愛知県の犬山市には国宝がもう一つだけおますんや。
名鉄犬山ホテルの敷地内に有楽苑という日本庭園が有りまんねん。
そこに名古屋鉄道が東京の三井家から譲り受けた茶室「如庵=じょあん」
江戸時代初めに織田有楽斎が京都の建仁寺の側に作った茶室なんだって。
photo by kuroda0729 from フォトフレンド for マイポケット
織田有楽斎(おだうらくさい)というお方は、織田信長の13歳年下の弟で
あの絶世の美人と伝えられるお市の方と同い年の生まれと記録されてまっせ。
歴史上では織田信秀の十一男で源五郎長益(ながます)と称したようですわ。
お市の方は正妻の土田御前の娘ですが、織田長益は母親が記録されてまへん。
おそらく父親の織田信秀の下級家臣クラスの娘で側室だと考えられますんや。
織田長益は武人と云うよりは、千利休の十哲と呼ばれる弟子の一人として
あるいは有楽流の茶道を生み出した人として名を知られてますかな。
有楽斎(うらくさい)如庵(じょあん)は隠居してからの名乗りだそうですわ。
(有楽苑の 表示板)
photo by kuroda0729 from フォトフレンド for マイポケット
織田有楽斎(1547年~1622年)は波瀾に富んだ人生でもおました。
この茶室「如庵=じょあん」も各地を転々としたようでっけど。
織田長益と呼ばれた頃にも歴史的事件に顔を出してはりまっせ。
武田攻めには甥の織田信忠の軍勢の一員として木曽口から攻め上り
松本市の深志城などを開城させてはるようでんな。
本能寺の変の時には二条城で織田信長の嫡男信忠の側に居られたが
間一髪で逃げ出して安土から岐阜へと脱出に成功してはりまぁ。
世間では織田信忠(甥)には自害を勧めながら自分は逃げ出したとか?
本当のことは分かりまへんけど京都市中に落書きがされたとか。
小牧長久手の戦いでは織田信雄(甥)と豊臣秀吉との和睦を纏め
その後は太閤秀吉のお伽衆として大坂城下に住んではりまっせ。
豊臣秀吉とも徳川家康とも話ができる立場には在ったようでんな。
淀殿(姪)の叔父として豊臣秀頼を何とか補佐しようと考えたのかしら。
関ヶ原の戦いでは東軍に付いて戸田重政親子を討ち取り大和で
3万石の大名になったけど、こんどは大坂城へ入り豊臣方に。
淀殿の叔父として徳川家康との戦いを防ごうと努力したんだけど。
でも~それが大坂方には徳川のスパイと見られて最終的には
大坂夏の陣の直前に京都市内へ向かって脱出してはりまぁ。
大坂城に居るころに京都の建仁寺の塔頭である正伝院を再興し
隠居場所と定めその側に作った茶室が「如庵」だそうですわ。
(有楽苑 旧正伝院書院への入口 岩栖門=いわすもん)
photo by kuroda0729 from フォトフレンド for マイポケット
この門も室町時代に細川満元が京都市内に作った物なんだって。
武家屋敷を代表する門だそうですわ。
この門をはいったら織田有楽斎が作らせた旧正伝院書院がおます。
(有楽苑 西側の唐門)
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この唐門は同じ織田家でも有楽斎の兄に当たる織田信雄の子孫で
大和松山藩の菩提寺であった元徳寺の門だったんだそうな。
この大和松山藩は丹波の柏原へ転封となりお寺が荒廃してしまい
門だけが奈良県大宇陀に残って居たのを移設したんだって。
織田有楽斎とは直接には関係がないんだけど同じ織田家として
尾張の国へ持ってくることにしたのかも。
名古屋鉄道さんは古い建造物を収集する趣味の重役さんが居たのかな?
