デジカメぶらりぶらり

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センセイ

2010-06-29 06:20:55 | Weblog
あの坂本竜馬が「先生」を「生生」と書き間違えた手紙の下書きが発見されたという。大政奉還に向けた後藤象二郎あてだったので緊張したのではないかとの声があった。

そうだっただろうか。別の解釈をしたい。例えば、竜馬は象二郎など「先生」と思っていなかったからではないか。あるいは、単なる呼びかけで「先生」と書こうとしたので、雑になったのではないかなど。凡人にもよくあることだ

中国へ旅行すると、だれでも「先生」と呼ばれる。真剣な敬称ではなく、名前の知らない相手は皆「先生」にするようだ。聞き流せばいいのだが、あまり続くとこそばゆくなる。

先生と呼ばれるほどバカじゃなし、と色っぽい女性に「先生」とよばれて鼻の下をのばすセンセイもいる。選挙に落ちた政治家は「センセイ」から「ただの人」になる。

最近は逆で「ただの人」が「センセイ」になるから、ややこしい。政治に命をかけた坂本竜馬を尊敬する政治家が多い。恥ずかし気もなく「命がけでやる」と言う議員を見ると、こちらが恥ずかしくなる。

「センセイ」のイスを守る人、奪還をめざす人、入り乱れての暑い日が始まる。

W杯サッカー

2010-06-27 06:04:51 | Weblog
W杯サッカーで日本が勝とうが負けようが、明日のわが身に何のかかわりもない。が、
血が騒ぐのである。

快進撃で、応援の熱はどんどん上がる。やじ馬の信条は単純である。勝てば官軍、それで良し。岡田監督の手腕や木田選手の「大口」に首をひねったことなど、どこかへ消えた。軽すぎる尻が相当くすぐったい。

やじ馬は、熱しやすく、さめやすい。負けた途端、応援席で辛口の評論家に宗旨変えする。周囲の尻馬に乗って、監督や選手を批判する。

「こんな割の合わぬ仕事はない」。やじ馬に悩む岡田監督の口癖だそうである。本田選手の活躍で、白熱の試合がまだ続く。もう一つ、国政選挙という戦いもある。

来月にはその決着を深夜まで見守ることになる。やじ馬は忙しい。いや、選挙は明日の暮らしにかかわるのだから、断じてやじ馬ではない。

そうではないが、やじ馬評論家は結構いる。1票を投じた責任を棚に上げ、選挙結果を誰かのせいにして政治の貧困とやらを嘆く。そんな悪い癖から、少しずつでも手が切れないものか。

イワシの頭

2010-06-25 07:13:16 | Weblog
「イワシの頭も信心から」と言う。とるに足らないものでも、信じてしまえば尊いものになる信仰心の一側面を皮肉っぽく表現している。

奈良の興福寺南大門跡で、地鎮祭に使った壺の中から魚の頭の骨が見つかり話題になっている。以前、同じ場所で発見された金塊や水晶玉はいかにも地鎮祭らしい供物だが、生臭い魚の骨に仏教関係者は戸惑っているという。

金沢城の本丸付近からは数百年前の馬の頭蓋骨が出てきたこともあった。何らかの祭祀に使われたと推測された。「イワシの頭」も単なる比喩ではなく、馬の頭と同様、神に捧げる供物だったのかもしれない。

魚だろうが馬だろうが「頭の骨」は、人々が「かしら」に安定を託して祈った象徴であり、水晶や金塊はその代用品とも言われる。

政党の首がすげ替えられ、選挙という名の祭りが始まる。こちらは元々生臭く、公約という名の供物が、とるに足らない「イワシの頭」になり果てることも珍しくない。国民の信を裏切らない戦いを祈る。

同窓会

2010-06-23 07:08:04 | Weblog
同窓生から一国の首相が出ればうれしいかろう。が、1番うれしいのは出世頭の本人であろう。管直人首相が生まれ故郷で得意満面の笑みを見せた。

