デジカメぶらりぶらり

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おでん

2009-08-31 07:55:49 | Weblog
コンビニに入ると、もうおでんを売っている。朝晩はしのぎやすくなった。並んだ品に食欲がわく。

とはいえ、まだ残暑は厳しい。昼は冷やし中華、晩酌に友にはおでん。胃袋が戸惑いそうである。里山から早々とクマの出没も情報も届く。

どこかおかしな夏の終わりである。これも地球温暖化の影響、と多くの識者は言う。地球科学という大きなスケールで見ると、逆に地球寒冷化の兆しが見られる、と主張する地質学者がいる。

温まるのか冷えていくのか、結論までには長い時間がかかりそうだが、不順な夏の選挙戦は決着した。

追い込みの街頭演説でも、手をかざして強い日差しを遮る聴衆の姿が目立った。配られたマニフェスト(政権公約)のパンフをかざす人もいて、「読んでください」と、声が掛かった読んだところで、実行されない政権公約なら、日よけの役に立っただけまし。

政治への期待は熱くなるのか、逆に冷えていくのか、分かれ目の時である。



間違い

2009-08-28 07:43:02 | Weblog
顔を見れば分るだろう、と不思議に思う。ヤンキースの松井秀喜選手が台湾出身の同僚と間違えられ、「長男誕生」と報じられた。

2ともチームの人気選手である。やはり、東洋人の顔は同じように見えるのだろうか。パリの街で、道を尋ねられた、花の都を知る日本人と見られるのも悪くない、と思ったが、ガイドの見立ては「職探しに来たベトナム人と勘違いされた」だった。

世界の留学生が集う「ジャパンテント」が開幕する。取材に出向き、留学生と間違えられそうになった若い記者が何人もいた。

タイやインドネシアなど、なぜか南の国の人に見られた。それで場が和み、取材がはかどったそうだから、好ましい勘違いもある。

私たちの多くも、外国人を見て国を言い当てる自信はない。

世界新記録

2009-08-24 06:25:28 | Weblog
9秒58の世界新記録には驚いた。まだ余力がありそうである。ボルト選手は、陸上100メートルの記録をどこまで縮め、何度賞金を手にするのだろう。

日本記録は10秒00。とても歯が立たない。迫力満点の競技だが、単純すぎてつまらない。負け惜しみで、そう思う。以前マイケル・ジョウソンさんも「100メートルはつまらない」と言った。

アトランタ五輪で2つの金メダルをとった人で、400メートルの世界記録は今も破られていない。だから、負け惜しみではない。「あれは走るだけ。私が勝った200や400とは違う」距離が延びると、レースの組み立てがいる。

いつまで力をため、どこで一気に爆発させるか。相手との駆け引きも大事になる。「戦略がいるんだ。それが走る者も観衆も興奮させる」。胴長短足の名ランナーは、そう語った。

フライング

2009-08-21 07:17:18 | Weblog
国際陸連が、「フライングは一発失格」にするという。現在は1度フライングのあったレースは、2度目のスタートでフライングをした選手が失格になる不公平さがあった。

厳格な「一発失格」は公平なルール変更だろう。似たような話があったと思っていたら、政治面の「虚偽記載で議員の公民権停止、「自公共通公約」の記事だった。

秘書などの会計責任者が政治資金収支報告書に虚偽記載をした場合、国会議員本人の公民権を停止するのを両党が衆院選で共通公約にするというのだ。

虚偽記載問題を抱える民主党の鳩山代表狙い撃ちがミエミエだが、現在は「一発失格」にはなっていないから一年前のような秘書への責任転嫁がいまだに通用する。

ルールの厳格化を有権者に問うてみるのもいいだろう、が、一般社会のルールとして「一発失格は酷だ。

1度の失敗で人生競争から排除されてはたまらない。敗者復活戦や再挑戦ができる社会の柔軟性が、この厳しい時代だからこそ必要なのではないか。

二大政党制も、健全な再挑戦ができる政治体制のはずだ。一度負ければ、そえで終わりというものではない。

地震

2009-08-18 10:23:55 | Weblog
ついに来たか「東海地震」と思った。それも台風接近で大雨が降り、地盤が緩む中である。地震は季節も時間も問わないから悪条件が重なっても不思議でない。

「東海」と「南海」と「東南海」の3つの大地震が連動して起きる可能性が指摘されている。悪いことは重なって起きると考えるのは、単なる重い過ごしとは違う。

最悪の事態を予測して大きく構える防災は結局、被害を小さくする。ことしの防災白書は、豪雨災害の増加と、高齢者増加での地域防災力の低下が同時進行していると指摘、複合的な対応が必要と指摘している。

これも「悪いことは重なる」の防災哲学だ。

お盆

2009-08-16 07:09:39 | Weblog
お盆の「1000円高速」が始まり、帰省がピークを迎える。ふるさとに向かう人も、出迎える方も、心が浮き立つ。

作家の松村友視さんが「かげろう日記」で、茶屋街のおかみの「ながいこって」という挨拶を取り上げていた。

3年前に会った人にもさっき会った人にも、お座敷ではそう言う。「さっきも、あんやと」「この前もお世話になって」などと、連れのお客が余計な勘繰りをするような野暮は言わない。

