デジカメぶらりぶらり

デジカメのほやほやの写真をご覧下さい。

2010-03-30 07:52:19 | Weblog
バスに乗り合わせて、傘を忘れてきた。弁当を忘れても傘を忘れるな、という気候はまだ続く。その戒めを知っていても、こんなことを繰り返すようでは先人に笑われる。

井上陽水さんに「傘がない」という歌がある。40年近く前に流行し、オジサンたちは今も口ずさむ。「都会では自殺する若者が増えている」と歌い出し、それよりも問題は今日の雨で、傘がない。それでも「君に会いにいかなくちゃ」と続く。

社会問題よりも恋愛ざたが大事か。いや、その逆を主張しているのだ、などと議論もした。
歌は、今の若者にも人気があるという。感心なことだ、と思ったが、都会だけでなく自殺の歯止めが利かない時代である。

身につまされるような歌に今も若者が引かれるのに、関心している場合ではないだろう、弁当や傘を忘れても、簡単に買い求めることができる。

忘れ物の不便は、あっさり解消できる便利な時代だが、こんなことでは心の緩みはなかなか治るまい。物や命までも粗末に扱う危うさも生んでしまう。

便利さは、人を賢くするとは限らない。ありがたい時代なのか、そうではないのか。


鹿

2010-03-28 06:44:48 | Weblog
奈良公園の鹿が洋弓で射貫かれて死んだという。奈良の鹿は国の天然記念物である。犬に襲われて死ぬことはあっても、人の矢に刺さって死ぬことは聞いたことはない。

奈良市民は早起きだという。江戸時代の話だが、神の使いとされた鹿が倒れていたら大変。責任を問われて死罪になるので、そっと隣の軒先に移したという。

こんなマクラで始まるのが落語「鹿政談」である。早起きの豆腐屋さんが犬を追い払おうと投げた木が鹿に当たって死んだ。お奉行は人命を優先する人だった。

「死体は鹿に似ているが犬である」と言う。正直者の豆腐屋は「いえ、鹿でございます」と言い張る。そこで一計を案じ「鹿を犬」にする名裁きの話である。

一頭の鹿が死んだぐらいいで騒ぐなとの声もあろう。が、人間の周りにいる動物が異常な形で殺されるのは、しばしば人命が犠牲となる事件の予兆となる。

何匹もの猫が惨殺された神戸の少年事件がその一例だ。昔の「生類憐れみの令」が歪んだ権力の反映だったように、現代人と同居する動物の受難は社会の歪みを映す鏡だ。そこが怖い。

あたる

2010-03-26 07:38:01 | Weblog
「あたる」「もらう」の言葉が日本中に聞こえる。子ども手当。高校授業料無償化。エコポイント。もらえて結構、あたってありがたいが、心から喜べない響きがある。

生活弱者への手当は必要だ。心ならずも貧困状態にある人に国が手をさしのべるのはいい。だが、年金まで「あたる、もらう」とはおかしい。

社会に十分尽くした世代の権利である。国からの頂き物ではない。「あたる」「もらえる」感覚の広がりは、なんでももらって当たり前の思考をはびこらせ人間の活力を奪わないか。

「国が何をしてくれるかではなく、国に何をできるかを問う」と言った演説の感動は遠くなるばかりである。母親から巨額資金を「もらった」首相だけの責任ではないが、鳩山政権の成長戦略のなさが指摘されている。

成長戦略とは、景気をよくする経済政策だけではなかろう。精神文化面からも、社会が前向きになる雰囲気づくりは必要だ。

「もらう」や「あたる」の気分は、じわじわと社会から活力を奪うようで心配だ。福祉政策を否定するのではない。あすの日本のためにならないと思うのである。


黒板

2010-03-24 06:15:42 | Weblog
先の富山県立高入試の国語に「自分が黒板になったつもりで」との作文の一例があった。15歳の春の、どんな学校物語が描かれたかのか気になった。

「黒板に向かって一回転したと言えば、私の伝記は尽きる」と言ったのは哲学者の西田幾太郎である。学生時代は黒板に向かって座り、教師になってからは黒板を背にして立っていた。そんな一生だったという意味だった。

黒板は教育と切り離せないものであり、生徒と先生を結び付ける大事な教材である。最近は電子黒板などというハイテク教材が登場し、図面やイラストも自由自在に描ける。

先の事業仕分けで普及用予算がカットされたが、いつか黒板に取って代わるだろう。が、ハイテク機器で教師は人生を語り、生徒は恩師を思い出してくれるだろうか。

「私は黒板。風前のともしびです」とのつぶやきが聞こえてくる。


マグロ

2010-03-22 06:48:13 | Weblog
クロマグロの禁輸を覚悟しなければならない状況になりつつあるという。国際会議で日本の言い分に耳を貸さぬ国が増えているのである。

パンダやシーラカンスのように、絶滅の恐れがあるそうな。確かなことは、禁輸という締め付けが強まっていけば、魚より先にマグロ漁は「絶滅」する。

地球にやさしい人たちは、えこひいきして特定の国や職種をいじめて平気なようである。ゲンゲなる魚が近年、北陸で好まれる。コラーゲンに富み、揚げ物や鍋などに好まれる。

見掛けは悪く、ヌルヌルした手触りが敬遠され、見向きもされなかった魚である。マグロのトロにしても、しつこい油が嫌われ長い間、捨てられてきた。

マグロが遠ざかるのはさみしいが、身をよじって嘆くほどでもない。ゲンゲもそうだが、身近に美味はいくらもある。それに気付く好機でもある。

それでも、海の向こうの禁輸騒ぎが心配になる。資源管理を怠っておきながら環境保護をとなえ、さまざまな漁業や食文化を絶滅に追い込む。そのおかしさに、とんと気付かないようである。