同窓会は成功者とそうでない者の過酷な振り分けの場となることもある。出席前の心のときめきが、無残に打ち砕かれることもないではない。

だが「長く長く忘れし友に会うごとき、よろこび」は、同窓会ならではである。同窓会出席のために帰郷する人も多い。

昨年、過疎に悩む岡山県のある自治体が、同窓会開催に助成金を出す制度で話題になった。出席者に市外居住者が3割以上いるのが条件だそうだが、同窓会をUターンの足がかりとして人口増を狙う。

還暦を過ぎた人の同窓会では「病気・年金・孫」の3話題が中心になるのはどこも同じ。その3つとは管首相の言う「強い社会保障」「強い経済」「強い財政」を安心・収入・未来に言い換えたようなものだ。

同窓会が地域おこしになり、中高年の愚痴が政策の柱に転化する時代である。自慢話に聞きほれ、成功者に群がる集いでなく、後ろ向きの懐かしさを前向きの力に換える機会にしたい。

3Dテレビ

2010-06-21 06:32:31 | Weblog
サッカーW杯に合わせて3Dテレビ商戦が盛んになっている。弾丸シュートの迫力を見たいと思うが、高級品でなかなか手が出ない。

立体画像まで見られる結構なテレビ時代である。現地の治安を心配しなくても済む。観客席からは豆粒の選手も、別カメラは表情までとらえる。

大事な場面は2度も3度も繰り返してくれる。プロ野球の観客席に、小型テレビを持ち込むファンが大概いる。生かテレビ観戦か、どっちかにしろと思ったが、テレビに映らぬ選手の動きはいくらもあるし、生では分からない微妙なプレーもある。

生と画面という二つの目と耳を使った観戦上手だと、すぐに分かった。テレビと上手に付き合うのが大事と観客席のオジサンから学んだのだが、最近のテレビは扱いにくい。

画像が美しくなって、画面がどんどん大きくなる。本物らしさが増して、部屋で大威張りである。画面の大きさに比例して、とりこになる時間も延びそうである。

上手に付き合いたいが、敵は美しい画像で誘惑する。いくら装っても、映像は本物とは違う。美しく装うのも、ほどほどにならぬものか。

抑留

2010-06-19 06:20:03 | Weblog
日本がアメリカと戦争したのを知らない大学生がいて「どちらが勝ったの」と真顔で聞くという。冗談だと思っていたが、現実にいるそうだ。

先日、シベリア抑留体験者(83)の話があった。「ロシアと戦った」と言ったら「日露戦争の生き残りですか」と言われたという。

太平洋戦争を知らない学生がいるくらいなら、シベリア抑留を知らない若者もいるのだろう。抑留体験者にこんな話があった、強制労働は夜間にまで及んだ。凍るような満月が輝いていた。見張り役の若い旧ソ連兵が自慢そうに言ったそうだ「きれいだろ。日本にも月があるのか?」。

質問の意味が分かっても、笑うどころか悔しかったという。旧ソ連と日本の教育水準の違いを思った。こんな国に敗れたのかと思うと悔しかったのである。

帰国できず凍土の土となったのは6万人以上ともいい、定かではない。成立確実とされた抑留者のための補償法案の行方がさだかではない。

体験者の高齢化が進んでいる。補償以上に大事なのは抑留の歴史を正確に伝えることであり、これも新内閣の仕事である。

田舎芝居

2010-06-17 05:42:37 | Weblog
別れるのか別れないのか。はっきりしろと言いたくなる国民新党、亀井代表の閣僚辞任劇である。「いっそ死ねと言って下さいな」は、泉鏡花の婦系図のせりふだがお今回は「お蔦」のように潔くない。

郵政法案成立の約束を先送りされて亀井代表は閣内を去った。だが、与党として「死ぬ」わけにはいかない。何とも歯切れの悪い別れ方だ。

「郵政あって国民なし」に見える国民新党。一方の民主党は「選挙あって政策なし」のようで、支持率が回復した勢いで参院選に入りたい。

その民主党が戦況で圧勝すれば「捨てられる」恐れもある国民新党は、今国会での成立にこだわった。先の沖縄の基地問題での社民党の連立離脱劇は、身勝手な男に三行半を突き付けた女の物語のようだった。