鉄ちゃん爺やはこの門が入口だと思って入りかけたけど
どうも入口じゃないようなので表に廻ったんですわ。
(重要文化財 旧正伝院書院)
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大坂夏の陣の直前に大坂城を出た織田有楽斎はここに入り隠居生活に
元和7年(1622年)ここで亡くなったと考えられてますんや。
この時の所領は3万2千石だったそうで四男長政と五男尚長に各1万石を
譲渡し自分は隠居分として1万2千石を確保したと記録には残ってますな。
長男は関ヶ原の戦いで親父と共に活躍し美濃野村で別に1万石の大名でおます。
長男・織田長孝の血統は子供の織田長則に子供が無くて無嗣改易で絶えますな。
だけど四男と五男の血統は無事に明治維新を迎えて華族に列してはりまっせ。
(有楽苑の 庭)
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まだ紅葉の時期には少し早かったんですが、これからが見頃でっしゃろな。
それでは国宝の茶室「如庵=じょあん」を紹介しまひょ。
(国宝 茶室 如庵)
photo by kuroda0729 from フォトフレンド for マイポケット
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画像の入口の処で大工が二人で修復工事をしてはりまんがな。
これじゃデジカメで茶室を写してもサマに成りまへんわ。
無神経な大工が二人とも観光客を無視してまんがな。
ここに入苑する人は国宝の「如庵」がお目当てだと
係員も大工の二人も意味が分かってないようだね。
入苑料1000円も払って楽しみにしてたのが興醒めでっせ。
入苑料を半分の500円ぐらい返してほしい心境でしたわ。
こんな状態でで実物の「如庵」は写す気にもなりまへんでした。
この画像は帰りに名鉄の犬山遊園駅に掲げてあったポスターでおます。
(国宝 如庵 有楽苑の入場券です)
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この茶室は明治維新の直後に廃仏毀釈で建仁寺の敷地が没収され
取り壊される恐れもあったんやそうな、祇園の有志の方が残念に思い
東京の三井家に話を持ちかけて安く買い取ってもらったとか。
現在は祇園・花見小路の観光客で賑わう辺りに在ったんだそうでっせ。
何せ明治維新後は新政府や京都府もお寺には薄情な態度だったんだそうな。
土地が入用な時は大きな寺院から強制的に敷地を没収したような話でっせ。
三井家では一時は麻布今井町の三井家本邸に置いてあったようですが
戦前の昭和12年に神奈川県・大磯の三井家別邸に移動させたようですわ。
結果的には東京の空襲にも被害を受けずに済んだのは幸なことでした。
昭和26年に国宝に指定され、三井家では維持管理に苦慮したようで
昭和46年に名古屋鉄道に買い取ってもらうことにしたようでんな。
名古屋鉄道では織田有楽斎の生れ故郷である尾張にと考えて最終的には
犬山市の名鉄犬山ホテルの側の敷地に保存することにしたようですわ。
(重要文化財 旧正伝院書院 南側正室)
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画像の右端に国宝「如庵=じょあん」の壁だけが写ってますな。
旧正伝院書院と国宝の如庵は鍵の手の様に繋がって建てられてますんや。
おそらく京都市・建仁寺の側に在った時もこんな感じだったんでしょうな。
蛇足になりまっけど、東京の有楽町がこの織田有楽斎に関連するとか
云われてまっけど、漢字で書けば同じだけど「ゆうらくちょう」と
「うらくさい」と読み方が違うので俗説だ思いまんねん。
数寄屋橋に織田有楽斎が上屋敷を拝領したので、そんな俗説が出来たのだと
有楽町は明治時代になってから出来た地名だそうですわ。
(旧正伝院書院 内部の部屋)
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国宝の「如庵=じょあん」は勿論の事ながら重要文化財の
旧正伝院書院もこんな感じで遠くから写真を撮らせるだけでっせ。
これじゃ入苑料の1000円はどう考えてもボッタクリでんがな
(国宝 如庵への入口 萱門)
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(有楽苑内にて 自分撮り)
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(有楽苑の 庭園内部)
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庭の手入れは良く出来てまっけどな。
沢山ある茶室もほとんどが拝観できないとは、なんだ~ こりゃ!
