デジカメぶらりぶらり

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生態系

2013-09-30 06:50:15 | Weblog
もし人類が依存する自然の生態系がその営みをやめたら?未来学者のヨルダン・ランダースB1ノルウェービジネススクール教授はそんな問いを立てた。

もしミツバチが受粉を助けなくなったら、自然が飲料水の蒸瑠をしなくなったら、樹木が二酸化炭素の吸収をやめたら、細菌が廃棄物を分解しなくなったら・・・。

科学者の計算によると、人類が毎年無償で自然の生態系から受け取っているサービスの価値は各国のGDP(国内総生産)の総計に匹敵するという。自然がこれらのサービスを停止したら世界を待っているのは崩壊だ。

「自然に人情は露ほどもない。之に抗するものは容赦なく蹴飛ばされる。之に順うものは恩恵に浴す」と物理学者の長岡半太郎が随筆に書いた通り、自然の中で生かされていることに人間は余りにも無自覚である。

全国で唯一稼働中だった関西電力大飯原発4号機が先日、定期検査に入り、営業運転を停止した。全国で稼働する原発は1年2ヵ月ぶりにゼロになった。ランダース教授は今後、世界中で太陽光や風力などの再生可能エネルギーへの転換が進み、2050年には原子力の15倍のエネルギーを供給していると予測する。

事故を起こした時の膨大なコストを考えても、原発は淘汰されゆく発電方法だ。生態系を放射能で脅かす原発は、自然から容赦なく蹴飛ばされる存在である。

名曲

2013-09-28 08:32:19 | Weblog
その名曲の誕生は、文字通り事件であったという。ストラビンスキーのバレエ音楽「春の祭典」の初演は、今からちょうど百年前。パリの劇場で、前奏曲が流れ出すと、変拍手が繰り返される前衛的な音楽に、体の変調を訴える人が続出した。

次第に怒号が飛び交い始め、ついには警官が駆けつける大騒ぎになった。そんな波乱の第一歩を踏み出した「春の祭典」はいま、「地球とは、どんな星なのか」を伝える代表団の一員として宇宙の片隅を旅している。

米国が1977年に打ち上げた探査機ボイジャー1号には、金色のレコードが積み込まれた。世界55の言語によるあいさつ集には「こんにちは、お元気ですか」という日本語も録音された。

音楽集には「春の祭典」のはか、モーツァルトの歌劇「魔笛」の「夜の女王のアリア」や日本の尺八曲などが、収められている。そんな「地球の使者」ボイジャ-1号が、36年間の航海の末、ついに太陽系を飛び出したという。

現在の地球からの距離は、187億キロ余。電力が尽きる2020年代まではデータを送信し続け、その後は、地球外生命体に見つけられる日を待ちつつ、無言の旅を続ける。

いつの日か、金色のレコードに針が落とされる日が来るだろうか。「春の祭典」がどこかの星で大騒ぎを引き起こす。その時を楽しみにしている。

引退

2013-09-26 07:09:53 | Weblog
宮崎駿監督はスタジオジブリのスタッフに、こんなことを言ったことがあるらしい。「もしジブリ倒産ということになったら、最後に『となりのトトロ2』をつくってみんなでお金を分けようね」
 
倒産は困るが、トトロの続編はぜひ見たい。しかし、それはかなわない。作家の半蔵一利さんとの対談『腰ぬけ愛国談義』(文藝春秋)で、宮崎さんは言っている。

トトロ、は「雑草という草はない」という昭和天皇の言葉のように、雑草一本まで日本の自然を描いた作品。「それがもう、描けないんです。いまの人間たちには描けない・・・縁はもうあの頃の緑と違う色ですから」。

乱開発されて、ウマオイの声すら消えつつある自然。経済大国といいつつ、さまざまな形の貧しさを抱え込むこの国の姿に怒りつつ、宮崎さんは「子どもたちにこの世は生きるに値することを伝える」ため、名作を送り出してきた。

先日の引退会見で宮崎さんは、敬愛する作家として、英国の児童文学学者ロバート・ウェストールの名を挙げた。その作品集『ブラッカムの爆撃機(岩浪書店』を自ら編んだ宮崎さんはウエストールに語りかける。

「あなたの作品には、このムゴイ世界と戦いつづける勇気と、失われたものへの愛惜に満ちています。すてきです」。この言葉を、そのまま宮崎監督に贈ろう。

記憶

2013-09-23 06:22:03 | Weblog
田中政造は、記憶力の悪さをくにしていたという。愛妻や養子の子の名すら失念したという逸話もあるらしい。30代に殺人の冤罪で、3年の獄中生活を強いられた。

