デジカメぶらりぶらり

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昔の歌

2010-01-28 07:01:49 | Weblog
「昔の歌を歌うな」という。古い自慢話をいつまでもするなという意味がある。懐メロ歌手には耳の痛い言葉だろう。

時代は刻々と変わり過去の姿をとどめない。亡くなった浅川マキさんは昭和40年代の世相を象徴する歌手だった。ラジオの深夜放送から流れる、気だるい声が耳に残る。

時が流れ、長い空白期をおいて9年前に金沢で歌ったが、かつてのヒット曲を歌わず肩透かしを食ったというファンがいた。

昔の歌を歌わず「今」を歌ったのである。だれも成功体験が忘れられない。自分の絶頂期を語り続ける。それをしないのが浅川さんの美学であり「その夜限りの、その場限りの、温かい歌があればいい」という。

ミッキ安川さんの訃報もあった。昭和40年代を彩った才能がひとりまた一人と消えていく。一方、スポーツ面には15歳や19歳のスケート選手が若々しく登場している。

時代は確実に変わっていく、政界では、戦中生まれの最高実力者が健在で「ゼネコン」などと言う昔の歌も歌われている。だが、その背後から時代が変わる音が刻々と聞えてくるのである。


ごり押し

2010-01-26 07:38:45 | Weblog
まだ57歳、元プロ野球投手の小林繁さんの死が惜しまれる。球場外の騒ぎでも名を残した人である。

巨人軍が江川卓投手をごり押しで入団させ、非難を浴びた。結局、身代わりとして球団を出たのが小林さんで、理不尽な決定に潔く従い、男を上げた。

当時の監督の長嶋茂雄さん、悲報に接して「悪いことをした」という談話が紙面に載った。30年以上も前の騒ぎだが、江川さんは「申し訳ないという気持ちは一生持ち続ける」と語った。

ルールがあれば、そのスキを突くたくらみが起きる。球界に限った話ではない。清濁併せのむ。それが世間なのであろう。

濁りには、すぐに癒える小さなウソも、いつまでも心を責める背信もある。濁ったカネという疑惑が、政権を直撃している。飲んだのは清いカネ、と本人や周囲は主張する。

真相はまだ分らないが、濁りが発するような不快なにおいが強く漂う。もし濁ったカネをのんだのなら、当事者の悔いは大きかろう。

話はそれでは済まない。彼らを選ぶ結果に至った私たちも、苦い思いを味わうことになる。

高速バス

2010-01-24 06:03:11 | Weblog
東京―金沢を8時間で結ぶはずの高速バスが36時間も乗る苦悩の車中2泊の旅に巻き込まれた。

雪による渋滞と通行規制、途方もない難儀からやっと解放された5人の乗客は、そろって「ありがとう」と口にし、バスを降りた。という話に驚いた。

怒りや不満はどこへ行ってしまったのだろう。バスはトンネルで長時間、立ち往生した。いら立ちが激しくなったはずなのに、「バスが雪に埋もれなくてよかった」と、乗客は語った。

確かに、雪中の生き埋めはもっと怖い。「良いこと探し」の知恵は、苦痛は和らげる力を持つ。乗務員は、本社との連絡や差し入れの乾パンや毛布の手配などで、仮眠もままならなかったという。

わが身より大変な苦労を背負う人を見れば、心を励ましのムチを打つことができる。強い心を持つ客、奮闘を惜しまぬ乗務員。

こんなバス「ホテル」なら、人生勉強のために1泊くらいはしたくなる。つらい時を共にして、だからこそ「ありがとう」と言葉が出る。人の世の情けは、まだまだ健在である。



理系出身

2010-01-22 07:58:06 | Weblog
終戦直前の1945(昭和20)年、金沢や京都に「科学組」と呼ばれる英才教育の組織が誕生した。東京の優秀な生徒を疎開させて科学に強い若者を育てる狙いだった。

財務相を辞任した藤井さんは、その金沢の「科学組」で学んだ1人だった。後に東大から大蔵省に入ったから理系の人とは言えないが、ルーツは理系少年だった。

藤井さんの後任の菅さんも東工大卒で、財務相の経歴としては珍しい、就任前日には「不得意分野、経済が試金石」の記事があった。

理系出身の菅さんは、近代経済学の大家・サミュエルソン教授が理系だった例を挙げて自信を示したとある。門外漢との評価を混ぜっ返したように見えた。

戦中の「科学組」は文系偏重の反省から生まれたが、戦略立案が遅すぎた。そんな付け焼き刃が国家戦略になるわけがなかった。

鳩山内閣の「国家戦略室」も、菅氏の横滑りで戦略が狂ったどころか「戦略室」の重みが問われている。

政治家の知恵に理系も文系もないのだろうが、東大工学部卒の鳩山首相以下理系出身の多い内閣だ。論戦をどうこなすか、通常国会を見る楽しみの一つにはなる。

ドカ雪

2010-01-20 06:47:02 | Weblog
久々のドカ雪である。朝の足を悩ませる厄介ものだが、晴れ間に見る雪化粧は、すがすがしい気持ちにさせてくれる。

「山も野原も綿帽子かぶり」という文句が浮かぶ。「雪やこんこん」と歌い慣れた童謡である。その「こんこん」の意味が気になって辞書を引いたら、「雪やこんこ」が正しい、とあった。

小学唱歌「雪」は、作詞、作曲者とも不明とある。不明なら、意味の探りようがない。念のため、別の辞書を引いたら、間違いのはず「雪やこんこん」があった。「来ん来んで、降れ降れの意味」とある。

