デジカメぶらりぶらり

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パチンコ

2010-07-31 06:35:10 | Weblog
映画、「寅さん」のおいちゃんはパチンコ好きだった。「雨の日はパチンコの出がいいなんて、バカじゃないかね」と、おばちゃんに笑われていた。

雨の湿気で玉が釘にかかるとか、板がしなって入り易くなるとか。考えてみれば分かりそうなバカな話である。

パチンコ攻略法と偽り、根拠のない情報を高額で売り、根拠のない情報を高額で売り、保証金の名目で現金をだまし取る行為が相次いでいるという。

賭け事の「必勝法」なるものでだます商売はいつの時代にもあった。昨今のパチンコは使う金額が大きくなった分だけ標的になる。

被害者につけいる「救済サイト詐欺」まで登場するとは、世知辛い現代の縮図のようである。業界は「必勝法は絶対にない」と言う。それに尽きる。賭け事に必勝法はない。あれば賭け事にはならない。

痛い経験を積んで少し分かった。「バカだねぇ」と軽く笑われる。お遊び適度にしておこう。

昔話

2010-07-29 06:49:44 | Weblog
幼い子供が祖母や母親から昔話を聞きながらスヤスヤと眠っていく。「幸せとは何か」と問われたら、こんな場面を思い浮かべる。

話を聞きながら眠った子は、やがて絵本の読み聞かせをねだるようになり、そのうち、自分で本を選んで手に取る。

毎年、絵本ワールドに集まる親子の姿に「読み聞かせ」の大事さを思うのである。聞くという体験は自分の力で伸びるための種まきかもしれない。

昔々、大衆がまだ文字が読めなかった時代、街角に立てられた役所の御触書の前に人々が群がって高札を読む場面が時代劇にでてくる。あれは虚構だそうだ。

実際は役人が民衆に読んで聞かせたのだという。「読み聞かせ」とは「読んで聞かせる」ことでもあり、読み手と聞き手の間に信頼や絆がなければ成り立たない。

文字文化の誕生以前からの伝統が、今も絵本の世界に生きている。難しい話になってしまった。ふーん、それからうしたの?と、子供たちから聞かれそうだ。

自分で調べてみようと答えようか。本のある、新聞もある。声を出しながら家族に新聞を読んで聞かせたおじいさんもいた。

アナログ

2010-07-27 05:53:46 | Weblog
1年前倒しで、石川県珠洲市と能登町の一部のアナログ放送が7月24日で終わった。日本最初どころか、アジア初というから、ちょっとした歴史の節目である。

ラジオ全盛期に「一丁目一番地」という人気番組があった。テレビが登場すると「バス通り裏」が人気番組になった。

ラジオからテレビへの移行をつないだのは家庭と地域の絆を描いたドラマだった。が、やがて家族が消え、温かい地域が消えて行った。

いま「一丁目一番地」と言えば、政治の最重要課題を指す。あることを優先すれば他の課題が消える二者択一のアナログからデジタル移行に似ている。

高度成長以来、便利さや効率化を求めて大事なものまで捨ててしまったのではないか、取り戻せるなら取り戻したい。時代を区切るデジタル移行にそんなことを思う。

猛暑

2010-07-25 07:16:03 | Weblog
ゲリラ豪雨の不安が去ったら猛暑の到来。熱中症による犠牲者も出た。度が過ぎる季節の変わり目である。

「言うまいと思えどきょうの暑さかな」が続く。暑いと文句を言ったところで、逆に不快さが募る。不意打ちの豪雨に続き、熱中症による悲報が届く。

なぜもっと穏やかな日々が訪れないのだろう。「地球に優しい暮らしを」という大合唱が広がった途端、皮肉な仕打ちのような天候異変である。

環境対策が不十分だと、天は怒っているのか。言葉とは裏腹に環境破壊が進むことに対する警告か、地球に優し暮らしなど、どだい無理な話ではなかろうか。

美しいせりふと大言壮語は、紙一重である。「聞くまいと思えどきょうも『地球に優しい』かな」の日々である。ほらを吹くだけなら、天も機嫌を損ねるに違いない。

ダイジェスト

2010-07-23 07:03:07 | Weblog
テレビの生中継が中止になったので、大相撲のダイジェスト番組を見ている。勝負の結末は分かるのだが、なぜか物足りない。

省かれたのは、決まり切った四股(しこう)の所作や仕切り直し、勝ち負けに直接関係はないが、そんなしぐさも楽しんでいたことに気が付いた。

大相撲は、ショーの味付けたっぷりの格闘技なのである。時代遅れのまげにまわし姿は、スポーツ選手というより不思議な芝居の役者のようである。

仕切り直しも、時間の浪費のように思えるが、無駄や遊びのような振る舞いも、相撲の楽しみである。取組前に土俵入りがあり、豪華な化粧まわしを披露する。

力士は勢ぞろいすると、くるりと背を向け、丸出しのお尻を客に向ける。見ようによってはおかしな姿である。化粧まわしは、役者の美しい衣装に似る。

人並み外れた足腰をさらすのは、力士の誇り。勝負事と興行という二つの魅力がよく分かる。不祥事で土俵に上がれない力士が何人も出て、角界立て直しの取り組みが続く、ファンはさぞ不愉快だろうが、場外で延々と続く協会の仕切り直しの方が、ダイジェスト版よりもよほど面白い。

ジェットコースター

2010-07-21 06:20:45 | Weblog
「私の人生はジェットコースターのよう」と言ったのは、W杯サッカーで、評価が激変した日本代表の岡田監督だった。

