デジカメぶらりぶらり

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内助の功

2011-02-27 07:49:37 | Weblog
八百長の調査で携帯電話の提出を求めたら、「妻に踏まれて壊れた」と言い訳した力士がいたという。随分と慌て者で馬力のある妻である。

壊れた携帯に疑惑のメールがあったなら、夫をかばったことになる。逆なら、夫の潔白を晴らす機会を奪ったことになる。壊したのは内助の功なら、加賀藩祖・前田利家の正室「まつ」は、勇ましい逸話が幾つも伝わる。

臨終の夫に死に装束を用意し、潔い往生を勧めたのもその一つ。戦国の世に殺生の罪を繰り返してきた、と夫を諭し、「これを着てエンマさまの前で悔い改めよ」と迫った。土俵の上は女人禁制、と大相撲の男たちは普段は勇ましい。

が、世間の冷たい風をさほど知らぬ親方衆やご隠居みたいな理事連中が、いま大きな覚悟を迫られている。まつの言葉は、どこまで心に響くだろうか。愉快なことに、内助の功に鍛えられた利家は、最後にまつを言い負かした。

「心配無用。あの世にも多くの家来がいる。一緒になってエンマをやっつける」。八百長退治もかく願いたいが、さて。

着信音

2011-02-25 07:08:26 | Weblog
アラブ諸国に広がる民主化運動で、ネット社会の現実を知った。その直後のニュージーランドの地震でもネットの威力を見せ付けられた。

被災した女性が、がれきの下から富山の実家にメールを送り、そのSOSで日本人多数が巻き込まれている事実が初めて分かった。

途切れ途切れながら、以降も富山に状況が伝えられた。南半球の島国と遠くに離れた北陸に住む肉親同士を極限状態の中で結ぶとは何とすごいことか1995年の阪神大震災の時に、携帯電話が広く普及していれば助かった人も多かったろうと言われる。

だが、辛いのは携帯電話にお応答がないことだ。2005年のJR尼崎脱線事故では車両の床に転がった多くの携帯電話から、むなしく着信音が鳴り響いていた。独裁国家を次々と転覆させるほどの威力はあっても、科学技術に地震を防ぐ力はない。

惨劇を予知することも難しく被害を小さくすることに知恵を絞るしかない。技術の進歩を思えば思うほど科学の限界も知る。北陸の肉親から送られた着信音が、今もニュージーランドで鳴り響いているに違いない。「早く出て」と祈るばかりだ。



尾張なごや

2011-02-23 06:50:17 | Weblog
尾張なごやは城で持つ。江戸期に建った名城は長く城下町名古屋の金看板だった。現在の県庁も市役所も、近代的なビルの上に城郭ふうの屋根をのせた和洋折衷建築である。

昭和初期に流行した「帝冠様式」という、さて時は平成。県庁も市役所も戦国下克上のような「トリプル」選挙に燃えていた。民主党も自民党も「首長新党」に戦々恐々。

敵と味方の関係を示す相関図には大阪府知事までが登場して、地元有権者以外には何が何やらよく分からない。今の候補者がピエロに見えたというつもりはないが、政治家のパフォーマンスに有権者が振り回されているようにも映る。

大都市行政をどうするかの問いかけを秘めた選挙なのか。新しい地方自治の始まりとなるのか、混迷のおわりとなるのか。見守りたい。


お姫様

2011-02-21 08:23:44 | Weblog
お姫様ブームである。大河ドラマ「江」にあやかった滋賀・福井の観光キャンペーンに続いて、北経連も北陸の「姫さま」に取り組んでいる。

加賀藩には前田利家の娘で宇喜多秀家夫人の「豪姫」。織田信長の娘で利長夫人の「永姫」。徳川秀忠の娘で利常夫人の「珠姫」など、戦国期の豪華メンバー勢揃い。

それぞれゆかりの地を結び、物語性に富んだ広域観光ルートを設定しようとの提案だ、「篤姫」がヒットして、二匹目のドジョウを狙ったとも言われているが、お姫様ブームの中身はどれも良く似ている。

ひとつは、おてんば姫であること。篤姫も江姫も、男勝りの「変わった姫じゃのう」のセリフが出てくる。テレビドラマで言えば「坂の上の雲」に登場した正岡子規の妹「律」も一種のお姫様だった。

弱い兄を守る強くてかわいい妹。だが、人並み以上の苦労を耐え忍ぶ。お姫様の二つ目の特徴は悲劇性である。笑っているうちに涙がにじむ。物語の最高の味わい方である。

ワンパターンだが、それでなければ納得しないファンが多い。観光キャンペーン成功のコツも、そこにあるように思う。

ネット

2011-02-19 07:39:36 | Weblog
エジプトはナイル川が国土を貫くように南から北へ流れている。東から上がった太陽は、大河の上空を横切って西に消える。

5000年前も今も変わらず、日が上り日は沈む。太陽と同じように権力も永遠に続くとの考えが人々に植えつけられる。気候風土が政治的風土を左右する。日本のような四季に恵まれて変化に富む島国からは想像しにくい。

独裁の座にあること約30年のムバラク政権が事実上崩壊した。第2次大戦以後ほぼ3人のリーダーに政権を委ねた国である。個人の力というよりも、独裁を生む風土の大きさを考える。

このところ、首相が1年で替わる我が国だ。日本には長期独裁政権が生まれる土壌はないとされるが、戦前の「軍部独裁体制」があったのは遠い昔ではない。政治風土も永遠に不変ではない。

新しい時代には新しい条件が加わる。ナイル河畔の長期政権に異変をもたらしたのは「ネット」だという。風土も国民も問わず地球を駆けめぐる。「大陽神」に代わるような力である。威力とともに怖れを抱かざるを得ない。