「こんこん」という思い込みが、こんな解釈を生んだのだろうか、思い込みは、要注意である。雪や雨は悪天候、晴れると好天気という。

が、日照りが続けは厄介だし、雨や雪はこの地に豊かな恵みをもたらす。天気に向かって、良い悪いとレッテルをはる気持ちは自然だろうが、だからといって、天を責めて済む話ではない。

一夜で積もった雪で、スリップ事故が多発した。厄介なのは、雪以上に、私たちの気の緩みかもしれない。

阪神大震災

2010-01-18 07:53:00 | Weblog
阪神大震災から15年。あの大災害を父母の想い出や記録でしか知らない世代が存在する時代になった。語り継ぐ大切さが時間とともに重みを増す。

「1.17は忘れない。記憶を未来につなぐ」。震災で生まれた合言葉だが、思いもかけぬ形で阪神の記憶は各地に広がった。玄海沖、中越、能登、中越沖、宮城、岩手と各地で大地震が続いたからである。

この15年間で日本中に被害者が生まれた。地震を体験しなかった人も次の世代も、またいつ被害者になるか分らない。防災の心得を語り継ぎ、国民共有の知恵にする重要さが、合言葉とともによみがえるのである。

一連の震災の中で幸いにして記録されていないのは大雪の中で大地震に遭う体験である。未経験だがいつか必ず来る。雪は家屋崩壊や避難路に大きく影響する。

能登半島地震後に中央防災会議が、「降雪期における防災体制強化」の通知をだしたが、具体的動きはまだない。積雪期の防災態勢を未然に整えておくのは降雪地域の責務だろう。






映画出演

2010-01-15 07:54:42 | Weblog
映画出演を自慢する人が何人もいる。役者でなく、当地でのロケにかり出された群衆などの端役。映画に出たのでなく「映った」が正確だろうが、それでもそれが自慢のタネ。
映画には、不思議な魅力がある。

タイトルを口にするのもはばかられる成人映画の通行人役、という貧乏くじを引いた男もいる。金沢で来月から、俳優養成講座が開かれる。「その他大勢」ではない主演の道は険しかろうが、主役を支えるのは脇役だし、さまざまな脇役が映画に奥行きを与える。

黒澤明監督の「影武者」の見せ場は、無数の死体の「演技」である。織田信長軍団が馬もろとも次々と倒れる。実際は麻酔薬で眠らせたそうだが、馬の巨体が崩れ落ち、もがく傍らに将兵が横たわっている。

人形の代役ですむ場面だが、黒沢監督それを許さず、大勢の出演者は暴れる馬の恐怖に耐えて死体を演じた。迫力ある役者魂である。

今年は当地ゆかりの映画「さくら、さくら」と「武士の家計簿」が上映される。名優たちの熱演に加え、大勢の端役の飾らぬ演技にも目を止めたい。


木造建築

2010-01-13 12:04:10 | Weblog
世界最大級の木造建築である東本願寺御影堂(ごえいどう)の建設がなったのは1896(明治28)年。

北陸の門徒が多大な寄進をしたことで知られる。白山ろくからは巨木が伐採され、富山県の女性らが長い髪を切って工事用の強力な毛綱(けずな)を編んだという。

泉鏡花の小説「怪語」にも、東本願寺の棟上げ式を見て帰る人々で加賀地方の宿がいっぱいになっている場面が描かれている。

北陸と「お東」をつなぐ話には事欠かないが、御堂再建は明治日本の一大イベントだったことが分る。

東西の本願寺と加越能の縁は宗教面だけにとどまらない。巨大建築から先人たちの息吹が聞えてくるようだ。

新幹線

2010-01-11 08:25:28 | Weblog
ふるさとで暮らす身に、正月の帰省は無縁である。混雑や渋滞に同情するが、逆に年末年始の旅行がうらやましくもなる。

新幹線はトンネルが大好きらしい、トンネルは、用地買収の必要はない、風雪の影響も免れる。山陽新幹線は、モグラのようにトンネルを走り続け、美しい瀬戸内海めったに見せてはくれない。

便利だが、旅の風情は味わえない、速さを優先すれば、旅の気分は犠牲になる。北陸新幹線は富山平野をひた走り、車窓から立山連峰を存分に見せてくれることになる。

倶利伽羅を抜ければ加賀平野。福井延伸になれば、白山も眺められる。現実まで何度しびれを切らされたことか、開業は良いことずくめではないのは百も承知。

それでも、年が改まると、指折り数えてその時を待つ気持ちが高ぶってくる。

密約

2010-01-09 07:58:23 | Weblog
日米「核密約」報道が昨年6月にあった。32年前、日本が津軽海峡の公海域を残した背景に、この密約問題が絡んでいたというのである。

1977年、領海幅が従来の3カイリから12カイリに改めてもいいことになった。が、12カイリにすると津軽海峡から公海が消える。

緊急時に米の核搭載艦が通過できなくなることを意味している。そこで3カイリ領海のままにしたとの内容である。重要なのは、津軽海峡を通るのは米艦だけではないことだ。

ロシア艦船の通過はよく知られている。昨年秋には中国海軍も初めて通過した。中・ロ艦船が核を積んでいるか否か知るすべはない。

津軽海峡は日本国内も同然である。そこえ核搭載の恐れもある外国艦船が自由に行き来しているのである。その現実には見て見ぬふりで、日本は同盟国の「持ちこみ」にだけ神経をとがらせていたことになる。

非核3原則の「持ち込ませず」は相手があったてのこと。相手とは米国だけではない。約束したら守ってくれると思いこむ「愚直」さに背筋が寒くなる。