急降下の跡は急上昇、一寸先が見えないのが人生だと「頂点で高級ビールを飲んでいたのが、どん底では発泡酒になった」と笑わせながら「失敗しないと分からないことがいくらもあるから、自分でトライ、挑戦する」という。

サッカーW杯終了と同時に参院選の幕も下りた。V字回復したはずの民主菅内閣の評価はジェットコースター並みに急降下し、一寸先はヤミの政治の世界を証明して見せた。

勝利の美酒のはずが苦杯に変わった。参院選の民主敗北は、消費税問題に挑戦した結果だと首相は認めている。敗れはしたが消費税増税論議のスタートラインに立ったとも言う。が、それでは抗弁が過ぎる。

増税を言った自分は悪くなかった。悪いのは増税の意味を理解しない有権者と言わんばかりだ。敗北から学ぶべきは、今の不況下で消費税増税を持ち出すことを危ぶんだ有権者のバランス感覚だろう。

その反省がなければ、同じ失敗を重ねることになる。

ちゃんぽん

2010-07-19 07:05:57 | Weblog
一つの器にうどんとそばが半分ずつ入った「ちゃんぽん」があるという。JR富山県の高岡駅構内の名物メニューの一つである。

「作法」が分からないのである。うどんと交互に食べるのか。片方を平らげてから、次のめんに取りかかるのか。最初に二つをかきまぜて、一緒に味わうのか。

すきに食べればいいのだろうが、常連客から「あんたの食べ方は筋違い」と説教されそうな予感がする。

大物俳優2人を主役にするドラマ作りは、神経をすり減らすそうである。めん類の王者共演も、味わうのに気を遣う。

もっとも、チャンポンは私たち日本人の得意技の一つで、西洋渡来の生地に和の美味を包んだあんパンがその代表選手。

日本画の絵の具で外国の風物を描く人気画家も大勢いる。日々の暮らし自体が、和洋圻衷である。国会も、与野党チャンポンになった。

それが有権者の声なのだから、せっせと圻衷の仕事に励んでもらいたい。意のままにならぬ「なじれ」ばかりを嘆くのは、筋が違う。チャンポンの料理人やあんパン職人の腕を見習うといい。

逆さ地図

2010-07-17 05:53:36 | Weblog
日本海を中心に南北を逆にした「逆さ地図」(環日本海諸国図)が売れているという。15年前に富山県が発行し、いろんな本でも紹介されている。

気の利いた逆転の発想が浮かんできそうな地図である。日本列島は島国というよりも、大陸に通じる大動脈に見える。日本海の拠点を、北陸が大威張りで占めている。

南北を逆転するだけで、海は狭い湖のように見える。逆さ地図は、対岸諸国から引き合いが多いという。日本海交流、大いに結構である。が、北方領土でのロシヤの軍事演習や、中国海軍の不穏な動きが報じられる昨今、「待てよ」とも思う。

子供のころ、校庭の鉄棒に逆さにぶら下がり、あべこべの景色を楽しんだ。程なく、血が下がって頭が痛くなった。秀逸な発想は、「平和利用」だけを促すのではない。用心が肝要かもしれない。

2010-07-15 07:26:06 | Weblog
事業仕分けで無駄遣い扱いされそうになった理化学研の次世代スーパーコンピューターの愛称が「京(けい)」に決まった。

1秒間に1京回の世界最速の演算を目指すという。億の次の数値が兆。その1万倍が「京」である。実社会で使うことはほとんどない。凡人には理解不能だが、仏教界では極楽浄土までの距離は「京」を使うと分かりやすいと言う。

東洋の知識は奥が深い、漢字の「京」は、すごく大きいという意味で、魚偏に京と書けば鯨。京都も大きな都と理解できる。数値でありながら、数式に使うよりも天文学的で抽象的な思考を支える言葉のように思える。

藩政時代、北前船が遭難してハワイ沖で米国の捕鯨船に救われた。富山の船頭が「10万億土」や「1千億年」に相当する数を知っていて、米国側を驚かせたという。

加賀藩の教育水準の高さを示す話でもあろう。船頭だから数字に強かったろうが、一介の平民がそこまでの知識を持っていたことが驚きだったのである。無限の可能性に挑むには1番を目指すしかない。

頂点の高さがすそ野の広がりを示すのである。

はやぶさ

2010-07-13 07:22:23 | Weblog
宇宙を旅した「はやぶさ」のカプセルの中に、小さいほこりがあったと報じられた。小惑星探索の貴重な土産の可能性がある。

長径0.01の微粒子を手掛かりに、宇宙の謎に迫る。砂ぼこりを相手に、そんなことができるのか。先端科学の挑戦と、大風呂敷を広げたような話との境目が、素人にさっぱり分からない。

が、あの「はやぶさ」のほこりとあれば、おろそかにはできまい。吹けば飛ぶようなほこりでも、拍子悪く目の中に飛び込むと始末に悪い。涙を流して苦しむことになる。

確かに、大小だけで物事の値打ちは決まらない。間もなく行使するわが1票も、有権者の中では、さながら超微粒子。

全国で1億を超す「民意」からすれば、ちりほどに映る。民主主義とう学校は、そんな1票を粗末にするな、と教える。ちりを手にした科学者も、そう言う。

大切だが、正体を究めるには時間がかかり、「登山に例えるなら、まだふもとだとも」だとも。難題を克服した「はやぶさ」の科学者の言葉は、示唆に富む。政治の歩みも、まだふもと。

わが1票も、大切な宇宙のほこりになればいいのだが。