これじゃ1000円を徴収する趣旨を間違っていると思うんだけど。
(有楽苑内 茶室 元庵)
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この建物は大坂天満に織田有楽斎藤が構えた茶室を古図にもとづき
正確に再現して復元した物だそうですわ。
ここで600円を払ったら、お茶とお菓子を味わえるんだそうな。
鉄ちゃん爺やは、気分を害した有楽苑だから退園することにしまひょ。
入苑料はどう考えても、犬山城の500円ぐらいが妥当でっせ。
拝観客が来たらいくら国宝の修理中でも写真を撮らすように
作業員に配慮の指示ぐらいすべきだと思うんだけどな。
それとも時間外に工事をやるべきじゃないかと思いまっせ。
(名鉄犬山ホテル)
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遠くに国宝の犬山城が見えてまっしゃろ、それでは木曽川の畔へ出まひょ。
犬山名鉄ホテルで昼食と考えていたけど、腹の虫が収まらないのでパス。
木曽川までやってきたら遊覧船の屋形船が見えてまっせ。
(犬山橋で 自分撮り)
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(木曽川の 日本ライン下り)
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鉄ちゃん爺やが乗ったのは昭和43年だから大昔の話になりまぁ。
当時は美濃太田からここ犬山橋まで14kmのコースでしたかな。
日本ライン下りは以前は奇岩を眺めたり急流のスリルを味わう
船頭さんの竿捌きで川を下る素敵な観光のコースでしたんや。
2011年に天竜川の川下りで事故が有り死者が5人出たのかな。
それで観光客も減ったことも有り今年の3月まで運休だったそうですわ。
犬山観光協会などが安全対策を決めて今年の春から再開されたとか。
でも危険な急流下りの部分は通らずに犬山橋から少しだけ遡上し
今度はライン大橋まで下ってから犬山橋へ戻るんだって。
安全第一は理解できるけど7kmの平凡な川下りでおます。
これでは日本ライン下りの興味は半減で、鉄ちゃん爺やなら
川下りの船に乗る気は、まず~ 起こらないでしょうな。
(救命胴衣を着用 義務付けなんだけど)
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観光客は救命胴衣を着用していないように鉄ちゃん爺やには見えたけど。
まあ~ ボヤキは止めて事故の無いことだけを願っておきまひょ。
(こちらは 鵜飼用の船かしら?)
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それでは名鉄電車で新鵜沼駅まで戻ることにしまひょ。
時計を見たら12時40分に美濃太田駅を出る列車に間に合いそうだ。
(名鉄犬山線 犬山遊園駅舎)
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(名鉄 6500系 通勤型電車)
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今日はこれでお仕舞いにしまひょ、次回はJR美濃太田駅から
飛騨川を走りながら車窓の風景などを紹介しまっさ。
ほんなら、さいなら~♪
名鉄犬山ホテルの敷地内に有楽苑という日本庭園が有りまんねん。
そこに名古屋鉄道が東京の三井家から譲り受けた茶室「如庵=じょあん」
江戸時代初めに織田有楽斎が京都の建仁寺の側に作った茶室なんだって。
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織田有楽斎(おだうらくさい)というお方は、織田信長の13歳年下の弟で
あの絶世の美人と伝えられるお市の方と同い年の生まれと記録されてまっせ。
歴史上では織田信秀の十一男で源五郎長益(ながます)と称したようですわ。
お市の方は正妻の土田御前の娘ですが、織田長益は母親が記録されてまへん。
おそらく父親の織田信秀の下級家臣クラスの娘で側室だと考えられますんや。
織田長益は武人と云うよりは、千利休の十哲と呼ばれる弟子の一人として
あるいは有楽流の茶道を生み出した人として名を知られてますかな。
有楽斎(うらくさい)如庵(じょあん)は隠居してからの名乗りだそうですわ。
(有楽苑の 表示板)
photo by kuroda0729 from フォトフレンド for マイポケット
織田有楽斎(1547年~1622年)は波瀾に富んだ人生でもおました。
この茶室「如庵=じょあん」も各地を転々としたようでっけど。
織田長益と呼ばれた頃にも歴史的事件に顔を出してはりまっせ。
武田攻めには甥の織田信忠の軍勢の一員として木曽口から攻め上り
松本市の深志城などを開城させてはるようでんな。
本能寺の変の時には二条城で織田信長の嫡男信忠の側に居られたが
間一髪で逃げ出して安土から岐阜へと脱出に成功してはりまぁ。
世間では織田信忠(甥)には自害を勧めながら自分は逃げ出したとか?