今回も身勝手な男にかわりはないが、未練がましい女の側も、相当に計算高くしたたかである。民主党と国民新党の確認項目にはこうあった。「これまでの信頼関係を再確認し、信義に基づき誠実にこれを実行する」。

新派大悲劇ばりの、きれいな契りの言葉の裏でだましあう、永田町の田舎芝居を見る思いだ。

ご祝儀

2010-06-15 06:59:36 | Weblog
新内閣の支持率61%は、ご祝儀相場としては高くない。前がひどすぎたから、V字回復に見える。微妙な数字である。テストで61点をとった。ガリ勉だと落胆するが、一夜漬け組なら笑い顔のVサイン。

良くも悪くもとれる。もっとも、政治に満点はない。支持率100%と言わせるのは独裁者である。数字が上がりすぎるのも怖い。熱するのでも冷めるのでもない。

61%という数字は、政治に対するほどほどの期待だろう。大風呂敷に包んだごちそうはいらない。「肴はあぶったイカでいい」という歌もある。ぬるいかん酒をやりながら、お父さんが愛唱する演歌の一節である。酒が進む名曲だが、当地ではあまり調子に乗って歌わない方がいい。

北陸のあぶりイカは、心躍る美味である。「イカでいい」などと粗末な口をたたくと、「あんた、モノを知らんね」と笑われる。あれは、コンクリートの街の住人の発想である。

ほどほどの期待を寄せるにしても、イカの美味を知らないコンクリ頭の政治家から目を離せない。こんなご時世、「新幹線は後でいい」などと、音程を外して歌い出しかねない。

漢字

2010-06-13 06:55:19 | Weblog
追加される常用漢字196字を眺めていたら、気が重くなる。「社会生活で使用する目安」として選ばれたというが、とても「常用」したくない字が目につく。

呪う(のろう)・溺れる(おぼれる)・貪る(むさぼる)・罵る(ののしる)・などが解禁される。曖昧(あいまい)・嫉妬(しっと)・軽蔑(けいべつ)・翻弄(ほんろう)という言葉も、大手を振って通る。

串・鍋・釜・麺というごちそう関係が入ったのが、わずかな慰めか、流行歌は時代を映す鏡だと言う。常用漢字表も、そうに違いない。

暗い印象を帯びる字が増えた。使いたくても、読み書きできなければ暮らしに困る。学校でもちゃんと教える。そんなご時世だと告げられて、心が弾むわけがない。書をたしなむ人に、「裸の字・服を着た字」という言葉を教わった。

技巧に走ると字は服をまとう。着膨れすると見苦しくなる。心を打つのは裸の字だが、それを書にするのは難しい。含蓄のある言葉だが、裸になって暴れてほしくない漢字もある。そんな大軍が押し寄せてきた。

新内閣発足の折、ふさわしい漢字はないものか。茨や(いばらや)・拳は、皮肉がきつい、虹という字を見つけた。梅雨空を払って輝くのか、それとも早晩、はかなく消えるのか。

おしん

2010-06-11 06:48:33 | Weblog
「おしん」という少女の名が忍耐の代名詞になったのは昭和50年代後半のこと。我慢が強く政権が転がり込むのを待った竹下元首相を「おしん政治家」と呼んだほどである。

金沢の百万石行列では本物の「おしん」に会えた。女優の小林綾子さんが藩祖利家を支えた、がまんの妻・お松の方を演じた。よく泣かせてもらった少女の成長の跡を見たい。
忍耐強いのか、すぐいらだって短気なのかよくわからないが、管直人氏が首相の座を射止めた。

党代表選7度目の挑戦だから、がまんの「おしん首相」か。市民運動の元活動家から権力の頂点に上がり詰めたのは、平成の下克上と言えなくもない。「がまんの管さん」だった。

普天間問題で鳩山さんが集中砲火を浴びる中でも無言を貫いた。あの忍耐強さで今があるように見える。「おしん」も最後は立派な女性実業家になる。忍耐は政治家にこそ大切である。

もっとも、百万石まつりが伝えるのは一向宗支配から信長、秀吉政権とコロコロ変わった戦国の歴史である。統治者でなく、国民が一番「がまん」させられる世に終止符を打たねばなるまい。