デジカメぶらりぶらり

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シベリヤ

2013-08-31 06:34:28 | Weblog
旧ソ連軍最高司令官スターリンが日本軍捕虜50万人をシベリヤで強制労働させる「極秘命令」を出したのは昭和20年8月23日。

10年前から、この日に東京の千鳥ケ淵戦没者墓苑で追悼の集いが開かれている。今年は田村憲久厚生労働相も主席、平均年齢が90歳なる抑留経験者と遺族らが参列した。

おじを亡くしたバリトン歌手古川精一さんが「異国の丘」を歌う中、献花の列が続く。「犠牲者は戦禍に倒れたのではない。ポツダム宣言や国際人道法に違反する奴隷労働と飢えと寒さでなくなったんです」。

国がやろうとしない死亡者名簿を独自に作成している村山常雄さん(87)の声が響いた。特別措置法が3年前に制定され、7万人近い生存者に特別給付金が支給された。

しかし、特措法に定められた抑留の実態調査や次世代への継承はほとんど進んでいない。せめて追悼式ぐらいは政府が主催すべきだろう。残された時間は少ない。

恋文

2013-08-29 08:04:01 | Weblog
終戦から3ヵ月たった1945年の11月18日、36歳の青山フユさんは日記に書いた。<疎開の荷物を運び出す・・・彼を待つ準備もうれしい>。

しかし、その3日後、夫の戦死が知らされる。11月30日の日記は、こうしたためられた。<雨降る。終日家に立てこもり、彼との生活をなす。思えば涙のみ溢れひとしお耐えがたし>。

フユさんの手元には夫の泉さんがフィリピン戦線から送り続けた約140通の手紙が残った。その手紙とフユさんの日記の一部を収めた『戦場からの恋文』を読めば、あの時代を生きた一組の夫婦の息遣いが蘇る。

出征した42年の暮れ、泉さんは手紙に書く。<内地から半分持って来たもの(愛情なんて言葉には当てはまらないほどの根強いもの)をじっと握り締めていることで、俺の毎日は幸福だと思っている。来るべき日の為にお互いをもっと強く鍛え上げようではないか>。

手紙は翌年3月に届き、フユさんは日記に<彼からの便りを繰り返し見たりして楽しく過ごす。もっともっとよりよき生活を築く夢を描いいてみる・・・そうありたくてならぬ>と書いていた。

泉さんの死は、45年9月23日。終戦後も戦闘状態が続く中、病と飢えで命を落としたという。90歳まで生きたフユさんは、戦場からの恋文の一字一句をノートに書き写し、心の支えにしたそうだ。

ミツバチ

2013-08-27 07:40:23 | Weblog
うちわであおぎ、打ち水をまいて、・・・。ミツバチも、そうやって猛暑をしのいでいるらしい。『ミツバチの世界』(タウツ著、丸善)などによると、気温が35度あたりを超えると、卵やサナギを守るため、働き蜂は水を巣の中にまいて羽であおぎ、気温を下げる。

実験では巣の表面が70度になっても、巣の中は35度に保たれるというから、すごい性能のエアコンだ。この「働き蜂エアコン」は、暖房も可能だ。羽を動かすため使う強力な筋肉をただ震わせて、熱を発することができる。

ちょうど、車のエンジンを空吹かしするようなものだ。さらに驚くべきことに、ニホンミツバチは、この発熱の技を天敵のオオスズメバチ退治にも使うという、スズメバチが巣に侵入してくると、数百匹の働き蜂が一斉に殺到し、天敵を包み込む球になる。

球の中の温度は46,7度。ミツバチは約49度まで耐えられるが、スズメバチは約45度で昇天。玉川大学の小野正人教授らが発見した蒸し殺しの技「熱殺蜂球形成」である。

そんな高度な生き残りの術を持つミツバチも、最近は謎の大量死に見舞われている。犯人と疑われるネオニコチノイド系農薬が、市販の蜜蜂からも検出されたという。

人間には害のないレベルというが、問題はミツバチの健康。ミツバチが暮らせないような世界では、人間も生きてはいけないだろう。

牛車

2013-08-24 07:02:57 | Weblog
宮崎駿監督の最新作「風立ちぬ」に、工場で組み立てられた海軍の零式戦闘機が牛車に引っ張られていく場面がある。不思議に感じた人がいるかもしれないが、創作ではない。

零戦を製造していたのは三菱重工名古屋航空機製作所には隣接する飛行場がなく、完成した胴体や翼を48キロ離れた各務原飛行場まで運んでいた。名古屋市を出ると、雨が降れば泥沼のようになる悪路が続く。