不思議

2010-03-20 07:05:31 | Weblog
不思議なことが世の中にはある。フグの毒自体も、いささか不思議である。蛇やサソリのように、外敵退治の毒ならば、なぜ腹の中にあるのだろう。

見事に敵を倒せるが、そのためには腹を食われて自分も死んでしまう。「自爆テロ」のような毒である。毒キノコもそうである。わが身を犠牲にして、毒の威力をしらせる。

加えて、毒々しい姿だから危険、というわけでもない。毒の有無は見掛けによらない。人間社会みたいである。

毒針をかざしてくる敵も怖いが、もっと始末に負えない、ぬか漬けのフグの子は、3年ほどで毒が抜けるという。そんな猛毒を消す魔法を見つけて久しいのに、またぞろカネの毒がまわる政治不信を嘆く日々である。

果たして私たちは、どこまで利口なのだろうか。そう考えると、頭の中がしびれそうになる。

2010-03-18 06:43:30 | Weblog
自民党の大島幹事長が若手議員から「テレビに映る顔が怖い。芝居がかかっている」といわれ「気を付ける」と答えたそうだ。

40歳を過ぎたら自分の顔に責任を持てと言われる。芝居がかった顔を直すなら気の付けようもあるが、還暦を過ぎた大島さんの顔がそう簡単に変わるわけもない。

最初は低姿勢だったものの後で逆ギレしたという。さぞ怖い顔だったろう。政治家の顔がこの10年で急激に変わった。佐藤、田中、三木、福田、大平など歴代首相の顔を思い浮かべてみればいい。

安倍元首相や現在の鳩山首相、谷垣自民党総裁の顔とはまるで違う。大島さんは失われていく「古典的」な顔である

政治家だけが変わったのではない。戦後日本人の顔が急激に変化した。平たくて大きな顔が小なくなった。食生活や暮らしの変化が顔に表われたといわれ、いまや芸能界ばかりかスポーツ界までイケメンぞろい。

人間の顔は時代とともに変わる。政界だけが例外ではない。30代40代の議員の顔を見れば一目瞭然である。中身を問わず、テレビ映りや外見だけで政治家が評価される風潮こそが本当に怖いのである。

連休

2010-03-16 07:35:08 | Weblog
日本を5分割して順番に年2回5連休を取る計画を立て、政府が各界の意見を聞いた。行楽地が混雑せず経済効果も上がるというのである。

秋に「国民祝日法改正案」が提出される所まで話が進んでいる。今春を例にあげると、北陸の5連休は5月15日土曜から19日まで。

次いで関東や東北、北海道の連休が始まる。花見の遅い地域は5月末がちょうどいいと言うわけだ。いらぬお節介である。そんな行楽カレンダーが可能と思っているのだろうか。

長い歴史に育てられた祭事や農林水産業と密接にからんだ春秋の休日である。お上が民に提示する性質のものではなかろう。息子娘が連休に帰省したら、ふるさとの親は仕事で大忙しだったということが起きる。

企業も支店や工場間で休日が異なることになる。不透明な内需拡大・雇用創出を錦の御旗に、伝統や習慣を犠牲にするのは本末転倒。ひょっとして「道州制」の試運転か、昔からの暦の支配は国家権力行使の一つだった。

が、平成の世では権力の乱用もここに極まるといった感がする。そのうち盆も正月も地域ごとに別々にやれと命令が来ないか心配になる。

イルカ

2010-03-14 06:46:06 | Weblog
イルカ魚批判映画が作成され、訳の分からない「ザ・コーブ」が米アカデミー賞を受賞したという。ルール無視の隠し撮りが、果敢な潜行取材という褒め言葉になる。
 
ものは言いよう。うさんくさい話は、聞き流すしかない。ムキになって言い返しても、疲れるだけである。

反捕鯨団体は、鯨がかわいそうだと叫ぶ。相手は、人間が束になってもかなわない最大、最強の生き物である。おそれ、敬う気持がわくはずである。

声高な「保護」には、自分たちこそが最強の支配者であるという思い上がりがプンプンする。そんな手合いは、風向き次第でふらつくもの。

大食漢の鯨が増えすぎると、ほかの魚たちが危なくなる。もし、そうなったなら、今度は真っ先に鯨を殺せ、と呼びかねない。やはり、うさんくさい。

寂しい

2010-03-12 07:39:32 | Weblog
なくなると思うと寂しい。それまで放っておいた人まで「惜しい」と言う。消えゆく街の銭湯、古い映画館、そうして地方の鉄道。

特急「北陸」と急行「能登」が今日の夜の出発で消える。鉄道ファンが押し寄せるため警戒態勢をとる騒ぎになっている。

幾多の改編を経て北陸線経由で東京と大阪を結んだ歴史を待つ夜行列車だ。惜しむ声も分からぬではない。ローカル線が廃止されるたびに、利用者切り捨てと運行者が責められる。

が、乗客が減れば退場するのが消費社会の掟だ。責めるなら「なぜ、もっと利用してくれなかったのか」と皮肉な思いがしないでもない。別れを惜しむのはほどほどに、再生への旅立ちの日としたい。

3月、駅は別れの舞台となる。家族と離れる寂しさを思いながら、暗い夜にホームを離れる最終列車も、着くのは明るい朝の駅である。新しい世界が待っている。入試と合格発表が続く今週末。それぞれが乗り込む青春列車に幸多かれと祈る。