本当のことは分かりまへんけど京都市中に落書きがされたとか。
小牧長久手の戦いでは織田信雄(甥)と豊臣秀吉との和睦を纏め
その後は太閤秀吉のお伽衆として大坂城下に住んではりまっせ。
豊臣秀吉とも徳川家康とも話ができる立場には在ったようでんな。
淀殿(姪)の叔父として豊臣秀頼を何とか補佐しようと考えたのかしら。
関ヶ原の戦いでは東軍に付いて戸田重政親子を討ち取り大和で
3万石の大名になったけど、こんどは大坂城へ入り豊臣方に。
淀殿の叔父として徳川家康との戦いを防ごうと努力したんだけど。
でも~それが大坂方には徳川のスパイと見られて最終的には
大坂夏の陣の直前に京都市内へ向かって脱出してはりまぁ。
大坂城に居るころに京都の建仁寺の塔頭である正伝院を再興し
隠居場所と定めその側に作った茶室が「如庵」だそうですわ。
(有楽苑 旧正伝院書院への入口 岩栖門=いわすもん)
photo by kuroda0729 from フォトフレンド for マイポケット
この門も室町時代に細川満元が京都市内に作った物なんだって。
武家屋敷を代表する門だそうですわ。
この門をはいったら織田有楽斎が作らせた旧正伝院書院がおます。
(有楽苑 西側の唐門)
photo by kuroda0729 from フォトフレンド for マイポケット
この唐門は同じ織田家でも有楽斎の兄に当たる織田信雄の子孫で
大和松山藩の菩提寺であった元徳寺の門だったんだそうな。
この大和松山藩は丹波の柏原へ転封となりお寺が荒廃してしまい
門だけが奈良県大宇陀に残って居たのを移設したんだって。
織田有楽斎とは直接には関係がないんだけど同じ織田家として
尾張の国へ持ってくることにしたのかも。
名古屋鉄道さんは古い建造物を収集する趣味の重役さんが居たのかな?
鉄ちゃん爺やはこの門が入口だと思って入りかけたけど
どうも入口じゃないようなので表に廻ったんですわ。
(重要文化財 旧正伝院書院)
photo by kuroda0729 from フォトフレンド for マイポケット
大坂夏の陣の直前に大坂城を出た織田有楽斎はここに入り隠居生活に
元和7年(1622年)ここで亡くなったと考えられてますんや。
この時の所領は3万2千石だったそうで四男長政と五男尚長に各1万石を
譲渡し自分は隠居分として1万2千石を確保したと記録には残ってますな。
長男は関ヶ原の戦いで親父と共に活躍し美濃野村で別に1万石の大名でおます。
長男・織田長孝の血統は子供の織田長則に子供が無くて無嗣改易で絶えますな。
だけど四男と五男の血統は無事に明治維新を迎えて華族に列してはりまっせ。
(有楽苑の 庭)
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まだ紅葉の時期には少し早かったんですが、これからが見頃でっしゃろな。
それでは国宝の茶室「如庵=じょあん」を紹介しまひょ。
(国宝 茶室 如庵)
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画像の入口の処で大工が二人で修復工事をしてはりまんがな。
これじゃデジカメで茶室を写してもサマに成りまへんわ。
無神経な大工が二人とも観光客を無視してまんがな。
ここに入苑する人は国宝の「如庵」がお目当てだと
係員も大工の二人も意味が分かってないようだね。
入苑料1000円も払って楽しみにしてたのが興醒めでっせ。
入苑料を半分の500円ぐらい返してほしい心境でしたわ。
こんな状態でで実物の「如庵」は写す気にもなりまへんでした。
この画像は帰りに名鉄の犬山遊園駅に掲げてあったポスターでおます。
(国宝 如庵 有楽苑の入場券です)
photo by kuroda0729 from フォトフレンド for マイポケット
この茶室は明治維新の直後に廃仏毀釈で建仁寺の敷地が没収され
取り壊される恐れもあったんやそうな、祇園の有志の方が残念に思い
東京の三井家に話を持ちかけて安く買い取ってもらったとか。
現在は祇園・花見小路の観光客で賑わう辺りに在ったんだそうでっせ。
何せ明治維新後は新政府や京都府もお寺には薄情な態度だったんだそうな。
土地が入用な時は大きな寺院から強制的に敷地を没収したような話でっせ。
三井家では一時は麻布今井町の三井家本邸に置いてあったようですが
戦前の昭和12年に神奈川県・大磯の三井家別邸に移動させたようですわ。
結果的には東京の空襲にも被害を受けずに済んだのは幸なことでした。
昭和26年に国宝に指定され、三井家では維持管理に苦慮したようで
昭和46年に名古屋鉄道に買い取ってもらうことにしたようでんな。
名古屋鉄道では織田有楽斎の生れ故郷である尾張にと考えて最終的には
犬山市の名鉄犬山ホテルの側の敷地に保存することにしたようですわ。
(重要文化財 旧正伝院書院 南側正室)
photo by kuroda0729 from フォトフレンド for マイポケット