機体を痛めず運ぶには牛車を使うしかなかったのだ。日没後、製作所を出た牛車は24時間かけて慎重に歩む。機体には厳重にシートをかぶせ、要所には警官が立った。

量産体制が整うと、牛の疲労が目立ち、疲労回復のために特配のビールを飲ませることも。飼料が不足すると牛はやせ細り、やがて温和で力の強いペルシュロン馬が荷を引いた。

最新鋭機戦闘機が牛車に引かれていた事実は、未来の運命を暗示しているようにも思える。戦況の悪化伴い、零戦は250キロ爆弾を抱き敵艦に体当たりする特攻隊になる。

「太平洋は、祖国の危機を救おうとねがう若者たちの壮大な自殺場と化した。かれらの死は、戦争指導者たちの無能さの犠牲とされたものであると同時に、戦争という巨大な怪物の無気味な口に痛ましくも飲みこまれていったものなのだ」と歴史に学ぶべきことはあまりに多い。

人間魚雷

2013-08-21 06:58:04 | Weblog
靖国神社にある遊就館の片隅に奇妙な像がある。潜水服姿で頭には大きなかぶと、両手で長い棒を持ち、身構えている。先端に付けられているのは機雷である。

8月15日の遊就館は見学者であふれていたが、この像をあまり気に留める人はいない。それはそうだろう。本土決戦を水際で食い止める「人間機雷」の存在はほとんど知られていないのだから。

敗戦直前に横須賀や呉などで部隊が編成され、3千人近くの若者が潜水訓練を受けた。上陸する米軍の舟艇を水中で待ち構え、竹ざおの先の機雷を突き上げて自爆する。

「伏龍」と名付けられた水際特攻隊である。空を飛ぶ夢を失った予科練の少年兵たちは、ひたすら死に向かう訓練に明け暮れた。本土決戦が回避されたために実戦に至らなかったが、潜水具には構造的な欠陥があり、多くの若者が訓練中の事故で命を失った。

当時の戦争指導者の愚劣さが凝視されている人間機雷を考えたのは、参謀として真珠湾攻撃の作戦を立案した人物だ。自らを犠牲にして祖国を守ろうとした少年たちの命をここまで軽く扱うのか。

戦争が長引けば状態の要員になるはずだった人物に城山三郎さんがいる。特攻を命じた側に常に厳しい視線を向けた作家の原点だろう。「日本が戦争で得たのは憲法だけだ」。城山さんの言葉が重く響く。

最高記録

2013-08-19 06:37:24 | Weblog
<散るということをしない花の性質に、私はひどく惹かれていた。・・・ちょうどパラソルをくるくるとたたんでいく人の仕種に似ている。・・・白木蓮(はくもくれん)の行儀の悪さとは対照的だ>。

エッセイストの坂口和子さんが行儀の良い花と讃えたのは木槿(むくげ)だ。街路樹にも多く植えられているので、この時季は見る機会が多い。確かに朝咲いて夕方にしぼんだ花を見ると、花弁を巻き込み、筆の鋒先のようだ。

「朝顔」は、木槿や桔梗(ききょう)と混同されていたという説もある。和歌の時代から俳諧の時代になって木槿は盛んに詠まれるようになった。

7月には咲き始めて花期は長いが、立秋を過ぎた残暑のころ、暑さを追いかけるように次々と花を広げる木槿は秋の季語である。

暦の上では立秋を過ぎた。そろそろ秋の気配を感じてみたい。そう切望しても残暑の日差しは容赦ない。高知県四万十市では先日、史上最高記録を更新する41・0度を観測した。

11日東京の都心は最低気温が30度を下回らない史上初めての「超熱帯夜」だった。冷房の室外機の騒音にかき消されているのか、暑さで参っているのか、まだ虫の声が大きくは聞こえてこない。

秋の虫が張り切って輪唱してくれる夜が待ち遠しい。

ワシントン・ポスト

2013-08-17 06:46:26 | Weblog
キャサリン・グラハムさんの人生は46歳の時に、激変した。その時のことを、後に自伝『わが人生』に記した。<時に人は決断もなく足を踏み出すものだが、私のしたことも同じだった>。

夫は米紙ワシントン・ポストの社主。その夫が自殺した悲しみの中で突然、社主になった。経営の「け」も知らぬ彼女を待っていたのは、厳しい「決断」を迫る日々の連続だった。

1971年、ライバル紙ニューヨーク・タイムスがベトナム戦争に関する国防総省の機密文書をすっぱ抜いた。政府の求めで裁判所は記載差し止めを一時的に命じた。

その時、ポスト紙は文書を独自に入手した。文書を掲載すべきか。法を無視したと批判したと批判され経営危機を招くかもしれない判断にキャサリンさんも迷い「会社を潰すかも」と口にしたが、スタッフにこう言われた。

「その通りですが、新聞を潰す方法は一つだけではありません」。ニクソン大統領を辞任に追い込んだうウォーターゲート事件の時は、孤立無援でホワイハウスの攻撃にさらされ続けた。

