デジカメぶらりぶらり

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ミサゴ

2012-08-30 08:13:25 | Weblog
その眺めが失われて、2008年。秋田象潟(きさかた)は、浅海に島々が浮かぶ松島のような地で、さらにその向こうに鳥海山がそびえる絶景だったという。

1804年の地震で浅海が隆起したために、もう見ることはできないが、1689年に訪れた芭蕉の筆が見事に伝える。<俤(おもかげ)松嶋にかよひて又異なり。松嶋は笑ふが如く、象潟はうらむがごとし。寂しさに悲しみをくはえて、地勢魂をなやます似たり>無数の島々の中に、みさご島と呼ばれる島もあり、鳥たちの格好の繁殖地になっていたらしい。

この地で弟子の曽良が一句。<波こえぬ契ありてやみさごの巣>。ミサゴは夫婦の良い鳥。古歌を踏まえ「心変わりせぬ約束があって、みさごは巣を作っているのだろうか」と詠んだ。

日米同盟は夫婦になぞらえれば、金婚式をなぞらえれば、金婚式を越えたパートナーだ。けれど、どうもミサゴのようには、いかぬらしい。ミサゴの英名オスプレイを冠した輸送機MV22。

その配備計画をめぐる米政府の不実ぶりは、どうか、米軍がハワイでのオスプレイの飛行訓練を断念した。騒音や野生動物への影響、飛行で生じる気流で遺跡に被害が出るのを懸念してのことという。

まさかハワイで飛ばせぬものを、沖縄の人口密集地にある飛行機では飛ばすというのか。ハワイは笑ふが如く、沖縄はうらむがごとし>となってはもう、つれ合いとは呼べぬ。

戦場

2012-08-28 06:05:17 | Weblog
戦場取材を重ねてきた山本美香さんが、シリア内戦の犠牲になった。小学生向けの著書「戦争を取材する」(講談社)にその時の体験が書かれている。

内戦に苦しむ人々を取材しながら、自問していたそうだ。医者なら目の前の命を救えるが、記者の仕事にどれほどの意味があるのか、無力感に襲われながら撮影していた彼女に、わが子を失ったばかりの父親が言ったという。「こんな遠くまで来てくれてありがとう。世界中のだれも私たちのことなど知らないと思っていた。忘れられていると思っていた」。

撃つ側ではなく撃たれる側に立って戦場を駆けてきた。戦争の犠牲者を数字でなく、生の言葉と表情で伝え続けてきた。その著書はこう結ばれている。<世界は戦争ばかり、と悲観している時間はありません。この瞬間にもまたひとつ、またふたつ・・・大切な命がうばわれているかもしれない、目をつぶってそんなことを想像してみてください>。

行商

2012-08-26 06:28:04 | Weblog
江戸の町は、多くの物売り行商に歩いた。夏になると現れたのは冷水(ひやみず)売り。泉にくんだ冷たい水の入った桶を天秤棒でかつぎ、「ひゃっこい、ひゃっこい」と声を出しながら売り歩いたという。

冷たい水に砂糖と白玉を入れて一碗四文。砂糖の量が多くなると値段が高くなる。冷水といっても時間がたつと、ぬるま湯になった。蚊帳は夏の必需品。萌黄(もえぎ)染で赤い縁布を付けた近江産が有名だった。

「もえぎのかやー」と長く引き伸ばす美しい呼び声は行商の名物だったという。金魚や朝顔、ところてん、すだれやよしずの行商・・・。電気のなかった時代、涼しさを演出する庶民の知恵だった。

厳しい残暑の中にも、夏の終わりに鳴き始めるツクツクボウシの声が聞こえてきた。秋の虫たちも、にぎやかな合唱の準備を始め、季節は確実に移ろい始めている。企業や家庭の節電協力もあり、原発事故が起きてから二度目の夏も、経済界が脅した電力不足は生じていない。

大飯原発を再稼働させた関西電力の電力需要の予測は、昨年の東京電力と同様、大きく水増ししたのではないか、という疑念が残る。電力会社が原発の再稼働にこだわる本当の理由は電力不足ではない。

原発が不良債権化し、経営の根幹が揺らぐのを避けたいからだ。頭をひゃっこくし、カラクリを見抜きたい。

67回

2012-08-24 06:46:44 | Weblog
東京ドームの近くにたたずむ慰霊碑に、気付く人は少ない。刻まれているのは、沢村栄治、吉原正喜(東京巨人軍)、景浦将、西村幸生(大阪タイガース)ら、戦死した69人のプロ野球選手の名前だ。

名古屋軍の投手だった海軍少尉石丸進一の兄が、遺族代表として碑文を寄せている。20勝を挙げた1943年暮れ応召。45年5月11日、海軍の鹿屋基地で特攻隊員として出撃命令を受けた。

