鉄ちゃん爺やの 独り言

鉄ちゃん爺やは大阪に住んでますので
画像で隠れた関西の名所も紹介します。

鉄ちゃん爺や    青蓮院門跡を訪ねて

2014-07-05 20:23:23 | 日記
天台宗の門跡寺院は三つおますんや。

青蓮院 ・ 三千院 ・ 妙法院

その中で今回は私の京都市内でお勧めのお寺でっせ。

粟田御所の別名がある「青蓮院=しょうれんいん」

(青蓮院の 境内案内図)



私がまだ高校生の頃に初めて訪れてから30代までは
毎年ながら足を運んでいたような記憶がおますんや。

芥川龍之介が親友に送った手紙にこんな文章があるとか

「青蓮院 人はあまり行かないが是非見るべし」

同じ高校の1期だけ後輩になる女性から教えられて
興味を覚え二人で訪れたのが初訪問でしたかな。

(青蓮院の 大クスノキ)





大きなクスノキが表通りに4本と寺院内に1本植えられ
樹齢800年とか説明されてますな。

この大きなクスノキを見たら凄いお寺だなと思いまっせ。

(青蓮院 通用門)




門跡寺院とは門主(住職)が天皇の皇子(親王)か五摂家の男子に
限られている格式の高い寺院で明治になるまで長く続きましたんや。

この青蓮院門跡は元は比叡山は延暦寺の青蓮坊=しょうれんぼう が
鳥羽上皇の帰依を受けて洛中に移されたのが起源だったとか。

鳥羽上皇が帰依された行玄大僧正を一世門主に命じられ院の御所に
準ずる殿舎を造営して「青蓮院」の名前を与えたとされてますんや。

二代門主はその鳥羽上皇の第七皇子で覚快法親王が継いでおられます。

(青蓮院 車寄せ)



(車寄せの内部)



この玄関に置かれている「輿し」は孝明天皇がご使用された物だそうです。

それでは院内を紹介しまひょ。

(青蓮院の ご朱印)



皇室専用の十六弁八重菊のご朱印でっせ。

ご朱印の受付所で尋ねてみましたんや。

写真撮影はさせて頂けるんですか?

節度ある範囲ならOKですよとのお答え。

(華頂殿で 庭園を観賞する参詣客)



華頂殿とは客殿または白書院に当たる建物なんだって。

ここから眺める庭園の風景は35年前と同じですわ。

ただ華頂殿のふすまがゴロッと変わってましたで。

(華頂殿の ふすま絵)





このふすま絵は木村英輝という画家が2005年に新しく描いたもので
有名な方やそうでんな、鉄ちゃん爺やは絵の知識に疎いので
この日は気にもしないでデジカメで写しただけでしたんや。

名刹のふすま絵にしては現代的な感じもしますんやけど。

青い蓮だから「青蓮院」を表現しているちゅう訳でんな。

部屋の鴨居には有名な三十六歌仙の額が掲げられてますわ。

(青蓮院の 三十六歌仙の額)



やはり三十六歌仙といえば在原業平さんが代表的な方ですわな。

そして次は平安時代の絶世の美人だったとかの小野小町さん。



そして前回も紹介した僧正遍照さんが続きますかな。



この方はご存知かしら? 清原元輔さん

あの清少納言さんのお父様でっせ。



これらも新しい額で昔は無かったような気がしますわ。

庭は歩いて一周できるそうなので後回しにして
建物を観て回りまひょかな。

まずは小御所から昔は門主さまが住まれた建物だったとか。

(小御所)



手前に見えるのが豊臣秀吉が寄進した巨大な自然石で
作られた手水鉢でおます。

(一文字 手水鉢)



(これは在原業平さんかしら?)



回廊の通路に置かれた衝立の絵なんですが説明書きがおまへんわ。

勝手に在原業平さんにしてしまいましたけど。

青蓮院は庭を囲んで色んな建物が回廊でつながってますんや。

次は粟田御所と呼ばれた「宸殿」を観てくださいね。





1788年(天明8年)に京都は江戸時代では最大の火災が起こり
京都御所や仙洞御所が焼けてしまったんだそうな。

御桜町上皇さまがここを仮の御所とされたことから、現在でも
青蓮院門跡を「粟田御所」とも呼ぶようになったんだって。



ここに御桜町上皇さまは座っておられたようですわ。



こちらのふすま絵は江戸時代の作のようでした。



このキザ先とよばれる処は五位の位がないと昇殿できなかったとか。

勿論、次に貼り付けた「宸殿」の部屋には三位以上ぐらいの方しか
座れないのが当時のルールだったようですわ。



(現在の門主さまの 書です)



元皇族の東伏見慈晃さんで2004年から門主をされています。

このお方のお父様は昭和天皇の皇后陛下の弟さまに当たりますよ。

昭和28年から平成16年まで青蓮院門主を勤めておられました。

今年の2014年1月1日に103歳で亡くなられましたね。

だから現在の門主さまは今上天皇とは母方の従兄弟になりますかな。

それでは庭の方を見させて頂きますかな。

(相阿弥の庭)