工夫

2011-02-17 07:55:04 | Weblog
一週間前朝起きると、雪かきのひと仕事を余儀なくされた。一晩でドカッときた翌日の除雪は、スノーダンプの出番である。

通称「ママさんダンプ」を、パパさんやじいちゃんが押したり引いたりしている。愛きょうのあるある名前だが、スコップよりも一度に多くの雪を始末でき、腰の負担も少ない優れものである。

この土地では宿命の雪かきをしながら、映画「武士の家計簿」のお駒のせりふが浮かんだ。「貧乏だと思うと暗くなるが、工夫だと思えば楽しめる」という泣かせる一節。

邪魔な雪だと思えば気分は沈むが、ママさんダンプの威力を知ると思えば楽しくもある。短時間で除雪は終わり、たちまち気分はさわやかになった。

大事なのは心構え。しばし、お駒に感謝したが、通勤の足がくじかれて再び不機嫌になった。かつての豪雪を知る身には「これしきの雪」なのだが、便利な暮らしの弱点を探して、そこを突いてくる。

お駒なら、雪の厄介さをどう前向きにとらえるだろう。晴れ間の雪景色は、見事なほどに美しい。美しいが、憎らしくもある。雪国に暮らして久しいが、お駒の心根には、まだまだ及ばない。

名器

2011-02-15 10:02:31 | Weblog
先日金沢で1736年に制作された「人類の遺産」とも称されるバイオリンの名器、ストラディブァウスとデル・ジェスを弾き比べる演奏会があった。

モーツァルト(1756年生まれ)以前に作られた弦楽器である。家を売って一挺のバイオリンを買ったバイオリニストが話題になったことがある。今なら家一軒では買えないという。

300年近くも前の楽器が現役で、最新の楽器が追いつけないとは、おとぎの話のようである。現代の演奏者の古い楽器へのこだわりもまた興味深い。「弘法は筆を選ばず」と言えば陳腐な例えだが、本当の弘法は良い筆を選んだという。

名演奏家は名器を選ぶ。古ければ古いほど良く、ますます貴重。人間もそうありたい。

タマゴ

2011-02-13 07:30:32 | Weblog
安いから売れる、売れるから安くなる。卵が先か鶏が先かの難問のとおり、卵が物価の優等生と呼ばれる背景には消費と生産の好循環がある。

生卵1個を3人兄弟で奪い合って食べた戦後世代のせいか、駅弁を開いても卵焼きは最後に残してゆっくり味わう癖がいまだに抜けない。

いくら安くても卵には食の神様が宿っているように見える、といっても今の子供には分かるまいが、鳥インフルエンザの広がりで鶏卵相場の異変が心配され始めた。

当初は出荷が減り品薄から値が上がる。そのうち風評広がると消費量の減り値も下がる図式が予想される。鶏卵相場の誇る好循環が一転、悪循環に変わるのが怖い。

食料自給率の低さが問題になっているが、鶏卵の国内自給率は96%と突出して高い。一人当たりの年間消費は昭和30年代中ごろ120個前後だったのが、最近は330個と飛躍的に伸びた。

ここでも優等生である。タマゴ大好き世代から鳥インフルの拡大を見ると、食の足元にひびが入るような不気味さがあるが、風評被害などに負けず断固として食べ続ける覚悟である。


回遊魚

2011-02-11 07:39:16 | Weblog
回遊魚だから、氷見ブリの産地偽装で問題の仲卸業者が口にした言葉である。季節によって定期的に海の中を移動する魚を指す。その時その時、すみよい所を選んで泳いで回るのだから、確かに回遊魚に固定的な産地はない。

だが、それが偽装の言い訳にはなるまい。政界に似た例がある。与謝野経済財政相。自民党から、たちあがれ日本へ回遊し、菅首相に一本釣りされた。

明治の「政界」は、「政海」とも書いた。日に当たる場所にうまく移るのを「政界遊泳術」とも言う。まことに的確な表現だ。財政再建の信念がいくら強くとも、与謝野流回遊は、政治家として「偽」のレッテルが張られたも同然だろう。

国会論戦が始まり、野党による与謝野氏追及の矢が放たれた。民主党の経済政策を批判し続けた人が内閣の経済財政政策の柱になったのだから、その遊泳ぶりが標的にならないわけがない。

偽装ブリは築地市場のプロに見破られた。目利きはどこにもいる。政界の真贋を見分けるのは有権者だ。プロではなくて時に気まぐれだが、最強のアマチュアである。ごまかせると思ったら痛い目にあう。

漫才

2011-02-09 08:22:31 | Weblog
亡くなった漫才喜味こいしさんは、不思議な声の持ち主だった。ドスの利いた塩辛声、浪曲や演歌が似合う声だが、兄の夢路いとしさんと、穏やかな春風のような笑いを披露した。

二人は高座で「僕」「君」と呼び合った。漫才を愛する関西には縁遠い言葉遣いだが、筋目正しい日本語である。美しい言葉遣いが、こいしさんの悪声を個性あるツッコミに変えた。

精進あっての芸の力であろう、この国の首相も、残念ながら美声には縁遠い。先日の国会演説も「イラ菅」のあだ名が何度も頭をかすめた。最大野党の党首の声も、同様にかん高い。

あくまで印象だから異論、反論はあろうが、世にもてはやされるのは、もっぱら「低音の魅力」である。声も顔も、親からもらいものである。が、40歳を過ぎたら自分の顔に責任を持て、と言われる。

声もそうだろう。こいしさんは、生まれ持った悪声を芸の力で生かして見せた。「今度こそ熟議の国会」だそうである。かん高い声同士が「この国のため」とやり合っても、騒動しいだけに違いない。そんな予想を、たまには見事裏切ってもらいたい。