デジカメぶらりぶらり

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市民の顔

2011-08-31 13:13:57 | Weblog
「追われて辞めるんじゃないから、石橋湛山や田中角栄のような立派な退陣の弁を語ればいい」と、側近の議員が菅首相に進言していたという。

湛山氏は別として、角栄氏が「追われて」の辞任ではなかったとは知らなかった。菅首相も自分が「追われている」事実を分からないほどトンチンカンでもなかろうが「やるべきことはやった」との退任の弁からは、現実がよく見えていなかった可能性がうかがえる。

首相になったら見えなくなるものが三つあるという。ひとつは「カネ」。自由に使えるからありがたさ見えなくなる。二つめは「人」。周囲から都合のいい情報しか入って来ない。三つめが「国民の顔」。有権者が何を求めているか分からなくなる。

菅首相も例外ではなかったようだ。被災地の人々の顔が見えず、取り巻き議員の報告で自分が「追われている」自覚がなかった。3カ月の居直りによってどれだけ国政や外交に弊害を与えたか。

国民ほどには見えなかったに違いない、市民派を自称しながら市民の顔が見えなかったのはなぜか。いつか巡礼の旅に出るのなら、その答えを求めて歩いてほしい。

モラル

2011-08-29 07:34:59 | Weblog
暴力団と関係して引退した芸能人いわく、不適切な交友関係はモラルの問題であり、法に違反してはいない。後輩への示しがつかないから最大の罰を自分に科した。

と、政局のニュースを見ようとつけたテレビで延々と会見が続いた。おかげで民主党代表選の報道は後回しになった。

どちらが大事かなどと野暮は言わない。テレビにはテレビの論理がある。モラル違反に自ら示しをつけたとの弁も単純明快だった。が、モラルとはしょせん基準のない社会的な縛りである。

その芸能界のモラルと同一視するわけではないが、モラル以上に重いはずの「法律」に違反した政治家の示しはどうなるのか考えた。不適切な献金を受け取って外相を辞めた前原議員が民主党代表選に出馬を表明。

この問題は「近く国民に説明する」という。後見の経済人も動き始め、支持する閣僚も現れた。党内は過去の違法献金におおむね寛容のようである。示しのつけかたは人それぞれだ。

生きる世界で異なって当然だが、モラルの縛りより法律が軽くみられるような法治国家がまっとうなのか、この際考えておいた方がよくはないか。

水筒

2011-08-27 07:00:08 | Weblog
「腰につけた水筒の水を忘れて、砂漠をさまよう」という警句がある。自分の中に困難を解決する力があるのに、他人に頼りがちになるのを戒める言葉だ。

昨年の「金沢学」で講演した民族研究家の結城登美雄さんは各地の農山村を訪ね歩く研究家だ。「限界集落と呼ばれる地域にいる。まっとうな人々の所へご用聞きに行く」のが仕事だという。

地産地消や特産品作り運動も「金を掛けて新しいものを作るより地元のことを知るのが先決」だと言い、ふるさと学習に似た「地元学」を提唱してきた。自分の特徴を生かしてこそ、魅力的な品物が誕生するとの信念である。

過疎の原因はどこも同じように見えるが、住民の願いや悩みはそれぞれ違う。その違いを大事にし、引き出すのが地元学の役割である。「地域おこし」が自分の個性や潜在力に気づくことから始まるのと同様に、震災復興も「住民の心の立ち上がりが必要」と結城さんは考えている。

東北の人たちが自分の力を信じ、地道な研究が震災後の荒野を行く旅人の、水筒の水になるよう願っている。

歴史

2011-08-25 07:37:09 | Weblog
私たちの終戦記念日は8月15日。米英や旧ソ連のそれは、9月2日。二つの日が招いたゆがみが今も日本外交に影響を与えている。