粟田山の山麓を利用して京都近郊の山石に紀州の青石を主として用い
龍心池を中心にして池泉回遊式庭園に造られています。

室町時代の相阿弥が造った日本庭園の源流だとの説があるんだって。

こちらは有名な小堀遠州作の庭だそうですよ。

(霧島の庭)









霧島つつじが多く植えられているので「霧島の庭」と呼ぶんだって。

GWごろの花だから現在は桔梗とクチナシが咲いてましたね。

(霧島の庭から 小御所を望む)



(好文亭)





後桜町上皇さまが御学問所として使用された建物ですが、平成の5年に
中核派のテロで惜しくも焼失し平成7年に再建された物だそうです。

私が35年前に訪れた頃は庭園は建物の回廊から拝観しただけで
現在のように一周はさせてもらえなかったような記憶ですな。

(青蓮院の 本堂)




青蓮院の敷地は現在は約1万坪だと称されていますな。

そんな大きなお寺でっけど本堂はこんな小じんまりしたお堂ですわ。

本尊は日本三大不動尊と言われている「青不動尊」だそうな。

お不動尊には五色あるそうでんな、青・黄・赤・白・黒 なんだって。

青蓮院の青不動尊 三井寺の黄不動尊 高野山明王院の赤不動尊

これを日本の三大不動尊と書かれてましたで。

お不動さんの目の色から○○不動尊と呼ぶんでしょうな。

その中でも中央に配される青が最上位を占めるんだそうな。

普段は国宝の青不動尊は秘仏で拝見は出来まへんのですわ。

(宸殿を 外から撮影)





粟田御所と称されるだけあって左近の桜・右近の橘を配して
京都御所の建物と少しだけ似ている感じもしまんな。

処でここ青蓮院門跡の門主さんは歴史上に時たま登場されますんや。

まずは第3代門主さんで有名な慈圓さんで九条兼実の弟さんですわ。

歴史書「愚管抄」の著者であると同時に天台座主を4度勤められたそうな。

(青蓮院 宸殿 南側の庭園)



現在は南隣にある浄土宗の総本山・知恩院が青蓮院よりも敷地が倍以上ありま。

でもこの知恩院は徳川家康の宗旨なので敷地の大半を青蓮院から取り上げて
朝廷に睨みを利かせると同時に京都での拠点としたそうでっせ。

だから青蓮院は室町時代までは現在の知恩院の北半分を含む広大な寺院だった
青蓮院は粟田山の頂上に現在でも奥の院である大日堂がおますし
現在でも京都市内では有数の敷地を誇る門跡寺院ではおますけど。

(青蓮院の屋根瓦)



(青蓮院の土塀)



(親鸞聖人 得度の像)





第3代門主の慈圓さんは天台宗の高僧なのに当時に興りつつあった
新興宗教に理解を示し、延暦寺からの妨害を防いだんだそうです。

浄土宗の法然も青蓮院の敷地で布教を続け、浄土真宗の親鸞も
9歳の時に慈圓門主の元で得度して出家したとされています。

だから現在も宗旨は違いますが浄土真宗ではここ青蓮院は別格の
寺院として髪の毛を納めたお堂が今もお守りされているんだって。

(青蓮院の長屋門)



この建物に見覚えがある方もいらっしゃるかもしれませんよ。

戦後の時代劇の映画に町奉行所や薩摩屋敷として何度も登場
私も若い頃に東映の映画ロケに遭遇した記憶がおますんや。

(青蓮院の正門)





この正門と先程の長屋門は共に明正天皇の中和門院から移設された物で
江戸時代の中期から残る貴重な門だそうですよ。

青蓮院の歴代門主さんで第17代入道尊圓親王は伏見天皇の皇子で
書に秀でられ「御家流」と呼ばれる書道を起こされていますよ。

室町時代には金閣寺を建立した3代将軍足利義満の三男で
義円と呼ばれる門主さんがクジ引きで将軍に選ばれ
還俗して足利義教として6代将軍に就任してはりまっせ。

幕末には中川宮と呼ばれた青蓮院宮入道尊融親王は孝明天皇の
信頼が厚く公武合体などで活躍されたそうです。

この方が明治になってから還俗されて久爾宮朝彦親王で
現在の東伏見慈晃門主さんなどの曽祖父に当たるようですな。

(青蓮院の門前 十六豆さんの店先で撮影)



京都名物の五色豆と納豆をお土産に買いました。

この納豆は甘納豆で水戸の納豆ではおまへんで。

(青蓮院の門前から 平安神宮の鳥居を撮影)



これで青蓮院の紹介はお仕舞いでおます。

次回はここから直ぐそばの三条大橋の付近を紹介しまひょ。

ほな、今日はこれでさいなら~♪

コメント (26)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする