デジカメぶらりぶらり

デジカメのほやほやの写真をご覧下さい。

ナマコ

2011-12-31 08:12:54 | Weblog
正月向けに「このわた」出荷が能登で最盛期を迎えたという記事があった。辞書には、このわたに「海鼠腸」の字が当ててある。確かにナマコは海のネズミみたいな姿である。

その腸を塩辛にしたのが、このわた。極上の酒のさかなとして珍重されるが、あいにく、指折り数えるほどしか口にしてない。このわたの文字に、よだれを催す人がうらやましい。

ナマコの酢の物にはなじみがある。ネズミみたいに不格好な生き物に美味を見つけた先人の食い意地には感心させられる。芭蕉の句がある。「生きながら一つに凍る海鼠かな」。

食欲が湧く句ではない。芭蕉はナマコが苦手だったと想像する。「浮け海鼠仏法流布(ぶっぽうるふ)の世なるぞ」は一茶の句。ありがたい世の中なのだから、海の底から顔を出せと、呼びかける。そう言われても、ナマコは身を固くして居座るかもしれぬ。その頑固さを、俳人は愛したのか。

程なく年が暮れる。年が改まって、「浮上」の世が来るのか。それとも、多難に耐える日がまだ続くのか。ナマコに問うてみたい気がする。

年賀状

2011-12-29 08:30:06 | Weblog
年賀状書きがおっくうになるのは、「年賀欠礼」のはがきを手にする時である。もう出せない知人の数が年ごとに増える。

来る年のあれこれを思う年の瀬に、亡き人のことを思い出すのはいささかつらい。つらいが、故人との粋な別れの流儀があることを先ごろ知った。「立川談志さんお別れの会」という短い記事が出ていた。

石原慎太郎知事が弔辞を読んだという。いずれあの世で会えるから、「それまで、死んでも元気でいてくれよ。あばよ」何かヘンである。死とは、体から元気がうせることである。だからわれわれは「安らかに眠れ」と弔う。

やがて、亡き人は星になったり、近ごろは風にもなったりした、残された人たちを見守る。「死んでも元気に」は無理な注文のようだが、なぜか心に響くものがある。遠い星やえたいの知れない風になってしまうより、死んでも元気を失わない故人の姿を深く思う方が、残された人の心の支えになる。

そんな別れの言葉を交わすことができる人を、多く持ちたいものだと、あらためて教えられる。

金が敵

2011-12-27 08:37:01 | Weblog
不景気風をしばし忘れさせるニュースではある。球界一の投手が米大リーグの競りで、約40億円の値がついたと報じられた。わが国の次期戦闘機が一機約50億円だそうだから、途方もない金額である。

夢のような話が飛び込んでくる。年の瀬の大金で連想するのは、亡くなった落語家の立川談志さん十八番の「芝浜(しばはま)」。酒好きの魚屋が一念発起して商売に励もうとする。

途端に大金を拾い、酒浸(びた)りに戻る。一計を案じた女房が「酔って金を拾った夢を見たんだよ」と言葉巧みにごまかし、亭主を立ち直らせる。金よりもまじめに働くことの方がよほど大事。

大みそかの夜、亭主はしみじみと悟る。こんな人情話がわれわれは好きである。大金の話を聞くと即、「金がすべてではない」と自分に言い聞かせる。つつましやかで、けなげな美徳である。

あの投手だから破格の値が付いた。「金が敵(かたき)の世」である。あだ討ちの敵にはなかなか巡り会えない。金も美女との色恋も同様。だから昔の人は歌った。「世の中は金と色とが敵なり」。続けて「どうか敵に巡り会いたい」こんな願いも分からなくはない。

サザエさん

2011-12-25 08:21:56 | Weblog
「サザエさん」一家がのどかな理由は、長女夫婦が両親と暮らしているからだそうで、これを「マスオさん現象」という。

マスオさんは婿養子ではないが事実上の婿養子で娘が親と暮らす形だ。最近は少子高齢化を背景に、この現象が一歩進んで、女の子をほしがる親が日本では増えている。老後に介護をしてもらえる可能性もあり「長男優先」は昔話になろうとしている。

一人っ子政策の続く中国で赤ちゃん誘拐が相次ぎ、男の子が狙われやすいとの報道があった。農村部では働き手と家系の継承者として男児をほしがるらしいのだが、行き過ぎた人口統制が招いた悲劇だろう。

事件は様々なことを考えさせる「サザエさん」は戦後間もない子だくさんの時代に始まった漫画だが、今もテレビで続いている。人気の秘密は親子みんなで見られる安心感だけではない。家族形態の変化を大胆に先取りしたからとはいえないだろうか。

お国柄は違っても、少子高齢化は様々な変化を社会に及ぼす。かつて「かかあ天下」と言ったが、今は「長女の時代」といた方が丸く収まる。中国も学んだ方がいいかもしれえない。

デカ眼

2011-12-23 07:35:29 | Weblog
芸能面の「由紀さおりのメーク術」という見出しの囲み記事に「デカ目メーク」とあった。今の女子は、実際の目の大きさの1.5倍に見せる研究に余念がないそうな。

まばたきするとバサッと音がしそうな巨大つけまつげはたまに見掛ける。舞台化粧の役者がそのまま街に出てきたような集団も目撃する。どれも似たり寄ったりの「デカ目」である。

明らかに不自然と記事の筆者は断じる。同感だが、偉そうなことは言えない。流行とはそんなものだろう。かつてビートルズが大はやりしたころ、若者に加えてオジサンたちも似合うはずのない長髪をまねしたではないか。

実年齢よりもうんと若く見せる「美魔女」なる言葉も初めて知った。当地にそんなブームが及んでいるかどうか知らないが、「美」と「魔女」の調和は、さぞ骨が折れるだろう。
ご苦労なことである。

記事の結論和風美人のすすめ。異議はないが、外国人が褒めたからという理由は、おもしろくない。海外の評判ではなく、自前の物差しで、目の大きさくらいは決めてもらえぬか。

人気番組

2011-12-20 07:31:50 | Weblog
かつての人気番組「家政婦は見た」をもじった松嶋菜々子さん主演の「家政婦のミタ」が妙なタイトルで高視聴率をとっている。

一字違いで大違い。日本語の難しさと面白さだ。「これで政治家」「これが政治家」「これも政治家」最近はこんな比喩が浮かんでくる。一川防衛相が不勉強なのか、それとも知識はあるのに、答弁能力に欠けるのか。

国会に送りだした有権者としては一刀両断にできないもどかしさもあろう。菜々子さんがドラマの中で言う「承知しました」が、子どもたちに流行っているという。10年前の番組を持ち出しては今の子に笑われるが「利家とまつ」の決めせりふ「私にお任せくださりませ」と似ていて面白い。

これも持ち味というものか、「私にお任せくださりませ」と胸を張れない野田首相も苦しいところだが、自らまいた種だ。国民のみに国会は開幕どころか波乱の幕開けだ。

2011-12-18 07:09:11 | Weblog
オリンパスの損失隠しを調べた第三者委員会の甲斐中辰夫(かいなかたつお)委員長は元最高裁判事を勤めた人だ。

「検事とは何か?」との記者の質問に「塩だ。甘くはないが、社会には必要」と答えたという。国家の健全な発展に三軒分立が必要であるように、社会の健全な成長にも、辛いチェックをいれていく存在が必要だとの意味だった。

役員総退陣となるオリンパスをみると、大企業にも「塩」が必要だったことが分かる。甲斐中委員長は「トップ主導でごく一部の人間が不正経理を行っていた」と述べ、会社の中心部が腐っていたと表現した。

経営中枢をチェックする機能がなかったのである。企業体そのものは「まじめな従業員と高い技術力を有する」と説明してオリンパスの再生に期待した。辛くて口にしたくはなくても、国家や大企業と同様、どのような組織体も健康を維持するための「塩」を持っていることが大切なのではないか。