情報源を守るために、自ら刑務所に入れられることを覚悟していた。キャサリンさんは12年前に他界し、彼女が守り育てた新聞は一族の手を離れて、アマゾンの創業者に買収されることになった。ネット商法の旗手が、245億円で手にするのは、その資産価値以上の責任である。

異国の丘

2013-08-15 14:16:54 | Weblog
<今日も暮れゆく/異国の丘に/友よ辛かろう/切なかろう・・・。戦争が終わって3年の昭和23年8月。NHKラジオの素人のど自慢大会にシベリア帰りの復員兵が出場した。

「俘虜(ふりょ)の歌える」題して伴奏なしで歌うと、鐘が乱打された。ちょうど65年前の出来事だ。<倒れちゃならない/祖国の土に/たどり着くまで/その日まで・・・。

哀愁ただようメロディーに望郷の気持ちを乗せたこの曲は日本中に感動を呼び起こし、「異国の丘」と改題され大ヒットする。作者は誰か。NHKの呼び掛けに50人が名乗り出た。

調査の結果、旧ソ連のウラジオストク郊外の収容所で一緒だった増田幸治(作詞)、吉田正(作曲)が作った曲と判明する。ソ連軍が日ソ中立条約を破棄し旧満洲に侵攻したのは、昭和20年8月9日未明。ソ連の和平仲介にわずかな望みを託していた日本はなすすべもなかった。

この日、長崎に二つ目の原爆が投下され、翌日、ポツダム宣言の受諾を決定する。満州に残された日本人には地獄の始まりだ。57万人超の将兵らがシベリアに送られ、寒さと飢えと重労動の三重苦の下、5万5千が亡くなった。

「異国の丘」は生き延びるために歌い継がれた曲だった。2千4百曲を作曲し、多くの歌手を育てた吉田さんは没後、国民栄誉賞を受賞した。「辛くて私には歌えません」と生前に語っていた。

18歳

2013-08-13 07:35:57 | Weblog
1896年にアテネで開催された第1回の近代5輪で、水泳は4種目で競われた。100メートル、400メートル、1200メートルの自由形と、100メートル自由形・水兵の部である。

この時の400メートルの優勝タイムは8分12秒6。現在の世界記録は3分40秒07。とてつもない進歩だ。最も第1回大会での自由形で、選手らはどうも今のクロールでは泳いでいなかったようだ。

両手で交互に水をかき、ばた足で進む泳法が大会に登場したのは、1902年らしい。豪州の15歳の少年が、ソロモン諸島の先住民の泳ぎに倣ったという斬新な泳法で、観衆を驚かせた。

当時それは「泳者は水の中にいるというより、水の上を這って登っているよう」と評された。「這う」は英語で「クロール」。「豪州流這う泳ぎ」は最速の泳法として、自由形を席巻していく。

日本では18歳の少年が新たなページを開いている。体格がモノを言う自由形で日本人は活躍できないとされてきたが、萩野公介選手が世界選手権の400メートル自由形と200メートル個人メドレーで銀メダルに輝いた。

勝負強い泳ぎと同様に、その言葉も実に鮮やかだ。「日本人は(自由形で活躍)できない」なんて、一度たりとも、思ったことはない」。先入観という古い殻を突き破っていく、まさに「自由形」の18歳だ。

銀のさじ

2013-08-11 06:57:09 | Weblog
「銀の匙をくわえて生まれてきた」という英語の言い回しがある。「裕福な家に生まれた」との意味だが、ブッシュ元米大統領(父)は、政敵にこう言われたことがあった。

「彼は銀の足をくわえて生まれてきた」英語で「足を口に入れる」と言えば、「失言する」「どじを踏む」という意味。お坊ちゃま育ちで、しかも、どうしょうもない失言癖のあるブッシュ氏を、辛辣かつユーモラスに皮肉ったひと言だ。

高祖父が明治の元勲大久保利道で、祖父は吉田茂元首相。超のつく名門一族に生まれた麻生太郎副総理兼財務相も、間違いなく、「銀の匙をくわえて生まれてきた」人物だろう。

その麻生氏が、改憲の議論をめぐって、「(ナチス政権)手口を学んだらどうか」と発言した。当然ながら国際的な批判を浴びた。麻生氏は発言を撤回して、「私の真意と異なり誤解を招いたことは遺憾だ」と釈明している。

麻生氏のくだけた物言いは確かに人をひき付けるものがあるが、とにかく失言が多い。国際経験も政治の経験も人一倍豊かなはずなのに、なぜこんな批判や「誤解」を招きやすい発言をするのか。

どうにも理解に苦しむ、作家の故なだいなださんは、麻生氏を「失言の意味の分からない人」と評していた。ひょっとすると、わが副総理も、ブッシュ氏のように「銀の足をくわえて生まれてきた」のだろうか。