<白球とグラブを手に戦友と投球 よし ストライク10本 そこで、ボールとグラブと“敢闘”と書いた鉢巻を友の手に託して機上の人となった。愛機はそのまま南に敵艦を求めて飛び去った>

22歳という若さだった。伝説の投手沢村は、最前線で手りゅう弾を連投し投手生命を断たれた。3度目の赤紙を受け、乗っていた輸送船が東シナ海で撃沈され、帰ってこなかった。
27歳だった。

初代「ミスタータイガース」の景浦は2度目の応召先のフィリピンで戦死した。29歳。将来の球界を背負うはずだった多くの選手が戦地で命を失った。<野球がやれたことは幸福であった><死んでも悔いはない>。白球とともに届けられた石丸の遺書にはそう書かれていた。

悔いはない、は本心とは思えない。打ち砕かれた無数の夢や未来の上に、今があることを忘れたくない。戦後67回目の8月15日。

メダル

2012-08-20 06:19:40 | Weblog
ロンドン五輪の勝者たちは、メダルに負けぬ輝きを持つ言葉を残した。「正直言うと、体操をやめるまで、自分の満足する演技はできないと思う」と大会前に話していたのは、内村航平選手。

男子個人総合で優勝してのひと言に、すごみを感じた。「一番いい色のメダルを取って今も満足した感じはない。結果ではなく表現したい理想の体操がある」。

ボクシング男子ミドル級の村田諒太選手は、かつての不良少年。金メダルを勝ち取って高校時代の亡き恩師への思いを口にした。「先生と同じように五輪選手を育てることが、金メダルより世界チャンピオンよりも価値がある。」。

男子20キロ競歩に出た中米グアテマラのバロンド選手は、五輪前にテレビを両親に贈った。一家にとって初のテレビ。その画面の中で躍動して2位。長い内戦の傷に苦しむ母国に、史上初のメダルをもたらした。

「メダルを見て子どもたちが銃やナイフを置き、トレーニングシューズを履いてくれたらいい。そうなれば僕は世界一幸せな人間だ」。

4年後のリオデジャネイロ五輪が、貧困に苦しむ子どもたちの目標になれば、と思う。五輪発祥の地・古代ギリシャの歴史家の言葉を、彼らに贈りたい。<勝利は美しい。が、勝利を活かすことはもっと美しい>

宇治橋

2012-08-18 07:21:39 | Weblog
伊勢神宮の内宮へと導く宇治橋は、聖と俗との架け橋だという。20年に一度の式年遷宮のたび架け替えられ、橋の安泰を願い、親子3代そろった夫婦が渡り初めをする。

21歳の若者が、愛読する詩集の余白に書き付けた詩がある。<ながいきをしたら/いつかくる宇治橋のわたりぞめ/おれたちでやりたい/ながいとしつき愛しあった/嫁女ともども/息子夫婦ともども/花のような孫夫婦にいたわられ/おれは宇治橋のわたりぞめをする>。

詩を書いた竹内浩三は、伊勢に生まれた、日本大学専門部映画科に進み、映画監督を目指した。宮沢賢治の世界を愛して、「雨にもまけず」と題するシナリオも書いた。だが、映画を作る夢も、宇治橋を孫夫婦と渡る夢もかなわなかった。

23歳の春、フィリピンで戦死した。その足跡を網羅した「定本竹内浩三全集 戦死やあはれ」(藤原書店)が、8月15日に出版される。既に2度全集が出されていたが、「宇治橋」など新たに見つかった作品を収めた決定版という。

755ページある本、持てば重い。けれど、これだけの才能を持った人間の全作品が、たった一冊に収まってしまった事実を思う時、別な重みを感じる。

出征

2012-08-16 07:07:25 | Weblog
作家の吉村昭さんは旧制中学の学生時代、こっそりと寄席に通うのが楽しみだった。戦争は激化していたが、制服、制帽を駅に預け、東京・上野の鈴本演芸場の木戸をくぐる。

昼席の客はまばらで年寄が多かった、ある日、噺を終えた若い落語家が両手をついて、深く頭を下げた。「召集令状を頂戴いたしまして、明日出征ということになりました。拙い芸で長い間ごひいきにあずかり、心よりお礼申し上げます」。

客の年寄りたちからは「体に気をつけてな」「また、ここに戻ってこいよ」と声が掛かったという(「東京の戦争」)。名だたる師匠連にとっても、厳寒の時代だった。日米開戦の直前、時局にふさわしくないと、廓噺など53の演目を自粛、浅草・本法寺の「はなし塚」に葬ったからだ。

「明烏」(あけからす)「品川心中」「居残り佐平次」などの廓噺意外にも、間男が登場する噺などがやり玉に挙がった。古典落語の名作が多く、やむなく新作を演じる落語家が増えたという。

