K.テツのひとりごと

行動記録、趣味の話などを書いてゆきます

1月度 平家物語を読む会

2018年01月24日 | 講座・会合

1月20日(土)14時から尼崎市立中央図書館で平家物語を読む会がありました。出席者は25名でした。

欠席した2回の授業でどこまで進んだのかわからなかったので、巻第12 「六代」の最後まで読んで行ったのですが・・・。

文覚(学)に関連して砂川先生の独演会が始まります。日本の宗派ごとの寺の話、僧侶(日本の僧侶は外国と比べると特殊、外国は糞掃衣、不妻帯・・・。学僧と知識よりも体力や行動力で勝負する僧)の話から出家、恩愛を断つ“かるかや説話の重氏と石童丸の話・・・、文覚にもそのような話がある。先生のお話はまだまだ続きます。これがとても面白いのです。

平家物語の延慶本(1301~3に成立)には渡辺党の侍だった文覚(遠藤盛遠)が出家した理由が書いてある。淀川にかかる今の長柄橋架け替え工事の橋供養の日に、鳥羽の女房の美貌を垣間見た文覚は恋のさや当ての後に、同僚の妻であった女房を殺してしまう。それが元で出家をしたのだ。これは学僧ではなく、勧進聖の典型的な類例だ。『平家物語』では巻第五にまとまった記述があるが、頼朝に亡父義朝の髑髏を示して決起ををうながす場面などそのような要素はたくさん出てくる。

史実との関連であるが、レジュメの吾妻鏡(文治元年12月17日、24日条)には近江の野地(草津、瀬田のあたり)で北条殿とあった文覚は鎌倉に行き、弟子に飛脚役をさせて頼朝の書を北条殿に届けることが記されている。この間一週間、文覚の熱意が伝わってくる。

この話は事実には依っているが、千本松原で六代が斬られそうになる話は「盛っている」。

砂川先生は「吾妻鏡の『鏡』とは事実をありのままに記す意味だが、当時は『物語(平家物語など)』、『記(太平記など)』も同様な意味で使われていた。史実との関連よりもどう読むかが大切だ」と仰る。

ここでいよいよ本文に入ります。今日進んだのは7行ほど、北条四郎時政が千本松原で六代に話しかける場面「あなたへの自分の厚意は十分見せた、足柄山を越えるのは頼朝がどう思うかわからないので、近江国でお斬りしたと言う・・・」です。平家物語では北条時政は『情け深い』と描かれている。これには書かれた時代背景があるのかも知れない。延慶本は1301年頃で北条氏全盛の時代(北条に遠慮)、覚一本は1370年(南北朝時代)に書かれている(北条に遠慮する必要なし)のでさてどう判断するのが良いか?

本当に時政がこのような言葉を話したのかなどについて、砂川先生は次のように話された。

「当時乳母子は主人に必ず寄り添っていたので、証人は必ずいたと断言できる。また言葉は伝承されやすいので、実際にあった話と思うこともできるのだが、さて・・・」

「延慶本には覚一本には無い頼朝挙兵からの話が多く入っている、平家物語成立が関東からと言うことも考える必要があるのかもしれない・・・」

「平家物語には書かれていない話でもほかの資料を援用すると説明できることもある。たとえば平家物語では伊勢三郎は『交渉の上手な人』として描かれているが、吾妻鏡を読むと伊勢三郎は義経に伴い、腰越まで行っていた書かれており『交渉上手』だったことが伺える」

 

 

 

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