃん爺やが子供の頃は憧れの蒸気機関車でしたんや。

東京~大阪間を8時間で結ぶ特急「つばめ」特急「はと」が双璧でした。

子供の絵本には必ず「特急つばめ」の写真が載っていた時代ですかな。

まだ東京~大阪間を日帰りで行動することなど無理な時代でおました。

(特急つばめ 東海道本線・電化後の雄姿) (昭和30年代の写真)


マニアの間では電気機関車の色から「青大将」と呼んだんだって。

この特急「つばめ」と特急「はと」の発足と同時に急行「銀河」が
寝台列車としてスタート、最初は1等車と2等車のみで運行でしたが
翌年には3等車を連結し、庶民にも利用が可能になったそうですわ。

現在はグリーン車と普通車の二つですが、当時は1等から3等までの区分。

(寝台急行銀河 のヘッドマーク)


(寝台急行銀河  廃止直前の雄姿) (平成5年撮影)


後に多くの急行が見られた国鉄の中でも急行「銀河」は名前を付けられた
第1号の名誉ある急行として、永く親しまれてきた列車でもおました。

東京~大阪間を永年に渡り走り続けた寝台急行「銀河」は平成7年3月
惜しまれながら引退して、後継の列車もないのが残念ですけど。



次は鉄ちゃん爺やが初めて国鉄の急行電車に乗った時のお話。

昭和40年(1965年)8月の夏季休暇の時でおます。

(急行ゆのくに 指定席券と急行券)


まだコンピュターが導入される前の手書きの懐かしい切符でっせ。

急行券が200円と指定席券が100円という、お安い値段です。

「動橋駅」何と読む駅名かご存じの方は相当の鉄道マニアになりまぁ。

現在でも「動橋駅」は北陸本線では難解な駅名の筆頭でしょうな。

「動橋駅=いぶりはしえき」と読むのが正解なんですよ。

急行や特急が停車する北f陸本線の駅でしたが大阪側に一つ寄った
「加賀温泉駅」がメインの駅となり現在は無人駅になってまぁ。

当時はこの駅から片山津温泉や山代温泉へ向けての乗換駅でした。

動る=いぶる  ゆすぶるとか 言う古い言葉からの変化だとか。

(急行ゆのくに他 当時のダイヤ) (昭和43年のダイヤ)


鉄ちゃん爺やが乗車した頃から3年ぐらい後のダイヤなんで
少しだけ座席指定の位置が変わってます、当時は全車指定席。

3等車が連結されてないので優越感を示す急行列車でおます。

1等車や2等車の表示から「急行ゆのくに」は花形でしたんですわ。

(急行ゆのくに 大阪駅に到着)


この頃から国鉄には急行や特急が続々と出現したんでおます。

前年10月に東海道新幹線も開通して時代が大きく変わりましたけど。

「ええし~ が乗るもん」と言われた急行や特急も庶民の足に変化でした。

大阪からでも金沢や富山は当時は鉄道でも遠い感じが有りましたが
確かこの前年に日本で初の交流電化が完成してスピードアップでした。

後に特急「雷鳥」が大阪~金沢・富山間にピーク時には14往復も増発。

大阪から福井・石川・富山 の北陸三県を近づけることになりましたんや。



次は同じく昭和41年8月(1966年)の夏季休暇の時のお話。

今は廃止された国鉄の1等車に乗った唯一の経験となったお話。

(急行みささ 1等の乗車券)


(急行みささ 車内で発行された甲冊 1等の急行券)


松江駅で駅員さんに何でこんな遠回りをして、しかも1等車で
6時間~7時間もかかるのにと笑われたのが印象的でした。

鉄ちゃん爺やが初めて1等車に乗るんだから普段は観れない
景色と路線を7時間かけて大阪まで味わいたかったのが本音。

急行「だいせん」で米子駅から大阪駅へ直行したら確か4時間で
帰れるので駅員さんから見れば変人だと思われたかも。

(急行みささ 大阪駅に到着) (昭和42年の写真)


(米子駅の 入場券)


松江駅から普通列車で米子駅で急行「みささ」に乗り換え。

山陰線で鳥取駅から因美線(いんみせん)に入り山越えして
津山駅で急行「みまさか」と併結してから姫新線で姫路駅へ
さらに山陽本線を経由して大阪駅へと向かうコースなんですよ。

(急行だいせん 武田尾駅を通過中) (昭和50年頃の写真)


後に会社の慰安旅行で鳥取駅から大阪駅まで利用したことがおました。

現在は中国自動車道などが開通してJRの山陰線を利用して鳥取へ
鉄道で向かう人はほとんどなし、高速バスがメインになりました。

米子や松江には岡山から伯備線経由の特急を利用する人が大半かも。

当時は岡山県の美作三湯や鳥取県の三朝温泉や米子の皆生温泉など
温泉客を運ぶルートとして鉄道が活躍した時代でおましたんや。

(夜行急行ちくま  大阪駅は目前) (昭和58年頃の写真)


息子と諏訪湖まで青春18きつぷで足を延ばしたんだけど8月15日
諏訪湖は花火大火でホテルの予約が出来ずに塩尻から松本へ
当時はネット予約などおまへんから、観光案内所で予約でした。

全て満員で夜行の「急行ちくま」で旅行を中止して大阪へのハプニング。

こんな判断をしないと松本駅で野宿のはめになるところでしたんや。

当時は国鉄の待合所で野宿をさせてくれる駅も多かったんですけどね。

(中央西線 電化前の 急行 きそ) (昭和43年頃の写真)


鉄ちゃん爺やが初めて名古屋から信州へ向かった頃はこんな気動車だった。

塩尻駅で反対向きに発車するので驚いた記憶が今では懐かしいですかな。

長くなりますので今日はここまでにしておきまぁ。

次回も国鉄時代の急行や特急のお話の続きをしまひょ。

ほな~  これで、さいなら~♪
コメント (16)
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