8・15を境に、わしたちの周囲では戦争を語り継ぐ声も平和を訴える叫びもピタリとやむ。が、いくさは終わっていなかった。シベリヤ抑留や中国残留邦人などの悲惨な出来事が起こり、悲劇は9・2を過ぎてもまだ続いた。

歴史を学ぶ難しさをあらためて知る、降伏文章に署名した重光葵外相の歌がある。「願はくば御国の末の栄行き我名さげすむ人の多きを」。占領を受け入れた私を軽蔑してほしい。仕方あるまい、という同情は無用。祖国再建と繁栄のために、自分は歴史の汚点になろう。

こんな覚悟の為政者がいたのである。さげすまれても本望、という高い志が歴史に名を残し、手柄を焦る昨今の為政者は汚名を残す。皮肉な真理も教わる。

新幹線

2011-08-22 08:15:58 | Weblog
京都から乗った湖西線経由のJR特急が台風に巻き込まれて各地で立ち往生、金沢まで7時間かかったことがある。

いつもなら2時間余りで着くのだから3倍以上。うんざりしたが、半世紀前の中学の修学旅行は夜行列車で京都へ行ったことを思い出した。

今はトラブル続きでも7時間で着くが、当時は半日かかって京都についたのだった。考えればこれは大変な進歩である。関西を遠ざける難所が今庄と敦賀の峠だった。

峠の線路を斜線状に上がる「スイッチバック」も今思えば貴重な体験だった。その峠をくぐる北陸トンネルが完成して今年で50年。難工事だったという。

「鉄道は近代文化の象徴であり、文化遺産だ」との話があったが、まったく同感だ。鉄道は人生の「記憶遺産」でもある。

蒸気機関車も特急電車も多彩な物語を持っている。やがて登場する北陸新幹線はどんな物語を生むのだろう。開通へ胸膨らませるのは子どもたちばかりでない。

船頭

2011-08-20 08:36:22 | Weblog
天竜川の川下り船転覆事故で不明になった船頭が66歳だったことに、一種の感慨を覚えた人も少なくなかろう。

ベテランかと思ったら経験はわずか3年。かじ取りは3月に始めたばかりの「新人船頭」だったいう。66歳で新人とは厳しい。「頭ではなくしっかり体で覚えるまで経験を積むしかない」との同業者の指摘が重い。

かじ取りになるための必要な練習時間や規定もなく、国家資格は不要だというが、国家資格が必要なら、成り手はいるだろうか。同業者が言うように、免許があればいいという仕事ではなく「経験に勝る資格」はないはずだ。

「村の渡しの船頭さんはことし60のおじいさん」の歌がある。ひと昔まで60歳で「おじいさん」と呼ばれていた世代は、船頭一筋で生きられた時代だった。今の60歳はとても「おじいさん」とは呼べないが、還暦過ぎてから転職せざるをえない世代である。

事故はその厳しさを浮き彫りにした、川下りはスリルを求めてあえて渦に突っ込むという。失敗した責任は大きいが、馴れぬ仕事に挑戦し続けた「老船頭」を思うと、ここは経営責任者の重さの方を問いたい。

ふるさと

2011-08-18 08:13:31 | Weblog
ふるさとで暮らす身に旧盆の帰省は無縁である。一度、入れ替わって帰省気分を味わってみたい。今年も、そんなことを思った。

笑顔で出迎えられ、心尽くしの料理を出され、期待にたがわぬ土産を手にして帰る。渋滞の辛抱を差し引いても、お釣りがくる楽しさだろう。

滞在中は二つの言葉を口にすればいい。「変わったね」と「変わらんね」。それで大概用は足りる。新幹線を待つ今、街の姿は変わらない方がおかしい。懐かしい土地の味は簡単には変わらない。

当たり前の言葉に、相手は愛想よく相づちを打ってくれるのだから、さぞや快適な日々だったろう。ふるさとを離れると、その良さがしみじみ分かるという。

故郷を「帰るところにあるまじや」と歌った室生犀星も、実際は結構帰郷したと聞いた。土地に住む者に望郷の思いは分からないが、震災の年は、帰省がかなわなかった人、つらい帰省をした人の悲しみに思いをはせる旧盆でもあった。