画像の右端に国宝「如庵=じょあん」の壁だけが写ってますな。
旧正伝院書院と国宝の如庵は鍵の手の様に繋がって建てられてますんや。
おそらく京都市・建仁寺の側に在った時もこんな感じだったんでしょうな。
蛇足になりまっけど、東京の有楽町がこの織田有楽斎に関連するとか
云われてまっけど、漢字で書けば同じだけど「ゆうらくちょう」と
「うらくさい」と読み方が違うので俗説だ思いまんねん。
数寄屋橋に織田有楽斎が上屋敷を拝領したので、そんな俗説が出来たのだと
有楽町は明治時代になってから出来た地名だそうですわ。
(旧正伝院書院 内部の部屋)
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国宝の「如庵=じょあん」は勿論の事ながら重要文化財の
旧正伝院書院もこんな感じで遠くから写真を撮らせるだけでっせ。
これじゃ入苑料の1000円はどう考えてもボッタクリでんがな
(国宝 如庵への入口 萱門)
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(有楽苑内にて 自分撮り)
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(有楽苑の 庭園内部)
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庭の手入れは良く出来てまっけどな。
沢山ある茶室もほとんどが拝観できないとは、なんだ~ こりゃ!
これじゃ1000円を徴収する趣旨を間違っていると思うんだけど。
(有楽苑内 茶室 元庵)
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この建物は大坂天満に織田有楽斎藤が構えた茶室を古図にもとづき
正確に再現して復元した物だそうですわ。
ここで600円を払ったら、お茶とお菓子を味わえるんだそうな。
鉄ちゃん爺やは、気分を害した有楽苑だから退園することにしまひょ。
入苑料はどう考えても、犬山城の500円ぐらいが妥当でっせ。
拝観客が来たらいくら国宝の修理中でも写真を撮らすように
作業員に配慮の指示ぐらいすべきだと思うんだけどな。
それとも時間外に工事をやるべきじゃないかと思いまっせ。
(名鉄犬山ホテル)
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遠くに国宝の犬山城が見えてまっしゃろ、それでは木曽川の畔へ出まひょ。
犬山名鉄ホテルで昼食と考えていたけど、腹の虫が収まらないのでパス。
木曽川までやってきたら遊覧船の屋形船が見えてまっせ。
(犬山橋で 自分撮り)
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(木曽川の 日本ライン下り)
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鉄ちゃん爺やが乗ったのは昭和43年だから大昔の話になりまぁ。
当時は美濃太田からここ犬山橋まで14kmのコースでしたかな。
日本ライン下りは以前は奇岩を眺めたり急流のスリルを味わう
船頭さんの竿捌きで川を下る素敵な観光のコースでしたんや。
2011年に天竜川の川下りで事故が有り死者が5人出たのかな。
それで観光客も減ったことも有り今年の3月まで運休だったそうですわ。
犬山観光協会などが安全対策を決めて今年の春から再開されたとか。
でも危険な急流下りの部分は通らずに犬山橋から少しだけ遡上し
今度はライン大橋まで下ってから犬山橋へ戻るんだって。
安全第一は理解できるけど7kmの平凡な川下りでおます。
これでは日本ライン下りの興味は半減で、鉄ちゃん爺やなら
川下りの船に乗る気は、まず~ 起こらないでしょうな。
(救命胴衣を着用 義務付けなんだけど)
photo by kuroda0729 from フォトフレンド for マイポケット
観光客は救命胴衣を着用していないように鉄ちゃん爺やには見えたけど。
まあ~ ボヤキは止めて事故の無いことだけを願っておきまひょ。
(こちらは 鵜飼用の船かしら?)
photo by kuroda0729 from フォトフレンド for マイポケット
それでは名鉄電車で新鵜沼駅まで戻ることにしまひょ。
時計を見たら12時40分に美濃太田駅を出る列車に間に合いそうだ。
(名鉄犬山線 犬山遊園駅舎)
photo by kuroda0729 from フォトフレンド for マイポケット
(名鉄 6500系 通勤型電車)
photo by kuroda0729 from フォトフレンド for マイポケット
今日はこれでお仕舞いにしまひょ、次回はJR美濃太田駅から
飛騨川を走りながら車窓の風景などを紹介しまっさ。
ほんなら、さいなら~♪