病死した囚人の衣類をもらい受けて寒さをしのぐほどの過酷な日々の中で、記憶力の悪さを克服する道を見出す。「要はただ專門というに外ならず。他の事は忘れよ」。

一つのことに専念し打ち込めば、記憶力など問題にはならないはずだと、政造が専心したのは「一身を以って公共に尽くす」こと。明治の富国強兵の世にあって、為政者が目をつぶってほしいこと、忘れ去ってほしい問題を、自分が生まれ育った農村の視点で考え、死ぬまで行動し続けた。

渡良瀬川の恵みの中で暮らしていた農民が足尾銅山の鉱毒で生活を奪われると、国策のまやかしを追求し続けた。軍事費の負担増を批判して、同じ使うのなら、外交の信頼を得るように求めた。

記憶力の乏しさを補うためだろうが膨大な日記を遺した。<国家のため、国家のためと唱えて・・・山を盗み・・・村を潰し、古になき大毒海の如きを造り、もって窮民を造り多く人を殺す。国家のためとは何を>。政造が71歳で世を去ってもう100年。その言葉は、今の日本に重く鋭く響く。

竜巻

2013-09-21 08:13:38 | Weblog
その紙くずがなかったら、竜巻の強さを示す単位は、「F」ではなかったかもしれない。Fは故藤田哲也博士の頭文字。大正生まれの九州男児が、米国で「ミスター・トルネード」と呼ばれるまでになった転機は、吹けば飛びそうな紙くずだった。

1947年の夏、26歳の藤田さんは雷雲の下に下降気流があることを発見して論文にまとめた。だが、国内ではまったく反響なし。ところが、弟子の一人がたまたま、九州北部にあった米軍のレーダ基地のゴミ箱から、米国の学者が書いた論文を拾い上げる。

「藤田先生の研究テーマと、関連がありそうだ」。藤田さんが自分の論文をその研究者に送ると、すぐ返事が来た。「ぜひ渡米してほしい」そんな幸運をしっかりとつかみ、藤田さんは竜巻など突風の研究で、学会を驚かす成果を上げていく。

「常識的に起こりえない」と、他の研究者が目を背けた現象を、虚心に見つめ続けたからこそ、世界的な業績を残したという。埼玉県や千葉県で竜巻きとみられる突風が起き、大きな被害が出た。 

藤田さんが作った6段階の尺度で言えば、F2か3の強さのようだ。大気が不安定で竜巻などが起きやすい天気が、各地で続く、「この辺じゃ竜巻なんて起きないだろう」と思い込みは、ごみ箱に捨てた方がよさそうだ。

復興

2013-09-19 06:23:10 | Weblog
富士山の噴火史上、最大規模といわれる宝永噴火(1707年)は、南東斜面にできた火口が16日間、火山灰を吐き出し、降灰被害が農民を苦しめた。

江戸幕府は被災地を直轄領に編入し、復興に乗り出す。資金調達のために臨時税を全国に課す「諸国高役金令」(しょこくたかやくきんれい)を発令、洪水を予想し治水工事の一部を外様大名らに担当させた。

ところが、幕府の歳入の4割にあたる金が集まったにもかかわらず、実際に被災地救済に使われたのは一割程度。勘定奉行の言い分通りでも、3割余りだった。

財政難だった幕府の歳入の穴埋めに大半が流用されていた。治水工事を請け負ったのも江戸の業者ばかりだった。最近、よく聞く話と同じだ。復興予算の流用はこの国の政治のDNAに刻まれているようだ。

自治体などの基金を通じ流用された東日本大震災の復興予算のうち、未執行分の718億円が返還されるが、すでに1兆円超が執行され返還額は1割に満たない。

2013年度予算の復興特別会計から2千億円以上が被災地と関係ない事業に充てられていることも判明した。14年度予算の概算要求は過去最大だった。消費税増税が未定で歳出額の上限を定めなかったためだ、増税し国民に痛みを求める資格があるのか。政治が問われている。


神社

2013-09-17 06:54:17 | Weblog
ここに故郷あり、と書いたのぼりが強風にはためいている。津波と火災で750世帯以上が壊滅的な被害を受けた福島県いわき市久之浜・大久地区。奇跡的に被害を免れた小さな神社である。

江戸時代から信仰を集め、明治の大火にも焼け残った「魚の町」の鎮守だ。浜辺近くは数メートル盛り土して緑地にする計画があり、神社は移転対象になったが、住民の強い希望でその場に残されることになった。

この浜にあった商店が小学校の敷地を借りてプレハブの商店街をオープンしたのは震災の半年後。被災地の仮設商店街第1号の「浜風商店街」である。おばちゃんたちがにぎやかに迎えてくれる商店街は、原発事故で避難も経験した住民にとって希望の光になった。