被災地のことを思えば、いつも通りの里帰りの光景がありがたく思えた。「渋滞ごとき不平は言えぬ」。そう言い残して、わが親族たちも帰っていった。

何か持っている

2011-08-16 09:41:17 | Weblog
「何かを持っている男」とは、日米通算500本塁打を達成した松井秀喜選手のことではないか。「何か」とは、節目を飾る力である。

プロ2年目に20本でホームランバッターを証明、10年目には50本で球史に名を刻んだ。ヤンキース時代最後のワールドシリーズも「何かを持っている男」が起こした奇跡だった。

甲子園での5打席連続敬遠も、仮に5打席中4打席敬遠ならば伝説にはならなかっただろう。19号の後は20号、49号の後は50号、499号の次は500号。節目もただの通過点と言えばそれまでだが、逆に、19本、49本、499本で終われば値打ちが薄れる。

もう一本を越えてくるのがすごいのだ。金字塔と呼ばれる記録は単なる数字の積み重ねではない。大リーグへの道を開いた野茂英雄もイチローもそうだった。みな静かな男たちである。

絶頂期におごらず、低迷期にくじけず、自分を信じて努力する。その静かなる情熱が記録として残り、記憶となって人々の胸に刻まれる。スポーツがもたらす感動は想像以上に大きい。

社会の雰囲気まで変える。なでしこからゴジラへと、味わい深い連鎖反応だ。


英国

2011-08-14 05:48:02 | Weblog
英国の暴動は政治性が薄く、破壊と略奪が露骨だという。高い失業率や人種差別が背景にあるとされる。

暴動はその国の弱点や恥部をあぶり出す。大震災で日本の治安の良さが世界に伝わった。略奪も暴動も起きていないことが評価された。もっとも、被災地の空き家から家財が盗まれ、金融機関の現金自動支払機が荒らされるなどの犯罪はあった。

そのマイナスを埋めるほどの助け合いが見られたからの称賛だった。6千万円を着服した男の出頭理由が報じられていた。「被災地で苦しんでいる人がいるのに、自分はいったい何をしているのだろう」との自責の念からだったという。

どこまで本当か分からないし、それで罪が許されるものでもないが、被災地を思う心があるうちは救われると思えるニュースだった。復興は延々として進まず、放射能汚染の難問が次々噴き出す。

政治の混乱は続き、政治不安も解消されていない。だが、日本人の心の荒廃はなかったと信じたい。気弱にもなっていない。長い道のりの一里塚でしかないのだ。逆境をバネに前に進みたい。

北前船

2011-08-12 06:07:42 | Weblog
復元・北前船「みちのく丸」炎天下の波止場に太い帆柱が陽炎のように揺れていた。江戸期、こんな木造船で日本海の荒波を越え、北陸のコメを大阪まで運んだ先人の勇気にあらためて感心した。

折も折、大阪でコメ先物取引が復活した。加賀藩の歴史と21世紀の経済ニュースがこれほど具体的に結びつく例も珍しい。大阪に淀屋橋の地名を残す豪商・淀屋が創設した制度と言われえる。

そのアイデアの元となったのが加賀藩の海運であり、3代藩主前田利常が「西回り航路」確立前に加賀と大阪間の独自ルートを開き5代綱紀が継承した。百万石の威力は米相場で最もその力を発揮した。

幕府が公認したのは1730年だが、いわば淀屋と加賀藩の連携で動かした制度であり、北前船あってのことだった。先物取引復活は問題も多いとされ、大阪市場では北陸のコシヒカリがストップ高となるなど波乱の幕開けとなった。

だが、「みちのく丸」入港は絶妙のタイミングだった。大阪のコメ取引は世界最初の商品先物取引になったとも言われる。