とり過ぎれば身体に悪く、とらないと体が持たない。その「塩梅(あんばい)」が難しい。健康を失ってはじめて大切さに気づく存在だ。

健さん

2011-12-16 08:15:38 | Weblog
俳優の高倉健さんが紙面に載っていた。富山でもロケをした映画「あなたへ」の撮影が門司港で終わったという話題。

何度目をこすって見ても、年齢80歳とある、健さんの写真をじっと見た。もう任侠映画ははやらないが、長がドスを片手に着流し姿で、「お命ちょうだいします」とやっても十分通用するだろう。たまげてしまう。

列島を移動したロケを振り返る言葉が、またいい。「『ローマの休日』ではないが、思い出は何といっても門司港」。半世紀以上前の名画のラストを知らないと、この言葉は味わえない。映画に対する賛辞と情熱を伝える名優である。

健さんはテレビにめったに出ない。理由は知らないが、ある助監督から映画とテレビの違いを聞いたことがある。100年かけて夢の世界を築き上げたのが映画で、そのおいしい所つまみ食いするのがテレビ。

異論や例外はあろうが、二つは似て非なるものだという、喜寿を過ぎた先達を、無礼にも「健さん」となれなれしく呼んで親しむ。映画は不思議で魅力ある世界である。そこで不思議な健さんにまた会える。楽しみなことである。

まんじゅう

2011-12-14 08:00:02 | Weblog
落語の「まんじゅう怖い」の話が中国・清(しん)の随筆集に出ているという。愉快なネタを探すため、そんな本まで読んだ偉い人がいた。

ヘビも毛虫も怖くないが、まんじゅうが怖いという男の話である。そう聞かされた悪友たちが、どっさりまんじゅうを買い込む。男は悲鳴を上げながら、「こんな怖いものはなくそう」と次々と平らげる。

実はまんじゅうが大好きという一席。言葉をうのみにしてはいけない。テレビの国会中継を横目で見ていたら、お騒がせ大臣を巡って「適材適所なのか」という問答を相変わらずやっていた。

いつ、どんな人が大臣になろうと、「適材適所」は決まり文句。敵も味方もそれを十分承知の上の論戦は「まんじゅう怖い」に似て、空々しく響く、まんじゅうを平らげ、「今度はお茶が怖い」と虫の良い注文をするのが噺のオチ。

激しい「適材」論戦も、「支持率が怖い」という人気取りの戦術だろう。重要法案の審議をそっちのけにした師走の大騒ぎである。いまに始まったことではないが、ヘビや毛虫やまんじゅう以上に、食えないセンセイたちである。

バッタ

2011-12-12 07:13:53 | Weblog
 夏目漱石の小説「坊ちゃん」についてクイズがでた。主人公が松山で4杯も食べたものは何?

正解は天ぷらそば。新米教師の坊ちゃんが大食ぶりを生徒たちにからかわれた場面を思い出した。バッタ事件というもあった。宿直の夜、生徒が寝床にバッタをどっさり入れておいた。

驚いた坊ちゃんが何でバッタを入れたと怒ると、生徒は居直って「そりゃ、イナゴぞな、もし」。イナゴもバッタも同じだ、と坊ちゃんは逆上する。イナゴとバッタは違うが、区別しない土地もある。

事典にはそう出ている。大げんかするほどの話ではない。土地によって呼び名が違うことは、よくある。われらが愛するコウバコガニもそう。福井ではセイコガニ、山陰は親ガニと呼ぶ。

背に抱く子が美味からセイコと呼ぶと教わった。雌でない親ガニと呼ぶのは、美味に対するうやまいからか。コウバコは「香箱」の美しい字が当てられる。同じ雌ガニでも呼び名が違う。

名が違うように味も微妙に違い、わが土地のカニが一番おいしい。そんな味自慢がいま真っ盛り。江戸っ子の坊ちゃんは、さぞうらやましかろう。