東京の寄席で焼け残ったのは一軒。師匠たちも家を焼かれ、疎開した。敗戦から一年、笑いを求める声が高まり、禁演落語は5年ぶり復活。東京大空襲で本法寺の本堂は焼けたが、はなし塚は被害を免れた。

吉村さんの見た出征した落語家は、復員できたのだろうか。残念ながら、そこまでは書かれていない。

義足

2012-08-14 12:32:08 | Weblog
南アフリカに住むピストリウスさん一家の朝は、お母さんが幼い兄弟に掛ける、とても自然な感じの言葉で始まっていたそうだ。

「さぁカール靴を履いて。オスカーあなたは義足を着けなさい」オスカー君は先天的な障害のため、生後11カ月で膝から下を切断された。それでも「自分に障害があるなんて考えずに育った。違う靴を履くだけだと思っていたんだ」と話す。

そのピストリウス選手(25)がカーボンハファイバーの義足を着けて、ロンドン五輪陸上男子400メートル予選を勝ち上がった。両脚に義足を着けた選手の五輪出場は、初めてことだ。義足には特殊な反発力があり、疲労が少ないので有利だとの理由から、一度は参加を拒否された。

だがスポーツ仲裁裁判所に訴えて勝ち、南ア代表の座を7月初め、ついに獲得した。ピストリウス選手の美しさに感動して、義足開発に取り組み始めたデザイナーの山中俊冶さんの近著「カーボン・アスリート」に、医療関係者のこんな言葉がある。

<この義足を使って走る人は、数十人かもしれない。しかしその人たちが大観衆前で走れば、その瞬間にこの義足は数万人もの足になるでしょう>ピストリウス選手は準決勝で敗れたが、「7万人の観衆が17万人のように感じた>と言った」と言った。

世界中の何百万という人々が、未来へと走る、新たな足を見つけたことだろう。

原爆症

2012-08-12 06:47:59 | Weblog
<とにかく戦争はこの間すんだね。そのくせ俺たちは戦争のために死んで行くんだぜ。戦争がすんでもまだ戦争のために現にこうやって死んで行くんだね。そいつが不思議なんだ>。

原爆症で死期を悟った男性が、医師に語りかけている。原民喜とともに、最も早い時期に自らの被爆体験を小説にした作家大田洋子の「屍の街」の中で最も印象に残る場面だ。

戦争は終わったのになぜ死ぬのか。素朴な疑問に胸を打たれる。被爆後、元気だった人も、斑点が肌に現れると死期が近い。見えない放射能の脅威は、福島第一原発の事故を経験した私たちが直面している問題そのものだ。

戦前、私小説などを書く流行作家だった太田は被爆を機に作風が一変した。故郷の惨状を徹底して書き、原爆しか書けない作家という烙印を押された。代表作になった「屍の街」は1948年11月に出版されたが、占領軍の検閲を考慮し一部を削除。

完全版の刊行まで被爆から5年近くかかった。書く責任を果たして死にたいと、生死をさまよいながら障子紙やちり紙に書きなぐった。構成など考える余裕はなく、「きわめて部分的な体験しか書いていない」と後悔もした。

小さな物語かもしれないが、体験者でなければ絶対に書けない真実が宿っている。女性作家の使命感は確かに作品を歴史に刻んだ。8月6日は67回目の広島原爆忌。

細胞

2012-08-10 07:09:25 | Weblog
子どもが大きくなるに従い、親は衰える。自然の摂理だ。だが、東京都内に住む北村好美さん(54)の場合、それはむごい形をとった。

幼い娘が上手に歩けるようになっていくのに、自分は歩けなくなった。心は活発な母親のまま、その手でわが子を抱くこともできなくなる。筋委縮性側索硬化症(ALS)は、運動神経の異常で呼吸することもできなくなる難病だ。

人工呼吸器を着けなければかなりの延命が可能だが、患者の6割以上が装着を拒んで死んでいく、自分の無力さ、家族の負担の厳しさ。北谷さんの手記「生きる力」は生きることの重さを教えてくれる。

閉ざされたてきたALS治療の重い扉が、開いた。京都大などのチームがiPS細胞を使い、治療薬の素となる化合物を世界で初めて見つけたという。iPS細胞の開発者としてノーベル賞候補に目される山中伸弥さんには、難病の患者さんから声が寄せられる。

わが子の治療が大変な状況だというのに、研究者の健康を気遣ってくれる人がいるという。そんな優しさが、砂浜で針を探すような研究の力なのだろう。北村さんはメールで、近況を「発症から20年経っても『きっと治る』という思いがますます強くなっているのが不思議です」と教えてくれた。

娘さんは今、17歳。日本発の研究が、母娘が抱き合う夢をかなえてくれれば、と思う。