自然災害や戦争に打ちのめされた名もなき人々が、折れかけた心を奮い立たせて、襲いかかる苦難を乗り越えてゆく。時代を超えて共通する庶民の歴史だろう。

実業家でもあった水上滝太郎は、関東大震災で焼け野原になった東京・銀座にいち早くトタン板で店を構え、酒をふるまう料理店を都新聞の連載小説「銀座復興」で描いた。

店主は客に言った。「復興しないったってさせてみせらあ。日本人じゃあねえか」十万人以上の犠牲者を出した関東大震災から90年になる。地震から決して逃げられない国民の宿命とそれを克服する使命をあらためて考える。

わが子

2013-09-15 05:41:20 | Weblog
<何百万年前か/ 初めて二本の足で立ち上がったヒトが/ そうしたように/ 手を前に差し出して/ 目の前の/ いちばん近いひとに向かって/ 進む/ ぼくも/ 時には/ そんなふうに手をのばしたくなってくる/ 誰かに向かって>。 詩人・高階杞一郎(たかしなきいちろう)さん(61)の詩集『早く家に帰りたい』にある「見えない手」だ。

わが子が初めて歩き出し、自分に向かって懸命に歩いてくる。そのときにわいた思いを、胸の奥で大切にしている人は多かろう。高階さんの愛息、雄介ちゃんは生まれ時から腸の難病に苦しめられた。

1歳になるまでに大手術を5回も受けた。家で暮らせるようになったのは生まれて3年目。1994年、3歳11カ月で逝った。その翌年に出版された『早く家へ・・・』のあとがきは、こう結ばれた。<天国にいるゆうぴーに、いつの日かもう一度ここに戻ってきてくれるようにとのながいをこめて>。

この詩集が夏葉社から復刊された。高階さんは<「もう一度戻ってきて」という願いは・・・最初から叶えられていたように思えます>と書いた。散歩の時も、食事の時も、あの子は三つの時の姿のまま、いつもそばにいてくれた。

それがたくさんの詩になったと、詩は続く、<よく晴れた朝/ こどもといっしょに窓から遠くを眺めていると/ うしろから/ そっと支えてくれる手が/ ぼくにも/ あるように思われてきて>

決断

2013-09-12 07:35:56 | Weblog
キャサリン・グラハムさんの人生は46歳の時に、激変した。その時のことを、後に自伝『わが人生』に記した。<時に人は決断もなく足を踏み出すものだが、私のしたことも同じだった>。

夫は米紙ワシントン・ポストの社主。その夫が自殺した悲しみの中で突然、社主になった。経営の「け」も知らぬ彼女を待っていたのは、厳しい「決断」を迫る日々の連続だった。

1971年、ライバル紙ニューヨーク・タイムスがベトナム戦争に関する国防総省の機密文書をすっぱ抜いた。政府の求めで裁判所は記載差し止めを一時的に命じた。

その時、ポスト紙は文書を独自に入手した。文書を掲載すべきか。法を無視したと批判したと批判され経営危機を招くかもしれない判断にキャサリンさんも迷い「会社を潰すかも」と口にしたが、スタッフにこう言われた。

「その通りですが、新聞を潰す方法は一つだけではありません」。ニクソン大統領を辞任に追い込んだうウォーターゲート事件の時は、孤立無援でホワイハウスの攻撃にさらされ続けた。

情報源を守るために、自ら刑務所に入れられることを覚悟していた。キャサリンさんは12年前に他界し、彼女が守り育てた新聞は一族の手を離れて、アマゾンの創業者に買収されることになった。ネット商法の旗手が、245億円で手にするのは、その資産価値以上の責任である。

水泳

2013-09-10 07:06:51 | Weblog
1896年にアテネで開催された第1回の近代5輪で、水泳は4種目で競われた。100メートル、400メートル、1200メートルの自由形と、100メートル自由形・水兵の部である。

この時の400メートルの優勝タイムは8分12秒6。現在の世界記録は3分40秒07。とてつもない進歩だ。最も第1回大会での自由形で、選手らはどうも今のクロールでは泳いでいなかったようだ。

両手で交互に水をかき、ばた足で進む泳法が大会に登場したのは、1902年らしい。豪州の15歳の少年が、ソロモン諸島の先住民の泳ぎに倣ったという斬新な泳法で、観衆を驚かせた。

当時それは「泳者は水の中にいるというより、水の上を這って登っているよう」と評された。「這う」は英語で「クロール」。「豪州流這う泳ぎ」は最速の泳法として、自由形を席巻していく。

日本では18歳の少年が新たなページを開いている。体格がモノを言う自由形で日本人は活躍できないとされてきたが、萩野公介選手が世界選手権の400メートル自由形と200メートル個人メドレーで銀メダルに輝いた。

勝負強い泳ぎと同様に、その言葉も実に鮮やかだ。「日本人は(自由形で活躍)できない」なんて、一度たりとも、思ったことはない」。先入観という古い殻を突き破っていく、まさに「自由形」の18歳だ。