K.テツのひとりごと

行動記録、趣味の話などを書いてゆきます

4月度「信長公記」を読む会

2024年04月07日 | 講座・会合

4月2日(火)、4月度「信長公記」を読む会がありました。先月は所用があり、1時間しか出席できなかったのでブログはおやすみしました。出席者は13人でした。

テキストは巻十二(7)荒木伊丹城・妻子捨て忍び出づるの事 の最終段の前

相模の北条氏政の舎弟大石源蔵氏照が鷹三もとを京まで送り、信長公へ進上した

*砂川先生はレジュメの系図は年表を使い、北条早雲の出身家である伊勢氏は足利幕府政所の執事の庶流ではあるが、むすめがこれも高家である今川義忠の正妻になっていることから家格が高かったのだと言うことをさまざまな例を引き合いに出し説明。

*当時北条は上杉、佐竹、里見、武田氏に囲われ織田方とよしみを通じたかったのだ。

9月12日信忠殿は伊丹に在陣する軍勢の半数を率いて尼崎へ攻め寄せ、七松という地に二ヶ所の砦を築いた。そして塩河伯耆守と高山右近を組として一方の砦に入れ、もう一方には中川清秀・福富秀勝・山岡景佐を組として守らせ、そののち小屋野へ帰陣した。

*戦というより一種のデモンストレーションではないか。

*村重の与力高山右近と 村重のいとこ中川清秀を別々に監視役を付けて配置したのは①高山、中川の本気度を探る ②村重へプレッシャーをかけるためで 総大将は信忠だが信長の意図が強く感じられる(実際は信長が指揮していたか?)。

(8)常見検校の事

9月14日、京の座頭衆から訴え事があった。その内容は、<摂州兵庫に常見という分限者がおり、あるとき「金貸しのたびに損をしていては、必ず貧乏になってしまう。何か一生を楽々とたのしむ方法はないか」と考えをめぐらした。そして、眼も悪くないのに銭をもって検校となり、都に移り住もうと思いついた。そして検校衆へその旨を申し入れ、銭千貫を積んで検校職を手に入れ、今では常見検校と号して座頭衆から許可料を取って都で悠々と暮らしている。> というもので、小座頭たちは「今までは法規によって長らく仕事を続けることができました。しかしこのような形で富裕な者が検校位を手にするようになっては、賄賂がまかり通って折角の秩序も乱れてしまう」と申し述べた。さらに小座頭たちの言うところでは、常見は貸金の際には秤を重くする不正さえ働いているとのことであった。

 座頭たちは、以上の次第を信長公へ訴えた。すると信長公はこの訴えを聞き入れ、「検校共の行状の数々、曲事である」として検校を成敗しようとした。しかし検校側がさまざまに詫言をして黄金二百枚を進上したため、信長公はご赦免した。

*銭千貫は1貫=10万円とすると ざっと1億円、黄金200枚はざっと12億8千万円。

*琵琶法師の集団(当道座)の問題を調停するのは本来朝廷側の 久我家だが、それもせずに直接信長に訴えた・・・砂川先生は貴重な記録だと仰る。天下人信長に権限、権力が移っていたことになる。また低位の「小座頭」が高位の「検校」の決定に従わなくなっているのも「下剋上」で、「戦国」時代相を象徴する出来事なのだ。

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