逆に、初対面の作家に「いつも、ありがとう」と、あいさつされたことがある。人違いされたと思って初めての取材と告げた。「だけど、書いた物を読んでくれているんだろう。それなら礼を言わなきゃ」。

こんな心配りもある。「ながいこって」「いつも、ありがとう」と、帰省の折りにも、そんな言葉が交わされる。

半年前に会ったばかりでも、待つ家族には「ながいこって」である。久しぶりの対面でも、「いつも、ありがとう」と相手を思いやる言葉が出る。

ふるさとでの再開は格別である。不景気風がやまぬ折だから、なおのこと。そんなあいさつで、互いに元気をもらいたい。



教育

2009-08-14 07:27:31 | Weblog
昭和30年代後半の話である。日本を訪れた開発途上国の首脳が列車に乗った。車窓に流れる水田を見ながら質問した。

「どの街にもある大きな建物は何か」どれも学校だと聞いて、深くうなずいたと言う。「国づくりに大切なものが分った」と。明治以来、日本は教育に力を入れた。

それが戦後復興を早める力ともなった。均等な教育力の大切さを示す話としても知られている。先日「親の収入で子供の学力に差が出る」との文部省調査があった。

家庭の経済力が子どもの学力と連動するなら、奨励に影響する悩ましい問題である。教育の機会均等はどうあるべきかを考えさせられた。

一方で、国や家庭の豊かさが子どもの自立心や生活力と結びつかない現実がある。「家貧しくて孝子あらわる」と言えば時代錯誤と笑われるだろうが、逆境が人を育てることもあることをこの際、思い出してもいいだろう。

格差だけに焦点を当てると大切なことが見えなくなる。教育の真価は社会に出てから問われる。格差から、はい上がる力をつけるのも教育の使命だ。

マスコット

2009-08-12 07:09:18 | Weblog
滋賀・彦根の人気マスコットに「ぴこにゃん」がある。関連グッズが年10億円を稼ぐとあっては、放ってはおられない。

「ゆるキャラ」の代表選手である。のんびりした顔の2頭身、ゆるゆるのキャラクターは、見る者の心を緩ませる。大金を稼ぐ理由も、分かるような分らないような。判断力まで、ゆるゆるになる。

北陸の「ゆるキャラ」で有名なのが、2代加賀藩主がモデルの富山の高岡の「利長くん」。工事中の駅にも登場し、「ご迷惑をおかけします」と、客にぺこりと頭を下げている。

殿様にお辞儀をされて、不機嫌な顔はできない。観光客だけに愛嬌を振りまいていないのがうれしい。

当地の武家文化を自慢するために、利長くんの仲間が増えてほしいと思う。こんな遊び心、街に新たな彩りを加える。

モデルになる殿様や姫君には事欠かぬ、先ごろ、ひこにゃんのそっくりさん騒ぎが報じられた。著作権と商標権で、作者と行政がもめている。

せちがらい世の中である。だから、「ゆるキャラ」がもてる。


セミ

2009-08-10 05:54:10 | Weblog
やっと梅雨が明けたそうである。街路樹や公園では、とっくにセミが鳴いている。街の騒音にかき消されそうだが、だがわずかに季節を告げてくれる。

あまり見かけなくなったが、いまの子どもたちも、網を手にしてセミ取りに興じているのだろうか。ほかの昆虫とは違って、セミ捕りは、いささか後味が悪かった。

幾つもカゴに捕まえて得意顔で帰ったが、翌日にはみんな死んでいた。長い間地中で過ごし、短い夏の時間を鳴いて終わる。

そう教わって死んだセミが哀れになり、庭にセミの墓を作ったりした。が、そうと分っても、セミ捕りの誘惑には勝てなかった。小さな残酷さを、夏休みに知った。

かわいそうだから捕るなと、しかる大人はいなかったが、捕ったセミを放すと、お盆のころに恩返しに来る。と聞かされ、みんな真に受けた。

芽生えた残酷さを、やんわりとたしなめる知恵が、周囲の大人にあった。命のはかなさを知るのに、セミ捕りは格好の遊びだろう。

判決

2009-08-08 07:22:52 | Weblog
判決が言い渡される初の裁判員裁判は、法廷の様子が事細かに報じられた。裁判員は番号で呼ばれている。

全員が被告人に質問したときは、「1番の方から」と裁判長に促された。おととい質問した女性は「4番さん、どうぞ」と声を掛けられた。

のど自慢の出番みたい、と思ったが、不謹慎な連想である。勝手に名前や素性を明かせないのだから、番号もやむを得ない。

個人情報保護のため、窓口で受け付け番号が呼ばれたのは珍しくない。病院でもそんな光景が見られるが、「あれは苦手」と言う医者もいる。

名前を呼ばれないと温かみに欠ける、と「時代遅れ」を弁解するのが、そう言われると、患者に対する心配りを忘れぬ医者が頼もしく思える

裁判員は逆である。被告や検察に頼りにされるようでは、役目が果たせない。番号が持つクールさを保つ大変な努力が求められる。

裁判員3番と7番の交代も、そんな事情からだろうか、初の裁きに、全国の目が集まった。1番から7番、さらに補充裁判員の労をねぎらいたい。